ルウベンス時代のオランダの絵画

ウイーン美術大学所蔵 ルウベンスとその時代展

東京都美術館(上野) 2000年4月15日〜7月2日
 


 
 ネーデルランドの画家ルウベンスについては、すでに他の部分で書いているが、今回の展覧会の特徴は、同時代のオランダ絵画との比較ができるように構成されているところだ。じっさい、そのタイトルが示すように、主役はルウベンスなのだが、むしろ、私の注意を引きつけたのは、共和主義の理想によって産業面で成功した新興市民国家、オランダの画家たちによる精緻で気取りのない静物画、肖像画、そして風景画の数々である。元来、それまでの芸術活動が、なべて絶対王政と、その宗教的バックボーンであったカトリック教会の保護無しには隆盛を極めることができなかったにもかかわらず、政治的にはスペイン王権から独立を果たし、宗教的にはカルヴァン派の支配したオランダの地で、これだけの芸術活動が花開いたというのは、ひとつの驚きですらある。それらの作品を、美術館のブースをめぐるように、気ままに回顧してみたい。

 ロイスダール RUISDAEL, Jacob van (Haarlem 1628/29-1682 Amsterdam) の『池のある森の風景』と『森の風景』は、同じような主題を描いた作品だ。別のエッセイでロイスダールの作品をとりあげ、自然の流動性を、その動きのままに見事にとらえた画家であると評したことがあるが、この二作品は、むしろ、常ならざる自然の一瞬を切り取ったかのような静けさに包まれていると言える。オランダを代表する風景画家の面目躍如といったところであろう。とくに、『森の風景』に描き込まれた、天空を旋回する野鳥や、いままさに水面に羽を休めんとしている水鳥、そして、右側の森のなかに消えていこうとしている、親子とおぼしき人物たちが、画面全体に溶け込んで、なぜだがとても懐かしい風景のように想えてくるのが不思議だ。

 ホイエン Goyen, Jav Van (Leiden 1596-1656 Den Haag) 『帆船とラメンケス要塞の見えるスヘルデ河の風景』、そしてノームス NOOMS, Reinier Gen.ZEEMAN (Amusterdam,um 1623-1664 Amsterdam)の『停泊するフリゲート艦』は、当時のオランダが海洋大国であった事実を彷彿とさせる。絵画的には、空と、そこに湧く雲の色彩を映した海面の色彩との、微妙な差がおもしろい。前者は穏やかな凪の海、後者は暗く波打つ水面である。これらの作品の主人公は、雲と海なのである。時代は異なるが、そうした点では、フランスのロマン派、ブーダン BOUDIN, Eugene (1824-1898)を彷彿とさせる。感性の兄弟というにふさわしい。

 ホーホストラーテン HOOGSTRATEN, Samuel van (Dordrecht 1627-1678 Dordrecht)が描いた『静物』は、タオルやブラシといった日用品が、それとなく戸棚の開き戸に掛けられた図だ。まったく取るに足らない日常の光景が絵画として成立する、その理由は、やはりオランダが貴族の国ではなく、市民国家であったからにちがいない。だが、この画の興味はそれだけではない。他のページで、レンブラント REMBRANDT, Harmensz, van Rijn (Leiden 1606-1669 Amsterdam)の『石の台座に寄りかかる少女』について書いたが、この作品もまた、同様に見る者をして、対象を実物と錯覚せしめる、いわるゆ「だまし絵」の要素をもっていると言えよう。扉に掛けられたタオルを手に取ろうとして、まんまとはめられた人物をほくそ笑みながら盗み見る作者の、悪戯めいた笑いが聞こえるようである。こんな遊びがもてはやされるのも、裕福な新興市民たちが力を得て来たことの証左であろう。
 
 プロテスタント国オランダではめずらしい、教会の聖堂の内部を描いたのが、ファン・フリート Van VLIET, Hendrick Cornelisz. (Delft um 1611/1612-1675 Derft)の手になる『デルフトの古教会での説教』と『デルフトの古教会内部、オルガン側』の二作品だ。しかし、むろんのこと、これは宗教画ではない。たまたま舞台設定が教会であるというだけで、主題は平凡な市民生活の一断片である。この時代のカルヴァン派の聖堂の様子がよく分かるという点でも興味深い。見事なまでに装飾を削り取られた白亜の内部は、むしろシンプルを好み、合理主義的で実利的な精神が浸透した現代人の美意識にこそ合致するタイプのものではなかろうか。そういえば、日本の結婚式場付属のチャペルなど、この手の亜流ものが多いような気がする。これはこれで、清楚な美しさを感じなくはないが、「キリストの姿は目茶苦茶に引き裂かれ、一方悪しき盗賊は悪魔的な手の込みようで無疵のままであった」とエミール・マール Emile Male が書いたような(『ヨーロッパのキリスト教美術』)、カルヴァン派による熾烈な宗教芸術排撃運動の名残は、この画のなかにも、会堂の柱に刻まれた傷として見て取れる。

ベイレルト BYLERT, Jan van (Utrecht 1597/98-1671 Utrecht)の『奏楽の集い』は、「調和の寓意」という副題からも察せられるとおり、音楽的調和の絵画的表現である。図像的にはイタリアのバロック美術の影響を感じるが、全体の印象はけっして重々しくない。リュート、ハープ、バイオリンを奏でる人物にまじって、ワインの入ったグラスを手にする男も描かれている。画面右手で、こちらを向いている女は、テーブルの上の楽譜に手を置いているところからみると、歌い手であろうか。これらの男女がプロの楽士ではないことは、場面全体からあきらかだ。この時代、このような形で音楽が市民生活になじみ、音楽を中心に、人々の調和が育まれていたのだということを教えてくれる。そういえば、現代の古楽器奏者の俊英たちは、オランダ周辺出身のものが多い。純粋に音楽を愛し、楽しむことのできる、根っからの血筋なのであろう。

 さて、最後にこの展覧会の看板、ルウベンス RUBENS, Peter Paul (Siegen 1577-1640 Antwerpen)について書いておこう。さすがにルウベンスは、中産階級的なオランダ美術のなかにあって、そのスケール、重厚さにおいて抜きんでたものがある。圧倒的という形容がふさわしいというべきであろうか。他のオランダの画家と異なり、ルウベンスは、生涯をカトリック教会のための仕事に費やしたが、この展覧会で印象にのこったのは、宗教作品ではなく、神話に題材をとった『ボレアスとオレイテュイア』だ。オレイテュイアの美しさに心を奪われた風神ボレアスが、抗うオレイテュイアをまさに略奪せんとしているこの場面は、その肢体の肉感といい、躍動感といい、堂々たる傑作である。筋骨のたくましさと、怒張した表情に、ボレアスの狂暴さは際立ち、オレイテュイアの曲がりくねった肢体には、輝くばかりのなまめかしさが匂いたっている。両者は凌辱するものとされるものという対立を越えて、動的な緊張感のなかに一体となっている。まさに、バロック的美意識の頂点を表現した作品であると言い得る。




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