長  篇  小   説


過ぎし日に何をかなせし

(第一篇)



 
  序章  第一章




   序章 一九八〇年十月(その一)

 「都築君、なんて冷たい人なの。みんな見せかけだったわ。あなたの優しさなんて、あなたの優しさなんて……」
 そう言うなり、多田美月は、泣き顔もあらわなまま雨のなかを走り出していた。
 自分自身でも驚くような、不思議な凶暴な意思にかられて、都築哲司は心の中で反芻した。仕方がないんだ、人間は誰だって………。
美月は通りかかったタクシーを停めて、こちらを振り返ることもなく乗り込んだ。都築は二、三歩よろよろと前に歩み出たが、車は待つ間もなく動きはじめ、鉛色に沈んだ街のはざまへと消えていった。眩暈と胸の息苦しさを覚えて、橋の欄干にもたれ掛かり、大きく息をした。数日前のある無分別な行為のせいで、都築の身体は神経の抹消に至るまで疲れ切っていたのだ。水の流れる音が、まるで突然ふりかかった嵐のように耳を塞いだ。眼下には、折からの秋雨に増水した犀川の流れが、褐色の渦を巻きながら、厚く層をなした雨雲の下を大きくうねっていた。
 ここ数日というもの、北陸地方では、長く厳しい冬の予兆であるかのような、肌寒くはっきりしない天候が続いていた。この日の朝早く、輪島を急行列車で出発したときすでに、ぽつりぽつりと水滴が列車の窓ガラスをたたき始めていた。列車は二時間近くをかけて、ゆっくりと能登半島を南へ下る。やがて金沢へと辿り着いた頃、雨は容赦のない本降りになっていた。
 列車のなかでは、都築も美月も、押し黙ったきりだった。美月はときに涙さえ浮かべて、都築と視線があうことを恐れてでもいるように、頑なな横顔をこちらに向けて、深く秋づいた車窓の光景を虚ろに見つめ続けているように思えた。朝の上りの急行はほぼ満席に近く、それだけに、他人の目を避けるように沈み込んだ自分たちが、都築にはひどくぎこちなく感じられてならなかった。
 金沢から乗り継ぐ予定であった北陸本線の列車が出るまでには、まだ暫くの時間があった。都築は美月を伴って、街のなかをあてどもなく歩き続けた。観光という気分ではなかったが、自分たち二人を埋め尽くす憂鬱を、少しでも遠ざけたいという思いに駆られてのことだった。
何を観るわけでもない。ただ黙然と歩き続ける。仲の良い恋人同士のように、二人でひとつの傘をさしかけていたが、美月は都築の半歩ばかり後を、硬く口を噤んだまま、背中や肩を雨に晒しながら付き従っていた。
 このやりきれない気分から逃れたい。都築はそのことばかりを考え続けた。美月に何かを言えば、少しでもそこから自由になれるのか。あるいは、このまま彼女を振り切って、雨の中をあてどもなく走り出せばよいのか。都築にはわからなかった。そうかと言って、このまま見知らぬ街を彷徨い続けることが、心の荷を軽くしてくれるとも思えなかった。
 やがて、灰色に濡れそぼった古い家の軒先がひっそりと肩を並べる町なみが途切れ、ぱっと視界が開けたとき、ぼんやり雨にかすんだ樹木と、その下をどうどうと音を立てて流れる川が目に入った。犀川である。
 橋の袂まできて、都築は軽い眩暈を感じて立ち止まった。美月は何事かを切望するように、大きな目をして都築を見つめた。
 「誰だってそうなんだ」と、まるで自分を凝視する黒い瞳に押されるようにして、重たい口を開いた。「誰だってそうなんだ。人間は誰もみな孤独なんだから、仕方ないじゃないか。僕だけじゃない……、君だって、そうなんだよ」
 ひとは誰もが孤独であるという、その言葉に嘘はないと都築は感じた。ただ、それが本当に口にされるべき言葉なのかどうかを考える暇もなく、鬱積した感情に押し出されるようにして言ってしまったことに、ほんの少しの後悔を覚えた。美月は、まるい瞳をさらに大きくして、黙ったまま都築を見つめた。やがてその目から、涙があふれた。
 「都築君……、なんて冷たい人なの。みんな見せかけだったわ。あなたの優しさなんて、あなたの優しさなんて」…………




   第一章 一九八〇年五月(その一)

 春愁という言葉を、ふと思い出す。開け放たれた窓の下には、いつしか手入れが疎かになった広い中庭があった。朱色の花が病的な斑模様のように咲き乱れる躑躅の垣の周囲に、繁縷やオオイヌフグリなどの野草が野放図に萌え出ていた。いつだったか観た記憶のある、古いロシア映画の画面のなかの、うらぶれた貴族の荘園のような懶堕な情景に似ている。三方を灰色の打ちっぱなしのコンクリートの壁で塞がれた、午後の日差しが気だるくそそがれる廃園の、それら草木のうえを、時折、春特有の強い風が吹き抜けるたび、一斉に小さな白い綿毛が無数にふわりと宙に浮き上がっては、まるでこの陽だまりから逃れようとでもするように、ひとつの、あるいは幾つもの方向に向かって流されてゆく。
 それが建物の壁面に沿ってびっしりと生い茂っているタンポポの実であることを知ったとき、都築はふゥ、と小さくため息をついた。無雑作に荒れ果てるばかりの庭園にも、もちろんそのようにして生命の息吹はあったが、打ち棄てられたようにしか営まれることのない生命は確かに、どこかもの寂しげではあった。もしも草や木に己を感じる心というものが存在するとしたならば、と都築は思う。彼らは、自分たちを順繰りに見舞うちっぽけな虫けらたちに向かい、己だけが知ることの許された閉ざされた幸福を微笑むのであろうか。それとも、風のささやきに言葉を借りながら、ただ存在し、朽ちてゆくためだけに存在し続けることの不幸を嘆くのだろうか、と。
 そのようにして都築は、学生会館の小部屋の、ひとけのない中庭に面した窓辺にぽつねんと立ち尽くしながら、ぼんやりと外を見つめていることがよくあった。眼下の光景に何か愉しげなものを見出すというわけでもなく、むしろ微かな畏れのような感情をさえ抱きながら、都築は草深い中庭を凝視した。年を経るごとにだんだんと人の手を拒むようになった頑なな生命から、自分にとって何かしらの真実を探し出そうとでもするかのように。
 「この眺めが好きなんだなァ」
 振り返ると、それまで、机に向かって何か書き物をしていた経済学部三年生の三枝俊彦が背後に立っていた。
 「いや、別に好きだとか、気に入っているというわけではないのさ。強いて言えば、何となく気にかかるんだよ。おかしいかい?、まあ、おかしいだろうな」
 都築は窓枠に背を凭せかけて、曖昧に顔を振り言葉を濁した。
 「毎年、修復の話は持ち上がるのに、いっこうに手が着けられないのは、どうしたわけなんだろう。それだけの予算がないとも思えないのに。あれなんか」と、三枝は庭のほぼ中央にある、黒っぽい水面の上を周囲の雑木の枝葉が覆う池を指差した。「まるで不気味な感じさえするじゃないか」
 「この廃園が僕たちを拒んでいるのさ。もの寂しげななかにも、どこか依怙地な印象がある。あそこに生えているえごの木を見ろよ。まるでここに大学なんか無くたって、僕たちがこうして生きていなくたって何の変わりがあるのか、と言わんばかりに泰然自若と枝を広げている。僕はね、時々こんなことを考えるんだ。もしあの木に感情があり、言葉を持っていたとしたら、いったいどんな事を僕たちに語ってくれるのだろうか、とね。馬鹿げているだろう」
 ちょうど学生会館の向かいにある、理学部の研究棟の脇の、背の低い樹木を見やりながら、都築は自分を嘲るように笑った。
 三枝は真剣な顔をして、「で、何て語るのだい?」と問うた。黙って窓の外に視線を投げたまま、都築は返す言葉を捜していたが、それよりも早く、三枝が言葉を継いだ。「君らしいね、都築。そうやって、ひとり黙然ともの思いに沈みながら時を送れるなんて、羨ましいよ。文学をやる人間ってのは、皆そんなものかい。それに引き換え、僕は今どき少しも流行らない政治なんかに染まってしまった」
 今度は、三枝が半ば投げやりな様子で呟いた。
 「僕だってそうさ。こうして流行らない政治に足を突っ込んでいる。君と同じだよ」都築はむさ苦しいサークルボックスをそれとなく見回し、再びため息をついた。
 「でも君にはね……」と言いかけて、三枝は言葉を切った。もの問いたげな表情に、寂しそうないろが漂っていた。「満ち足りた印象がある。そうやってもの思いに耽っている君は、憂鬱そうな表情はしているけれど、僕にはとても幸せに見える。本当に、羨ましいくらいに」
 「思弁することで満足している、と言いたいのだろう。そうなんだよ、僕の限界はそこなんだ」今度は都築が、困惑の表情に悲しみを込めて答えた。
 不意に、その場の陰鬱な空気を打ち破るかのように、誰かがサークル室のドアを勢いよく開けた。都築と三枝が振返る間もなく、入ってきた東原清貴が不機嫌そうな口調で言った。「サークル協議会がお前に用事らしいぜ、三枝」
 「サー協が?なんのために」窓の傍らに立ち尽くしたままだった三枝は、不安と訝しさの入り混じった瞳を都築のほうに向けた。
 「さあ、知らんね。とにかく、部長を呼んでこいと、まるで職務質問の警官みたいに呼び止めやがった」東原は、さも煩わしげに眉を顰めた。「どうせろくでもないことに決まっているんだ」
 三枝の表情が次第にくもってゆくのが、都築にも見て取れた。三枝の主催する現代思想研究部は、その活動が著しく政治的であるという理由により、サークル協議会から好意的な扱いを受けていなかったのだ。党派間闘争の煽りを受けて学生自治会が崩壊した後、学生の自主的組織として辛うじて残ったサークル協議会の実権を握ったのは非政治的志向を持った学生たちだった。政治・社会運動の方向性を見失った学生運動組織が内部対立に終始し、けっきょくは自壊していった過程を目の当たりにしていた彼らだけに、特定の政治的意見の表明や政治的示威行動に関してはことのほか敏感になっていたのだった。むろん、現代思想研究部が、特定の政治的党派によって牛耳られているわけではなかったが、サークル協議会からすれば、たとえば朝鮮半島問題や部落問題について、何がしかの見解を示すというだけで充分だったのだろう。
 三枝は部屋を出て行ったきり、そのまま暫く戻ってこなかった。都築はどこからか拾ってきたような粗末な椅子に腰掛けて、所在無く読みかけの文庫本を開いた。埃っぽい狭い部屋の中、東原が不機嫌そうな表情をあらわにして、机越しに都築を見つめている。その不愉快そうな顔の理由が、サークル評議会の呼びだしにあるのか、都築がそこにいるためなのか、判然としないところがあったが、都築は居心地の悪さを感じて、尚のこと読書にのめりこもうとした。いつの頃からか、都築は何とはなしにではあったが、東原が自分に対して向ける、敵意とも反発ともつかないような感情の動きを察していたように思っていた。東原は、都築と同じ文学部のニ年生だったが、ほとんど授業に顔を出すこともなく、学費と生活費のために皿洗いやら夜警やらのアルバイトをしていた。かろうじて大学に顔をみせるのは、こうして現代思想研究部の活動に参加するときだけだった。実のところ、都築が東原に対して感じた居心地の悪さの本当の理由は、親の金で生活と勉学のための費用をまかなうことのできる自分自身の、小市民的な安穏さに対するコンプレックスのゆえであるということを、薄々ではあるが都築自身も気づいていた。
 「何を読んでいるんだ?」不躾に、東原が都築の手から文庫本を取り上げた。こういうときの東原は、強気ではあっても、いつも斜に構えていて妙に寂しげだった。
 それはロープシンの『蒼ざめた馬』だ。絶望に瀕した革命家、即ちテロリズムの実行者でもあったこの詩人の作品を支配する、重たく暗い空気が、都築は好きだった。「見よ、蒼ざめし馬あり、これに乗りし者の名は死なり。すなわち黄泉これにしたがえばなり」新約聖書の黙示録の言葉から始まる、この救いの無い物語の、政治や革命、人生でさえをも、底の見えない虚無の淵に沈めてしまうような冷たさ。しかしそれは、いくつもの政治的勢力が互いに闘争に明け暮れたロシア革命の正史のなかで、政治ではなく人間のありようの本質を、革命の困難ではなく存在することの意味を描こうとした、芸術家の仕事であると都築は思っていた。
 やがて、東原は「ふん」と軽蔑しきったように鼻を鳴らすと、都築の前に文庫本を投げ置いた。ぱさりと乾いた音をたてて、『蒼ざめた馬』が転がった。
 「政治っていうのは、文学からもっとも遠い世界にあるんだ。詩人は革命家にはなり得ないし、その逆もまた真なんだよ」偽悪的とすら思えるような、ひきつった冷笑を浮かべながら、東原は冷たく言い切った。かと言って、都築には、東原が熱情的に政治や学生運動というものを信頼し、そこに自らの実存を賭けようとしているようにも見えないのだ。この世界のすべての事どもについて、深い諦めか、あるいはときに憎悪のようなものすら抱いているかのような、つい今しがた自らが軽蔑の対象にした、他ならないロープシンの登場人物たちを彷彿とさせる何かを、むしろ東原自身が抱え込み苦悩しているかのようにも見えた。都築は視線を窓の外にやった。その場所からは、妙にぎすぎすした感じの青さをまといながら繁る樹木と、更にその向こうの灰色の建物とが、五月の陽気に陽炎をまといながら揺れている。
 「でも、革命ってのは、必ずしも権力の奪取や社会体制の転換だけを意味するものではないんじゃないかな。うまく言えないが、革命というのは、ひとつの生の形なのではないだろうか。だとすれば、社会的な改変が現実的に遂げられるか否かということ以前に、もっと本質的なことがある気がする」
 都築は言い訳のようにして呟いた。
 「お前の言っていることはやっぱり文学的だァ」と、東原は呆れ返ったように笑った。「だから、そういうお遊びじゃ事は運ばないと俺は言っているのさ。ロープシン、いや、サヴィンコフやその仲間の連中は、結局ロシアの現実を動かすことはなかった。それだけじゃない、二月革命の後の彼らときたらどうだ。白軍への転向、亡命、自殺。要するに、詩人ではあったかも知れないが革命家ではなかった。それだけさ」詩人という言葉を、ことさら吐き捨てるように言った。「レーニンは連中のことを何と呼んだか知ってるかい。児童合唱隊と言ったんだ。革命家はおろか、詩人ですらない!」
 東原は相変わらずふふんと鼻先で笑った。そしてシャツのポケットから煙草を取り出し、火をつけたが、ほんの数回ふかしただけで、コンクリートの床に投げつけ、ぐっと靴の先で踏みつけた。……
 かつてレーニンが何を言ったか。しかし都築は、本当は自分がそんなこととは全く別の場所にいるような気がしていた。実際、世の中の所謂政治運動のようなものが、既存の社会を変えることが出来るのか否か、そんなことは本当は自分にとって本質的な問題ではないように思えた。自らの行為が社会に対して影響を及ぼし得ることなど少しも期待しないまま、ただ自身の心が抱えた何かしらどす黒い強迫的な観念に促されるように、脳裏に蠢く己の姿だけを追い続け、ただそのためだけに、自らの肉体と精神力を費やしていたのだ。その思いは、やがて少しづつ都築の孤独を深くしていった。そして、その孤独感が自らの生きることの証であるかのように、三枝たちのグループに接近していったのだったが、そこに加わりながらも、都築は政治や革命というものに対する捉えようの無い違和感をも募らせていた。お前の言っていることはやっぱり文学的だ、という東原の言葉が、からからと頭のなかで回転した。もう一人の都築が心の中で呟いた。そうだよ、僕はやはり詩人でいい、たとえ反革命でも。
 東原は、都築が何も言い返してこないのを察すると、そのなかに一冊の大学ノートを挟み込んである一冊のフランス語の原書を取り出し、頁を繰った。ところどころに赤鉛筆で傍線を引いては、時おりノートに何事かを書き付ける。ここのところ、東原は常に、アルテュセルのその難解な本を持ち歩いては、暇をみつけて熱心に読み耽っていたのだ。
 「東原……」こんどは都築が相手の名を呼んだ。「君は、本当にこの社会が変わるということを、信じているかい?」
 読書を中断させられた東原は、一瞬、不快な表情をしたが、すぐにあの冷ややかな笑みを浮かべながら答えた。
 「変わるかどうかは解らないね。ただ、俺の行為そのものは、社会変革の有効性のなかに、あるいは社会の構造的実質のあり方のなかにだけ全て位置づけされる。……まあ、君なんかは、さしずめ文学や芸術のなかに生きるんだろうがな」
 それきり、東原は都築の相手をしようとはしなかった。
 傍らに開いた窓から迷い込んだ突風が、中途半端に頬をまさぐっては、生暖かい草いきれを残して去ってゆく。風は白っぽく濁り、無意味に木々の枝葉をざわざわと鳴らした。葉擦れの音は大きくなり小さくなりしながらも耳を離れず、あたかも廃園の頑なな生命たちがしきりに何事かを呟きあっている声とも錯覚された。いつしか都築は、活字を追うことをやめて、その葉擦れの音に聞き入っていた。すると、何か小さな綿虫のようなものが、目の前でくるくるっと風に戯れながら本の綴じ込みの部分に引っかかり、数回ころがってそこに嵌まり込んだ。よく見ると、吹き飛ばされたタンポポの実だった。都築は、夢から呼び覚まされたような気持ちになって、頭を左右に揺すったが、ちょうどそのとき、サークル協議会の呼び出しを受けた三枝が戻ってきた。
 「誰かがこの部屋にゼッケンが置いてあると言ったらしい。ことの真偽はともかく、つまらないことで事を構えたくはない。繰り返すけれど、旗竿や鉢巻、ゼッケンなんかは、サークルボックスに持ち込み禁止だ。自分たちの首を絞めることになる。現代思想研究部を存続させようとするなら、譲歩も止むを得ない」
 サークル協議会は、大学側との間に、ゼッケンや旗竿など、デモに使う器物を学内に持ち込まないという協約を結んでいた。三枝は、なにかに理由をつけて、現代思想研究部を学生会館から締め出そうとしているらしいサークル協議会の動きに敏感になっていた。
 「モノわかりのいいことを言いやがって」
 東原が、独り言のように呟いた。聞こえない振りをしただけなのか、三枝は何も言い返さなかったが、その代わりのように、サークルボックスのドアが軋んだ音を立てて勢いよく開けられた。緊張した面持の久慈倫弘が、転がり込むように部屋の中に駆け込んできた。 
 「おい、大変なことになったぞ」興奮したように久慈が叫ぶ。
 「ちくしょう、またかよ」と東原は顔を顰めた。「サークル協議会のやつ、今度は何の説教だ」
 都築は、東原が舌打ちするのを耳にしながら、対象の不明確な憂鬱へと自分が落ち込んで行くのがわかった。
 「そんなことじゃない。聞いて驚くな。いいか、韓国の学生と市民がついに蜂起したんだ」久慈が熱っぽく、しかも愉快そうに一息にまくし立てると、ほんの僅かの沈黙があった。そしてすぐに、三枝が久慈を見つめて言った。
 「本当のことか?確かな話しなんだな」誰かを問い詰めるときのような鋭い口調と眼差しで、しかし落ち着きを失うことなく訊き返す。
 「ホウキ?」
 一瞬、何のことか解らないといった表情で、都築はその言葉を反復した。
 「うん、そうだ。昼飯を食うために寄ったルアンのマスターから聞いたんだ。本当かと思って、奥のテレビを見せてもらった。ただのデモじゃない。明らかな蜂起だ。市民や学生たちは武器を手にしている」
 久慈は答えた。三枝は立ち上がると、ロッカーの中から印刷用のボールペン原紙の束を持ち出した。
 「とうとうやったかあ」東原は溜め息まじりに呟いた。「京城(ソウル)か?」
 「いや、光州(クワァンジュ)だと言っていた。市民が警察の武器庫を襲撃して銃と弾薬を手に入れたらしい。市内の各所で軍との戦闘が続いているそうだ。官庁や放送局も市民の占拠下にあると言っている」この大ニュースを持ち込んだことが誇らしいらしく、久慈は顔を紅潮させながら上機嫌だった。
 「とにかく、連帯声明を準備しよう。もう少し詳しいことを知りたいので、僕はテレビ局に問い合わせてみる。ビラは三時限目が終わった時点で撒くことにしよう。大教室の出入り口と、正門に裏門、あとは学生食堂前だ。久慈は、印刷機の準備を頼む。東原は更紙二締め。原稿は、すまないが都築、君が書いてくれないか。詳しいことがわからないから、とりあえず簡単なもので構わない」
 三枝は射すくめるように都築を見つめた。抗し難いその場の力に押されて、都築は傍らに転がっていたボールペンを拾った。テレビ局に電話を入れるため、三枝は足早に部屋を出て行った。
 「こいつ、どうも調子が悪いな」久慈が、もうかなり古くなって、ところどころにへこみができているゲステットナーの輪転機のハンドルをがちゃがちゃ鳴らして舌打ちをした。もう二年も前に、三枝が近くの古物店から買い取ったものだ。そして、紙の排出口のあたりを覗き込みながら、「さっき、サークル協議会の書記長に会ったら、現代思想研究会をいつか学生会館から締め出してやると悪態をつかれたぞ」と言った。
 「そうかい」と、東原は素っ気無い返事を返してボックスから出て行った。
 韓国全羅南道の光州市では、久しい以前から市民や学生たちによる反政府デモが繰り返されていた。五月十八日には、首都周辺にだけ発されていた戒厳令が全土に拡大されて、投入された空挺部隊によって次々とデモが鎮圧されていった。その過程で、市民や学生のなかに少なからぬ数の死者が出ていることも、都築は最近の新聞報道などで知っていた。ほとんど無差別に近い軍の鎮圧作戦の行く末に、この日伝えられたような市民の側の蜂起があってもおかしくはないと、いちおうは納得してみるものの、実際に市民が武器を手に取ったという報せを耳にして、内心都築は慄然とし、動揺していたのだった。自分のような人間が、こうして学生運動家たちのグループに足を突っ込んで、政治的な主張をする場所に身を置くことで、いま隣国で引き起こされている流血の闘争に関わっているという現実が、何かしら心に重い違和感を抱かせるのだった。
 日本やアメリカの企業が韓国をはじめとするアジア諸国に進出することの意味を、都築はそれなりに理解していた。日本のさまざまな左翼的な政治運動が、それゆえ韓国の社会運動や民主化闘争を支持していることも承知していた。そうであれば、光州やそのほかの韓国の都市における民衆の蜂起に動揺を覚えるということじたい、三枝やほかのメンバーからすれば、滑稽な自己矛盾でしかないということになるだろう。しかし、都築がどうしても馴染むことのできないものが、そこにはあった。こうして学生運動家たちの仲間に加わりながらも、政治だとか革命だとか、あるいは権力といった観念や言葉に対して、如何ともし難い違和感と疎遠感と恐怖を抱いてうろたえるのだった。実際、都築はこれまでも常に、運動の尻尾に辛うじてつかまって、もがきながら振り回されているだけだったのだ。
 原稿紙を前にボールペンを持ったまま、都築は困惑しきっていた。
 「声明文は、感傷的な文学評論を書くようなわけにはいかないだろうな」
 更紙の束を抱えて戻ってきた東原は、憔悴した都築の表情を目にしてことさら露悪的な言葉を投げかけた。二十分ほどがたって、漸く三枝が戻ってきた。
 「どうだい」と久慈が問うた。
 「それが、外電は後から後から入ってくるらしいんだが、細かいことになるとチグハグで要領を得ない。いずれ京城支局から正確な情報が入るだろうということだ」三枝はそう語り、都築のほうを向き直って、さらに声をかけた。「だから、とりあえずは大まかなことでいいんだ。ついに、韓国の民衆が自由のために立ち上がったと。抑圧国の人民として、そこへ連帯していかなければならないと」
 しかし、都築は苦しそうに三枝を見かえした。
 「ダメなんだ。僕には書けそうもない」
 「考えすぎるなよ、都築。君の正義感、正直な気持ちを文章にすればいいんだ」三枝は、兄貴分のように都築の肩を叩いた。
 しかし、都築は頑なにペンを持とうとしない。
 「すまないが、君が書くか、それとも誰かに代わってもらえないか。………連帯の声明を書くということは、僕は投入された軍によって殺される十分な理由を持つことになるんだ」
 「虐殺されてるのは韓国の民衆なんだぜ!いくら空挺部隊だって、日本に飛んでくるはずがないだろう」久慈は笑い飛ばした。
 「そういう意味じゃないんだ、僕の言っているのは」と、都築は言葉に力を入れる。「光州の蜂起に連帯する声明を書く以上は、それだけの覚悟が必要だということだよ。安全な日本にいて、その覚悟もないくせに連帯の声明を書くなんて、欺瞞じゃないか」
 俯いた自分の横顔に、東原の冷たい視線が刺さるのを感じる。
 「それなら何だって」と、東原が抑えていた憤懣を吐き出すように言った。「お前が、ここにいるんだよ。そのことじたいが欺瞞じゃないか」
 「まあ、待てよ」三枝は東原を遮った。「誰だって、はじめから主体が確立しているわけじゃないんだ。……仕方ないな、僕が書くよ」そう言って、都築の前にあったペンと原紙を手に取った。
 「主体の確立なんていう概念じたいが、そもそも甚だしい幻想なんだ」と、東原はさも不愉快そうに言葉を歯の間で噛み潰した。

 次の週の日曜日は、朝から重々しい鉛色の雲が空を覆う、五月にしてはひどく肌寒い日だった。都築たちは、いったん大学に集結した後、光州蜂起に触発されて急遽、開催されることになった政治集会に参加するため、代々木公園へと出発した。新宿へ向かう私鉄線の電車に乗車してしばらくたつと、小さな雨滴がガラス窓の表面を引っ掻くようにして打ちつけ始めた。日曜日の午前にしては思いのほか混雑した車内で、都築たちは湿っぽい異様な臭気のなか、40分近くを立ち通しだった。旗竿を入れた大きな麻袋を、他の乗客たちがモノ珍しそうに盗み見している。ドアの傍らで麻袋を担いでいた東原は、しかしそんな視線には全く無頓着で、いつもながらの不機嫌そうな顔をガラス窓の外に向けていた。
 新宿駅八番線ホームの南端で、他の大学の学生たちと合流し、そこで昼食をとった。眼の前を何本もの電車がひっきりなしに行き交い、訝しげな視線を投げつけていく人々の前で、都築はその日の朝に買って、ナップザックに押し込んできた菓子パンを口の中に詰め込んだ。満たされるべき空腹感というものは少しもなく、ただ、不快な胸苦しさだけが身体中を徘徊していた。三枝がポケットから煙草を取り出し、都築に勧めた。これからデモへ赴かなければならないという状況のなかで、食事にこだわったり煙草を吸ったりするということが、ひどく息の詰まることに思えてならず、都築はそれを断った。微かに漂う煙草の匂いに軽い吐き気のようなものさえ覚えながら、味の無い菓子パンの最後の塊を喉へと飲み込んだ。
 原宿駅のホームに降り立ったとき、雨は本降りになっていた。駅前の広場で学生たちは安物のビニール製の雨合羽を身にまとい、その上から赤字に白抜き文字で「韓国民衆に連帯を」と書かれたゼッケンを着けた。団旗を竿にくくりつけ、先頭の人間がそれをかざして駆けてゆく。集団の動きは、自然と駆け足デモのようになり、公園の入り口にいた機動隊員と小競り合いを繰り返す羽目となった。重苦しい空気のなかで、都築はいつものように半ば言い知れぬ諦念を抱えて、機動隊の壁を乗り越えていった。
 マイクから迸るアジ演説が、観念の弾丸となって頭上を飛び交っていく。あまりに激しい口調ゆえに、意味も内容もよく把握できぬ声の嵐のようでもあった。公園の上にかかるアーチ橋からは、たくさんの野次馬たちが見下ろしていた。雨がにわかに強くアスファルトを叩きつける。アジ演説が、雨音にかき消され、なおのこと空虚な雑音のように聞こえた。新宿の高層ビル群が、辛うじてその姿を雨煙のなかにとどめている。集会の最中にも、左右、前後から、何回もチラシの類が配布される。いつの間にか、都築のポケットは、それらのビラや声明文やらが混ぜこぜに詰まって無様に膨らんでいた。それを見た久慈は、ため息をつきながら言った。
 「おい、そんなもの、捨てちまえよ」
 都築は、意味を理解できないといった様子で、久慈を見返した。
 「もしパクら(逮捕さ)れたとき、素性の分かる物や、フレームアップに利用されそうなものは、とりあえず持たないのが基本だぜ」
 「ああ、そうか」
 都築は慌てて、雨に濡れクシャクシャになってインクの滲んだ何枚ものビラを、アスファルトの上に投げ捨てた。良く見ると、地面のあちらこちらに、雨水を吸って、まるで排泄物のように汚らしく潰れている更紙の塊がころがっているのに気がついた。
 昼過ぎから始まった集会は、もう間もなく終わろうとしていた。腕時計を見れば、二時半を過ぎている。雨水をいっぱいに含んだ団旗が、ずっしりと竿から垂れ下がって、水滴をしたたらせながら鈍重に揺らいでいた。
 「今日のデモ、どこまで行くんだろう」横にしゃがみこんでいる久慈に、都築は問いかけた。
 「さあ、日比谷あたりじゃないのか?都築、これで何回目だ?」と久慈は問い返す。
 「四回目だよ」
 都築は伏し目がちに答えた。シンパのようにして活動に関わって以来、月日はだいぶたっていたものの、政治集会やデモがあるたびに、何かしら言い訳をつくっては、その場に居合わせないことのほうが多かったのだ。
 「パクられるのが、そんなに怖いのかよ」
 都築の後ろで団旗を持っていた東原が、侮蔑的に言った。「お前は十九世紀ロシア式テロリズムの信奉者だったよな。お前の持ち上げる連中は、それでもけっこう勇敢だったはずだが」
 東原の揶揄に、都築は黙り込んで、アスファルトにできた小さな水溜りを見つめた。
 「ロープシンはどうだった?お前の敬愛する詩人革命家は、そんなに怖気づいていなかったよなあ」東原は偽悪的に執拗な追い討ちをかける。
 「おい、やめろよ!」
 業を煮やしたように、三枝が東原を睨みつけて叱責した。そして、都築のほうをちらと見やったが、互いに何も語ることはなかった。雨はいっこうに降り止む気配を見せなかった。
 ほどなくして集会は終わったが、デモ行進にはなかなか出発できなかった。集会参加者が多かったため、先行のデモ隊が延々と続いていたのだ。学生の隊列は、最も後ろにつくのが常だった。後から後から流れてくる労働組合や市民団体などの隊列を見送りながら、都築のいる集団は隊列を組んだまま小集会を開いた。
 「この光州民衆による歴史的決起はァ、日帝米帝支配階級とそこに結託したるゥ、全斗煥一派に対する怒りの鉄槌でありィ、我々日本人民はァ、この闘いに徹底的に学びぬくことによってェ、第三世界被抑圧人民との革命的連帯を勝ち取ってゆくべくゥ……」
 ハンドマイクを持ち、無精ひげを震わせながら前のめりの姿勢になってアジを飛ばしている男は、都築も知っている他大学の「学生」だ。学生とはいっても、もう30歳を過ぎた年齢で、実際は過激な政治活動のために退学処分となり、そのまま学生会館内のアジトのようなところに寝泊りしているらしい、自称、「ショッカク」(職業革命家)である。
 その向こう側では、別の集団が会場のなかをデタラメにデモ行進していた。巨大な芋虫が盲目的に地面の上を這いずり回っているような光景だった。都築はその様子をぼんやりと眺めていたが、突然、「決意表明をやってみないか」と、三枝が都築に声をかけた。
 「決意表明?」と反射的に問い返す。
 「そうだよ。やるだろ?」三枝は穏やかな口調で言った。
 「そんなこと急に言われても、できないよ」都築は慌てて頭を振った。
 「何だっていいんだ。一言、頑張ります、だけでもいい。カッコつけてアジる必要なんてないんだよ」三枝はそう言いながら、都築の腕をとって立たせた。
 政治や社会変革を本気で信じてもいず、ただ自身のなかの何かに執拗に追い立てられるようにして、時折思い出したように政治集会やデモに現れては、東原や他の連中にけむたがられている自分に、いったい何が言えるのか。自分には決意なんて無い。都築はそう思った。
 「それでは次に、T大の仲間からの決意表明を受けたいと思います」
 自らの激しいアジ演説を満足気な悲壮感で締めくくって、自称ショッカクの男がハンドマイクを手放した。
 「T大の都築君が決意表明をおこないますッ」三枝が声を張り上げた。よーし、と周囲から掛け声がかかる。都築は見えない手によって皆の前に押し出されてしまった。傍らに立つ、スピーカーを肩に担いだ見知らぬ男から、ハンドマイクを手渡される。都築は、延々と続くデモ隊が、公園のメインストリートを、表参道の方向へ向かって流れていくのを呆然と眺めた。五月の雨が樹木の枝葉を重暗く光らせ、シュプレヒコールはあちこちから湧き上がるが、錯綜してただの騒音にしか聴こえない。
 次第に口の中が乾いてきた。何を言えばいいんだ?。都築は瞳を閉じた。そのとき不意に、心の中に美月の面影が浮かんだ。都築は思う。自分がここでこんなことをしているなんて、美月は知らないのだ。都築は美月に、自分が学生運動なんかに関わっている事実を、絶対に知られてはならないと思った。この心の中のどす黒い強迫的な観念を、美月と共有することは考えられないと。都築は薄々とわかっていたのだ。美月という存在は、そのどす黒い強迫観念と平衡をとって、辛うじて自らの精神を平常に保つためのよすがとなっているのだということを。
 都築は、その美月の面影にすがるようにして、からからに乾いた唇を舐めなめ、上ずった声で言った。「ガ、ガンバリマス」
 パチパチと、隊列のなかから疎らな拍手が聞こえてくる。全身からじわっと汗が滲んでくるのを感じながら、都築は隊列の元の場所に戻り、へたへたと座り込んだ。
 東原が、嘲るような、また非難するような横目使いの視線を突きつけてくるのがわかった。先に視線を逸らすのは、いつも都築のほうだ。そんなとき、都築はいつでも、自分に対するもどかしい侘びしさと、東原に対する言葉にならない恐怖のようなものを覚えるのだった。
 都築たちの隊列が、漸くデモ行進に出発した。
 「光州、連帯、決戦、勝利」
 単調なコールが公園の出口に差し掛かったとき、待機していた機動隊員がジュラルミンの盾を鳴らしながら規制についた。原宿駅前の交差点から緩やかな下り坂になる表参道へと、所々に赤旗を乱立させたデモ隊が延々と続いている。街路樹や灰色の建物と一緒くたに、それは遠くの一点で雨にけぶり、見えなくなっていた。
 隣国の蜂起の市では、信じ難いことではあったが、四日間にわたる抵抗の後に市民が戒厳軍を駆逐し、恐怖と紙一重ではあるにせよ、ひとつの「解放区」が出来上がっていた。
 ”血なまぐさい戦闘が終わってからは、まるでお祭りのような光景も存在した。制服の女子学生や、子ども達の姿が戦車の上にあった。デモ隊はすべて、韓国旗を振っている………”
 この日のデモの直前のAFPが、その有様を伝えていた。

(第一章・おわり)



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