モンテヴェルディ作曲 
オペラ『ポッペアの戴冠』  東京公演のこと


演出:P・ジェイムス  音楽監督:R・ブーズビー  パーセル・クァルテット・オペラ・プロジェクト
  1998年10月9日 東京・紀尾井ホー


   
 

   日本におけるモンテヴェルディのオペラ上演といえば、1992年の8月に、R・ヤコブスが『ユリシーズの帰郷』を振って以来ではなかろうか。ここのところ、漸く古楽演奏が定着してきたかにみえるわが国の状況にあって、しかしながらバロック・オペラとなるとその数はやはり少ない。それだけに期待した今回のプロジェクトではあったが、100パーセントの満足を以てこの稿を起こすことができないのは何とも残念なことである。

   音楽的には、申し分のないモンテヴェルディであった。注目の歌手陣はいずれも秀逸というべきで、タイトルロールであるポッペ アを歌うグッディングと、相手役皇帝ネローネを歌ったド・メイの濃密な愛の二重唱は、背筋にゾクッとくるような官能的な味わいがある。また、ネローネとセネカ(これはR・ウィストライク)の論争の場面など、性格描写にすぐれており聴きごたえ十分。また、ド ルシッラ役のル・ブランは実にチャーミング。恋する女の可愛らしさ、いじらしさをよく歌いきっていたといえるだろう。

  そして注目の、いまをときめくヴィスだが、歌唱表現にもいよいよ磨きがかかり、今回のプロジェクトでも3役をこなす八面六臂の活躍ぶり。しかもその性格をよく歌い分ける芸当は、まさに行くところ可ならざること無しといった勢いだ。

  さて、こうまで褒めておいて苦言を呈するのも気がひけるが、やはりひとことふれておきたいこともある。いま、ヴィスのことについてふれたけれども、あまりにヴィスが目立ち過ぎではないかということ。これは勿論ヴィスの責任ではなく、演出の問題なのだが、役に徹すればあくまでヴィスのそれは脇役だ。それが、大向こうの受けをねらったドタバタ劇よろしく舞台上をかけまわるというのは、如何なものだろうか。今回の公演の目玉ともいえるキャスティングであるヴィスに活躍させようという意図はわからなくもないし、ヴィスのもつコミカルな側面を活かそうとした演出であると言えなくはないのだが、やはり全体とのバランス感の欠如は否めない。そもそも、『ポッペア』を喜劇調に仕立てようとしたスタンスそのものに無理があったと考えるべきだろう。

  また、今回の演出は、古代ローマの愛憎劇を現代の風景の中に再現したものとなっている。ネローネは場末のギャングのボスだし、ポッペアはその情婦といった具合だ。その意図を、P・ジェイムスはプログラムのなかでつぎのように述べる。『・・・なるほど音楽は古いかもしれないが、ストーリーは、人間関係を意地悪く見る目とそしてコミカルな不条理さのもつ楽しい感覚の満ちあふれた、非常に現代的なものである。私はこうしたことに配慮しながら、・・・・したがってローマ時代の衣装を使用せず演出することにした。』

  ストーリーが現代性をもつということ自体、否定するものではないし、見方によっては”コミカルな不条理さのもつ楽しい感覚”という認識は、この台本とそれほどかけはなれたものではないかも知れない。だが、ポッペアの物語を古代ローマの風景の中に置いて堪能したいという要求もまた、決して不当なものではないだろう。ここまでくるとあとは趣味の範疇になるから深追いはしないが、少なくとも今回の、現代に無理やりトリップさせられたポッペアは、どうにも精彩さと迫力を欠いた、単なる三面記事の女という印象をぬぐえないのである。さきほども書いたが、全体にあふれる豊かな音楽性がせめてもの救いであった。 


  
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