W.A.モーツァルト オペラ『魔笛』K.620

ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ
 

   
 


 昨年、つまり2010年の暮れ、モーツァルトのオペラ『魔笛』を鑑賞する機会を得た。場所は、東京・上野の東京文化会館大ホールである。ワルシャワ室内歌劇場の公演は初めてだった。モーツァルトの全てのオペラ作品が常演レパートリーに入っているということもすごいと思ったが、プログラム・ノートによれば、そもそもこの歌劇場の設立の端緒が、モンテヴェルディやカヴァッリなどのバロック・オペラを実験上演する団体であったというのも驚きであった。
 現在でこそ、バロック・オペラの復活上演は珍しくないが、それでも、そこに特化した歌劇場やオペラ団体というのは、おそらくあまりないのではないだろうか。現在は、さまざまな時代のオペラ作曲家の作品を取り上げる団体だが、バロック・オペラに関心を寄せる私としては、その成り立ちから言って、一種特別な興味で接した上演でもあった。

 さて、モーツァルトのオペラのなかで、一番好きなのが実はこの『魔笛』である。音楽が美しいのは、モーツァルトの作品なのだから当然で、ことさら強調することではないが、その音楽に、それまでにない変化と多様さがあるのが、このオペラの楽しさだろう。
  『フィガロの結婚』や『コシ・ファン・トゥッテ』のような、レチタティーヴォとアリアが交互に登場してストーリーが展開していく、正統的なイタリア様式のオペラと異なり、合唱が活躍する場面が多いのが特徴だ。『魔笛』は、秘密結社フリーメーソンをモデルにしたという異教の神殿が主たる場面設定のひとつになっているけれども、異教の僧たちが唱和する曲の力強さと敬虔な雰囲気は、このオペラの魅力のひとつであろう。(もっとも、フリーメーソンは決してこのオペラに登場するような、異教の神々を崇拝する宗教集団ではないのだが)
 また、曲相が場面や登場人物の心象に応じて変化していく見事さは何度聴いても飽きることがない。歌われるアリアもちろんどれも素晴らしいけれど、それ以上に、登場人物たちの対話や絡み合いが楽しい二重唱や三重唱、あるいは五重唱の美しさは、他のモーツァルトオペラにはないものだと思う。
 第1幕で、嘘をついたパパゲーノが許されて口の錠前を外される場面から、魔笛とグロッケンシュピールを託されたタミーノとパパゲーノ、3人の侍女が別れるまでを歌う「別れの五重唱」や、第2幕の中ほど、試練を迎えるために旅立つ王子タミーノと、彼を見送るパミーナ、ザラストロの三重唱「いとしいお方、もうこれきりで」など、物語の進行と音楽が見事に融合しているし、それぞれ敵役である夜の女王(ソプラノ)とザラストロ(バス)に、超絶的なコロラトゥーラを伴う高音と、一流の歌手でもこなすのが難しいような低音域が割り当てられていているのは、音楽的要素と劇的要素の見事なマッチングであると言える。

 台本は、モーツァルトの旧来の友人であったエマヌエル・シカネーダーの作である。シカネーダーは、ウィーンの大衆劇場の興業主で、『魔笛』は、彼が自分の劇場で上演するためにモーツァルトに依頼したものだ。つまり、『魔笛』は宮廷オペラではない。聴衆として想定されたのは、貴族階級ではなくウィーンの一般市民たちなのである。『魔笛』が、正統的な手法を踏んだイタリア様式で書かれなかったのは、そのためだろう。枠にとらわれず、モーツァルトは自分の書きたい音楽を、自由に創造したに違いない。だからこそ、こんなにも楽しく美しい音楽の洪水が生み出されたのだと思う。完成された総譜には、ほとんど書き直しの跡がなく、モーツァルトが一気にこの作品を書き上げたらしいことが知られているが、いかに彼がこのオペラを夢中になって作曲したががわかるエピソードだ。

 筋書きは、王子様によるお姫様の救出劇。つまりは、おとぎ話である。が、じつは音楽的にも、台本の面でも、「二面性」が仕掛けられている。
 オペラは、その主題によって、オペラ・セリア(シリアスオペラ)とオペラ・ブッファ(喜歌劇)に分類されるのだが、『魔笛』には、その両方の要素がある。王女パミーナをめぐる夜の女王とザラストロの確執や、タミーノに課せられる徳の試練は、この作品におけるオペラ・セリアとしての要素であるのに対し、お調子者で、「おいらの望みは可愛い子ちゃんか恋女房」と歌う独り身のパパゲーノが、やがて伴侶を得るまでの展開は、オペラ・ブッファの要素を代表する。前者の主題と後者の主題の結びつきには、ストーリーとしての構造的な必然性はなく、いわば、ひとつのオペラのなかで二つの物語、シリアスものと喜劇ものが同時進行しているのが『魔笛』なのである。
 この作品の持つ「二面性」の典型が、登場人物の善悪交代だ。物語の最初では、娘を奪われた気の毒な母親が、王子にその救出を依頼し、王子が城に向かう。夜の女王は善玉であり、ザラストロは悪玉だ。ところが、後半では、ザラストロは夜の女王の娘パミーナを、暗黒世界の支配者である母親のもとから救おうとする、徳の高い人物として描かれる。夜の女王が実は悪の権化であり、ザラストロこそが真善美なる理想の体現者ということになっているのだ。そして、物語はそのまま、王子タミーノと王女パミーナが、ザラストロの徳に導かれ、結ばれるところで幕となる。善と思ったものが悪であり、悪と見えたものが善である。
 物語としては、もうひとひねりほしいところだが、水戸黄門ばりの単純な勧善懲悪ものであるよりは、こちらのほうが意外性があっておもしろいのは確かだろう。

 ところで、『魔笛』におけるこの二面性の理由は、今日まで様々に議論されてきたようだ。もっともらしく語られるのは、フリーメーソンのメンバーであったモーツァルト(これは事実らしい)が、メーソンを弾圧する当時のローマ教会を批判する意図から、このオペラを作曲したというものである。つまり、夜の女王は、はじめは善を装ったローマ教会(つまりローマ教皇)として登場するが、教会からは異端(悪役)として扱われていた、真の徳の体現者たるザラストロ(フリーメーソンの総長)によって、その虚偽が暴かれ、正体を露わにする、というものである。この説には、モーツァルトの死因について、彼がオペラの中でフリーメーソンの秘儀を公開してしまったために、その逆鱗にふれ、フリーメーソンによって報復のため暗殺されたのだというオチまでついている。
 モーツァルトの若すぎる死に関しては、いろいろな噂があるから、こんなロマネスクかつミステリアスな話が登場しても不思議はない。但し、エッセイのはじめのほうでも書いたように、『魔笛』のストーリーは、フリーメーソンの儀式の一部を素材として借りている部分はあるようだが(ザラストロと僧侶の間に交わされる、儀軌としての儀礼的な言葉のやりとりなど)、精神的背景としては、それとは異なる古代エジプトの太陽神崇拝を主要な素材として用いている。だから、モーツァルトがローマ教会を批判するためにこのオペラを書き、その顛末としてフリーメーソンに暗殺されたというのは、話としては面白いけれども、真実らしさはない。そもそも、仮に暗殺の刃が向けられるとしても、それは作曲者ではなく台本作家のシカネーダーでなくては辻褄が合わないだろう。
 現在わかっているところでは、シカネーダーは、もともとこの台本を、単純な勧善懲悪ものとして構想していたらしい。つまり、徹頭徹尾、夜の女王は善良な妖精の女王であり、ザラストロは悪魔の使者であった。そこに、二面的な性格転換が持ち込まれたのは、シカネーダーの商売敵の台本作者が、同じような構想で一足先に発表したオペラが大当たりを得て、その二番煎じの謗りを受けることを潔しとしなかったシカネーダーが、大胆な構想の練り直しをおこなったためだ、というのが事の真相のようである。
 結果として、美しい音楽と相まって『魔笛』は大ヒットし、シカネーダーの一座のドル箱演目となった。モーツァルトは『魔笛』を完成した2ヶ月後にこの世から去っているから、生涯の最後に、友人に最良の遺産を分け与えたということになるだろう。あるいは、モーツァルトがもう少し生きながらえていたら、当然その収入はモーツァルトにも入ったわけで、赤貧洗うが如くであった晩年を考えると、その後の人生もずいぶん違ったものになっていたかも知れない。もちろん、モーツァルトは宮廷オペラの世界で成功してはいたが、オペラを作曲しても、宮廷から支払われるのは一回きりの報酬だけであるのが通常であった。だから、経常的な興業収入というものがあれば、モーツァルト家の家計は、妻コンスタンツェの浪費ぶりにもかかわらず、そこそこ維持できていたのではないかとも思える。もっとも、相応の経済的余裕のなかでは、あの『レクイエム』も、透明感と鬼気迫る雰囲気とにあふれた、現在のものとはかなり違った印象の作品になっていたかも知れないけれども。

 ところで、『魔笛』の二面性をもたらす性格転換には、上に述べたこととは別に、じつは私なりの「解釈」がある。つまりこれは、「母子分離」の物語になっている、ということだ。18世紀後半では、精神分析学も発達心理学も確立していないから、まったく真面目な解釈とは言い難い。けれども、私にはどうにも、夜の女王は娘パミーナの成長を認めたがらない保護的かつ専横的な母性愛の権化、ザラストロはその娘に本来の自己を取り戻させようとする対人援助職者、王子タミーノは、娘が人としての成長の過程で出会う精神的自立への契機と見えてしまうのである。まあこの見方は、福祉職という私の日常の生業を通しての、一種の「職業病」の故なのではあるが。・・・・


  
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