エッセイ

トマス・ルイス・デ・ビクトリア



 

第T章 教会音楽だけを書いた作曲家

 16世紀中葉から17世紀はじめのヨーロッパ。熾烈な宗教対立の時代に、突如、暁の明星の如く、燦然と輝き現れた音楽の星。それがトマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomas Luis de VICTORIA,1548-1611)である。

 ビクトリアは、スペインの黄金時代(Sigro de Oro)を代表するばかりでなく、ヨーロッパ音楽史のなかでももっとも優れた作曲家の一人であるといってよい。但しビクトリアには、他の作曲家と比して特異な点がただひとつだけある。それは、世俗の楽曲を一切書かなかったことだ。ビクトリアは、分かっているだけで凡そ180曲を後世に書き残したが、いずれもローマ・カトリック教会のための、ラテン語によって歌われる典礼音楽ばかりで、世俗曲はまったく無い。

 確かに、ルネサンス時代の作曲家の多くは、宗教音楽を中心に活動した。しかし、彼らは同時に、古代の英雄物語や男女の恋愛に題材をとった、マドリガーレやシャンソン、あるいはリートと呼ばれるジャンルの、比較的短い世俗楽曲をも多く作曲したのである。それらは、いわば当時のヒットナンバーとなって、人々に愛され唱われたのだった。のみならず、宗教曲でさえもが、そうした世俗曲のメロディを素材(この素材のことを定旋律といい、低音部で楽曲全体を支える役割を担うが、宗教曲では通常、グレゴリオ聖歌を用いるのが一般的だった)として作曲されることすらあった。

 世俗曲にいっさい目を向けることなく、ひたすらカトリック教会の典礼音楽だけを書き続けたビクトリアは、その意味では異色の作曲家であったということもできるのである。

第U章 ビクトリアの生涯

 ビクトリアは、スペインのアビラという町で、1548年(推測)に生まれた。

 冒頭にもふれた通り、当時のヨーロッパは新旧の宗教対立の渦中である。台頭するプロテスタント勢力に拮抗するため、カトリックの側も教会内部の刷新運動(対抗宗教改革)に迫られ、教皇パウルスV世によってトリエント公会議が招集されて、数々の改革がおこなわれていた。

 いっぽう、そうした情勢のなか、ビクトリアの故国スペインは、新大陸からもたらされた富を背景に力をつけ、時のスペイン国王カルロスT世がフランスとの戦争に勝利し、神聖ローマ帝国皇帝カールX世としても即位するに至る。オスマン・トルコの動静に気を揉み、プロテスタントの勃興に危機感を募らせるローマ教皇は、イベリア半島におけるイスラム教徒からの失地回復運動(レコンキスタ)の完遂以後、カトリック世界に大きな地位を占めていたスペインの役割に期待を寄せていた。その思いに応えるように、カルロスT世の息子であるフェリペU世は、政治・軍事の面ではレパント海戦でオスマン帝国軍に大勝をおさめ、宗教的には、スペインのみならずポルトガル、ネーデルランド、神聖ローマ帝国領など、自らの力の及ぶところで強硬なカトリック同化政策を推し進め、プロテスタント勢力の駆逐に執念を燃やしたのである。

 ビクトリアの音楽的活躍の背景として、まずこうしたカトリック世界の盟主スペインの存在があることを知っておく必要があるだろう。

 ビクトリアは、生地アビラの大聖堂少年聖歌隊員として少年時代を過ごした後、変声期を迎えたおそらく1565年頃、世界のカトリック信仰の総本山ローマへと赴き、もうひとつの対抗宗教改革の中心的な担い手であったイエズス会の学校、コレジウム・ジェルマニクムに入学している。(ドイツ学校という名称だが、ドイツ人だけではなく、ヨーロッパの他の国からたくさんの留学生を受け入れていた)そこでは、やはり聖歌隊の一員として音楽の勉強を継続したが、やがてはその母校の楽長にまで昇りつめる。それと前後して、最初の曲集『モテトゥス集』を出版したのが、1572年のことであった。

 以後、ビクトリアの作曲家としての活躍はめざましく、出版された曲集のうち、ローマ滞在中のものがかなり多くを占める結果となった。

 だが、華やかなローマで作曲家としての名声を高めたビクトリアだが、やがて、彼の心の内には故郷スペインへの望郷の想いが兆したのかも知れない。1583年に出版された『ミサ曲集第二巻』の冒頭で、ビクトリアは作曲活動に対する疲れを感じるようになったと述べ、できればスペインに戻って、聖職者として静かに神に仕える生活をしたいと言っているのである。

 ビクトリアは作曲家という顔の他に、聖職者というもうひとつの顔を持っていた。ビクトリアの生きた時代、そして、イエズス会の教育機関で薫陶を受け成長したということからも、それは容易に頷くことのできる事実であるだろう。ビクトリアは15782月に司祭に任命されており、コレジウム・ジェルマニクムの楽長職を退いた後は、サン・ジロラモ・デッラ・カリタ教会の司祭の地位に就いた。その他に、彼はローマにいながら、スペインの複数の教区の聖職者禄を受け取っていた。

 願いが叶って、故国スペインに戻ることができたのは、1587年頃であろうと考えられている。三十代を終わろうという時であった。

 スペインに戻ったビクトリアは、国王フェリペU世の妹、マリア(オーストリア=ハンガリー帝国皇帝マクシミリアンU世妃)付の司祭として、また、そのマリアが皇太后となってから逝去するまで隠遁生活を送っていたラス・デスカルサス・レアレス修道院の楽長及びオルガン奏者として、この世を去るまでのおよそ25年間を過ごした。この修道院の小さな礼拝堂の仕事は、ローマでのそれとは比較にならないくらい地味なものであったことが想像できるが、ビクトリアにとっては自らの思いにそったものであったのだろう。スペイン国内のいくつかの大聖堂の楽長職の誘いがあったにも拘わらず、それらすべてを断って、この職に留まり続けたのである。

 スペインに戻ってからも作曲活動は続けられたが、書かれた楽曲の数はローマ滞在時代を凌ぐほどのものではなかった。

 世俗曲をいっさい書くことのなかったビクトリアにとって、作曲家であることと聖職者であることとは完全に一致していたかのように思われがちだが、作曲することに疲れた、という彼の述懐を信じるならば、やはりどこかに、芸術家としての苦悩を抱える人間的な陰影を宿していたのかも知れない。

 1611827日、ビクトリアは、63歳という年齢でこの修道院で生涯を閉じた。マドリッド時代の最高の作品のみならず、ビクトリア作品の最高傑作と言われる『6声のレクイエム』を後世に遺して。これは、庇護者であったマリアの死を悼んで作曲されたものであった。

 さて、フェリペU世の晩年の治世となると、ハプスブルク家とカトリックの支配に反旗を翻したネーデルランド独立戦争の敗北、対イギリス戦における無敵艦隊の敗北等、宗教的・政治軍事的な退潮が目立ち、また新大陸からの富を一部の貴族階級だけが独占したことによる産業社会の未成熟ゆえの国力の衰退などの条件が加わって、スペインの黄金時代はあえなく終わりを告げることになる。それと軌を一にするように、ビクトリアの死後、スペインは音楽史からも取り残される結果となったのだった。

 スペインの黄金時代は、またスペイン音楽の黄金時代でもあったのである。

第V章 ビクトリアの音楽

 さて、ビクトリアの音楽については、彼が教会の典礼音楽しか書かなかった聖職者であるという事実から、その信仰にかけられた情熱が、濃密で美しい音楽性に昇華されているという評価はそのとおりであるが、いっぽうで、どこか頑なで面白味の欠けた、保守的な音楽、というイメージが先行するところがある。そもそも、バロックや古典派以後の和声を重視した、いわゆるクラシック音楽を聞きなれている私たちの耳にとって、ルネサンス時代のポリフォニー音楽は、ラテン語というまったく馴染みのない言語と相俟って、ひどく取り付きにくいものであることは確かだろう。しかもその内容がキリスト教の典礼音楽ということになれば、キリスト教に縁のない日本人にすれば、それだけで、「難解な」「面白くない」音楽ということになってしまっても不思議はない。

 しかし、ひとたびこの音楽の魅力がわかると、ビクトリアという作曲家は、じつは保守的どころか、当時としてもとても斬新な音楽づくりをしていたユニークな存在であることに気が付くのである。

 ルネサンス時代の多声声楽曲は、宗教曲であっても世俗曲であっても、そのほとんどは「ポリフォニー」と呼ばれる構造を持っている。これは、ソプラノ、アルト、テノール、バスなどの各声部の旋律が、いずれが主旋律でいずれが従旋律であるという関係性を持たず、対等にメロディーに載せた歌詞を歌ってゆくスタイルである。そして、各旋律間の関係を規定するのが、対位法という決まり事である。

 もちろん、ビクトリアの作品の基本的スタイルはこのポリフォニーなのだが、そのなかには、どちらかというとその厳格な対位法から少し踏み外れて、不協和音の効果をねらったり、四つの声部が同じメロディーを奏でたり、同じリズムで動いてゆくという、バロック以後の音楽に通じる縦の和声を重視した書法(これをポリフォニーに対してホモフォニーという)的要素が見られるという特徴がある。

 これを、ルネサンス多声声楽曲を完成させたと言われる、いわゆるフランドル楽派の作曲家たち、ヨハンネス・オケゲム(Johannes Ockeghem,1410-1497)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prez,1440-1521)らの作品と聞き比べてみると、フランドル楽派の楽曲は、ルネサンスの理想である完成された調和と、音楽的な技巧の完璧な処理を感じさせるのに対し、ビクトリアの作品は、より直接的かつ情動的で、外へ向かって訴えかける力の強い音楽であるように感じられる。フランドル楽派が「静」と「内向」の音楽であるとすれば、ビクトリアの作品は「動」と「外向」の音楽であると例えることができるだろう。あるいは、前者が「閉じられた円」の音楽であるのに対し、後者は直接人間の感情に訴える「開放系」の音楽であるとも言える。

 さらに、ビクトリアの斬新なところは、分割合唱を取り入れたことである。これは、二重合唱とも言い得る手法だが、各4声の合唱隊を二つ(おそらく教会では会堂の左右に配置されたであろう)想定して、ぜんぶで8声部を持つ楽曲が、二つのグループの掛け合いや同調によって進行してゆくもので、ここにオルガンの伴奏を伴う、比較的規模の大きい、壮麗な曲相を持った作品となっている。この作風は、生涯を通じてみられ、ローマにいたころの作品としては、1581年に出版された「サルヴェ・レジーナ」(うるわしき救い主のみ母)や「アヴェ・レジナ・チェロルム」(めでたし、天の元后)が代表的であり、マドリッドに戻ってからも、「ミサ・サルヴェ・レジーナ」や「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロルム」など、自作のアンティフォナを素材にしたオルガン伴奏付き二重合唱によるミサ曲、さらには立体的な三重合唱(9声部)による作品も書いている。

 こうした音楽的な試みは、ビクトリアがイタリアに滞在していたときに、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂に鳴り響いていた、ジョヴァンニ・ガブリエーリ(Giovanni Gabrieli,1557-1612)らの壮麗な作品の影響を受けたものだと言えるだろう。ガブリエーリは、分割合唱だけでなく、華やかな金管楽器の競演やピアノ(弱)とフォルテ(強)の音の陰影を効果的に用いることにより、音楽におけるバロックを準備した作曲家の一人である。むろんビクトリアの作品は、基本的にはルネサンス・ポリフォニー音楽の枠内に留まり、バロックには遠いものがあるが、さきに述べたとおり、フランドル楽派に代表される完成された調和を内部から食い破るような感情の迸りは、わずかな一歩ながら、バロックの方位を向いたものであったと言ってよいかも知れない。

IV章 対抗宗教改革の波のなかで

 ビクトリアのこうした音楽性が、時代の宗教的事情と無縁ではなかったことは、カトリックの聖職者として生涯をおくったということからも想像がつく。そもそも、ビクトリアが若かりし日を過ごしたローマは、言うまでもなくカトリック世界の中心地であり、それだけに文化的には保守的な土壌を強く持っていた。ローマから遠く離れたヴェネチアで、ガブリエーリのような革新的な音楽が生まれたのは、その意味からも納得のいくところである。しかし、ビクトリアの音楽が、決してそれまでの伝統にのみ縛られた旧弊なものではなかったというのもまた、先に見てきたとおりだ。

 ビクトリアがローマに留学していたまさにその頃、カトリック教会は、プロテスタント勢力の批判を受けて、教会内部の刷新のためにトリエント公会議を招集していた。会議の場では、教会音楽のあり方についても議論が展開されたが、そこでは、それまでの教会音楽に関する次のような問題点が指摘されていた。即ち、音楽のありようが技術的な完成度を目指すことにいそぐ余り、技巧に走り過ぎていること、その結果、ポリフォニーの旋律が過度に複雑に絡み合い、歌詞を聞き取ることを困難にしていること、したがって、教会の典礼聖歌としての本来の姿を失ってしまっていること、等である。もっとも保守的な見解を持った聖職者たちからは、そうした問題の解決のために、教会音楽からすべてのポリフォニーを排し、単旋律のグレゴリオ聖歌のみを典礼音楽として採用すべきとの強硬論まで出されていた。

 フランドル楽派の音楽が、言語(歌詞)の明瞭性よりは音楽としての完成度を優位に置き、対位法のあらゆる可能性を追求していたことは事実であった。それゆえにこそ、オケゲムやジョスカン・デ・プレをルネサンス音楽の完成者と呼ぶ理由もあるのである。むろん、教会の典礼を重視する立場からすれば、典礼のなかで音楽の占める比重だけが肥大してゆき、その場が礼拝なのか音楽会なのか判然としなくなってしまうような事態に違和感を持つのも当然であると言える。その結果、もしカトリック教会がトリエント公会議の強硬派に圧されて、その典礼からすべての多声音楽を排除していたとしたら、その後から今日に至るヨーロッパ音楽の豊かな実りをみることはなかったに違いない。そこから音楽を救ったのは、何だったのだろうか。

 対抗宗教改革が目指したものは様々だが、重要な課題のひとつに、一般民衆に対する教化活動の充実があった。庶民に聖書やカトリックの教義を分かりやすく理解させるためには、文字や文書以外の情報、表現形式も大切になってくる。バロック絵画の隆盛の背景に対抗宗教改革があったことはよく知られているところだが、音楽に関しても、似たような事情があったと考えて不思議ではないだろう。音楽的な完成をみせたフランドル楽派の、自己完結的な「閉じた」ポリフォニーを踏み越えて、ホモフォニックな響きや二重合唱、不協和音など、さまざまな革新的な試みを通して、自足する音楽の円環の外部へ踏みだし、多くの人々の心に強く訴えかけるものを持ったビクトリアの音楽は、音楽的にはもちろん、その音楽を通して、ビクトリアの信念であったカトリックの理想と教義とを、感銘とともに人々に与え続けたのではないだろうか。

 ビクトリアの音楽が、カトリック教会内部の強硬論を抑え、教会音楽の危機を救ったという記録や資料は存在しないが、その生涯と音楽のありようからみて、やはりビクトリアは対抗宗教改革を音楽の面で代表した作曲家の一人であると言って過言ではないと思われるのである。

第X章 ビクトリアの作品

 ミサ曲

 ビクトリアが生涯に書いたミサ曲は22曲あるが、そのうち、出版されたものではなく写本の形で残されている2曲(「ミサ・ドミニカリス」と「ミサ・パンジェ・リングァ」)は偽作の疑いが持たれている。真作のうち、イタリアで出版されたのは15曲、マドリッドで出版されたのは5曲である。その5曲のうち、「死者のための聖務曲集」に含まれる「ミサ・プロ・デフンクティス」は、6声のレクイエムとして知られる、ビクトリアの最高傑作である。

 また、自作曲以外の旋律を定旋律とした作品は7曲あるが、特筆すべきは「ミサ・プロ・ヴィクトリア」で、これはクレマン・ジャヌカン(Clement Janequin,1480-1558)の世俗シャンソン「戦争」を定旋律としたものだ。宗教曲しか書かなかったビクトリアが、なぜ世俗曲を定旋律としたかは謎だが、マドリッドでの庇護者の誰かが、このシャンソンを愛好していたのかも知れない。

 マニフィカト

 マニフィカトは、カトリック教会における聖母マリアの賛歌で、ビクトリアは18曲を作曲した。うち2曲だけがマドリッド時代のもので、他はすべてイタリア滞在中の作品である。なお、マドリッドで作曲された2曲だけにオルガン伴奏が付され、かつ、それぞれ二重合唱と三重合唱を用いた規模の大きなものとなっている。

 ラメンタツィオ

 ラメンタツィオとは、一般的には「エレミア哀歌」の名前で知られる、旧約聖書の「哀歌」に曲を付けたものである。9曲があるが、そのうち、「預言者エレミアの祈り、ここに始まる」には、4声のものと6声のものと二種類がある。イエス・キリストの復活前一週間の聖週間に歌われる「聖週間聖務曲集」に含まれ、すべてローマで出版されている。

 レスポンソリウム

 レスポンソリウムは、その名が示すとおり、ゴレゴリオ聖歌の旋律が独唱でまず歌われ、それに応えるような形で合唱が続くスタイルの聖歌である。22曲を残しているが、1曲を除き、ローマで出版されている。その1曲とは、最高傑作である6声のレクイエムのなかに挿入される「われを解き放ちたまえ」である。

 アンティフォナ

 13曲すべてがローマで作曲されている。アンティフォナは「交唱」という訳語のとおり、かけあいの形で歌われる聖歌で、その性格から、二重合唱を用いた曲が多い。

 詩篇曲

 旧約聖書の「詩篇」に曲を付けたものである。8曲があり、1曲を除いてローマで作曲されている。また、うち6曲にオルガン伴奏が付されているほか、二重合唱のものが7曲、三重合唱のものが1曲ある。

 モテトゥスとリタニア

 モテトゥスとは、ミサ典礼文以外の歌詞に曲を付けたものを総称し、その意味では、アンティフォナやレスポンソリウムも含む場合がある。ここでは、それら狭義の分類に属さないものをあげるが、ビクトリアの作品のなかでもっとも数が多く、リタニアと併せて56曲ある。但し、マドリッドで作曲されたのは僅か3曲のみ。出版されず、写本で伝わっている曲が6曲ある。多くは器楽伴奏を付されずに書かれているが、今日のCD録音などでは、オルガンのみならず、コルネットやサックバット(トロンボーン)等の古楽器伴奏を付けているものもみられる。

 セクエンツィア

 聖書以外のテキストに依拠した歌詞であったため、トリエント公会議でそのほとんどが廃止され、5曲のみが公認された。ビクトリアはそのうち3つの歌詞に曲を付けている。1曲がローマで、残りの2曲がマドリッドで出版されており、3曲すべてにオルガン伴奏が付されている。

 イムヌス

 セクエンツィア同様、聖書以外の宗教的散文詩に作曲されたものをいう。カトリック教会の賛美歌とも言える。ビクトリアの作品は36曲が残されており、すべて器楽をまじえない合唱だけで書かれている。

 受難曲

 受難曲は、新約聖書の福音書の記述のうち、イエス・キリストの受難をめぐるテキストに曲を付けたもので、ビクトリアは「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」の2曲を残している。ともにローマで出版されているが、ホモフォニックな作風と、坦々とした曲調ながら、訴えかける力の大きい不思議な作品である。

【参考文献】

『ルネサンスの音楽家たちU』 今谷和徳著 東京書籍 1996

『中世・ルネサンスの音楽』 皆川達夫著 講談社現代新書 1977



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