武州湯嶽権現異聞



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 車室に人影もまばらになった、二両連結の見すぼらしく古ぼけた客車が、ずいぶんと長い時間をかけて、夕闇の迫る山峡を縫いながらゴロゴロと走り続け、漸く終点である湯嶽(ゆだき)の駅に到着したのは、あたりが濃紺の静寂に包まれて、急な斜面にへばりつくように点在する、いかにも田舎家といった造りの民家の窓に、橙色の灯りが燈る頃合いだった。
 秋の風がようやく大気を乾かし始める、九月の半ば。山の稜線をしらじらと満月が照らし、幾重にも重なる山並みをぼんやりと虚空に映し出している。狭い斜面に辛うじてしつらえられたような終着駅の、ホームから待合室に至る階段を降り、線路より低い場所に建てられた駅舎の表口までやってきて、目前に屏風のように聳え立つ、鬱蒼とした杉に覆われた山容を仰いだ岩倉重成は、やれやれといった様子で、ひとつだけ小さな息をついた。トランクを地面に置き、灰色の背広の裏ポケットから、メモが書かれた紙片を取り出す。これから自分が行くべき方を確認するがためで、というのも、似たような名前の旅館の広告看板が、駅舎の壁にはいくつか掲示されていたからであった。
 こんな辺鄙な、山間の終着駅であるにもかかわらず、付近に数件の旅館が営まれているのには訳があった。ひとつには、ここに小さな温泉が湧き出ているからで、ところどころの家から、その温泉の湯気が立ち上っているのが、暗がりのなかにもぼんやりと認めることができる。しかしながら、ふたつめの、そして主要な理由は、この温泉場が、関東有数の山岳霊場として知られる、武州湯嶽山(ゆだきさん)の入口にあたっているからであった。湯嶽は、関東ばかりでなく、遠くは越後や信州からも信者が巡礼に訪れる、信仰の山であった。辺境であったがゆえに、明治時代の廃仏毀釈の嵐から見逃され、辛うじて生き延びることを得、現在でも、一種神秘的な神仏習合色をもつ、独特の信仰を守り通してきた。さらには、湯嶽は関東では珍しい、即身仏の行者たちの山でもあった。
 湯嶽の信者は、それぞれの旅籠で旅装を解き、今度は白装束の巡礼姿となって、険しい参道を、行基菩薩の手になると伝わる蔵王権現が祀られた頂上の社を目指し、行脚していくのである。現に今しがたも、信玄袋を手にした、それらしい数人の男女が、駅舎から宿場の集落のなかへと消えていった。
 駅舎の前には、さらに奥深く、大菩薩峠を経て甲斐の国へと至る街道が延び、その両脇に、軒の低い家々がこじんまりと並んでいる。岩倉は、漸くそのなかの一軒を探し当てた。どうやらそれが、目的の宿屋であると思われたからである。玄関先で帽子を脱ぎ、構えを眺める。古いが、重厚なつくりの家だ。ふと見ると、玄関の軒下のほぼ真ん中あたりに、真っ黒い、犬とも狼とも定かではない、一体の動物が描かれた、幅二寸、長さ半尺ほどの和紙札が貼られているのに気が付いた。いったい、何のまじないであろう。口が耳元まで避け、牙をむき出し、ぎょろりとした眼を見開いたその動物は、恐ろしくも思えるし、滑稽ともみえる。
 「すみません……」
 岩倉は、その不可思議な生き物に見下ろされながら、紺色のくすんだ暖簾を手で除けて、その奇妙なけものが守る家の玄関に脚を入れた。
 岩倉重成、東京帝国大学理学部講師。薄暗い帳場の電灯の下で、宿帳にそう記されたのを認めた旅館の女将は、もの珍しげな瞳を岩倉に向けて、遠慮のない口調でこう問いかけてきた。
 「帝大の先生のようなお偉い方が、何でまた、お一人でこんな山の中においでですか」
 岩倉は、柔和な笑みを返しながら答えた。
 「櫻の研究のためです。私の専門は植物学でしてね。なかでも、櫻に非常に興味を持っているんですよ」
 齢は三十を過ぎていたが、いかにも学者らしい、垢抜けのしないところがあった。
 櫻の研究、と聞いて、女将は納得と不安の入り混じったような顔に変わった。もちろん、岩倉はそんなことなど気づくはずも無かったが、女将は不審そうな視線を投げて、たたみかけるように問おうとした。
 「お客様は、もしかして、これから……」池の平へ行くおつもりですか、と言いかけたところで、岩倉が何ごとかを思い出したように大きな声で言った。
 「そうだ、ちょっと、電話をお借りできませんか。妻に到着したことを知らせねばならんのです。先月、祝言をあげたばかりでしてね、私のことをひどく気遣うものですから」
 そう言って、岩倉は帳場から受話器を受け取った。交換手に取り次ぎ先の番号を伝え、相手が出るまで待つ。
 「ああ、私だよ。いま、逗留先に着いたところでね。………え?、宿の名前?、ああ」
 自分が泊まる旅館の名前を失念していた迂闊さに、失笑を漏らしながら、先ほどのメモを取り出すために背広のポケットをまさぐっていると、その様子を見ていた女将が、今度は幾分呆れ顔になって、「丹生屋でございます」と横から告げた。
 「……、そう、丹生屋というんだよ。心配しなくてもいい、じきに帰るさ」
 この温泉場や、その周辺の集落には、なぜか丹生姓が多いように思われた。それはともかく、女将の耳目には、妻に対するいかにもいたわり深いといった岩倉の様子と、きちんと仕立てられた背広に感じられる、その妻の愛情とが、ほのかに伝わった。


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 宿の湯殿は、歩くと軋み音の立つ古ぼけた階段を、深い谷底まで降りたところにある野天湯だった。粗末なあずま屋のようなつくりの屋根から、ぼんやりと灰白く点った裸電球の明かりに、ふわふわと湯気が渦巻いている。湯質はどうやら鉄鉱泉らしく、洗い場の石も湯船の縁のスギかヒノキの木材も、含有成分に晒されて一様に赤茶けていた。
 岩倉の部屋は、深い渓谷の流れに面していた。窓の外は、既に深い夜の帳が降りて、ガラス向こうの景色をうかがう術はない。が、締め切った部屋にあっても、闇のなかの渓流の瀬音がやかましいくらいに響いてきて、岩倉の耳をふさぎ続けた。谷川と山の間隙を縫うように走る街道筋に、小さな町並みがへばりつくように並んでいる。つまり、窓の外はすぐに断崖が迫り、その底には白く砕ける急流が逆巻いているのだ。岩倉はついさきほど湯殿から戻り、浴衣に絣半纏をひっかけ、橙色のあかりの下で内務省監修の白地図を広げていた。秋というにしても、九月にしてはひどく空気の冷たい宵刻。やがて、くだんの女将が着物に襷をかけ、夕食の膳を持ってやってきた。仲居はいないのだろうか、などと思いあぐねているうちにも、たらのめなどの山菜と、川魚だけの質素な惣菜が、膳の上に並んだ。
 「今夜は冷えますね。こんな山の中ともなると、いつもこんなもんですか?
 がっしりした造りの卓袱台の上に、大きく地図を広げたまま、岩倉はのんびりとした口調で言った。
 女将は、言葉で答える代わりに、曖昧に笑みをつくって首を縦に動かし、岩倉の問いに応じた。良く見ると、年増だが小顔の、目許の愛くるしいなかなかの美人である。
 「お客様、池の平へ行きなさるおつもりなら、どうぞ考え直されるがよろしゅうございます。悪いことは申しませんから」
 飯を盛る仕草もほどほどに、心配そうな表情を岩倉に向けて、女将は言った。少し風が出てきたとみえる。ときおり、窓ガラスがカタカタと、小刻みに寂しそうな音をたてた。
 「池の平?……」すると岩倉は、女将の不安そうな表情をよそに、眼をさらに白地図の一点に近づけて凝視し、それから女将のほうを振り向いた。「なるほど、思っていたとおりだ」女将がきょとんとするくらい大きな声を張り上げて、白地図を彼女の眼の前に強引に突き出した。
 「こういうすり鉢状の地形をした、池の平と呼ばれる地名は、じつは日本各地にありましてね。つまり、池の底のような形をした土地ということですよ。でも、ここもその名前で呼ばれているというのは、迂闊にも僕は知りませんでしたよ。長月櫻の群生地と噂されているのは、やはりここなのですね」
 岩倉は興奮したように顔を紅潮させて、地図の一点を指差した。地形図の上でのたうつように曲がりくねっているこげ茶色の等高線が、楕円形の紋様のように一箇所だけ幅を広げ、そこが小さな窪地になっていることを示している場所である。
 長月櫻とは、もちろん正式な櫻の種の名称ではない。古くから、武州湯嶽の山中に、「奥の千本」という、半年間咲き続ける櫻の群落があると噂されてきた、その櫻の通称を長月櫻というのである。毎年四月から九月半ばまで、ほぼ半年の長い期間にわたって咲き続けるから、あるいはその櫻の散るのが九月、即ち「ながつき」であることから、そのように呼び習わされているということらしい。もっとも、学者としての岩倉の見立てでは、その長月櫻の正体は、比較的開花期間の長い山桜の一種か、染井吉野の亜種であった。むしろ、樹木の特性よりも、群生地の独特の位置と地形との相乗効果が、長月櫻を生んでいるというのがその意見である。今回の調査旅行は、その自らの仮説を検証するための資料を収集せんがためのものだったのだ。
 「つまり、僕の考えはこうなのです。湯嶽山から吹き降ろしてくる冷たい風は、常に湯嶽の北西の斜面をこの方向に…」と岩倉は図面の上を指でなぞり、池の平つまり山間の窪地に向けて動いた。「…流れてきます。その先にある池の平には、この吹き降ろしの冷たい空気が年間を通じてたまっているのです。私の予想では、春から夏にかけても、この場所だけは平均気温が五度は低いはずです。そのため、この場所の櫻は、花を散らさずに半年も持ちこたえることができるんですよ」
 女将は岩倉の解説ももどかしく、地図に一瞥を投げただけで、岩倉のほうに向き直った。叱るような、あるいは哀れむような眼差しである。
 「私たち土地の者は、池の平の人見ず櫻と呼んでおりまして。何しろ、実際にその櫻が咲いているところを眼にして帰ってきた者はおりませんで。池の平へ入った人間は、神隠しにあう、という古くからの言い伝えがありまして、誰もそんなところへ行く物好きはおりません」
 「この時代に、神隠しですか?
 岩倉は、さも可笑しいといったように声をあげて笑った。「湯嶽は、思いのほか険しい山ですよ。参道を外れた場所に行こうとすれば、それなりの危険はつきものです。神隠しにあった人達は、不幸にも道に迷ったか、脚を踏み滑らせたのでしょう。私も用心しなければ」そして、ふと、神隠し、という女将の神秘めいた余韻の言葉に触発されたのか、岩倉は、ついさきほど、玄関の軒先にあった、不可思議な動物の描かれた和紙札のことを思い出した。
 「そういえば、この家の玄関の軒上に、何か妙な動物の御札がはってありましたね。犬のような、ないような」
 「お犬様ですよ」と、女将は答えた。「湯嶽の氏子の護神で、このあたりなら、どこの家にもあります。本当は、大口神(オオクチガミ)というらしいですが、私たちはお犬様とお呼びしております」
 女将の口調が、辺りをはばかるかのような低い声色に変わった。
 「オオクチガミですか。護り神なら、結構ですね」しかし、女将のそんな説明も空しく、岩倉の心は、早々に明日の探査行のことに奪われていた。再び、白地図に眼を落として熱心に等高線の隙間を追い、鉛筆で印をつけながら、女将のほうを見ずに言った。
 「明日は早く出かけるつもりなので、朝めしは要りません。その代わりに、すみませんが握り飯か何かを、用意してもらえると有り難いのですが」


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 なるほど、初秋にしては、川面からしっとりと霧が立ち昇るほど、ひんやり冷たい朝である。山の霊気というか、これが湯嶽特有の空気というものであろうかと、岩倉は思った。稜線の帆影からようやく顔をのぞかせた陽の光が、なおのこと霧を白々と輝かせた。傍らに「ほうしばし」と書かれた、ゆらゆらと揺れる吊橋の上からでさえ、谷川の両岸にそって群生する楓や山紅葉、楢の木の葉が朝露に光るのがわかる。吊り橋の袂には参詣者相手の小さな茶屋があったが、人影は見えなかった。「ほうしばし」とは法師橋の謂いであろうか。山頂への道には、すでに白装束に青い袈裟をかけ、杖を手にわらじ履きで歩く参詣者の姿があった。その後を追うように、重々しい登山靴にゲートル巻きという出で立ちの岩倉もまた、奥の千本の長月櫻を求めて歩き始めた。
 はじめは襟元から入り込む冷気に首をすくめていたが、いよいよ登攀の傾斜がきつくなってくると、背中や脇下に、今度はじわじわと汗がしみて来るのが判る。息が切れて少しばかりの小休止を得れば、しかしたちまちその汗が冷えて、身体全体が寒々とした震えに包まれる、その繰り返しだった。やがて、参道をほどなくすすんだ狭い平坦地に営まれる集落までたどりついたとき、岩倉は傍らの倒木に腰をおろして、背嚢のなかの白地図を広げた。南東の方角から、ひとすじの沢が流れくだって来るのに気がついたからである。時計と方位磁石を使って、岩倉は白地図の上に、己がいまいるおおよその場所の見当をつけた。
 等高線がすり鉢上に開いている場所は、一本の沢を遡った方向に記されてある。その沢を渡る橋の袂に道標が立ち、そこに「右、上梅澤、左、行者谷」との字が読めた。
 「ここに間違いなさそうだ」と岩倉は呟いた。休む時間ももどかしげに、岩倉は再び立ち上がった。そこからは、いままで辿って来た参道から外れ、行者谷に沿う、谷あいの道らしい道のない藪のなかである。辛うじて、地元の猟師か、林業従事者がつけたらしい獣道のような細々とした小径が行く先を導いた。
 無言のまま、いったい何時間歩き続けたことだろう。たしかに、原生林の生い茂る山肌を、あの冷たい空気が風となって吹き降りてくるのではあるが、深い緑の彼方にはさらに深い緑が生い茂り、耳に聞こえるのは野鳥のけたたましい啼き声と、己の苦しげな息遣いだけになっていた。
 沢の流れを掬って飲み、その水を手ぬぐいにふくませて、疲労に浮腫んだ脚にあてがい手当てをした。いつしか樹木の幹には、黄金色の陽光が照射されて輝き、夕暮れの近いことを伝えている。地図を広げてみても、岩倉には自分がどのあたりをさ迷っているのか、次第に見当がつかなくなっていた。
 今日のところはふもとの温泉場に戻ったほうが良さそうだと、きびすを返そうとしたそのとき、やや上手の右方、秋風に揺れ動く褐色の枝葉の狭間に、朱色の屋根のようなものが聳えているらしいことを、視界が捉えた。もういちど、岩倉はそちらの方角へ瞳を凝らす。間違いなく、何か建物のようである。斜面を攀じ登るようにして、岩倉はその建物のほうへ吸い寄せられていった。やがて眼前に姿を現したのは、古い社であった。
 「こんな山中に社とは。さては湯嶽の権現か?」岩倉は、登攀の疲れに息を切らしながら、独り言のように呟いた。しかし、湯嶽権現にしては、あまりにさびれた、寂しい社である。そのとき、再び、岩倉の視界の隅を、何かが掠めるように動いた。さきほどの冷たい風が、再び山を駆け下りてくるのを感じた。顔をあげた岩倉の目の前を、ひとひらの薄桃色の櫻の花びらが、さぁっと流されてゆく。
 「櫻だ」岩倉は思わず声に出して叫んでいた。いまのは確かに、櫻の花弁に違いなかった。
 奥の千本が近いに違いない、そう心躍らせながら、岩倉はこの古ぼけた山中の社に宿を乞うことにした。
 風雨に晒された社のなかは、ひんやりと冷たく、蔀戸を透して入る外の明かりも薄暗く、どこまでも静寂に包まれていた。もとより、人がいる気配などまったくない。時折、外でけたたましく野鳥が啼く以外には、ざわざわと木々の枝葉が風に揺れるばかりである。
 岩倉は、早朝より山中を行脚し続けた疲れに呑み込まれて、いつしか深い眠りのなかに落ち込んでいった。
 どのくらいの時間がたった頃であろうか。岩倉は、ふと目の前がぽっと明るくなったのを感じた。不思議に身体が軽く、泥のような疲労が嘘のように消えてしまっている。
 耳元で、蔵王権現の神咒を唱える低い声がした。そっと目を開けてみると、社の中であるにもかかわらず、ときおり、桜の花びらがひらと舞うのを目にした。同時に、けたたましく啼く野鳥の声に耳を塞がれた。経を唱える声が止んだ。
 ふと、頭上のあたりに柔らかな衣擦れの気配を感じた。
 それは、みどりの長髪を背に束ね、薄桃色の衣に身を包んだ、天女と見紛うばかりの美しい女だった。岩倉は、この社を預かる巫女であろうと思い、姿勢を正して座りなおし、自らの来訪の目的を告げた。
 「私は、長月櫻を求めながら山に入り、ここに辿り着いた者です。どうか、奥の千本の場所をお教え頂くわけにはまいりませんか」
 女は憐れむような優しい眼差しで岩倉を見つめた。
 「何がために櫻を見ようというのか」
 「私は帝大で植物学を研究しているのです。半年間も咲き続けるという幻の櫻を、ぜひともこの目で見たいのです」岩倉は答えた。女の瞳は、深い漆黒の静寂のなかに相手を沈ませてしまうような不思議な光を湛えている。岩倉は、なぜかその瞳に懼れのようなものすら感じて、目を逸らせた。
 「見て、どうする」女の口調は優しげだったが、岩倉は顔を上げることができない。
 「長月櫻の現実にあることを、世に広く伝えたいと思います。伝説などではなく、実際に半年間咲き続ける櫻があるのだということを」やっとのことで、岩倉はそれだけを言った。
 「そなたは学者であろう。学者とは、言葉を以って森羅の万象を捉えようとする者の謂いであろう。しかし、世には言葉で極めようにも極めようのないものがあろうが、そなたはそれを何と心得る」尚も女は畳み掛けるように問いかけた。
 「言葉を以て極めようの無いものとは、何のことです?」
 岩倉は、まるで禅の公案のようなその問いに、ただ目をまるくするばかりだった。
 「例えば……」
 「例えば?」
 「ひとつには、死、であろう」女は言った。
 死というものが説明不可能なものであるはずはないと、岩倉は学者らしい現実主義から考えたが、それを以て女に反駁することはしなかった。議論を笑止と断じたからではない。なぜか恐れを感じたからだ。
 女は、そんな岩倉の心中を察してか、言った。
 「死について語ることは出来ようが、それを捉えることは容易ならざること。死を経た者は最早なにも語れぬ」
 死人に口なし、と言うわけか。それはそうかも知れぬと、岩倉は一人合点した。その刹那、女が着物の裾を大きく翻してきびすを返した。風のような衣擦れの音とともに、仄かな櫻の香が漂った。あっ、と叫ぶ暇もないまま、岩倉は、自分の身体がふわりと軽くなるのを覚えた。それと同時に、己の存在自体が、無色透明になり、社のなかの空気に同化してゆくらしい感覚に捉えられた。
 次の瞬間、岩倉は鬱蒼とした山肌の森の中に己を見いだした。いつの間に社を後にしたのか、その覚えすらないまま、下草の生い茂る、道らしい道のない山のなかを跳んでいた。目の前には、社で出会った女が、岩倉の数歩前を滑るような早さで、まるで樹木の間を縫い、斜面を駈け登り駈け降りる風のように疾っていた。時おり、薄桃色の櫻の花弁が、何処からともなく舞い流れてきては、岩倉の頬をかすめ過ぎ去っていく。確かに、薄暗く直立する杉の木立のはざまを、社にたどり着く前よりは色濃くなった黄金色の光線が頭上のやや斜めのほうから降り注いでいるのを感じて、つまりそこに時間が存在することを実感し、これは決して夢ではないと思うのだった。
 いったいどれだけの距離を、深山の懐をそのようにして疾走しただろうか。ふと、岩倉の眼前に、銀色の身体を持った何匹もの狼の群れが現れた。狼どもは、低い唸りをあげながら、行く手を塞ぐかのようにたむろしている。よく見れば、それは宿の軒先の護符に描かれていた、あの奇妙な動物に似ているようにも見える。「大口神か。何故こんなところに?」そのとき、女が、岩倉に寸部の思考の暇をも与えぬくらいの速さで、狼どもに向かって何事かを命じるとでもいうように、力を込めた声で「ホウ」と叫んだ。女がその声を掛けるや否や、狼どもが一斉に道を開ける。すると、何の前触れもなく、黒々とした樹海の波間から、一気に視界が開かれた場所へと至りついた。目の前に広がっていたのは、薄紅色に波立つ、一面の櫻の森であった。
 ここか………。岩倉は、言葉もなく立ち尽くした。あたりをゆっくりと見回す。冷たい風に、その名の如く、何本もの櫻の枝葉が戦ぎ、舞い散る花弁に息が詰まるかのような錯覚を覚えた。目の前の光景に恍惚としながら、岩倉が櫻の森へ足を踏み入れようとしたまさにそのとき、一本の櫻の巨木の、その鬼の拳のような大きくごつごつとした塊と化した根元に、何かがしっかりと抱かれているのを見た。それは、半分土にまみれて苔のむした、人間の髑髏であった。よく見れば、他の巨木の根元も、同じように人の骸を抱いている。笑っているようにも、はたまた怒っているようにも見えるそれらのどくろは、湯嶽の行者の装束を身に纏っていた。
 これは何としたことであるか。……岩倉はとっさに、件の女を探したが、最早その姿はどこにも見ることができなかった。するとそのとき、ひときわゴゥと風の音が大きくなり、岩倉は己の意識のスウッと遠のいてゆくのを感じた。やがて、そのまま、脚が浮つくような奇妙な感覚に捕らわれ、目の前が暗くなっていったのだった。


   (四)


 気が付くと、櫻の森は跡形もなく消え去り、岩倉は山の社の中で眠っている自分を見出した。蔀戸からは、ひんやりと薄暗い明かりがひたひたと射し込んでくる。薄暮であろうか、あるいは夜明けであろうか。傍らに、岩倉が置き忘れていった握り飯が、何故か干からびてぼろぼろになって転がっていた。
 「夢だったか……」岩倉はひとりごちて呟いた。しかし、夢にしては、あまりに生々しく、鮮烈な櫻の森の残影が、目を閉じれば瞼の裏によみがえってくる。濃い桃色の花弁を間断なく揺らし続ける、硬く冷たい風の匂いさえ、はっきりと思い出すことができるのだった。いったい、あれは本当に、夢だったのだろうかと、岩倉は、再び目を閉じて、その光景を己のうちに呼び戻そうとした。そのとき、ふと岩倉は気がついた。自分の着ている服には、確かに、あの噎せるような櫻の香が染みこんでいることを。
 すると、目を閉じたまま岩倉の耳元に、あの柔らかな衣擦れの音と、聞き覚えのある蔵王権現の神咒の声がした。
 「そなたの望みを叶えた。もう下界に帰るがよかろう」
 背後に、岩倉を櫻の森まで道案内したあの美しい女が座していた。
 「いいえ」と、岩倉は即座に答えた。「それはまだ出来ません。私は、まだ奥の千本の入り口までしか行っていません。是非、あの森の中に入り、櫻を詳しく調べなければならないのです。どうか、もう一度、あの場所まで私を連れていってくれませんか」
 「そなたは、この世界に永遠に留まっても良いのか?」女は答えた。
 「どういうことでしょうか?あなたはいったい、何者なのです?」岩倉は食い入るように女を見つめた。
 「我は湯嶽の本地、蔵王権現の眷属、八大龍王の化身である。あの森に入ったものは、すべて己自身も櫻に変えられる定めであると心得よ」女は衣擦れとともに立ち上がり、踵を返そうとした。長い髪がゆらりと舞った。
 「どうかお待ちください」岩倉は叫んだ。「何故、人が櫻に変えられねばならぬのです?」
 「櫻を護るが余のつとめ。侵す者は許さぬ」女の目に、ふと寂しさが宿ったようにみえた。
 そのとき、岩倉の口から、思わぬ言葉がついて出た。「分かりました。あの森のことは決して口外しません。いや、いっそ奥の千本についての私の記憶を消してもらっても構わない。どうか、もう一度、あの櫻の森に連れていってください」
 それは、学者としての自身の使命を棄てたに等しい言葉であった。言ってしまってから、しかし岩倉は、自分の言葉に酔ったように陶然となった。学問的な興味ではなく、既にあの櫻に対して、女人に向ける情に近い、艶めかしい感情をすら覚かけえていたのだった。
 「そうまで願うなら、よかろう、そなたの望みを今一度聞きとどける。ただひとつ、約束がある。あの森から、櫻の枝一枝、櫻の花弁ひとひらたりとも、決して持ち帰ろうとしてはならぬ。もしこの約束を守れぬなら、もはや下界に生きることは叶わぬと思うがよい」
 言うや否や、女はその衣の長袖に岩倉を掻き抱くように包み込んで、再び深山幽谷のただ中を飛ぶが如くに駆け抜けた。強い櫻の香が、終始、岩倉の鼻を擽った。
 時は永くも短くも感じた。視界がさっと開けたかと思うと、目の覚めるような一面桃色の櫻の枝々が飛び込んできた。岩倉は、おずおずとその恍惚の樹海のなかへと脚を踏み入れた。やはり、櫻のなかには、その根もとに得体の知れぬ骸を抱いたものや、あるいは周囲に細長い枯れ枝のような骨の散らばったものがある。その上に、はらはらと、まるで無窮の雨のように花弁が舞い降りた。森の奥へ奥へと行くにしたがって、ごうと鳴る風のざわめきとともに、花弁は徐々に渦の如く岩倉の周囲を巻きはじめ、ついにはその身体全体を呑み込んでしまうように感じられた。
 「おう、おう……」と、まるで獣のような雄叫びを発しながら、岩倉は櫻と戯れ、その香で五臓を満たし、快楽に酔い痴れた。そして、その陶酔のなかで、ほんの小さな、数個の花のついた櫻の小枝を、誘惑に負けて、女の目をかすめて袂に押し込んだ。確かにこうして、奥の千本の長月櫻を、自分の眼で確かめたことの証左とせんと欲したのであった。やがて、あたかも男女のまぐわいの後のような心地よい疲れに身を沈めて、櫻の褥のなかに身を横たえた。
 「この森のことを、決して他に知らしめてはならぬ」
 夢ともうつつとも定かならぬまどろみのなかで、岩倉は女の声を耳にしたように思った。
 「いったいこの森の正体は、何なのです?」
 岩倉もまた、夢のなかのことのように女に問うた。
 「ここは、行に躓き、仏界にも上れず地獄にも降れぬ、哀れな魂が櫻と変じて永遠の安らぎを得る下界と冥府のはざま」
 岩倉は、櫻の巨樹の根に抱かれた、行衣を纏った骸のことを思い出した。
 「行に躓くとは、何故にです?」岩倉はなおも問うた。
 「湯嶽の行は厳行である。木喰に身を窶し、百度瀧に入り、百日山中に座しながら、己の理知に仏を見失い、あるいは行を全うすることなく病を得、土に帰るは、いずれもその者の繋がれし因縁の故であろう」
 女の声が、ほとんど聞き取れぬ程に微かになり、最後に、それはすすり泣きのようなか細さになっていた。
 「さあ、もう戻るときだ。来るがよい」
 女は、小さな水神らしき祠の前に岩倉を誘った。 その祠の傍らには、えにしだに似た背の低い灌木が繁っており、褐色の、拇の先ほどの大きさの実をいくつもつけている。傍らには、こんこんと泉が湧いているのが見えた。
 女はその実をひとつ、岩倉に差し出した。その実を口にしろ、と言っているように思えた。岩倉は、素直な子どものように、それを口に含み、噛みしだいた。唇から口のなかにかけて、鈍い苦みが広がり、続いて粘膜を強烈な痺れが襲った。まるで強力な麻酔にでもかけられたかのような感じだった。やがて、岩倉は、意識が遠のき、己の身体がどんどん下降してゆくような異様な感覚にとらわれていった。


   (五)


 「しっかりしねえか」「おい、しっかりしねえか」
 耳元で、誰かがしきりに怒鳴っている。岩倉は、その声に促されて眼を覚ました。深緑の杉林と、薄暮であろうか、橙色に彩られた雲が、視界に捉えられた。首を動かすと、野良仕事の帰りらしい数人の男の姿があった。
 「や、気がついたんべな」
 「ここじゃあ、どうしようもねえ。ともかく、温泉場まで運ばなにゃあなんねえど」
 「材木屋から、車あ出してもらうべ」
 男たちは、口ぐちに言い合いながら、なおも岩倉をのぞきこんでいた。
 「ここは?」と、岩倉は痺れる唇を操りながら問うた。口の中といい、唇といい、なにかひどい苦みが残っていた。
 「上梅澤部落だ」男のひとりが答えた。
 岩倉は、少しずつ、自分のおかれている状況を認識し始めていた。どうやら自分は、山の麓の集落で、行き倒れになっていたところを発見されたらしい。だが、困ったことに、自分がなぜ、こんな山の中の集落にいるのか、なんのためにここまでやってきたのか、まるで急性の記憶喪失症にでもなったかのように、まるきり思い出すことができないのだった。
 やがて、村人が用立ててくれたトラックがやってきて、岩倉はその荷台に乗せられ、辛うじて一間ほどの幅を保った、激しく揺れるでこぼこ道を下り始めた。ほどなく走った、集落のはずれあたりに小さな橋があり、その袂から、さらに山奥深くに入り込んでゆく林道のような小径が分かれている。そこに立つ「右、上梅澤、左、行者谷」と書かれた古い道標に刻まれた文字に眼を留めた岩倉は、疑似記憶に弄ばれているかのような妙な感覚に捉えられていた。
 十分ほども、そのようにしてトラックの荷台にしがみついていただろうか。やがて、湯嶽の温泉場に着くと、駅の近くの駐在所で降ろされた。すでにあたりは夕闇が降り、濃紺の影のなかに、ぽつりぽつりと家の灯の燈るのが見える。その温泉場に襲い掛かるかのような大きさで、霊山湯嶽から続く黒々とした山肌が迫っていた。
 「駐在さんよ、駐在さんよ!」
 トラックを運転していた男が、裸電球の燈る奥の部屋に向かって声をかける。ほどなくして現れた中年の警察官は、岩倉の頭の先から足の先までを職業的な怜悧さを以ってジロリと眺め尽くした後、言った。
 「あんたは、もしかして行方不明になっていた帝大の先生かね」
 「たしかに、私は、東京帝大講師の岩倉重成というものだが……」岩倉がそう答えるや、駐在は急に慌てた様子で、どこかに電話をかけはじめた。「丹生屋さんかね。岩倉先生という人が、見つかったよ」そんな言葉が、岩倉の耳元に聞こえた。
 ほどなくして、丹生屋の女将が、岩倉の妻を伴ってやってきた。
 「お客さん、無事でようございました」と女将。
 「あなた、よくご無事で……」岩倉の妻は、それだけを言って、涙に声を詰まらせ、岩倉の肩に縋った。
 丹生屋の一室に戻った岩倉は、医師の往診を受け、数日の安静を命じられた。遭難による体力の消耗と、軽度の精神惑乱がその理由であった。
 「僕は、どうしてこんなところにいるのかな」上梅澤の集落で倒れていたところを見つけられる以前の記憶がいかにしても定かならぬ岩倉は、傍らで付き添う妻に問いかけた。
 「あなたは、半年もの間咲きつづけるという櫻の木を探して、ここに来たのよ。覚えていないの?、そう言ってあなたが山に入ってから、もう五日間もたつのに」呆れた顔になって、妻は答える。
 「五日だって!その間、僕はいったい何をしていたんだ」
 どこかの部屋から、湯嶽の信者が唱えるらしい蔵王権現の神咒の声が漏れ聞こえてきた。この咒文はどこかで聞いた覚えがあるような気がする、と岩倉は寝具のなかでぼんやりと記憶の綾を手繰ろうとしたが、それがいつ、何処でのことなのか、思い出すことはできなかった。
 「………半年咲く櫻?、それのことなら噂に知っている。でも、そんなものがあるはずがないだろう。まったく想像の産物だよ」
 岩倉は力なく言った。それを聞いた妻は、微かに安堵の表情を浮かべた。
 「それに、どうしたのだろう、口の中が、ひどく苦いんだ。何か、強い薬でも飲まされたのだろうか」
 闇の降りた宿の窓の外からは、いつもと変わらぬ谷川の瀬音が響いて来る。そこに混じって、かしこから秋の虫のなく声も聞こえた。夫の遭難の報に心乱され、疲れきり、いま漸く、その愛する者の無事を確かめることの叶った妻は、岩倉の手を握りながら、自分もいつしか、まどろみの中に入っていた。傍目からみれば、仲睦まじい若い夫婦が、いっときの温泉旅行にでも出かけてきたと見えただろう。
 幾ばくかの時が流れ、岩倉もまたうつらうつらとしながら、寝返りを打とうとして身体を捩った。そのとき、それまでは気がつかないでいたが、懐に何かの違和感を覚えた。何かが入っているようだ。岩倉は片手を曲げて、それを掴み、己の顔の前に翳した。裸電球の下に、桃色の花弁がひらと踊り、傍らに寝息をたてる妻の頬に触れた。それは、小さな櫻の枝端だった。
 突然、岩倉の脳の中が、櫻の海の映像で満たされた。自分はあの場所へ行って、あのような櫻になるのだった、という想念が湧きあがると、無性にそれが嬉しく待ち遠しく、居ても立ってもいられないくらい有頂天な気分になり、心臓が激しく鼓動した。心はすでに、深山の櫻の森に翔んでいた。岩倉は多幸症にかかった末期の結核患者のように、何かに憑かれた幸福そうな眼をして、夜具のうえに起き上がり、傍らで寝息をたてる妻をじっとのぞきこんだ。そして、彼女の顔の上に屈み込むと、唇にあの苦味を感じながら、赤い桜桃のような妻の唇に、そっと自らのそれを重ね合わせたのだった。妻は、ぼんやりと眼を開けて、「苦い味」と呟いた。
 半時後、湯嶽の温泉場から、渓流に沿った山道を、明かりを提げて奥へ奥へと辿ってゆく、一組の男女の姿があった。そのふたつの影は、小さな沢にかかる橋から、行者谷のほうへと曲がって、やがて漆黒の闇のなかへと消えていった。………
 そして、明るい櫻の森。山から吹き降りてくる冷たい風が、渦を巻いて、止まぬ雪のように桃色の花弁を散らし続けている。薄桃色の衣を纏った長い髪の女が、森のなかの二本の櫻の木を見上げていた。並んで立つ二本の細い櫻の木である。一本は一丈ほどの高さ、もう一本はそれより少し低く、高いほうの木にひっそりと寄り添うかのような恰好で、寂しげに枝を揺らしていた。


(武州湯嶽権現異聞・終わり)





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