美的実存の至高

Soli Deo Gloria......
 



  19世紀デンマークの思想家、ゼエレン・キルケゴールは、人間の救いというテーマに関して、三つの階梯を仮定し、それについて述べている。即ち、芸術的感動による至福体験としての美的実存、真理と道徳による自然・社会と人間の調和的次元としての倫理的実存、そして信仰による精神的救済の次元即ち宗教的実存である。キルケゴールによれば、その救済の度合いは、後者にいけばいくほど、刹那的形象的なレベルから、根源的本質的なレベルへと深化していくという。
 こうした思弁がとめどもなく展開される、『反復』、『あれか、これか』等、哲学作品とも随想ともつかぬ、著者の実人生の苦悶や懊悩が、そのまま行間に反映された特異なその作風は、青臭い文学青年であった私の心をたちまちのうちに虜にし、当時白水社から出されていた著作集が、高校から大学時代にかけての一時期、私の座右の書ともなっていた。
 さて、冒頭からこんな話をしたのは、じつに久しぶりに、エマ・カークビーの歌声を耳にする機会に恵まれたからである。
 カークビーの来日は、これが何度めになるだろう。おそらく、2年とおかずに来ているはずだ。専ら、音楽と実人生の良き伴侶である、リュート奏者アントニー・ルーリーとのコンビが馴染み深いが、今回は、英国の古楽器アンサンブル、ロンドン・バロックとの演奏旅行である。
 じつは、カークビーは、私にとってひじょうに特別な意味をもったアーティストだ。というのも、いわるゆ一般的なクラシック・リスナーであった私を、古楽の世界へとひきさらって行ってしまったのが、他ならぬカークビーだったからである。 考えてみれば、もう15年以上も前のこと、あるひとりの友人が、私と妻への結婚祝いとして、カークビーの演奏会に私たちを招待してくれたのだった。ご多分にもれず、ルーリーとの共演による、イギリスとイタリアのリュート・ソングのプログラムだったが、私にとって、その演奏会で受けた衝撃は並大抵のものではなかった。それまで知らなかった音楽の世界、ダウランドの詩情に満ちた調べもさることながら、あまりに透明で、あどけないくらいに素直で、早朝の大気のように清廉な美しさを湛えたその歌声に、鳥肌が立つくらいに感動し、いっさいの反省的認識の契機を奪われた。上野の東京文化会館小ホールでの、その夜を境に、私の音楽に対する価値基準が一変してしまったのである。
 ひとりカークビーに関してのみではなく、私はその友人から、古楽というものについて教えられた。…「ロマン派の作品の持つ精神的・芸術的深みには至らない」「モダンの演奏には、モダンなりの存在理由と良さがある」私の理性はそう反論していたが、たちまちのうちに、それまで熱中していたリストやラフマニノフ、シベリウスのレコードから縁遠くなり、バーンスタインやらショルティたちが色褪せて見えてきた。それまで私が聴いてきたものは、いったい何だったのかと、自問を繰り返しながら。そして、このときから、音楽を聴く、ということが、たんなる趣味や慰めの類ではなく、自らの人生において欠くべからざる糧とでもいうくらい、重要な領域になってしまったのだ。
 美の基準とは、もとより相対的なものであるし、まして、古楽演奏が音楽界において確たる地歩を占め、それが特別なものでなくなった現在であれば、ここで古楽とモダン演奏の優劣論議をしようという考えはない。ただ、この夜の転回によって、私の美的実存の在り方が決定づけられた、さらには、より根本的な意味合いで、キルケゴールのいう、美的実存というものを確かに経験可能な実体として覚ることができた、ということだけは間違いないのである。
 ここで冒頭のキルケゴールに話が戻るわけだが、彼の思弁において、美的実存は、人間の救済契機としての最も低い次元に位置付けられている。キルケゴールの思想的核心が、内面的信仰心の高揚における神との対話にある以上、美的実存に対する評価は積極的なものではなく、むしろ宗教的実存に劣るものとして、あるいはその劣勢と限界を明確にすることによって、逆説的に信仰の価値を高揚しようという意図があるのは明らかだろう。
 だが、カークビーの歌声を耳にするとき、私はそうした系列的な価値付けの発想に疑問をいだいてしまう。美しい音楽は多くあるが、聞く者をして幸福な気持ちに至らしめる音楽は、そう多くはない。私にとって、カークビーの音楽は、数少ない「幸福の源泉」のひとつなのだ。
 芸術よりは道徳が、そしてさらには宗教が、より人間というものを包括的に救済し得るという考えそのものについて、私は異議を呈するものではない。だがそのことと、美や芸術を否定的に把握しようとすることとの間には、必ずしも必然的な関係はないのではなかろうか。率直に言えば、私は人間存在と世界、そして過去から未来へと連続する歴史の包括的、超言語的把握を可能ならしめる、宗教の優越を認めるがゆえにこそ、美や芸術的救済を否定するものではなく、むしろ、日々の業のはざまにおいて、そのような幸福な時間が持てることを、(各人のれぞれの信仰において)神や仏に対して感謝の祈りを捧げたいと思う。
 たとえば、16世紀スペインの作曲家、トマス・ルイス・デ・ビクトリアは、なぜあれほどまでに熱烈な宗教的感情を以って、生涯をかけてカトリック教会のための音楽、それも聞くものに感動を与える傑作ばかりを書き続けたのだろうか。キルケゴール流の価値判断からすれば、ビクトリアは音楽を捨てなければならなかったはずなのに。……間違いなく、ビクトリアは人生に音楽を与えたもうた神に感謝していたのに違いない。あるいは、あの大バッハが、自筆楽譜の最後に、必ず「ただ神にのみ感謝を捧ぐ」という意味の記号をしるしていたことは、あまりに有名な話だ。
 美的実存の至高を体験することは、即ち至高の存在者を讃仰することに等しいのだというのが、私の結論なのである。
 ところで、私に古楽の楽しみを教えたその友人は、いま、八ヶ岳山麓に移り住み、リュート製作家としての仕事を続けている。久しく会っていないが、どうしていることだろう。訪ねていって、いろいろな話をしたいものだ。

  

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