ダンス・マカブル

デュッセルドルフ大学版画素描コレクション『死の舞踏』

●東京 国立西洋美術館 20001011日〜123
 


 

 いわるゆ『死の舞踏』と呼ばれる図像は、ヨーロッパ中世後期、兆しはじめた宗教動乱の予調であるかのように、不気味に忽然と姿を現した。それは、楽器や武器を手にし、あるいは踊りながら人々を誘い、あるいは勝ち誇って人々の上に君臨する、死者、骸骨を主人公としたものである。キリスト教の価値観を背景に、この世の権勢も世俗的な美も、形あるものはすべて死の勝利によって無に帰することを教える。すなわち、滅ぶべき現世的な名誉欲や物欲に依って生きるのではなく、永遠なるものとしての信仰の徳のうちに生涯を過ごすことを教えたのであった。
 今回の特別展は、こうした伝統に端を発し、以後、宗教的意識、デカダンス、戦争、性と、時代の精神を微妙に反映しながら、現代に至るまで連綿と描き続けられた、死の舞踏(Dance Macable)の諸相をテーマとしている。
 そんな死者と生者のありさまを描いた作品群を眺めながら、思いついたつれづれを記してみよう。


死とヒエラルキー
 これは、おもに後期ルネサンスまでの画像に言えることだが、ひとつは、作品中の生者の死者に対する注意のありかたに、ひとつのパターンがあるように思えることである。死の舞踏に登場するのは、教皇、枢機卿、司祭、王、貴族、貴婦人、商人、職人、農民、病者、子ども、とじつにさまざまだ。それはまた、誰に対しても、死は平等にやってくるということの象徴的諷刺なのだが、聖俗両面において、高い地位にある人物の場合は、自らに寄り添う死に対して、無頓着、あるいはそれに気がついていないような素振りがうかがえる。それに対して、社会的に低い地位にある者は、あきらかに死のほうを向いて意識しているか、あるいは、意識していない場合でも、死と仲良く連れ立って歩いているかのような、死に対して親和的な様子が見てとれることだ。それはまた、たんなる社会階層というところばかりでなく、人生の諸相における死に対する態度にも重なっている。図像にはしばしば「花嫁」が登場するが、花嫁はあきらかに、前者と同じ位相にあるのに対して、これもしばしば登場する「老人」は、後者と同じ位相に配されている。
 栄光は死との意識的距離が遠く、日常性はそれに近い。当時のヨーロッパの、心理的風景が見えてくるようだ。われわれ現代人は、どのように描き込まれることになるのか、それを考えてみるのも面白い。

死とユーモア
 一見して似つかわしくないものの取り合わせだが、初期の死の舞踏に登場する死者や骸骨たちの様子は、その名のとおりの手足の闊達な動作といい、顎の関節が外れんばかりに開いた大口といい、大股をひらいてとぼけたポーズをとったりと、けっこうユーモラスである。そのうえ、骸骨に表情を感じるのが面白い。そもそも、なぜ骸骨(髑髏)に恐怖を覚えるかと言えば、それがあまりに無表情だからだ。しかし、図像のなかの骸骨たちは、生者におとらぬ表情、すなわち感情をあらわしたものもいる。骸骨が感情を表していると言えば、それだけで漫画的なのである。(この展覧会とは関係がないが、ユーモラスな踊る骸骨といえば、チベット密教のタンカ(仏画)に描かれたチティ・パティとよばれる骸骨たちもいる。)
 死とユーモアが結託するのは、なぜなのだろう。死の恐怖を中和せんがためなのか。死を相対化することで、それを乗り越えようとするためなのか。あるいは、私たち人間の心のどこかに、死を笑いものにし、それを楽しもうとする衝動がうごめいているからなのか。いろいろと考えるにつけ、人間の心の深淵に迫る思いがする。
 もっとも、逆説的に考えれば、骸骨がおもしろおかしい姿態を呈するということ自体に、そこはかとない不気味さ、恐怖を感じるということもあるかも知れない。たんなる骸骨ならまだしも、これも死の舞踏のなかに頻繁に描かれる図像だが、腐肉のこびりついたままの死体やら、腹部から内臓が飛び出した死体などが、こけおどかしよろしく手足をくねらせて踊っている様子は、タッチの稚拙さを割り引いても、ユーモアどころかしゃれにもならない。それは、見る者に常軌を逸した衝撃を与えるし、そのことによって、より強烈に非日常としての「死」の観念を喚起させる。
 あるものを描くことで、そのあるものとは対極にあるものをより強烈に意識させる。「死の舞踏」は、じつは人間精神の深い洞察から生み出された、巧妙な心理的装置なのかも知れない


死と音楽
 「死の舞踏」を眺めていくと、その図像に、しばしば楽器が登場することに気がつく。多くは、縦笛、太鼓、ハーディガーディなど、中世からルネサンス期ヨーロッパにおける大衆的な楽器である。死と楽器、あるいは死と音楽。これもまた奇妙な取り合わせではある。図像のなかで、生者が死者に手をひかれて歩いているさまが、さながら、己の運命の終極に向かって行進しているかのような印象をあたえるところからすると、死者や骸骨たちの持つ楽器は、死へのマーチを演奏しているのかも知れない。そうだとすると、死に至る音楽とは、いったいいかなるリズムを持って、どのような旋律を奏でているのだろう。死を彩る音楽、と言えば、まず思い至るのは、古今のさまざまな作曲家によって書かれたレクイエムだが、これはあくまでも、生者が死者を悼む音楽、すなわち生者の側から書かれた音楽であって、死者の側から奏でられる「死へのマーチ」とはいささか趣を異にしていよう。もちろん私の想像に過ぎないが、死に至る音楽とは、マーチという連想からしても、案外歯切れのよいリズムに支えられた、明快な音楽なのではなかろうか。太鼓が登場することからも、そのリズム感のさまが思われるではないか。であればこそ、否応なく死に運命づけられた人間存在の有限性、人生の無慈悲な不可逆性を鑑賞者に強固に印象づける結果になるとも言い得る。われわれは、亡者の奏する、明快であるゆえになおのこと不気味にも思えるマーチに強いられるかのように、己の死へむかって日々行進させられているのである。

死と性
 性と死の連関が美術的関心の焦点になるのは、おもには19世紀後半、フロイトの思想的背景とともにである。むろん、デューラーなどにも死者と女性が抱擁しあう図像があるのだが、これはどちらかというと宗教的な意義付けがつきまとうのに対して、クリムト、シーレ、ムンクなどの描く性と死の図像は、あきらかに人間精神の深淵にせまる精神分析学の影響を感じてしまう。ひとつは、性と死の親和性を、人々が意識しはじめたということである。性的恍惚というものが一種の死の状態であるということは、決して理解に難くないところであるけれども、近代の性と死の図像は、そのことを視覚的に対象化しようとしたものなのではあるまいか。
 しかし、まったく別の解釈も成り立つことに言及しておこう。興味深いことに、死の表徴が男性であり、性を象徴する者がかならず女性であるという点にご注目いただきたい。女性の死者が、生ける男性と抱擁するという図像は、すくなくともこの展覧会のなかにあって皆無であったし、その他の場所でも、私は出会ったことがない。男性の性が本質的に能動的であり、女性のそれが受動的であるという定説に従えば、あまたある性と死のタブローのかげに、死によって支配される生、死の勝利、という構図がおのずと見えてくるとも言い得る。そうした意味では、中世以後、「死の舞踏」のイメージの根底はなんら変わっていないのだということも言い得る。
 それにしても、こうした二律背反的な意味を蔵した「死の舞踏」は、まことに不思議な魅力に満ちた作品群ではある。


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