ルネサンス二都
『イタリア・ルネサンス美術展 フィレンツェとヴェネツィア』

●東京 国立西洋美術館 1999年3月20日〜6月20日

 フィレンツェとヴェネチア。かたやメディチ家の庇護の基に栄えた学芸の都、かたや東西交易の要所として栄華を誇った共和国。イタリア・ルネサンスをときめく、このふたつの古都にまつわる今回の美術展は、多彩な画工らの作品を網羅してじつに興味深く、かつ鑑賞者を楽しませてくれるものであった。さらに、エルミタージュ美術館所蔵の作品群を、それぞれの都市と時代ごとに、比較検証が可能なように考えられていた。その構成は以下のようになっている。

 (1)フィレンツェの後期ゴシックから初期ルネサンスへ
 (2)ヴェネツィアのビザンティン様式から初期ルネサンスへ
 (3)フィレンツェの盛期ルネサンス
 (4)ヴェネツィアの盛期ルネサンス
 (5)フィレンツェのマニエリスム
 (6)ヴェネツィアの後期ルネサンス

 さて、この作品展を一覧して感じたのが、あらためて、ヴェネツィアという都市は、音楽の面ばかりでなく、美術においてもまた、バロックを先取りしていたのだな、という実感である。
 ちなみに、ヴェネツィアでは、16世紀を通して、この町のサン・マルコ大聖堂楽長の職にあったヴィラールト、アンドレーア・ガブリエーリ、そして16世紀末に大聖堂の楽長に就任した、ジョヴァンニ・ガブリエーリに至る迄、代々の音楽家たちが、それまでのルネサンス音楽のスタンダードであった、ポリフォニックな楽曲構造、人声を中心にしたスタイルを大胆に打ち破り、ドラマティックな対比効果の重視、多重的音響の追求、華やかな器楽群の競合を導入するなどの革新をおこなったのである。
 本サイトに掲載したエッセイ『多様性のバロック』でもふれたとおり、バロックの時代精神は決して一様ではないのであるが、ドラマティックな「表現性」という思考軸でとらえた場合、今回の展覧会に出展された、ヴェネチア美術の代表画家、すなわちジョルジョーネ、ティツィアーノらの作品は、一歩も二歩も、バロックの世界に脚を踏み入れているものと言えるだろう。
 
 とくに注目したいのは、「ヴェネツィアの盛期ルネサンス」のブースに展示された、ティツィアーノの3作品『教皇パウルス3世』、『悔悛するマグダラのマリア』、そして『十字架を背負うキリスト』だ。それぞれが宗教的な主題を扱った作品だが、いずれも、見る者をとらえてはなさない求心的な力を秘め、その訴えかけてくる迫力は、動静の差はあっても、直接的で、かつ、明解であり、バロック的なドラマトゥルギーに満ちあふれているように思える。
 『教皇パウルス3世』は、在位1534-1549。対抗宗教改革の指導者として敏腕を振るった。この作品は、一見静謐そうなその筆致のなかに、齢八十を間近にしながらも、なお、ローマ教会によるヨーロッパ世界の再制覇を果たさんとする、強靱な指向性、熱烈な宗教的心情を伝えてあまりある。背景と人物のこれまたバロックふうな明暗対比も、きわめて大きな視覚的効果を生んでいると言えよう。
 つづく『悔悛するマグダラのマリア』は、さらにドラマティックである。16世紀以降、とくに対プロテスタント上の政策的必要から、マグダラのマリアの主題は多くの画家によって繰り返し描かれるようになるが、そのいずれもが、娼婦として犯した自らの罪への懺悔に眼を涙で潤ませ、常に救いを確信するかのように天を見上げる、髪の長い美女として登場する。その主題は、一種のステロタイプだが、官能の罪の懺悔という要素、そして美しい女性の登場という物語めく設定は、誰もが心を動かされ、そして哀れみを呼んだことだろう。紋切り型で、次の展開が見えているにもかかわらず、やはり見るものを感動の渦に引き込む、あのバロックオペラの世界に通じるものが、ここにはあるのだと思えてくる。
 さて、『十字架を背負うキリスト』だが、ここに至り、ティツィアーノのドラマ的手法は頂点に達するといえよう。この画をみたとき、わたしは図らずも、J.-S.バッハの『マタイ受難曲』を思い出した。総督ピラトによって磔刑を宣せられたイエスが、群衆から侮辱を受けながら、ゴルゴタへの道をたどる場面である。「我が頬の涙、甲斐なしとあらば我が心を去るべし」と歌われるアルトのダカーポ・アリア。その付点音符は、イエスがよろめきながら険しい岩の道を引き立てられてゆくさまを描写しているのであろうか。ティツィアーノの作品もまた、このバッハの音楽に匹敵する感動を呼び起こす。十字架を背負うイエスと手を差し伸べるクレネのシモン。その構図は、映画のショットのように画面いっぱいにズームされ、聖書の場面を描くというよりは、イエスという実存の苦悩と悲しみに迫ろうとしているかのようだ。茨の冠に額を血で染めたイエスは、十字架を背負いながらこちらを見つめている。その目には苦痛に喘ぐ涙が・・・。そのイエスの目は、見るものに直接何かを語りかける。そして鑑賞者は、それぞれがみずからを振り返り、また涙したことであろう。こうした濃密な情動の世界の構成は、もはやルネサンス的な理想から大きく逸脱していると言わざるを得ないのである。     

 いっぽう、フィレンツェの後期ルネサンスは、ヴァザーリ、ブロンズィーノらに代表されるマニエリスムの道を歩む。マニエリスム、という概念もまた、バロック同様に固定的な性格をもつものではないが、音楽においても絵画においても、ともに均整、自然、円環性といったルネサンス芸術の性格的特徴を食い破る、独自の表現性を持ったものであった。
 今回の展覧会で出展されたのは、ヴァザーリが1点、ブロンズィーノは肖像を含めて2点。そのほかの作品をふくめても、マニエリスムの特徴とされる「フィーグラ・セルペンティナータ」(蛇状に曲がりくねった姿態)は多くはない。そのなかで、とくにマニエリスムの特徴を持った作品としては、ナルディーニの『バテシバの水浴』をあげることができよう。
 この作品の主題は、旧約聖書『サムエル記』中のエピソードに取材したものであるが、主眼はあくまでも人物像にある。バテシバとその侍女ら、主要な人物は5人。彼女らの姿態は、なんらかの特異性をもったスタイルで描かれているが、もっとも顕著なのは、中央のバテシバであろう。上半身と下半身とが、それぞれ正反対の方向を指向した「捩じり」のポーズは、不自然であるがゆえに却って、超俗的な雰囲気をかもしだしている。バテシバほどではないが、登場する侍女たちは、いずれも「捩れ」を体現し、画面全体の印象は舞踏の優雅さに通底する。

 さて、マニエリスムは、表現の点では、ヴェネチアの後期ルネサンス美術と同様に、ルネサンスのスタンダードを踏み越えてゆくが、ヴェネチア美術がバロックへ接近して行く流れが、人間的情念のような、ある種人間の持つ原初性とでもいうべき要素に回帰していくのに対し、マニエリスムは、はるかに人工的な不自然さ、作為、技巧への傾斜を印象づけるものとなっている。(本題ではないが、それはあたかも、近代における印象主義と象徴主義の差異にもクロスして見えるかのようだ。)
 興味をひかれるのは、なぜ、このような差異が生じたのか、ということだが、端的に言って、ヴェネチアとフィレンツェという、二つの都市の性格的な違いに理由があると、わたしは考えている。
 ヴェネチアは、中世初期より交易都市として繁栄し、その商業活動を背景に勃興した市民階級が、大きな影響力をもつた共和国であった。いっぽう、フィレンツェは、さまざまな曲折はありながらも、メディチ家の強力な支配のもとに治められてきた都市であり、なかんずく、マニエリスム芸術の隆盛は、メディチ家のコシモ1世が、初代トスカーナ大公として君臨し、フィレンツェが名実共にメディチの都市となった時期に重なるのである。
 煎じ詰めれば、それぞれの都市の歴史的な、また社会的な性格を反映するように、ヴェネチアでは市民的芸術が、フィレンツェでは宮廷芸術としての美術作品が、それぞれ愛好されたのだと言ってよいであろう。
 だとするなら、ヴェネチア=市民的芸術=バロック、フィレンツェ=宮廷芸術=マニエリスム、という図式的な構図が成立することになるが、はたしてこれは正しいのだろうか。
 
 そもそも、バロック美術の端緒とは、16世紀の宗教改革運動をめぐる確執のなかに求められる。ルター派やカルヴァン派らの新教徒は、それまでのルネサンス宗教美術が、あまりに異教的、官能的な要素を含みすぎており、なおかつ独特の寓意的表現を多用するあまり晦渋に過ぎ、大衆的性格を著しく欠如させているとの理由で、熾烈な宗教芸術排撃の運動を展開した。彼らは聖堂のなかの聖母像を破壊し、聖人たちを愚弄した。「ただ聖書のみ」を合言葉とする新教徒にとって、当然の帰結であったと言える。ここに至り、ローマ・カトリック教会は、その動きに対抗するための内部改革を余儀なくされるが、それが対抗宗教改革(または反宗教改革)だ。フランスの美術史家、エミール・マールは、次のように述べる。「反宗教改革の美術は新教徒が攻撃したすべての教義を擁護する」(『ヨーロッパのキリスト教美術』)・・・新教徒によって排撃され、カトリックによって擁護された教義とは、すなわち聖母信仰であり、聖人信仰であり、改悛の秘蹟であり、英雄的な愛徳であった。ここでマールの著作をつぶさに引用する暇はないが、これらの教義の大衆的レベルでの宣説には、おのずと感覚的・直感的なドラマ性がついてまわるようになる。このようにして、ローマ・カトリック教会が推進した芸術の刷新運動が、バロック様式を生み出したのである。すなわち、ヴェネチアのような歴史的に大衆的性格を持った市民国家においてこそ、ティツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』のようなドラマティックな表現は存在意義を獲得できたのではないかと考えるのだ。
 いっぽう、ヴァザーリをはじめとするフィレンツェのマニエリストたちは、メディチの宮廷人、なかんずく、コシモの後を世襲した、錬金術と新プラトン主義を信奉する大公フランチェスコ・デ・メディチとその周辺の教養人たちのために、ルネサンスの優美さ、とくにミケランジェロを神格化しながら、イデア的世界の美をより深層にまで追求しようと努力したのだった。その結果、彼らの芸術は、新プラトン主義的な幾多の寓意を知るものにしか理解できない、象徴言語を多用したまことに難解なものとなっていったのである。こうした芸術を理解することが、カスティリオーネの著した『宮廷人』の作法を身につけることと同様、当時のフィレンツェの教養人にとっては必須の事柄なのであった。それゆえ、のちの美術史家は、一般性を喪失し、象徴と手法の袋小路に迷い込んだ芸術として、マニエリスムを断罪したのである。たしかに、『バテシバの水浴』は、ポーズや色彩に通人好みの技巧は感じるが、感動というものには遠い冷静さが画面全体から漂ってくるようだ。

 しかし、やがてはフィレンツェも、バロックの波に呑まれてゆく運命にあったのは言うまでもない。雅びとは、常にそのときどきの大衆文化と実際的政策に駆逐される宿命を負うているのである。夢想と神秘主義愛好癖のなかに生きたフランチェスコが死に(一説には弟のフェルディナンドに暗殺されたと言われる)、枢機卿あがりの弟フェルディナンド・デ・メディチが三代めのトスカーナ大公に即位するころ、フィレンツェの宮廷は、この冷徹で実務的なカトリックの主君によって、昔日の面影を完全に失ってゆこうとしていたのである。


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