小  説



てぃんさぐぬ花
 





 てぃんさぐぬ花や ちみざちに すみてぃ
 うやぬ ゆしぐとぅや ちむにすみり
 天ぬぶりぶしや ゆみばゆまりゆい
 うやぬ ゆしぐとぅや ゆみやならん
 夜はらすふにや にぬふぁぶし見あてぃ
 わんなちぇるうやや わんどぅみあてぃ
 



 テーブルの上に置かれた安物のCDプレーヤーから、ゆったりと流れてくる三線(さんしん)の音。その懐かしい響きに乗って、澄み渡った歌声が聞こえてくる。それは、金城奈那子の生まれ故郷である、沖縄県の民謡『てぃんさぐぬ花』だった。奈那子は、なによりもこの歌が好きだった。こうして独り、もの思いに沈みがちな夜。この『てぃんさぐぬ花』を耳にするたびに、何故だかわからないが、温かなものに心がふんわりと包まれ、言葉にし得ない安心感にやすらぐことが出来るのだった。遠くふるさとを離れ、ひとり東京に来てから、幾度、こうしてこの歌を聴いてきたことだろう。これからも、この歌はずっと、自分の心を支え続けてくれるに違いない。そう思えば、明日に控えた就職面接試験も、何となくとうまくいきそうな気がした。奈那子はそう自分に暗示をかけながら、布団のなかで瞳を閉じた。

 なしばなんぐとぅん なゆるくとぅやしが
 なさぬゆいからど ならぬ定み
 ……………

 翌日。「それでは」と、広い会議室のなかに、面接担当者の声が反響した。「早速伺います。あなたが当社を就職先として希望する理由を、お聞かせいただけますか?」
 「はい……」奈那子は、この日のために作文し、暗記するまでに何度も読み返し、周到に用意していたはずの志望理由を、頭の中で反芻するように瞳を閉じる。一呼吸おいて、「それは」と語りかけたときだった。「お断りしておきますが」と、面接担当者のきんきん響く声が、奈那子の思考を中断させた。「将来性があるとか、自分のやりたいことができるとか、月並みで抽象的な言葉は聞きたくありません。企業研究もされていることでしょうから、具体的に、あなたが当社にどのように貢献できるのか、勿論、経験者ではないのですから、結果として見当外れでも構いません、ご自分の言葉で話してください」
 途端に、準備していたはずの言葉が、頭の中で蒸発して、跡形もなくなってしまっていることに奈那子は気がついた。眼の前が、ぐるぐると廻ってくる。口の中が乾き、膝の上に置いた掌の指に、思わずぐっと力が入る。それから先は、言葉が上擦っていることだけは分かったものの、いったい自分が、何をどう喋っているのかすら、まともに考えることができないような有様だった。
 「はい、もう結構ですよ」面接担当者が、奈那子の言葉の間隙をついて言った。気のせいなのかも知れなかったが、奈那子には、相手が苦笑しているようにさえ見えた。情けなさと後悔の念とが胸の中で渦巻き、この場所から消えてなくなってしまいたいと真剣に思った。
 「ところで、金城さん、ご出身は沖縄ですね。ということは、いずれは、沖縄に帰ることをお考えですか」
 面接の終わりかけに、担当者が思い出したように尋ねてきた。どうせここも駄目なのにに違いない、そんな諦めに翻弄されながらも、儚い最後の望みを託すように、奈那子は言った。
 「いいえ、そのつもりはありません。御社に入れていただきましたら、東京に腰をすえて、頑張っていきたいと思っております」
 故郷に戻るつもりはないという、その言葉は決して嘘ではなかった。二〇〇二年の夏。ITバブルがはじけた後の、底の見えない不況のただ中で、夏休みになるというのに、内定をもらえない四年生がたくさんいた。なかでも、女子学生にとって状況は更に厳しかった。その就職戦線を勝ち抜くためには、地方よりも都会にいるほうが有利であるのは間違い無い。さらに、三年ばかりを過ごすうちに味わった都会の華やかさに、離れがたい魅力を感じていたのも事実だった。しかし、何より奈那子を故郷の沖縄から遠ざけていたのは、半ば親の気持ちに反するようなかたちで東京の大学に来てしまった事に対する、後ろめたさの思いだった。
 奈那子は、いよいよ東京へ発つという日の、母トミの言葉を思い出す。
 「それじゃあ、母ちゃん、行ってくるよ」
 重たいスーツケースを手に、サトウキビ畑で収穫作業をしているトミの背中に声をかけた奈那子に、麦藁帽子に頬かむり姿のトミは振り向くことなく答えた。三月始めであっても、既に南国の陽射しは強いのだ。
 「あー、奈那子、中途半端で帰ってきてはいかんよ。やると決めたら、何でも死ぬ気でやりなさいね。キビ倒しが終わらんから、空港へは行かないから、あんたも元気でやりなさいよー」
 その母の声を後に、奈那子はひとりバスに乗り込んだのだった。
 一人娘であった奈那子を、できれば手元に置いておきたい、そんな親の気持ちを知りながら、我意を通すように上京してきた。だから、それなりに努力して、自らの意を遂げた暁に帰るというのなら話は別だ。しかし、就職に失敗して、のこのこ故郷の土を踏むなど、決して自分のプライドが許すことではなかったのだ。
 「有難うございました」
 深々とお辞儀をして、面接室を後にした。精神的な緊張と、身体じゅうの力が、どっと一気に抜けていくのが分かる。瀟洒なオフィスビルの、明るく広々としたエントランスホール。IDカードを首から提げて、お洒落な身なりをした女性たちが、書類を手に忙しそうに行過ぎる。こんなところで仕事ができたら、どんなに素敵だろうかと思う。けれども、その壁面ガラス扉に映ったのは、疲れきった自分の姿だった。
 いったい、これまで何社を回っただろうと、虚ろな気持ちになりながら、奈那子は思った。今回のように、試験にまでこぎつけられるのはまだいいほうだ。殆んどの会社は、地方出身の女子学生だというだけで、体よく門前払いか、書類選考で篩にかけられた。デフレ不況といわれる先行きの見えない不景気のなかで、社会人への壁は厚かった。奈那子と入れ替わるようにして、同じような暑苦しい黒色のリクルートスーツに身を包んだ女子学生が、緊張した面持で建物のなかに消えていった。オフィス街のショップやカフェのウィンドウに、晩夏の日差しがきらめく。ビル街の空調機から吐き出される熱気に、思わず目眩を感じながら、まるで何かから逃れるようにして、奈那子は足早に歩きだしていた。やがて、地下鉄への階段を下りかけたとき、ふいに携帯電話が鳴った。
 「奈那子、面接、どうだった?」
 電話の相手は、大学の友人の加藤怜美だった。奈那子と同じゼミに所属している。奈那子とは違い、溌剌とした、陽性の雰囲気を持った娘だ。
 「駄目だと思うわ。たぶん……」
 奈那子は気落ちした声で答えた。
 「ほんと、厳しいよね。私もあさって一社予定しているけど、諦めの境地で、もう敵前逃亡してもいいかななんて。ま、冗談だけどね。それはそうと、奈那子聞いた?小宮山君が国家公務員I種試験に最終合格したって」怜美は携帯電話のむこうで興奮気味に喋った。
 「小宮山君?」その名前を耳にしたとたん、奈那子の心の中で、何かがぎゅんと鳴った。
 「そうなのよ。さすがよね。それで、来週のゼミが終わってから、皆で合格祝いをやろうと思うの。皆であやかりましょうよ!」
 小宮山俊二は、ゼミ生のなかで唯一、難関である国家公務員I種試験を受験していたのだ。
 奈那子の頭の中を、アルバイト先のシフト表がかすめ過ぎた。
 「ごめん、私、その日バイトなんだ」奈那子は悲しそうに呟いた。
 できれば沖縄にとどまってほしい、そう願っていた親の気持ちにそえなかった奈那子は、せめてもの贖罪の気持ちからか、学費の一部に加え、東京での生活費や部屋代を自らのアルバイトで賄うと決めた。そのため、講義やゼミが終われば、たいていの日は友人たちとの付き合いもほどほどに、アルバイト先のカレーショップに駆けつけなければならなかったのだ。アルバイトと言っても、それなりの月日にわたって経験を積んでいたから、他の従業員の指導を担当したり、店長が不在の時などは売上管理も任されたりと、時間が短いことを除けば正社員さほど変わらない仕事ぶりで、月々の給料の他に夏と冬には僅かながら賞与も出してもらっていた。
 ………そうか、小宮山君、合格したんだ。良かった。
 俊二の祝宴に出られないことは無念だったが、その朗報は、先ほどの面接での失敗を忘れさせるように、小さな喜びの火を奈那子の心の中に灯した。
 すぐにお祝いを言いたいけれど、と奈那子は思う。俊二の携帯番号もメールアドレスも知らない自分が恨めしかった。
 夜、疲れた身体を託つて辿り着く、下宿先のアパート。いつもどおりの、一人だけの簡単な食事。都会の只中だというのに、どこからかチョン、チョン、という気の早い秋の虫の鳴き声が洩れ響いてきていた。夏だとばかり思っていたが、季節は少しずつ移ろっているのだ。エアコンのない部屋の窓の網戸越しに、遠くの高架の上を走る電車の轟音が、生温い風とともに聞こえてくる。東京へ来てから、幾度となく過ごしてきた一人の夜。けれども、今夜は、いつもより寂しく、切ないのは何故だろう。
 三年前、未知のものに対する不安とないまぜになった希望を胸に、東京の土を踏んだ自分の姿が、まるで映画の一場面のように脳裏に過ぎった。初めて胸に吸い込んだ都会の空気。故郷の風に慣れた身体には少しひんやり感じたけれど、どこか身の引き締まる思いがした。駅や繁華街を交錯する大勢の人ごみに埋もれながら、まるで自分が都会の風景そのものになっていく、甘く心地よい喪失感を楽しんでいたあの頃。こんな寂しさや切なさすらまだ知らない、無邪気なその姿に、奈那子は憎らしさと愛しさの入り混じった、不思議な感情を覚えた。今では、たくさんの人の中にいればいるほど、却って自分が一人きりなのを感じる。都会の孤独。こんなはずじゃなかったのに、と奈那子は思った。就職活動も思うようにいかず、ひそかに抱いた恋心にも、傷つくことを先に恐れて果敢になれないでいた。
 奈那子は、思い出したように、傍らのテーブルに視線を投げた。そこには、大学のゼミで題材として扱っていたトマス・ハーディの小説『The Return of the Native』のペーパーバックスが、書きかけのノートや辞書とともに置かれていた。奈那子はもともと、暗い作風のハーディをあまり好きではなかったが、最近はとくに、出口のない悲観的な印象ばかりをその文体から感じて、その陰鬱な文章と向き合わねばならないことがどうにも気が重く、やらなければならないゼミの課題もおざなりにしがちだったのだ。
 奈那子は、そのハーディの原書の傍らに、無造作に置きっぱなしにしておいた、『てぃんさぐぬ花』のCD盤に手を伸ばした。ケースを開けて、プレーヤにかけてみる。

 てぃんさぐぬ花や ちみざちに すみてぃ
 うやぬ ゆしぐとぅや ちむにすみり
 ……………

 ふと気がつくと、CDから流れる歌声に合わせて、いつしか奈那子も、『てぃんさぐぬ花』を小さな声で口ずさんでいた。いったい何故、こんなにも『てぃんさぐぬ花』に慰められるのだろう。やはり、自分にも沖縄の血が流れているのだ。自分なりにそう納得しようとしてみたが、決してそれだけではないような気がしてならなかった。他に幾つも、沖縄の歌を知ってはいるが、こんなに気持ちが寄り添う、優しい心にさせられる歌は無いのだから。
 次の週のゼミの日。奈那子は、何とかシフトを工面して、俊二の合格祝いの会に出ることにした。アルバイト先の店長に無理を言って、出勤時間をずらしてもらったのだ。祝賀会は、大学の近くにある小さな喫茶店を貸し切っておこなわれた。いずれ中座しなければならない奈那子は、遠慮がちに、俊二から離れた、出口に近い隅の席に座った。いっぽう、お調子者の怜美は、俊二の隣の席に陣取り、楽しそうにはしゃいでいる。自分にも、あんな屈託の無さがあればいいのにと、奈那子は怜美を見て羨ましく思った。
 瞬くうちに時は過ぎた。後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、奈那子は席を立ち、俊二のところに移動した。
 「ごめんね、私、これからバイトなんだ。………小宮山君、合格おめでとう。……報せを聞いたときは、本当に、自分のことのように嬉しかったのよ」
 ありきたりの言葉だったが、奈那子は抑えきれない素直な気持ちを込めて、そう声をかけた。
 「ありがとう。でも、これから個別の役所の面接が始まるから、喜ぶのはまだ早いんだ。声をかけてくれる役所がなければ、合格しても意味がないからね。金城さん、お互いにがんばろう」
 俊は片手で軽くグラスを持ち上げながら、にっこりと微笑んだ。さきほどからしきりにワインを勧められているせいか、顔が上気したように赤みを帯びている。そして、自分から手を差し出し、奈那子に握手を求めた。
 温かく柔らかい、俊二の掌の感触が、奈那子の心をやんわりと押し包む。嬉しさと恥ずかしさとが胸の内で渦を巻き、奈那子の心を揺さぶった。どぎまぎして俯きながらも、俊二の手を少し力を込めて握り返した。
 そのとき、俊の隣にいた怜美が、奈那子に対してとも俊二に対してともつかない様子で、言ったのだった。
 「やだぁ、奈那子ったらカレーくさいよぉ」
 怜美は悪びれた様子も無く、無邪気に笑った。瞬時にして、それまでの胸の鼓動がどこかへ消え去っていった。他意のない、軽い気持ちで口にした言葉なのだということは、わかっていた。けれども、奈那子は心の中の感覚が、麻痺して固まってゆくのを感じた。おかしいな、最近、なぜか人の言葉に敏感になっている……。そんなことを思いつつも、胸がじぃんと冷たくなっていくのを止めることが出来ない。
 いつもなら、大学からいったんアパートに戻り、着替をしてからアルバイト先に向かう。けれどもこの日だけは、俊二の合格祝いの会に出るために、学校から直接、アルバイト先に行くつもりで、普段アルバイトのときに身に着けている仕事着をそのまま着込んでいたのだった。
 奈那子は無言のまま店を飛び出した。
 "カレーくさいって、毎日、遅くまでバイトしているんだ。仕方がないじゃないか。"
 親元から大学に通う怜美は、お金にも時間にも不自由することなく、自由な大学生生活を謳歌している。
 "怜美のような人に、私の気持ちなんかわからないんだ。"
 思いを寄せていた俊二の前で恥をかかされたと思った奈那子は、悔しさと情けなさとで、自然と涙がでてきた。なにもかも上手くいかない、このまま自分なんか消えてなくなればいい。風を頬に受けながら、奈那子はとぼとぼと歩いた。けれども、現実は奈那子の気持ちに容赦などしない。私鉄線を乗り継いで、大学から十分ほどかかるターミナル駅の地下街にあるアルバイト先のカレーショップに着くと、急いでユニフォームの黄色いエプロンをつけて店に出た。
 「やっと来たか」
 奈那子の姿を認めた店長が、なぜか怒りを含んだ表情をして、痺れを切らしたように呟いた。
 まだ午後八時前だ。今日は八時に入ると、店長には伝えてあるはずなのに、おかしいな、と奈那子は訝しがりながらも、いつものように元気よく挨拶する。
 「おはようございます」
 そのとき、奈那子は厨房に籠もる、怪しげな匂いに気がついた。あきらかに、ルゥの焦げた匂いだ。
 「これじゃあ、今日はもう商売になんねえよ」店長は苦々しく言った。そして、奈那子に向かって「ちゃんと教えておけって言ったじゃないか」と舌打ちし、厨房の奥のほうを顎でしゃくって示した。そこには、すっかり萎れて小さくなっている、アルバイト店員の柚木多美子がいた。
 「たみちゃん!……」
 奈那子は多美子に声をかける。
 「すみません」多美子は泣き声になって奈那子に頭を下げた。
 「鍋の温度管理を間違えたんだ。……金城さん、遅くなるなら、ちゃんと教えておいてって言ったでしょ。……今日は、こっちの残りのルゥを使い切ったら店閉めるよ。二人とも、バイト代から幾らか損害分引かせてもらうからね。君らの責任なんだから」
 店のマネジメントを任されている雇われ店長は、険しい表情で奈那子を詰難した。俊二の合格祝いの会に出るために遅刻することを願い出たとき、相棒の多美子に鍋の扱い方をきちんと教えて置くようにと、奈那子は店長から念を押されていたのだった。奈那子は丁寧に教えたつもりだったが、愚図で魯鈍な多美子には、十分に理解できなかったらしい。多美子は、アルバイト暦もそこそこ長いにも関わらず、仕事の覚えが悪く、いつも誰かの指示をぼんやり待っているような娘だった。そんな要領の悪さと、どこかおどおどした態度に、奈那子はいつの頃からか、煮え切らない苛立ちを感じるようになっていた。
 「ごめんなさい」多美子は泣いて謝ることしか出来ない。
 「もういいわよ。どうせ私の責任よ。教え方が悪かったんだから!」
 自分でも意識しないまま、険々とした口調になっていた。店長の叱責の声が脳裏に反響する。
 "ちゃんと教えたのに"
 "あんな簡単なこと覚えられないなんて、多美子の問題じゃないか"
 "なんで私が責任をとらされるの?"
 多美子や店長を責める言葉ばかりが、心の中で渦巻いた。
 店のなかに客が入ってくる。サラリーマン風の二人連れだ。波立つ感情を必死に抑えながら、オーダーを取り、トレンチにシルバーを並べる。
 奈那子が忙しそうに動き回っても、感情を切り替えることの不得意な多美子は、調理場のシンクの前に突っ立って、涙を拭っていた。その姿を見た奈那子は、抑えていた感情を吐き出した。
 「いつまでもメソメソ泣いてないで!泣けば元に戻る訳じゃないの!」声を抑えた分、言葉に鋭さがこもった。奈那子の心に、微かに後悔の念が兆したが、口から出てしまった言葉は取り消しようがない。感情の持って行き場をなくした奈那子は、わざと悪びれるように言った。「仕事にならないなら、もう帰ってよ!」
 多美子は思い余ったように泣きじゃくり、ロッカールームへと駆け込んでいった。
 "もう帰ってよ"その、自分が言った言葉を耳にしたときだった。奈那子の心に、ある記憶の断片が蘇った。その断片は、少しづつ、遠い昔のとある光景を呼び戻した。
 奈那子は、照りつける南国の午後の日差しを感じた。
 それは、小学校の三年生か四年生のときだったと思う。放課後、友人達とともに小学校の校門を出る。そこに待っていたのは、父親の実家の事情のため、奈那子の家に同居していた、父方の叔母にあたるミツの姿だった。ミツは、奈那子たちの姿を認めると、人懐こそうな笑顔を浮かべて、奈那子たちの数歩あとをついてくるのだった。
 何を語りかけるわけでもないが、ミツはまるで奈那子のことを見守るかのように、とことこと後ろからついてきて、他の友人たちと別れた後も、自宅までついてくる。もの心ついたとき既に、家族同然のようにして一緒に住んでいたミツだが、いつの頃からか、奈那子は成長するに伴い、この叔母のことを何処となく疎ましく感じるようになっていた。いつも同じ着物を着ていて、時々、だらしなく涎を垂らしていたりすることがあった。目つきや顔の表情などが、あきらかに他の人とは違う様子に、奈那子は戸惑い、違和感を覚えた。ことに、友人たちの手前、ミツが自分の身内であるという事が後ろめたく、恥ずかしいことのように感じられてならなかったのだ。ある日、いつものようにミツが奈那子たちの後を追おうとしたとき、奈那子は意を決したようにその言葉を口にした。実際は奈那子自身の感情の投射に過ぎなかったのだろうが、奈那子には、友人たちがミツのことを見て笑ったように思えたのだ。奈那子にとって、屈辱の瞬間だった。
 「もう帰ってよ!」奈那子は冷たく突き放すようにミツの胸もとをぐぃと押した。
 一瞬、驚いたように目をしばたたかせ、それから悲しげな笑みを浮かべてミツは踵を返した。とぼとぼとひとり道を引き返してゆく、叔母ミツの寂しそうな背中を、奈那子は清々した気持ちで見遣っていた。その日を境に、ミツは奈那子を学校に迎えに来ることをしなくなった。
 やがて、ミツは奈那子がはっきりと覚えがないままに、いつしか家からいなくなっていた。幼い頃に患った脳炎がもとで、心と身体に障害を持っていたのだということを、ずいぶんたってから母の話で知らされた。ミツは、その障害のため、食べ物の嚥下が上手くいかず、食事のときの誤嚥がもとで肺炎を起こし、入院したまま亡くなっていたのだった。
 多美子の失敗の後始末を済ませて、再びひとしきり店長の苦言を聞かされ、やっとアパートのある最寄の私鉄線の駅に降り立ったのは、もうすぐ日付が変わろうという時刻だった。
 煌々ときらめく星のかわりに、細長い街路灯が点々と等間隔に並んで、暗い路地にしらじらと無愛想な光を投げかけていた。
 "どうして叔母のことなど思い出したのだろう。"とにかく、何もかもが最悪な一日だと思った。"こんな日は早く終わりにしてしまおう。"そう急かされる気持ちとは裏腹に、疲れた身体を運ぶ足取りは重たかった。漸くアパートに辿り着く頃には、既に日付が変わっていた。そのとき、アパートの玄関の郵便受けに、自分宛の郵便物が無造作に投げ込まれているのに、奈那子は気がついた。
 淡いクリーム色の封筒には、先週、面接を受けた会社の社名とロゴマークが印刷されている。
 それを目にした奈那子は、急いで部屋に上がり灯りをつけ、椅子に座るのも、ペーパーナイフを取り出すのももどかしく、立ったまま封を手で破いて開けた。諦めてはいたものの、もしかして、という一抹の希望が頭を擡げたのだ。
 なかにはたった一枚、A四コピー紙が折りたたまれて入っていた。恐る恐る、印刷された文字を目で追う。
 "この度は、当社の新卒者採用にご応募いただき、ありがとうございました。 慎重に選考させていただきました結果、まことに残念ながら、貴殿の内定を見送らせていただく結果となりました。"………
 ふと気がつくと、胸の鼓動が、頭の芯にまで響いていた。
 "馬鹿馬鹿しいな、何をこんなに緊張しているんだ。どうせこういう結果だって、分かっていたじゃないか。"
 夏だというのに、なぜかひんやりとした部屋の真ん中に突っ立って、奈那子は失笑した。刹那の無駄な希望に踊らされた自分が、憎らしく、恨めしかった。東京の街全体が、自分を拒んでいるかのように思える。そのなかで、いつまで私はこうした宙ぶらりんな日々を生きてゆくのだろう。
 奈那子は、思い出したように、「てぃんさぐぬ花」のCDをプレーヤに乗せた。

 ………
 宝玉やてぃんみがかにばさびす あさゆちむみがちうちゆ渡ら
 まくとぅする人や後やいちまでん うむぐとぅんかなてぃ千代ぬ栄い
 ………
 部屋を暗くして薄い毛布にくるまり、部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルにうつ伏しながら、古ぼけたCDプレーヤーから流れる歌声に耳を傾け続けた。"ああ、やっぱり温かい……"いつしか奈那子は、そのまま浅い眠りに落ちていった。
 朝、奈那子はテーブルに突っ伏したままの格好で目を覚ました。カーテンの隙間から見える外は、まだ薄暗かった。目覚まし時計を見る。午前五時前。昨日のことが、矢継ぎ早に脳裏を駆け巡る。こうして、また長い一日が始まる。不自然な姿勢のまま眠っていたためか、朝だというのに体の芯から疲労が滲み出てくるように感じた。今更のように布団にもぐりこむ。そして身体を伸ばす。……沖縄へ帰ろうか、ふと、そんな思いが心を過ぎった。
 その数日後、奈那子は昼下がりのキャンパスで、怜美に声をかけられた。
 「奈那子!ついにやったわ、内定ゲットよ!」
 幸福そうにはしゃぐ怜美は、満面の笑みを浮かべていた。怜美の話によると、三ヶ月も前に受けて、その後何の音沙汰もなく、すっかり諦めていたところへ、その会社から突然内定の通知が来たというのだった。
 「おめでとう。……そんなこともあるんだ」奈那子は必死の作り笑いで答えた。
 「なんか、自宅通勤ってことがプラスしたみたい。女子にだけ自宅通勤ていう条件つける会社、確かに男女差別かも知れないけれど、とにかく内定もらわなきゃ仕方ないよね」
 得意そうに語る怜美。奈那子は、そんな相手をわざと揶揄するように言った。
 「怜美、社会人になっても親と一緒に住むの?」
 しかし、怜美は何も感じないのか、「そのほうがラクだし、うちの親、あまり干渉しないから」と屈託無く笑いとばした。
 奈那子は、独り言のように、ぽつりと呟いた。
 「私、沖縄へ帰ろうかと思っている」
 学生の就職事情など、東京よりもはるかに厳しいことは承知していた。故郷に帰りたいという気持ちを持つのは、弱気になっている証拠だと、奈那子はいちおうは自分の心を客観的に分析してみるのだが、一度兆したその思いは次第に膨らんで、居ても立ってもいられないくらいになっていた。
 「いい、いい!それ絶対、私も賛成。遊びに行くから、そのときは宜しくネ」
 "怜美は裏表がなくて付き合いやすい、いい友達だけれど、所詮自分とは生きている世界が違うんだ。"………奈那子は怜美の言葉に曖昧に頷きながらも、逃げるようにその場を立ち去った。気がついてみると、学生街の街路樹の緑がどことなく色褪せて、吹く風にも心なしか初秋の気配が漂っているように思えた。
 その夜、奈那子は故郷の母に電話をかけた。
 「母ちゃん、奈那子だよ」
 「ああ、奈那子?、元気にしているか?」
 携帯電話の向こうの声が、気のせいか遠く聞こえる。
 「うん、元気だよ。」少し間をおいて、奈那子は続けた。「母ちゃん、じつは私、学校終わったら、帰ろうかねーって思っているんだけど」
 「はぁ、どこにか?」
 何のことか、といった感じでトミは言った。
 「どこって、沖縄に決まっているさ」
 決まり悪そうに奈那子は答えた。
 「あぃ、あんたは内地に行くと言ったり、沖縄に帰ると言ったり、忙しい人だね」
 案の定、トミは驚いたようだ。
 「就職したら、一人でやっていくし、母ちゃんや父ちゃんには迷惑かけんつもりだよ。でも、我が儘ばかり言って、母ちゃんや父ちゃんには申し訳ないと思っているよ」
 奈那子は消え入りそうな声になっていた。
 「あんたももう大人なんだから、自分の人生は自分で決めなさい。真面目に生きて行きさえすれば、それが最高の親孝行だからねー」
 そんな奈那子の声とは対照的に、トミは大声で言った。その様子に元気付けられたように、奈那子は言った。
 「そっちで就職先探そうと思っているから、近いうちに一回、沖縄へ帰るね」
 「はいはい、気をつけて帰っておいでねー」
 奈那子の目に、うっすらと涙がにじんだ。……………
 それから一週間後、大急ぎで飛行機のチケットを手に入れ、奈那子はふるさと沖縄への帰路についた。東京での就職活動に本腰を入れるつもりでいたため、その年の正月は東京で過ごした。沖縄へは一年以上の間、帰っていなかったことになる。
 昼下がりの羽田を離陸する飛行機の窓から、みるみる小さくなっていく東京の街並を、奈那子はいくぶん感傷的になって眺め遣った。眼下に広がる、スモッグに澱んだこの大きな都会の中の、自分は風景の一部ですらなかったように思われた。"もうあそこに私はいないんだ"遠くに霞む定かならぬ一点を凝視しながら、奈那子はそう心のなかで呟いた。
 そのまま眠りに落ちてしまったらしい奈那子が、飛行機の振動に揺すぶられる度に浅い夢から呼び戻された、その何度目かのとき。窓の下の雲の狭間には、長々と打ち続く沖縄本島の海岸線と、白い波が明るい緑色の海面に美しい紋様を描く珊瑚礁が広がっていた。飛行機は徐々に高度を下げているようだ。エンジンの音が変化して、機体が大きく旋回する。南の海がきらきらと陽光の反射を受けて、眩く輝いた。その光の反射面が、機体の動きとともにサァーっと海上を駆け巡ってゆく。小さく揺れながら窓の下を移ろう広大なサトウキビ畑、その狭間を縫う、赤茶けた土をさらした農道、なだらかな丘の上に並び建つ、赤い瓦屋根と白いコンクリート壁の家々、その周りの樹木も、何でもない故郷の景色が、とても懐かしく、愛おしい。"帰ってきたんだ"奈那子は心のなかで呟いた。
 飛行機が那覇空港に着き、機内からボーディングブリッジに出た途端、灼熱の光が満ちる、ふわっとした大気に全身が溶けていくような感じがした。確かにこれが沖縄の空気だったと、奈那子は大きく深呼吸をして胸に吸い込んだ。よそよそしい、東京のそれとは違って、自分の肌になじんだ、故郷の風だ。白い雲をところどころに滲ませる、亜熱帯の蒼空の下、空港から乗ったバスが、ビルの立ち並ぶ那覇の市街地を抜けて、丘陵の続く郊外の国道を、自分の生まれ育った町めざして走り続けるにつれ、その思いはますます強くなっていった。……


 静かな夜。漆黒に沈むガジュマルの林に面した家の外壁のどこからか、チツ、チツ、チツと、ヤモリの啼く声が聞こえる。つい先ほどまで、久しぶりに東京から帰った奈那子を見ようと、近所の人たちが入れ替わり立ち代りやって来ては、父親の国昭と泡盛を酌み交わしていたところだった。
 新しい客が来る度、といっても、それは昔なじみの近所の小父さんたちだったが、奈那子は座敷に呼ばれ、ひとしきり「綺麗な娘になった」などとお世辞を言われ、コップに注がれた泡盛を勧められてはそれを舐めるように口にし、また奥に引っ込むということを繰り返していた。奈那子に会うため、というのはじつは口実で、何かにつけて飲む機会を窺っている男衆であることはわかっていたが、その雰囲気が、久しぶりに沖縄に帰ってきた奈那子には何となく心地よく、つい時間の経つのを忘れた。当の国昭は、奈那子が帰ってくるというので、早朝に那覇の市場へトラックで乗りつけ、上等のマグロ一本を仕入れてきて、楽しそうにさばいていたとトミは言った。日ごろから感情を表にださない国昭だったが、その様子から、久しぶりに奈那子に会えることがよほど嬉しかったのだろう、とトミは可笑しそうに笑っていた。すっかり夜が更けて、その父親も酔いつぶれて眠りにつき、訪問客も途絶えて、奈那子はトミと卓袱台を囲んでいた。たんすの上の古ぼけたラジオから、ゆっくりと奏でられる三線に乗って、沖縄民謡が流れていた。
 「母ちゃん、やっぱり沖縄が、ほっとするさぁね」開け放した窓からそよぐ、微かに潮の匂いのする湿潤した風が頬をなぜていくのを感じながら、奈那子は言った。
 「生まれ育ったとこだからねー、当たり前さ」つい今し方まで、来客の接待に忙しく立ち回っていたトミは、漸くどっしりと腰をおろして、湯のみからお茶を飲んでいた。
 そのとき、奈那子は、ふと、「てぃんさぐぬ花」のことを思い起した。沖縄を遠く離れ、東京で一人暮らしをしていた自分を、いつもこの歌が慰めてくれたこと、それにしても、なぜこの歌が、奈那子の心の支えになっていたのか、不思議でならなかったことを、何気なくトミに話したのである。
 その話を黙って聞いていたトミは、少しの間、目を閉じていた。やがて、何かを思い出したように、こう言ったのだった。
 「あー、それは、ミツ叔母さんだね」
 トミは、昔を懐かしむような口調で語り始めた。「奈那子、あんたは叔母さんに、一番よくなついていたんだよー。叔母さんも子どもが好きだったからねー。中でも一番に泣き虫だったあんたを、気にしていたのかね、よく背負って、その歌を子守唄のように歌って、あやしてくれていたさ。叔母さんは本当によくその歌をうたって、何だって、叔母さんがあんたを背負ってその歌をうたうと、必ず泣き止んだよ。おとうやおかあは畑が忙しくて、あんたらを叔母さんに預けていたから、叔母さんがよくみてくれて、はぁ、本当に感謝しているさ。あんたも小さい頃は、叔母さんのこと大好きで、いつもあとを追いかけていたっけねー。その歌で心が休まるのは、きっと、その歌でいつもあやしてくれた叔母さんの優しさを、奈那子、あんたの心の奥底が、覚えていたからかねーと思うさ」
 一瞬。奈那子のまわりで、風のざわめきも、ヤモリの啼き声も、全ての音が止んだかに思えた。
 あの温かく、懐かしい気持ち。誰がそれを自分に与えてくれたのか、大好きな「てぃんさぐぬ花」の歌に秘められた秘密を、奈那子が知った瞬間だった。悲しいとき、寂しい一人の夜。孤独だった都会での生活。そこで私を慰め、安らぎをくれたのが、いつしか心の中で蔑み、疎んじるようになっていた、あの叔母ミツだったとは。
 もう帰ってよ!……あの時、自分が叔母に投げつけてしまった心無い言葉が蘇った。その叔母は、もうこの世にはいないのだ。得体の知れない悲しみと、後悔の念が、突如としてわき起こり、胸のなかで渦を巻いて、それが微かな嗚咽となって口から漏れた。トミの言葉を聞き終わるや、奈那子は両手で顔を覆って自分の部屋へ駆け込んだ。そして、畳の上にうずくまりながら、涙が涸れてしまうほど泣き続けた。……


 翌日の昼下がり。奈那子は一人、実家から少し離れた、サトウキビ畑のなかにぽつんと建てられた屋形墓の前にいた。若くして病に命を落とした叔母、ミツが眠る墓だった。黒っぽい平御香を焚き、母トミが持たせてくれた、厚揚げや三枚肉などの供物を供えて手を合わせた。抜けるように蒼い、晴れ渡った空の下。線香の煙が海からの風に乗ってもうもうと舞い上がった。周囲のサトウキビの幹が大きくわらわらと揺らいでいる。
 ……叔母さん。叔母さんは、昔も今も、いつも私を助けてくれていたんだね。なのに、その優しさも分からず、ひどいことをしてしまって、本当にごめんなさい……
 奈那子は、時間の経つのも忘れて、いつまでも、いつまでも墓の前で手を合わせていた。そうでもしていなければ、取り返しのつかないことをしてしまった自分自身の心が、抑えようのない悲しみで押し潰されてしまうような気がしてならなかったのだ。その翌日も、またその次の日も、奈那子はサトウキビ畑の中に眠る叔母ミツの前で、そっと手を合わせ続けた。
 朝、ミツの墓前に詣でてから、バスに乗り、職業安定所に通う。それが奈那子の日課となった。
 職安の窓口は、いつ行っても仕事を求める人でごった返していた。多くは明日の仕事にも窮している人たちで、窓口の係員も奈那子のような学生を相談相手にしている余裕はないらしく、検索用の端末装置の操作方法だけを教えられて、あとはその前に座って黙ってキーを叩くしかない。何より、奈那子は自分が何の仕事を志すつもりでいるのか、はっきりと自覚していなかったことに気がついたのだった。ただ漠然と都会の生活に憧れていただけで、授業もそこそこにアルバイトで生活費を稼ぎ出し、疲れてアパートに帰って眠るだけの学生生活。自分の将来の道すじなどというものをゆっくりと考える時間も持てないまま、慌しく日常が過ぎていたのだ。
 アルバイト先に無理を頼んで漸く確保した数日間の休暇も瞬く間に過ぎ去り、東京へ戻らなければならない日はすぐにやってきた。就職活動に何ら成果をあげることもできないまま、沖縄を後にしなければならないことに、奈那子は失望よりも諦めに似た気持ちを抱いていた。期待して裏切られるくらいなら、はじめから希望など持たない方がラクだ。そんな捨て鉢な心境だった。
 いよいよ故郷を後にする日。奈那子の心を知ってか、ミツは畑仕事の手を休めて、わざわざバスターミナルまで見送りに来た。那覇空港行きのバスが出る時刻になって、奈那子が待合室のベンチから腰を上げたとき、ミツは言った。
 「奈那子、あんたも頑張りなさいよ。叔母さんは、いまでもきっと、あんたを応援しているよ。あんたが自棄をおこすと、叔母さんも悲しむさあね」
 いつまでも、応援している。………奈那子の心のなかに、一人きりの夜に聴いた「てぃんさぐぬ花」の歌声が甦った。そして、子どもの頃に接した、ミツの優しい眼差しを感じた。その眼差しを、悲しみで曇らせるようなことは、もうしたくなかった。
 「そうだね。そう思うよ。……母ちゃん、ありがとうね」
 叔母さんの優しさを、自分の心の深層が忘れることなく覚えていた。そう気付いたとき、奈那子は、自分ももっと、人に対して優しくなりたいと切に願った。それが、その優しさに守られてきた、ミツに対する、せめてもの償いではないかと思えた。ふと、アルバイト先の多美子のことが脳裏に浮かんだ。ミツ叔母さんなら、多美子に対してどう接したのだろう。カレーの鍋を焦がしてしまったとき、店長に自分のことのように恐縮して頭を下げ続けただろうか。あるいは、多美子と一緒にいつまでも泣いてあげたかも知れない。少なくとも、あのときの私のような、冷たいあしらいなど決してしなかっただろう。………


 沖縄から戻って間もなく、大学の後期授業が始まったばかりの日曜日、奈那子はふと、ある新聞の折込求人広告に目を留めた。折込の求人に目を走らせることなど、はじめは考えてもみないことだったが、卒業が近づくにつれて、背に腹は替えられない状況に追い込まれていたのだった。
 それは、障害者福祉作業所の職員募集広告で、来春新卒者も可と書かれていた。ミツのことを知らない時であったなら、まったく、視界の片隅にさえ入らなかったに違いない求人だった。それが、いまでは他の業種や職種にも増して、何か心に強く響いてくるものがあった。
 後期に入ってはじめてのゼミの日、奈那子のアルバイト先の店が、テナントビルの改修工事のため数日間臨時休業することになった。奈那子は、講義が終わった後、久しぶりに怜美と時間を過ごすことにした。
 「ところで奈那子、沖縄での就職先、みつかったの?」
 九月も半ばにかかり、都会の空気にもどことなく秋の香りを感じるようになっていた。奈那子たちが席をとった、大通り沿いの百貨店の一階にあるカフェの大きなガラス窓越しにも、夕闇に暮れかかった初秋の風景が写しだされていた。
 「ううん、向こうはやっぱり厳しいよ、思っていた以上にね。でも、実はとても大切なものを見つけることができたから、今回は帰って良かったって思ってるの」
 奈那子は、心なしか遠くを見つめるような目をして答えた。自分の中にありながら、いつしか忘れ去っていたものと、そして、自分のうちに、新たに見い出し得たものと。
 「大切なものって……何よ?」
 怜美は、奈那子の言い方に勿体ぶったものを感じたかのように、答えを急かした。
 「言葉で簡単に言えるものじゃないのよ」
と、奈那子は困惑気味に答える。その様子に、怜美は何かが閃いたとでもいうように目を大きく見開き、「もしかして………」と言った。
 彼女が何を想像したのかを覚った奈那子は、「まさか」と笑い飛ばした。そして、少し間をおいてから、今度は幾分真面目な面持ちになって、言ったのだった。「私ね、障害者福祉作業所の面接を受けようと思っているんだ」………
 「ふくし、さぎょうじょ?」怜美は、まるで異界の言葉を聞いたかのように目をまるくした


 数日後。
 「何しているの?」
 突然、背後から誰かが奈那子に呼びかけた。振り返ると、頭に三角巾を巻き、オレンジ色のエプロンをつけた、ふっくらとした体型の少女が、にこにこしながら立っている。少女、と見えたが、実際の年齢はわからない。初冬のリンゴのような、うっすらと赤い頬が、あどけない印象を与えていたのは確かだった。赤い縁を持った眼鏡の奥の瞳が、人なつこそうにこちらを見ていた。
 「何しているの?」
 小さな障害者福祉作業所の、玄関ロビーの粗末な椅子に腰掛けて面接を待つ奈那子に、彼女は再び同じ言葉を繰り返した。
 何と返事を返してよいのか、奈那子は返事に困って、彼女の顔を見つめ返した。ふと、相手の表情に、子どもの頃の記憶に残る叔母ミツの、人懐こそうな眼が重なったように思った。
 「私ね、パンを焼いたんだよ」彼女は奈那子に、ちょうどクリームパンくらいの大きさの輪を両手の指でつくって見せて、「こんな形してるの」と得意そうに両腕を前に突き出した。
 相変わらず、何を言ってよいのか見当がつかないまま、しかし奈那子は、彼女の屈託の無さにいつしか緊張が解れて、優しい笑みを返していた。
 ほどなく、同じオレンジ色のエプロン姿をした、その作業所の職員らしい、小柄で化粧気のない一人の中年女性がやってきて、「こんなところにいたの?パンを焼いたこと、皆にお話したいのね」と、奈那子の目の前にいる娘に声をかけた。そして、「今日、はじめて自分でパンを焼いたんですよ」と、奈那子に向かってにっこり微笑んだ。
 ほんのわずかな出会いだったが、それまでの長い就職活動のなかで、奈那子は初めて、自分が構えや虚飾のない、素直な気持ちでいることに気がついた。それまで幾度も訪問を繰り返してきた一流企業が持つ華やかさや派手さとは縁遠い、地味で飾り気のない風景。低い天井の下をスリッパで歩けば、みしみしと廊下が軋むような古い建物だったが、奈那子はどこか懐かしさのようなものさえ覚えた。障害者福祉のことを専門的に学んだ経験などもちろん無く、志望動機を頭のなかで周到に準備できるような知識など微塵も持ち合わせていなかったが、奈那子のなかに、面接を前にいつも感じてきた不安はなかった。
 やがて、廊下に面したドアのひとつが開いて、奈那子は名前を呼ばれた。小さな会議室のような部屋には、さきほど、エプロン姿で奈那子の前に現れた、職員とおぼしき小柄な女性の姿があった。胸についたネームプレートを見て、この女性が、作業所の所長であることを知った。
 彼女は簡単に自己紹介した後、「さっきは、びっくりしたでしょう?」と奈那子にむかって言った。「あの方は、とても人なつこいのよ。誰にでも、ああいうふうに、親しく声をかけてくれるの。人を信じる才能だけは、誰にも負けないのよ」
 「人を信じる才能だなんて、とても素晴らしいことだと思います」奈那子の口から、自然にそんな言葉が出た。
 「そう思う?」所長は奈那子に賛意を示すように頷き、言った。
 「それでは金城さん、あなたがこの仕事を志そうと思ったきっかけを、お聞かせいただけますか」
 懐かしいミツの姿を心に抱きながら、奈那子は訥々と、自らのうちに見出し得たものを語り始めた。自分でも驚くほど冷静で、これが就職活動の面接の場であるということが、ともすると意識の内部から抜け落ちてしまうほどに、奈那子は落ち着いていた。ひととおり話が終わったとき、何気なく、部屋の窓の外に視線をやった。そこには、午後の陽に葉を黄金色に染めた、背の高い鳳仙花の花が植えられていた。愛らしい薄紅色の花を控えめにつけた鳳仙花は、僅かばかりの秋の風を受けて、時々思い出したように小さく揺れては、また静かに佇んだりしている。…………
                               

(てぃんさぐぬ花・終り)



(付録)
「てぃんさぐぬ花」ヤマトグチ訳

爪紅(ホウセンカ)の花は爪先に染めるもの 親の言うことは心に染めるものだ
天の群星は数えようと思えば数えられるが 親の言うことには限りが無い
夜に沖に出る船は「ね」(子)の方角の星(北極星)を目標にする
私を産んでくれた親は私の成長を見守りまた目標に生きている
宝玉でさえ磨かなくては錆びてしまうのだから 朝に晩に心を磨いてこの世の中を生きていこう
誠実に生きる人は後のちまでも、思うことが叶い幸せでいられるのだから




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