フェルメール、あるいは描かれた物語

Vermeer, or painted story
 

   
 


 フェルメールは同時代の画家と比較すると、今日まで伝わる作品の数も少なく、必ずしも絵画史のなかにおいてエポックメーキングな存在でもない。だが、日本の美術愛好家の多くが、フェルメールの作品に関心を寄せており、展覧会も数多く開催されてきた。日本におけるフェルメール人気は衰えを知らないと言っていいだろう。その理由はいろいろと考えられるが、最大の理由は、その主題にあるのではなかろうか。
 フェルメールは、バロック時代の画家である。さて、バロック絵画と聞いて私達が連想するのは、まず聖書やキリスト教の教義に題材を求めた宗教画、そして、キリスト教とともに、ヨーロッパ文化の源泉となったヘレニズム即ちギリシャ神話の世界を主題とした作品群であろう。これらの作品を理解するためには、キリスト教や神話などに関する、ある程度の予備知識が必要となってくる。欧米の鑑賞者にすれば、あるいは一般常識的な範疇に属するそれらの知識も、私達日本人にすれば、必ずしも取り付きやすいものとは言えない。本稿の主旨からは外れるので深追いはしないが、作品を味わうのに必ずしも主題に関する予備知識は必要ない、とする考え方もあるにはある。しかし、作者が何を意図してその作品を描いたか、を理解したうえで作品と接すれば、単なる印象批評以上の深みと興味を作品は呼び起こしてくれるだろう。そして、私達日本人にとって、西洋美術を鑑賞する上で、この点が一番難しいところなのだ。
 ところが、フェルメールとなると少し事情が違ってくる。その作品の多くは(全てではないにせよ)、キリスト教やギリシャ神話の世界ではなく、故郷デルフトの街を描いた風景画であったり、女性を中心とした人物画などである。とくに人物画の場合、その登場人物たちも、王族や貴族といった身分の人たちではなく、市民階級に属する人々である点が、まず私達に身近さを感じさせる。そして、絵画の中の人物が、何を見、考え、言おうとしているのか。難解な知識を動員することなく、縦横に想像の翼をはためかせ、ストーリーを考える自由が私達鑑賞する側には与えられているのだ。しかも、フェルメールの作品はいかにも物語めいた味わいを醸し出しているものが多いから、なおのこと趣をそそられる。フェルメールの人気の秘密は、こんなところにあるのだろう。オランダにおける絵画(実は他の芸術も)が王侯貴族のものではなく、新興市民階級の嗜みとなったのは、他の地域と比べてはやくからオランダが商業で発展し、市民階級が力をつけたからであるが、それゆえ、気質的にも、現代人と共通の基盤を共有しているということも理由としてあげられるであろう。
 2008年に日本で開催された『フェルメール展』では、同時代のオランダの画家の作品群とあわせ、7点が出展された。フェルメールには珍しい宗教的な主題を扱ったもの、ギリシャ神話を扱ったものがそれぞれ1点づつ。街の風景を描いたものが1点。他4点が、フェルメールの得意とする人物画である。前評判の高かった『絵画芸術』は、保存上の問題から出展を見送られたが、代わりに、これもまた素晴らしい『手紙を書く貴婦人と召使い』が特別出展された。


 『ワイングラスを持つ娘』について

 

 この作品には3人の人物が描かれている。タイトルロールの若い娘は、目の覚めるような緋色のドレスをまとって、ワイングラスを手にしている。その傍らには、娘にワインを勧めようとしているらしい髭の中年男がいる。娘が手にしたワイングラスは、どうやらその男に無理やり持たされてしまったもののようだ。モチーフとしては、いわゆる「不釣合いなカップル」の範疇に入るであろうこの作品の面白さは、その演劇的な要素にある。「さ、お嬢さん。これはめずらしい、極上のワインですよ」下心めいた慇懃さとともに、男が語る声が聞こえてくるようなその表情。見事な筆致だ。だからだろう、当の娘は、お愛想の作り笑いのように少し口をあけながら、なにやら困惑した表情をして、こちらに視線を投げている。まるで、鑑賞者がそこにいて、この無礼な誘惑者から自分をなんとか救い出してほしいと訴えているような眼差しだ。私なら、この娘をどのように救い出すだろうか。まるで、鑑賞者がこの作品世界に参加しているような気分にさせられる不思議な画である。
 ところで、この作品における第三の登場人物、即ち、誘惑者と娘の奥に位置し、テーブルに頬杖をつく男の存在を、どう解読すべきだろう。「頬杖」は、メランコリアつまり「憂鬱」の象徴であるが、であるとするなら、頬杖の男はさしずめ、強引に娘にワインを勧めようとしている髭の男の恋敵ということになるかも知れない。酒を武器に、自分より積極的に娘に話しかける髭の男を前に、影の薄い、弱気な自分を卑下しているのである。
 だが、別の解釈もあり得る。気弱なのは実は髭の男の方なのだ。一人では娘を口説く自信が無いので、友人即ち頬杖の男をだしに使って娘に近づいたのである。友人である男は、すっかり苦々しい思いになって、あるいは半ば呆れ気味に「いい加減にしろよ」とでも言いたげに、そっぽを向いてしまっている。
 左端のステンドグラスから差込む光線によって、娘の緋色のドレスが輝いて見えるのが印象的だ。


 『リュートを調弦する女』について



 オランダの画家達の作品は、多く光の線によって演出されている。その例にもれることなく、窓から差し込む光が印象的なこの作品は、何かしら「始まり」を予感させる。登場人物である若い女は、乱雑に置かれた楽譜らしき本を前に、リュートを調弦している。楽器の調弦は、これから演奏が始まることを意味しているというべきだろう。だが、主人公の女性は熱心に楽器を調弦しているというわけではない。おそらくはその手を休めて、窓の外へ視線を投げかけているからだ。その意味では、ここには音楽とともに、もうひとつの「始まり」が重複しているとも言えそうだ。
 私たちの興味は、自ずと「女は何を見ているのか」ということに向かうだろう。女の表情は、遠くを見つめているようにも見えるし、窓の外の明らかな、ある対象を見つめているようにも思える。悲しそうでもあるし、微かに微笑んでいるようでもある。ただひとつ、間違いがないと思われるのは、ただぼんやりと意味も無く気まぐれのように視線を窓の外に投げたのではないだろうということだ。あるいは、外で何か気がかりな物音がして、そちらを振り向いたのかも知れない。というのも、床の上に一冊の楽譜本が落ちているからだ。窓の外の不意の物音に振り向いたはずみで、机の上にあった一冊が落ちた。勿論、その物音は、彼女に何かの期待を抱かせるに十分なものであったはずだろう。落ちた楽譜本を拾い上げることなく、彼女は窓の外に関心を奪われているからである。
 この作品には、リュートとあわせて、もうひとつの楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバが登場する。画面上は暗くて見難いのだが、画面の右下、床の上に置かれたものだ。リュートもガンバも、バロック時代の宮廷や家庭での室内合奏に頻繁に用いられた楽器だが、おそらくこの女は、これから共演するガンバ奏者がやってくるのを心待ちにしているのではなかろうか。既に窓の外には、既に共演者の姿があるのかも知れないし、あるいは、時間に遅れている共演者がまだ来ないのかと、窓の外を眺めやっているのかも知れない。ガンバ奏者が男性なのか女性なのか、それは定かではないが、よりロマンチックな物語をお好みであれば、それは男であり、彼女の恋人であるという設定にしてもよい。「楽興の時の始まり」とともに、愛の時間の始まりでもあるというわけだ。
 さて、部屋の壁に視線を転じてみると、そこにはヨーロッパの地図が掲げられている。海洋貿易国オランダの象徴的な光景であるということもできるが、楽器演奏とヨーロッパの地図から、何を想像すべきだろう。ヒントは、かなり大部の楽譜本にあるだろう。リュートとヴィオラ・ダ・ガンバのための合奏曲であれば、通常それほどの量の楽譜にはならない。それがたくさん集められているという事は、つまりヨーロッパ各地の作曲家の手になる作品がこの場所に蒐集されているということを意味しているのではないか。女性の服装は、上流市民のそれを窺わせる。様々な作曲家の楽譜を入手することは、相応の経済力が無ければかなわないことでもあるだろう。


 『手紙を書く婦人と召使い』について



 「手紙を書く婦人と召使い」は、フェルメールの最高傑作とされながら、今回、出展を見送られた「絵画芸術」に代わるものとして特別出展された。偶然か意図されたものか、構図としては、ここで取り上げた前二作と似通ったものがある。画面の左側に窓があり、そこからの光が物語の場面を照らし出す。登場人物の前にはテーブル、ないし机が配されており、背景の壁には何かしらのモニュメント。即ち、「ワイングラスを持つ娘」では肖像画、「リュートを調弦する女」ではヨーロッパの地図、そしてこの作品の場合は旧約聖書に題材をとった宗教画である。
 しかしながら、描かれた物語としては、これらはまったく別のものということもできよう。主人公は、高貴な身なりをした女性である。文机の前で、一心に手紙を書いている。「リュートを調弦する女」のヒロインが、いっとき自らの所作を忘れて窓の外を眺めているのとは対照的だ。翻って、「手紙を書く婦人と召使い」で窓の外を見やっているのは、侍女のほうだ。女主人の斜め後方に立ち、軽く腕を組みながら、窓の外へ視線を投げている。しかし侍女のほうは、「リュートを調弦する女」と異なり、何かはっきりとした対象を見つめている、あるいは何かを期待して窓の外を見ているというのではなさそうだ。彼女は、女主人が手紙を書き終わり、封をして、郵便配達夫に手渡すべく自らに手紙を託すのを、忠誠な下僕のようにして待っているのである。窓の外に視線を投げているのは、女主人の認めている手紙の文面を(意図的にではないにせよ)覗き込んでしまうような無礼を畏れてのことだろう。
 女主人は、いったい誰に向けて、どのような手紙を認めているのか。その熱心な姿から想像できるのは、それが決して事務的な内容のものではないだろうということだ。そして、彼女の情愛のこもった表情は、手紙を受け取る人物が、近しい友人または肉親らしき人物であることを教えている。ヒントは壁にかけられた画中画「モーセの発見」にありそうだ。「モーセの発見」は、旧約聖書における「出エジプト記」の故事に基づいている。即ち、イスラエルの救世主誕生の報せに脅威を感じたファラオ(エジプト王)が、エジプト国内のイスラエル人の男児の殺害を命じたとき、幼いモーセの母親ヨケベドは、モーセの命を救うためモーセを葦の舟に乗せてナイル川に流した。やがてモーセは、川のほとりでファラオの王女に救われ、王女はモーセを王子として育てることになる。そして、王女が乳母として選任したのは、なんと実の母ヨケベトであった。
 画中画「モーセの発見」で描かれるのは、ファラオの王女が葦の舟に載せられた幼児モーセを抱き上げ、哀れみからその養育を決心する場面である。
 女主人が認めているのは、我が子の無事、安否を尋ねる手紙かも知れない。彼女の息子は、おそらく何らかの事情で彼女の元から遠く離れた町で暮らしているのではないだろうか。まだ若く美しい母親であるが、とすればその息子も少年に近い年齢であろう。「モーセの発見」の主題は、エジプト王女の慈悲であるが、別の視点で見れば、わが子を思う母親の愛情であるとも言い得る。


 『ヴァージナルの前に座る若い女』について



 ヴァージナルとは、弦を鍵で引っかいて音を出す、箱型の小さな鍵盤楽器のことである。原理はチェンバロと同じだが、チェンバロより音量は小さく、可憐な響きを持っている。17世紀から18世紀にかけて、ヴァージナルは裕福な家庭における子女の教養育成に欠かせない楽器でもあった。それはちょうど、現代の子ども達がピアノを習うのに似た光景だったかも知れない。
 この画のなかで楽器に向かっているのも、「若い女」という標題にあるとおり、まだ少女のようなあどけなさを持った娘だ。つい先ほどまで、どこかたどたどしい弦の音色が聴こえていたような情景である。彼女は、自分の練習が邪魔されてしまったことを怒るのではなく、未熟な演奏を聴かれてしまったことの恥ずかしさを、わずかな微笑とも、はにかみとも思える表情で隠そうとしているかのようだ。あなたなら、彼女になんと声をかけ、その恥じらいを慰めてあげられるだろうか。
 この作品には、ミステリアスな真贋論争がつきまとってきたが、そんなことを忘れさせてくれるような愛らしい作品である。


  
トップページ エッセイ 物語と小説