バロックの愉悦

イースト・ウェスト・バロックアカデミー演奏会

音楽監督:ワルター・ファン・ハウヴェ 今井信子
●2000年12月1日 カザルスホール・東京

 



 イースト・ウェスト・バロックアカデミー(EWBA)は、日本とオランダの若手の音楽家たち21名からなるバロック・アンサンブルである。そうはいっても、メンバーは古楽器演奏を専攻する者たちではない。このアンサンブルの設立主旨を、音楽監督ワルター・ファン・ハウヴェは、つぎのように語る。

 …ここに選ばれたEWBAのメンバーはいわゆる「クラシック」の伝統で教育を受けている。そのメンバー各人が各自の意志により、一時的にこれまでの精進によって得た熟練の技をひとまずおいて、古楽においても同様の高い水準を保つために努力を重ねた。……今日では専門家でない音楽家もこれら古楽で得られた新発見、新知識、洞察力、趣向、思想などから啓示を得ようと関心を募らせている。したがって、才能に恵まれ、すでに高度の技量を持ったこうした若い音楽家たちが、もう一つの音楽言語を学ぶチャンスを得て、器楽奏者としてどちらの音楽でも自由に演奏できる能力を身につけるのは、この厳しい音楽界にあって将来大成するための大きなカギの一つを握ることであり、たいへん頼もしいと言える。… 

 この言葉のとおり、多分に教育的、育成的意味を大きく持ったこの演奏会ではあるが、モダン楽器を使用しながら、バロック奏法によって演奏する、という試みは、決して新しいものではない。いわゆる古楽の復興が、それまでの常識を覆す革新的な音楽運動としての時期を脱し、古楽演奏の場にもいわゆる大家とよばれる演奏家たちが現れはじめ、古楽演奏自体がひとつのオーソドキシーを獲得するようになって久しい現在、こうした状況下において、これまで古楽演奏とはまったく無縁の場所で育ってきたモダンの若手演奏家たちが、自分たちの感性のなかで、相応に市民権を獲得した古楽奏法による演奏を、どのように消化するのか、ということは、非常に興味をひかれることであると言い得る。
 プログラムの構成も、非常に配慮されたもので、今日の古楽演奏会にありがちな、安易なメジャー指向がない。フランス、イタリア、ドイツ、イギリスと、それぞれの特色を持った作曲家たちの作品が集められ、ディヴェルティスマンとしての要素もじゅうぶんに兼ね備えた演奏会となっている。
 
 さて、それらの演奏だが、まずルクレール LECLAIR, Jean Marie (1697-1764)のオペラ『スキュラとグラウコス』からの器楽曲の抜粋で始まる。
 まず選曲じたいが珍しい。はじめから、かなり「古楽」を意識しているな、と思わせるところがいい。演奏のほうは、かなり颯爽としていて、まるでヘンデルのコンチェルトかシンフォニアを聴いているかのような錯覚に陥る部分もあり、フランス風の雅びやかな雰囲気というのには少し遠かった。しかし、全プログラムのなかで、このルクレールの演奏が、もっともバロック奏法を忠実に体現できていたようにも感じられる。曲の構成が、バロック時代の舞曲を中心としたものであっただけに、それなりに丹念なトレーニングがあったのではなかろうか。 

 それからパーセル PURCELL, Henry (1659-1695)のファンタジアが二曲。これもなかなか意表をつくものであった。これらの曲は、ヴァイオル(ヴィオラ・ダ・ガンバ)のコンソート(小規模合奏)のために書かれたものだが、EWBAは、ヴァイオリン族を主体とした21名のアンサンブルでこれを演奏してしまったのである。その結果、パーセルの音楽の持つ滋味や素朴さは消えたが、音楽的に面白くないかと言えば、決してそうではない。パーセルのコンソート曲がこうして華やかな雰囲気で再現されるのも悪くないのである。これはひとつの発見であり、私がこの演奏会に期待したのもそのような発見であったと言えなくもない。

 ヴィヴァルディ VIVALDI, Antonio (1676-1741)のヴィオラ・ダモーレ協奏曲イ長調RV396は、よく歌う弦が心地よく、けれん味のない素直さは、イタリアの碧空を思わせる。プログラム中、もっともこのアンサンブルとの親和性を感じさせる選曲であったが、いっぽう、ヴィオラ・ダモーレの古楽奏法を身につけた今井の求心力によるところも大きいであろう。

 サンマルティーニ SAMMARTINI, Giuseppe (1693-1750)のブロックフレーテ協奏曲ヘ長調は、CDなどではちらほら録音もあるが、演奏会ではなかなか出会えない作品である。ハウヴェの完璧なテクニックに支えられたブロックフレーテが、全楽章を通じての聞きどころで、思わず引き込まれるほどに興奮したが、惜しむらくは、弦の数が多過ぎる。この演奏会全体について言えることだが、もう少し、曲によって弦の数を増減させるような音楽的配慮がほしかったところだ。

 エマヌエル・バッハ BACH, Carl Philipp Enmannuel のオルガン協奏曲ト長調Wq.34は、むしろフルート協奏曲ニ長調Wq.169として有名だ。いずれにせよ、この作者独特の、あの疾風怒濤を思わせる曲づくりの妙味は、この演奏会でもじゅうぶんに堪能できた。但し、第一楽章にはややばらつきが感じられ、オルガンと弦とが相互に弾きあっているかのような歯切れのわるさが耳についた。しかしそれも、第二楽章、第三楽章とすすむにつれ、両者が溶け合い、一体感を醸しだしてくれたことにホッとする。

 以上の楽曲のほか、当日は大バッハ BACH, Johann Sebastian (1685-1750)の協奏曲が二曲、演奏された。BWV1043とBWV1048であるが、いずれも手堅いテクニックで安心して聞かせるぶん、若い演奏家であればもう少し冒険があってもよかったのではないか、とも思わせる。

 さて、この演奏会を聞いて、何より強烈に感じたのは、こうした柔軟性に富む若い世代の演奏家たちの進出が、かつて語られたような、モダン楽器演奏と古楽器演奏の間の確執を、完全に無意味な、つまらぬものにしてしまうだろう、ということだ。「響き」という点に関してなら、古楽器とモダン楽器との間には、楽器の属性に起因する質的な、演奏者の意志や熟練では埋めあわせようのない本質的な差異が存在するが、それ以外の、すなわち技法、表現性、タイミング、調律などにおいては、これからは、古楽器を使うかモダン楽器を使うか、ということにおいて、音楽性における差異はなくなってくるのかも知れない、ということである。
 本サイトに掲載した、レオンハルトについてのエッセイ「反-存在に降臨するもの」においても述べたが、古楽演奏にとって不可欠な要素とは、演奏者が芸術家としての自我を徹底的に無化し、相対化することによって成り立つところの、作品への奉仕の姿勢にこそある。おそらくは、EWBAの若い音楽家たちが今回の演奏会を成功させたことの背景には、彼らがこれまで慣れ親しみ、そのなかにおいて相応の自らのスタイルを確立してきた、いわゆるクラシック音楽の演奏習慣から、一度は退却したところから出発せざるを得なかったことによる、ある種の「素直さ」が存在したのではなかろうか。その精神の高貴さから発せられる音楽であれば、使われる楽器如何ということは、二義的な問題に過ぎないということであろう。
 願わくは、これらの若者たちが、自らの技量によって称賛を博する日にあっても、この精神の高貴さを常に忘れたまわんことを。

  

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