反-存在に降臨するもの 

G.レオンハルトの演奏について


 
 

 1999年10月19日 カザルス・ホール(東京、お茶の水)。グスタフ・レオンハルトの来日公演は、前回が最後になるだろうと言われていただけに、このたびの来日の実現は、私をふくめた日本の古楽愛好家にとって、まことに僥倖にみちた出来事であった。
 日本公演は、チェンバロ・リサイタル2プログラム、オルガン・リサイタル1プログラムで構成されていたけれども、そのうち私が鑑賞する機会を得たのは、「グランド・ツアー・オン・チェンバロ」と題された、フランス、ドイツ、スペインのチェンバロ作品で構成された、まさにバロック・ヨーロッパ時空旅行、とでも呼びたくなるような趣のある演奏会である。レオンハルトの選曲についていつもながら思うのは、CDなどには録音されていても、演奏会では容易に耳にすることのできない、多くの作曲家たちの作品に接することができるということである。最後に演奏されたD.スカルラッティこそピアノ・リサイタルでよく取り上げられるとはいえ、他の作曲家、すなわちA.L.クープラン、ヴェックマン、ブルーナ、ダングルベール、エーベルリン、デ・ネブラなどは、そう容易に演奏会(少なくとも日本の)で出会える作品であるとは言えないものでばかりある。バロック鍵盤音楽の、数多のレパートリーを薬莢中におさめたレオンハルトならではの、音楽的小宇宙の巧みな意識的構成の結果であると感心するばかりだ。じっさい、レオンハルトほど、プログラムの構成にこまかな指向性と意識的配慮を以てしている演奏家はいないのではあるまいか、と思うのが正直な感想なのである
 他の演奏会を否定的に評価するわけでは勿論ないが、最近のバロック音楽演奏会のプログラムが画一化されていることに、一抹の不満を抱くのも本当の話だ。バッハやヘンデル、テレマンはもちろん素晴らしいし楽しいし、そのいずれも、私にとってはかけがえのない精神的支えではあるのだが、日本の古楽招聘エージェントが、古楽に関心のないクラシック音楽愛好家の趣向をも範疇にしているのかどうか(そのあたりは実際、わたしには判断のつきかねるところではあるけれども)、もっと広いバロック音楽の裾野を取り上げてくれない、ということが、ちっぽけではあるが本質的な不満であることは確かなのである。
 その意味でも、このたびのレオンハルトの来日演奏会は、私の音楽的枯渇感情をじゅうぶんに癒し、また満たしてくれるものであった。

 さて、そのレオンハルトの演奏だが、いつもながらの透明で、かつ実直な音楽を聞かせてくれたことは言うまでもない。さらに、これまでと比較すると、楽曲全体がなめらかで、響きがずいぶん柔らかになった、という印象もあった。
 だが、それはともかくとしても、じつは、レオンハルトほど、存在感のない音楽家はいない、というのが、私の感想なのである。誤解しないでいただきたいが、存在感が希薄であるということは、ことレオンハルトに関する限り、最大の賛辞であると私は信じている。今回の演奏会にあっても、ホールにいて静かに目を閉じると、もはやそこにレオンハルトは存在していない。目をあければ、チェンバロに向かったレオンハルトの姿があるのだが、目を閉じると同時に、演奏者の姿は透明になり、ただ響きだけが、天上界から降りそそぐように響いてくるのるのを、私は実感するのである。それは誰の「演奏」でもない、さらに断じて、「レオンハルトの音楽(所有形としての)」ではありえない、いわば、響きそのもの、響き自体、とでも呼ぶしか形容の術のない、一個の美的現実であった。つまり、レオンハルトは、音楽を演奏することによって、そこに存在しなくなってしまうということだ。現代の多くの演奏家が、音楽を演奏することによって、より強烈に自己の存在をアピールしていくことと、まったく正反対の現象である。
 一般的な演奏が(古楽であってもなくても)、近代的自我による作品の対象化とその意図的再現の過程であるのに対して、レオンハルトのそれは、おそらく自己を無化し、自己を作品の音楽的再生のための一手段としての場所にまで退却させることによって成立しているのである。レオンハルトは、音楽を満たす器の役割に徹するのであって、ゆえにこそ、彼の演奏で彼は見えることなく、ただ音楽のみが存在する。換言すれば、音楽は響きという形態としてレオンハルトという反-存在に降臨し、レオンハルトの確かなる技巧を伝わって、私たち聴衆の前に現前するのだ。
 かくも偉大な自己忘却は、肥大した近代的精神による自我主張の世界においてこそ、まことに魅力的で、希有な美しさをおびると言えるだろう。おそらく、レオンハルトには、近代的なにおいのする「芸術家」という肩書はふさわしくない。彼のこだわるバロック時代の宮廷音楽家や教会音楽家たちがそうであったように、彼はひとりの僕(しもべ)であり職人なのだ。だが、繰り返しになるけれども、彼を芸術家ではなく僕であると断ずることは、決して彼を貶めることにはならないと考える。むしろ、自我意識の拡大によって却って閉塞した現代において、ミューズの僕たる彼の如き演奏家を擁し得るということは、私たちにとってこのうえない幸福であると言うべきであろう。

 ここまで書いて、私はふと、ある事実に気がついた。それは、幕間、あるいは演奏会の終わりに臨んでの、レオンハルトの私たち聴衆にたいする態度のことである。
 彼の最後の指が鍵盤から離れる。透明な響きと余韻と、そして束の間の静寂。そののち、拍手がそそがれる。ふつうの演奏家なら、ここで笑みをたたえ、深々とお辞儀をし、聴衆の歓声に応えつつ退場するのだろうが、レオンハルトの素っ気なさといったらどうであろうか。すっくと立ち上がったと思ったら、2、3度小さく頷き、そのまますたすたと袖にむかって歩み去ってしまう。それは見る人によっては、ひどく尊大な印象を植えつけてしまうかも知れない。
 しかし、レオンハルトの音楽家としての「反-存在」性を思うとき、彼の無愛想なまでの素っ気なさも、深く納得のいくものであると思うのだ。
 音楽やその作品を自我表現の手段と考えないレオンハルトにとって、己の存在とはいわば余計なものに過ぎないという認識があるのではないか、と思えるのである。聴衆と音楽作品の媒介役を果たす演奏家とは、決して演奏会の主人公になってはいけないのであると。そのような意味合いのレオンハルトのコメントを読んだことがあるわけではないが、何の愛想もなく舞台を去ろうとするレオンハルトは、私たちにこう語っているように思える。「・・・私ではないのです。重要なことは、この演奏会の主役は、音楽作品そのものであるということです」と。
 まあ、この言葉じたいは私の想像に過ぎないのではあるけれども、まさに名声を恥じる職人的な羞恥感情を、私はいつも、レオンハルトの演奏会に感じてしまう。だから、いつまでも延々と拍手を続けて、演奏者を幾度も舞台に呼び戻す、私自身の行為をも、恥じてしまうのだ。

 そういえば、他の多くの古楽演奏家たちは、次第にそのレパートリーを拡大し、モーツァルトやヴェートーヴェンといった18世紀の啓蒙主義時代の作品のみならず、ロマン派までを守備範囲に入れているが、それに対して、レオンハルトは頑に、17世紀および18世紀中葉までのバロック音楽にこだわり続ける。こうした禁欲的な指向もまた、自らを滅却し音楽に奉仕するレオンハルトの職人的な精神的姿勢と通底するものであるに違いない。

 それは、近代的な意味でのサーヴィス精神には遠いのかも知れないが、真の意味での精神の高貴さ、すなわち根源的な自己放棄と奉仕の精神(音楽と聴衆とにたいする)の発現であって、現代という時代においてこそ、大きな意味と価値を持ち得るものであると言わなければなるまい。
 


 
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