モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』ふたたび

指揮:鈴木優人 バッハ・コレギウム・ジャパン
2017年11月23日 東京オペラシティ・コンサートホール

 

   
 


 モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』のライブは、私にとって2度目の体験です。1回目はもう19年も前のこと、リチャード・ブーズビーのパーセルクァルテット・オペラプロジェクトによるものでした。
 今回の鈴木優人が率いたプロジェクトは、豪華な歌手陣と手堅い器楽陣を擁した、さらに素晴らしいものであったと思います。
 ふれこみでは「演奏会形式」となっていましたが、田尾下哲による構成は、中央にオーケストラを配し、その周囲360度を歌手たちのフィールドにあてるというもの。場面により、オケの左右、前後で物語が進行する非常にアクティブな舞台となっていました。歌手たちは衣装こそ通常の演奏会用のいでたちでしたが、完全に暗譜で歌い、適度な演技もこなすその上演は、むしろ「セミ・ステージ形式」と呼んでも差し支えないと言えるでしょう。
 歌手と器楽は、いずれも深みのある声、響きを聴かせてくれました。
 タイトルロールの森麻季のポッペアは、一般的に人口に膾炙している悪女のイメージとは程遠く、愛を追い求めるとても女性的なイメージでした。
 波多野睦美は、皇妃オッターヴィアの持つ矜持と強烈な意思というものを凛とした姿の中に歌い上げていたと思います。
 ネローネ役のRachel Nichollsは、その硬質な声が、役にぴったりでしたね。
 Clint van der Linde、男としてはちょっと惨めな役どころでしたが、このペルソナをこなせるのは、やはり優秀なカウンターテナーしかいません。
 セネカを歌ったDingle Yandellは、知的な声で魅了してくれました。ヴァレットがセネカをからかう場面、「もしあんたが私たちの皇妃様に助力しないなら、そのあごヒゲとあんたの書斎に火をつけてやるわ」という歌詞が省略されていましたが、なるほど、きれいにヒゲをお剃りのYandellのすっきりした容貌を思えば、カットに納得です。
 そのヴァレットとアモーレを歌った小林沙羅の、少年のように屈託のない、そして元気溌剌としたソプラノは、ハードなストーリーを持つこのオペラの中で、一服の清涼剤の役割を果たしていたのではないでしょうか。
 アルナルタとナトリーチェという、二人の乳母役をこなした藤木大地も、トリックスター的な役柄が光っていたと思います。
 ルカーノとネローネの二重唱、これは私的には、ちょっと謎に満ちた二重唱です。廷臣ルカーノがネローネとともに、ポッペアの美貌を讃える内容ですが、二人の旋律の絡み合いを聴くと、どうしても二人の間には、皇帝と廷臣という以外の関係もあったのではないかという。櫻田亮の歌声は、私のこの疑惑をさらに深めてくれました。
 セネカがメルクーリオの訪問を受ける場面で、天上界から降り注ぐようなメルクーリオの歌声を披露した加耒徹、このオペラの中でもっとも私が好きなシーンを完璧に好演してくれました。
 ドルシッラを歌った森谷真理は、恋する乙女そのものという感じが良く出ていました。
 器楽では、やはりコンティヌオの素晴らしさ、美しさが堪能できました。3時間以上、始めから終わりまで、ほとんど弾き通しのエネルギーも脱帽ですが、歌うように語り、語るように歌う、レチタールカンタンドを聞かせ支えるその力、つまりコンティヌオあってこその、今回の『ポッペアの戴冠』ではなかったでしょうか。率いた鈴木優人氏が、バロックオペラを聞かせるのも退屈に感じさせるのもコンティヌオ次第、というような趣旨のことを何処かで言っておられました。まさにその通りでしょう。あのアーチリュートやテオルボ、バロックハープの音色をいつまでも聴き続けていたい、そんな誘惑に抗うことが出来ません。
 もうひとつ、今回の公演で私が興味を持っていたのは、アラン・カーティス版によるという点です。アラン・カーティスは、ヘンデルやヴィヴァルディを振る指揮者として私の知るところでしたが、そのカーティスが校訂した版とは、如何なるものなのか。
 伝わるオリジナル譜(ナポリ稿とヴェネチア稿)には歌と低音部しか記されていないということから、関心の対象は、シンフォニアやリトルネッロ等がどのように扱われているのだろうか、ということでした。
 私が愛聴している『ポッペアの戴冠』は、1990年にルネ・ヤーコプスが振ったCD版です。それと比較すると、同じフレーズもあれば、まったく異なるものもあり、また、ヤーコプス版にはなく、今回のアラン・カーティス版による演奏で登場するフレーズもあれば、その逆もあり、ということで、たいへん興味深く、「ここでどんなシンフォニアが飛び出すだろう」と、少しワクワクしながら器楽隊を見守っていました。
 その中で、もっとも素晴らしいと感じたのは、皇妃オッターヴィアが歌う『さらばローマよ』の前後に挿入されたソナタ?です。リコーダーと低音楽器の奏でる荘厳な調べは、まさにこの場面にうってつけと言うべきだったでしょう。
  
 物語についてもふれておきましょう。
 作者ジョヴァンニ・フランチェスコ・ブセネッロは、タキトゥスの『年代記』に取材した史実をモデルにしてこの台本を書き上げました。ローマ皇帝ネローネとポッペアの、いわゆるダブル不倫が成就する物語です。
 その過程で、二人にとっての邪魔者が容赦なく排除されていく。一見不道徳で血腥そうに見えるこのオペラですが、じつはたった一人の登場人物を除いては、皆相応の幸福を享受して幕になるという意外性がひそんでいます。
 妻ポッペアに裏切られ悲しみと苦悩に呻吟するオットーネは、ネローネの正妻オッターヴィアからポッペア暗殺を強いられ、ネローネの逆鱗に触れるも、命だけは許され追放刑となりますが、最後はかつての恋人ドルシッラとの愛を再び見出し、彼女とともにローマを後にします。皇帝の愛人の命を狙ったとなれば、死刑も想像に難くありませんが、最後は愛する女性との生活に安息を見出していくのです。
 このオペラで命を落とす登場人物は意外にもただ一人。ネローネの不倫を諭し、道理を説いてそれをやめさせようとした哲学者セネカだけです。ネローネに自害を命じられたことによる自殺ですが、この死はまた、それまで自らが説いてきた哲理の具象化であり、さらに死後に至り神々の世界に列せられるとの天界の使者メルクーリオの宣託にもあるように、哲人セネカにとっては形而上的な幸福の実現であるように描かれています。
 ネローネとポッペアに関しては、最後に自分たちの思いを遂げ、結婚に至るわけですから、道徳的な価値判断はともかく、言を俟ちません。
 では、主要な登場人物のうち、唯一不幸な結末を迎えるのは誰か。もちろん、ネローネの正妻オッターヴィアでしょう。夫に裏切られた挙句、流刑に処されてしまうのですから、救いがありません。そのオッターヴィアは、オペラのなかで、二つの面を持つ女性として描かれています。
 ネローネの不倫に苦しむとき、お目付け役の乳母が「あなたも新しい恋を、復讐の恋をお楽しみなさい」と勧めますが、「名誉を失う女にはならない」とそれを拒否します。いっぽう、ポッペアに対する怒りに燃え、あろうことかポッペアの夫オットーネを使ってポッペア暗殺を企てたとき、その命令を前に躊躇するオットーネに対して「私の指示に従わないなら、あなたが私を力づくで辱めようとしたとネローネに讒言する」と、オットーネを脅迫するのです。オッターヴィアが体現するのは、女の神々しさと恐ろしさということになるでしょうか。
 それに比較すれば、道ならぬ恋に嵌り、周囲に苦しみの種を撒いている女であるとはいえ、ポッペアからは野心や悪意という「力」は感じられません。オペラの解説では、よくポッペアのことを、自分の色香を武器に皇帝ネローネを誑かし、皇妃の地位をうかがう悪女として説明されることもありますが、オペラのすじを追う限り、彼女が進んで他者を陥れようとする場面は、道学者セネカの悪口をネローネに吹き込むところだけです。
 むしろ、彼女を突き動かしているのは、ただ一途なネローネへの愛のようにさえ思えます。 
 また、愛の一途さは、いったんは離れて行った恋人オットーネを愛し続けていたドルシッラの愛くるしさにも顕れていると言えるでしょう。このオペラでは、一途な愛を求めた女性が、最後は幸せになっているようです。
 こうした女性の描き方と、それぞれの結末に物語的な必然性は見当たりませんが、もしかすると台本作者ブセネッロの女性観というものが書きこまれているのかも知れません。
 また、皇帝ネローネこそは、善悪に価値の基準を置かず、他の幸福を犠牲にしてまでも自分の幸せを手に入れる「暴君ネロ」の通称に恥じない横暴ぶりです。しかしその暴君も、オッターヴィアやオットーネの命までは奪わなかった点、そして何より、オットーネの命を救うために、己の身さえ顧みなかったドルシッラを「恋人を無私の勇気で守ろうとした気高き勇敢さは女性の鑑である」とたたえ、オットーネとともに生きることを許します。暴君ネローネもまた、愛に対する尊敬の念は持ち得ていたということでしょうか。
 かようにこのオペラは「愛の勝利」を主題にした物語となっています。つまり、プロローグの寓意的人物たちの会話にあるとおり、「愛の神の微笑ひとつでこの世界が変わる」という言葉どおりの展開になっているのです。
 『ポッペアの戴冠』のストーリーを評して、「400年以上も前に書かれたが現代的である」という言われ方がすることがありますが、私は少し違和感を覚えます。私に言わせれば「400年前も今も、人としての男女のサガは変わっていない」ということではないか、と思うからです。

 

 

  
トップページ エッセイ 物語と小説