多様性のバロック ・・・「ルーベンスとバロック絵画の巨匠たち」展

●1999年1月21日〜1999年2月22日  東京・伊勢丹美術館
 

 

キアロスクーロあるいは光と闇 
 今回の展覧会で、ただ1点公開されたレンブラント作品は、『石の台座に寄りかかる少女』(1645)である。ド・ピールは、この作品の巧みさを、外壁に掛けられたこの画を見た人々が、本物の少女が窓の外を見つめているのだと思い込んだ、という当時の逸話とともに紹介している。むろん、そこには誇張と脚色があるにせよ、そのような逸話を生ましめたのが、この作品全体を印象づける、見事なまでの明暗技法であることは言うまでもないであろう。明るい外の光が、暗い部屋から顔をだした少女を照らしだす。なるほど、もしこの画が外壁にあったら、その自然さに、人はしばしこれが画であるとは気付かないこともあったかも知れない。堀辰雄のいう「レンブラント光線」の魔法である。
  バロック美術の常套言語であるキアロスクーロは、しかし対象の自然のみを語るのではないことも確かだ。ボローニャ派、グイド・レーニによる『荒野の洗礼者ヨハネ』(製作年代不詳)は、暗い背景の自然と、まばゆいばかりのたおやかな裸身をさらすヨハネとの対照が魅力的だ。ヨハネへの光のあて方からするなら、その台座の暗黒や後方で祈る人々、さらには彼方の森の色彩は不自然であるが、じつはここでの明暗効果は、洗礼者ヨハネの秘蹟を表現して余りあるものといえよう。
  いずれにせよ、次にやってくる啓蒙主義の時代、理性の勝利の時代には、ついに光は闇を駆逐するのであるが、バロックは光と闇と、双方が同等の存在理由を以て緊張のなかに均衡する。そんな時代精神の本質が、芸術的言語のなかにまで結晶されているということだろう。

 

四大元素あるいは流転 
 ヨーロッパ美術において、風景画が自立した範疇を形成しはじめるのは、バロック期からである。それはあたかも、宇宙を構成する四つの元素としての、「地」「水」「火」「大気」に対する思い入れという、科学的探究の時代に照応する現象であるとも言い得る。今回の展覧会でもいくつかの風景画が出展されているが、わけてもロイスダールの『ハールレム近郊の風車のある風景』(1650頃)は、その一例として取り上げたい作品だ。一見、のどかなオランダの田園風景、おとなしい構図と主題のなかに、じつは構成的自然の流転のさまが如実に描き込まれているのだ。一所にとどまることを知らぬ水の動き、刻々とその形像を変化させる雲、風車は風すなわち空気の流動を体し、幹の皮の剥がれた樹木は永遠ならざる命の死と滅びへの転移を語るものであろうか、崩れ掛けた風車小屋の壁や民家の屋根さえも、生命を宿さぬものの朽ち果ててゆくさまを教えている。同時代の思索者、近代哲学の祖であるデカルトもまた、すべてのものは常に変転してゆく、と語るが、変化への興味はそのまま合理的科学の原動力ともなろう。しかしいっぽう、(おそらくはコインの表裏のような関係を持つものとして)変化の様相は非合理な人間存在の深奥と、神秘的ないし宗教的思惟にも人を導く。いわゆるヴァニタス(むなしき人生、天上の救済)の主題、東洋の言葉を借りれば諸行無常のことわりを説くのである。やはり同時代のスペイン人、イエズス会を創始したイグナティウス・デ・ロヨラは、人間の小ささ、人間的栄光の虚しさについて語っている。価値観が多元的に共存する、それこそがバロックの大きな魅力であるのだ。
 

生命の喜び
 
今回出展されたルウベンスは8点。そのいずれもが、日本初公開ということで話題をよんだ。それが意図されたものであるか否かはさだかではないが、うち4点は『豊穣の角を抱えるケレスと二人のニンフ』(1628)をはじめとした、裸婦を描いたもの、さらに1点は裸婦像ではないが、いかにもルウベンスらしい、ふくよかな女性の肖像画である。『バッキンガム公爵夫人キャサリーン・マナーズ』(1625)がそれだ。ルウベンスの描く女性は、例外もあろうが、たいていは豊満で、あふれんばかりの生命力の発露を思わせる、匂い立つような存在感をもって鑑賞者に迫ってくる。流転と無常がひとつの価値観であった時代に、これはまたアンビヴァレントな現象であるともとれるが、そもそも一枚岩ではなく多元的、凝集とまとまりではなく反統一がバロックの神髄であるということは、上にも見て来たとおりである。生きることの喜び、それはまた、現世の否定と人生の虚しさというコインの裏側に刻印された時代の真実というものであろう。唐突だが、澁澤龍彦によれば、女性はエロスの化身としてのウェヌス(ヴィーナス)と、大地と生命の化身としてのデメテエルとに、理念型的に分類されるという。ウェヌス(ヴィーナス)については説明を要しないだろうが、ちなみにデメテエルとは、3つの乳房を持つとされる古代ギリシャの女神で、多産と豊穣の神である。ルウベンスにとって、女性とは生命の力とよろこびを具象化する、デメテエル的存在であるのかも知れない。何しろ、ルウベンスの手にかかれば、ウェヌス(ヴィーナス)でさえもが、デメテエルと見紛うばかりの様相を呈してくるのだから。『ヴィーナスとマルスとキューピッド』を見れば瞭然だ。エロスというよりはヴァイタリティを感じさせる、肉付きの良いヴィーナスが、その豊満な乳房からほとばしる乳によってキューピッドを養う構図である。そこでは生のみが讃歌されるかのように、軍神マルスさえもが武具を投げ捨てているではないか。ルウベンスの生涯は不毛の宗教戦争、30年戦争に重なるのだが、そんな希望のない時代にあってのルウベンスの祈りが聞こえてくるようでもある。

デカダンス
 
虚しき人生(ヴァニタス)の自覚は、キリスト教の人生観と複雑に交錯しつつ、却って限りある生を謳歌しようという積極的な、ルウベンスのような前向きの快楽主義を生んだ。その指向は、ときに太陽王ルイ14世の豪奢のように破天荒ではあるが、基本的にはそれこそ太陽のような明るさをもった、健康的な本質を持つものだったと言えよう。したがって、いかに現世否定に傾斜しようとも、それをデカダンスとは言い得ない。ところが、人生の空虚が形而上的な宗教教義によってではなく、実際の現実的社会的側面に顕在化したとき、生命の喜びは精彩さを失う。消極的な、後ろ向きの快楽、それを人はデカダンスと呼ぶのだ。今回、ただ1点だけ出展されたワトーの作品は、『舞踏会の楽しみ』である。数多の登場人物たちの細部まで緻密に描こうとする手法には、あきらかにフランドル絵画の影響を感じさせるが、画面全体から滲み出るような甘い気だるさは、その緻密な構成が目立てば目立つほど、それが却って華奢で壊れ易い、泡沫のきらめきであることを教えているかのようだ。人々の表情にはまだあからさまな不安は見えないが、希望もない。背後で楽士たちが奏するのは、ガラス玉のなかで鳴る鈴のような、あのフランソワ・クープランのコンセールであろうか。18世紀ロココの雅びとは、迫り来る市民革命の恐怖に脅える、貴族たちの現実逃避が生み出した夢の破片なのだ。そうした夢をみることこそ、滅びに運命づけられた者の特権であると言えるだろう。その儚い美しさに、見るものは心を奪われるのである。人間の画一化を本質的要件とする近代市民社会が確立し、デカンダンスというものがもはや存在しない現在であれば、ワトーの世界はひとつの憧憬ですらある。
                                                                                                                                                                                


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