静かなるものの命……ウィーン美術史美術館所蔵『静物画の秘密』展

●2008年7月-9月 東京・国立新美術館
 

 

 絵画やそのほかの芸術において、ジャンルの概念を生み出すのは、多くの場合、作品を系統的に分類する後世の学者や批評家の仕事であり、作者自身はそのような形式にとらわれることなく創作活動をおこなうものである。Still-Life、直訳すれば静なるものの命、即ち静物画という区分けも、17世紀の半ばに確立した概念である。静物画というと、私たちは一般的に、花などの植物や、物の写実的な模写などを連想するが、じつは静物画の対象はそれらにとどまるものではない。肖像画も風景画も、あるいは何の予備知識もないまま一見しただけでは読み解くことの困難な寓意を秘めた象徴絵画も、「静止したものを生命あるがごとくに生き生きと描き出したもの」というその語源のとおり、静物画の範疇に入れることができる。そのような意味で、ジャンルが確立するはるか以前から、画家たちは静かなるものに命を吹き込む営為を延々と続けてきたのだということがわかる。
 そして静物画が何よりも面白いのは、擬人化や象徴化などを施された画像を読み込んでゆく、謎解きの妙味であるともいえるだろう。
 16世紀から17世紀のヨーロッパで絶大な権勢をふるったハプスブルグ家のコレクションを保管するためにつくられたウィーン美術史美術館に所蔵された作品による『静物画の秘密展』に出展された作品のいくつかを観てみよう。


 『大地女神ケレスと四大元素』[右]は高名なヤン・ブリューゲル(父)1568-1625 と、アントワープの画家、ヘンドリク・ファン・バーレン 1575-1632 によるものである。精緻な自然描写と、原色も用いながら色彩豊かに描かれた人物像の対比が魅惑的な作品だ。中央に女神ケレスと、周囲に数体のプット(童子天使)や人物が描きこまれている。
 四大元素とは、古来、この世界を構成するものとされた「地」「水」「火」「空気」のことである。それぞれが巧みに擬人化されて作品に登場しているのがわかる。「地」は、大地の恵みである果実や野菜の上に、地の実りの象徴である葡萄の房を女神に手渡そうとする、背中をみせた裸女が表現している。いっぽう、「水」を象徴するのは、水の色である青いガウンを背にまとい、肩の上から貝殻に入った水を注ぐ立位の裸女であろう。その注がれる水の先には、さまざまな種の魚類、甲殻類、貝類などの水中生物が博物学的な微細さをもって描きこまれている。
 「火」と「空気」だが、これは画面左上で、抱き合いながら宙を浮遊する二人の人物によって現されていると考えてよいだろう。「火」は火気でもあり、気の範疇に入ることから、空中に表現されることに違和感はない。それにしても、どちらが「火」で「空気」なのか。おそらく、火炎の色である赤いガウンに包まれた女性のほうが、「火」であると解釈するのが妥当だろう。とすれば、その下の、背中を見せている人物が「空気」ということになる。寓意的な絵画でありながら、両者が抱き合うことで、火と空気の親和性という科学的な真理を表現しているのも面白い。
 その「空気」の擬人像は、背中を向けているため男女の区別が定かではない。ふくよかな身体つきから、女性のようにも見えるが、短い髪や幼げな横顔から、少年のようにも見える。「火」が女で、「空気」が男だとしたら、その意味を考えてみるのもまた楽しそうだ。


 面白いのはライデンの画家、ヤン・ステーン 1626-1679 の手になる『欺かれた花婿』[左]だろう。情景は、騒がしい嬌声が聞こえてくるような村の農民の婚礼の場面である。中央やや右に、赤いスカートをまとった、若く美しい花嫁の姿がみえる。その花嫁を抱くような仕草で、初夜の床に誘おうとする新郎は、赤鼻の、どうみても年齢的に花嫁には似つかわしくない初老の男だ。よく観察すると、新郎の頭上の垂木に鹿の角がぶら下げられているが、昔からヨーロッパでは「寝取られ男には角が生える」と言われており、鹿の角はコキュを象徴するのである。標題の『欺かれた花婿』とはこの構図に由来する。では、花嫁の浮気相手は誰だろう。注釈によれば、部屋の出口で花婿の頭上の鹿の角を指し示す男に向かい、「黙っていろ」といわんばかりに口止めの仕草をする帽子の男が間男だ。こうした茶番を、周囲の会衆が大騒ぎで盛り立てている。ここで画家は、花嫁の初夜床入り、不釣合いなカップル、そして欺かれた花婿という、3つのモチーフを遠近法を用いた場面のなかにたくみに一体化して画面に取り込んでいるのである。
 ところで、この画のなかで非常に目だって描かれているのが、画面左の、豊満な乳房を出して子どもに乳を与える女性の姿だ。作品の主題からすれば、場を構成するためのたんなる脇役でしかないのだが、じつは彼女がこの画のなかで一番大きく描かれた人物である。つまり、この浮気な花嫁もまた、いずれはこの女性のように妊娠し、子をもうけ、乳を与える存在になるのだということの暗示なのであろう。翻って、婚礼をあげる新郎新婦には、互いの身を慎むことを教える道徳的な教訓を垂れているものと考えることもできる。


 『静物画の秘密展』には、静物画の重要な主題である「ヴァニタス(虚栄)」を扱った優れた作品もある。エッセイ『多様性のバロック』の「四大元素あるいは流転」の項でもふれたとおり、キリスト教の価値観を背景として、人生の儚さと信仰のなかに永遠の命を見出すことの大事を説く「ヴァニタス」は、多くの芸術家に創造の霊感を与えている。
 この展覧会において、直接「ヴァニタス」のカテゴリに属する作品は3点あるが、白眉はハールレムの画家、ピーテル・クラースゾーン 1597/98-1660 によるもの[右]であろう。まず、画面全体の濃厚な筆遣いに圧倒される。そこに描かれた褐色の髑髏とその下に組み合わされた大腿骨らしい人骨も、迫力があり鬼気迫る見事なできばえだ。ヴァニタスの道具立てのなかでも一般的な「音楽」を表現するものとして、楽器の代わりに楽譜を置いたのも、作品全体の重厚な雰囲気を出す効果がある。また、「過ぎ去る時間」を象徴するものとして定番の砂時計ではなく、消えた蝋燭の硝煙だけが立ち上る燭台を配置しているのも面白い。今日風に言えば、ゴシックロマンス趣味ということにでもなるのだろうか。ある意味、異色の「ヴァニタス」とも言える。
 ピーテル・ヘリッツゾーン・ヴァン・ルーストラーテン um1630-1700 によるもの[下左]は、栄華を表現するものとしての高価な高杯と蓋付杯、はかなく消え去るもの(音楽を指す)としての楽器(ここではバイオリン)、そして流れる時を示す懐中時計によって構成された、静謐感の漂う大人しいヴァニタスだ。面白いのは、銀皿に乗せられた胡桃の実とオリーブの小枝が描きこまれていることだろう。キリストの十字架は、じつは胡桃の木で作られていたと言われており、現世の儚さと永遠の命を約束するキリストの受難とが対比的に描かれているのである。
 アントニオ・デ・ペレダ・イ・サルガド 1611-1678 は、スペイン・バロックの画家である。[下右]バロック時代のスペインはすでにその栄華を失っていたが、そのことと、かような堂々たるヴァニタスが生まれることと無関係ではないかも知れない。なんといっても目を引くのは、スペイン国王カール5世の肖像を左手に持ち、右手で地球儀を指し示す、中央に描かれた優雅な天使の姿である。うら若い乙女の姿で描かれた天使は、無数の髑髏や火の消えた蝋燭、砂時計に囲まれて、世界に冠たる支配者も黄金時代も、いずれはついえ去る運命にあることを、神秘的な微笑を表情にたたえながら教えている。
      


 静物画の代表は古今にわたり、やはり植物、それも花の静物画であろう。ハプスブルグ家の時代には、花の静物画も多く描かれている。画家にとっては、観察眼の鋭さをアピールできる格好の題材でもあったと同時に、17世紀が自然科学の発展の時代であったことも想起されてよいだろう。
 アンブロシウス・ボスハールト 1573-1621 は、ブリューゲル(父)とほぼ同時代の画家である。出展された作品は、『花束』と題され[左]、薔薇、水仙、チューリップ、ユリなどの花々が、精緻に丹念に描きこまれ、その色合いの変化の仕方や、細かい描写など、いつまで見ていても飽きない。蝶やハンミョウなどの短命な昆虫を一緒に描きこむのは、アクセントであるとともに、静物のなかの命を際立たせようとする手法でもあるだろう。なお、花瓶が中国製の陶器であるのも、この時代の貴族や裕福な市民の趣味を感じさせて興味深いものがある。









                                                                                                                                                                                


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