【登場人物たち】

 日高美紀………本編主人公。東京の私立高等学校付属図書館の主任司書。二十五歳。
 日高幸三郎……美紀の父親。大学教授。西洋美術史を専攻。
 日高絹代………美紀の母親。幸三郎の恩師である皆川の媒酌で幸三郎と結婚。
 日高良一………美紀の弟。画家志望であったが統合失調症(作中では精神分裂病)を発症。
 神谷 明………美紀の恋人。出版社編集員。
 榊原一希………日高家の古い家族写真に写っていた、美紀の知らない青年。
 岡野少年………美紀が勤務する高等学校の生徒。カフカに関心を寄せている。
 皆川教授………大学における幸三郎の恩師。


  第 一 章


 「今日はもう平気だから、気にかけないでね。大丈夫よ。明日の夜にはお父様もお帰りのはずだから」
朝、家の玄関を出ようとして、ドアの冷たい真鍮製のノブに手をかけた時、背後から足音もなく近づいてきた母親の絹代が、あたりを憚るような、それでいながら、最早どのような周囲に対する気遣いもままならぬとでも言いたげなほどにやつれた様子をして、呟いた。
 「わかったわ、そのつもり」日高美紀はそう答えながら、ドアを閉めた。四月の、まだ何処となくひんやりとした感触の残る外気が、手指の先や首筋を擽るように愛撫した。いつもであれば、それは深呼吸したくなるほどにすがすがしくもある、季節の息吹に満ちた朝の挨拶に違いなかったのだが、この日の美紀は、絹代の、疲れ果ててなすすべもないといった表情に後ろ髪を引かれる思いを抱えたまま玄関を出ると、自らも寝不足気味な瞳をしょぼつかせながら、背後の自分の家───背の高い柊の生垣に囲まれた、とりたてて目立ったところもない、強いて言えば少し広いバルコニーと、よく手入れされた芝生や、その中に点在する自然石の趣が常に来客に賞賛されるくらいの、ありふれた二階建ての屋敷を、小さなため息とともに振り向いて見上げただけであった。
郊外の私鉄駅までの道すがら、よっぽど今日は勤めを休んでしまおうか、と美紀は思い迷った。父親の幸三郎は、二日前から大学の仕事のため神戸へ発っている。よりによって、 父が不在のとき、弟の良一が発作を起こすとは。
美紀は、自分や家族が投げ入れられた、理不尽と言えば余りに理不尽な境遇に思いを馳せるたびごとに、対象の定かではない怒りとともに、更に大きな悲しみを感じざるを得なかった。
職場や学校へと向かう、どことなく張りつめた印象を与える大勢の乗客の間に押し込まれ、他人の顔がすぐ近くにあるにもかかわらず、美紀は自分がひどく憂鬱に沈んだ表情をしているのがよくわかった。朝の電車のなかで、隣の人間にそのような顔をされることの不快さを思えば、いつもの美紀ならたとえ儀礼的にでも無表情を装うくらいの配慮は忘れなかったのだが、今日ばかりはそれもままならなかった。………
髪を振り乱し、身なりも何も構わずに良一を制しようとする絹代、その母親を力任せに突き飛ばし、怒号とともに調度品の洋ダンスや文机などをひっくり返し、窓ガラスや食器棚のガラスを次々と素手で割っては、手を血だらけにして泣きわめく良一。
あたかも地獄絵のような昨晩の光景を、心の中に思い描くにつけ、というよりも、それは意図とは無関係に、褐色の泡のように、執拗に意識の表層へと浮かび上がってきてしまうのであったが、美紀は自分の表情がどうしようもなく暗いものになっていくのを止めることが出来なかった。しかも、無理に平静を繕おうとすればする程、却って涙が止めどもなく流れ落ちてきてしまいそうな感じがして恐ろしくもあり、結局は、自分の居る場所だけがひどく暗い谷間ででもあるかのような、場不相応な様子のままでいるしかすべがなかったのだ。
電車が駅にすべり込み、僅かばかりの乗客の出入りのために、それまで身じろぎも思うにまかせなかった身体が、少しばかり自由になりかけたとき、美紀は、車輌の一番はしのドア際に、まるで逃げるようにして自らの身を持っていった。ドアが閉まると、頬には冷たい窓ガラスが押しあてられた。窮屈であることには変わりなかったが、この場所のほうが幾分かは気持ちも和らぐのだった。
吐息でぼうっと白くかすんだ窓越しに、東京近郊のありふれた景色が流れて行く。欅並木の続く街道や、野菜畑や、小さな家々が整然と屋根を光らせる新興住宅地。枝に淡い緑色の新芽をつけた雑木林の中を抜けると、それらのものの遙か背後に、多摩の連山がぼんやりと浮かんだ。
美紀はまだ迷っていた。やはり家へ戻ったほうが良くはないだろうかと。何にも増して、母親の絹代のことが心配であった。現在までにも幾度か弟が発作を起こしたことはあったが、それでも、母親に手を挙げるということは皆無だった。しかし、昨晩は明らかに、良一が絹代を突きとばしたのだ。むろん、それは絹代が良一の病的な行動を止めさせようとした際の、はずみの出来事であったとも考えられなくはない。絹代に対する乱暴な振る舞いはその一時だけであった。だが、もしもそれが、良一の病気の増悪の徴候なのだとしたら……。美紀は、ふいに口の中がからからに乾いていくのを感じ、軽い眩暈のようなものを覚えて目を瞑った。
やがて、電車は中央線との連絡駅である、国分寺駅の一番線に横付けになった。ドアが開き、ホームいっぱいに春服が咲き乱れ、幾つかの河をなしながら、改札口や乗り換え通路へと急いで行く。
 ラッシュアワーの、思いのほか秩序だって見えるその明暖色の波から、美紀は這いずるように脱け出し、売店の横に据えられた公衆電話のところへ駆け寄った。
「もしもし、お母様?、私、美紀よ。今日はやっぱり家にいるほうが良くはなくて?」
「いいえ、本当にもう大丈夫。ありがとう。良一さんの病気は、今にはじまったことでもないのだから……。それより、お仕事、まだ間に合うの?。早く行ったほうがいいのじゃないかしら」
周囲の雑踏や、列車が通過する際の轢音などに掻き消されがちになりながら、受話器の奥に聴く絹代の声は、はっきりとはしているものの、やはり生彩さを欠いた弛緩状態のうちに沈んでいた。そうでありながら、自分の娘に対する配慮のほどが、言葉のかげにはっきりと認められもする。美紀は歯痒さをかみしめた。
「良ちゃんはどうしてるの?。仕事へは、行ったんでしょうね?」
絹代の深い溜息が、ありありと伝わった。
「まだ眠っているのよ。ゆうべあれだけ暴れたのですものね……。せめて、せめて仕事だけでもきちんと行ってくれればいいのだけれど……」
受話器を置いた美紀は、重い足どりで乗り換え通路への階段を昇った。とにかく職場へは行こう、と思ったのだ。このまま帰宅してしまうことが、却って母親の痛苦を深める結果にもなりかねない。
虚ろな視線を定かならぬ一点に漂わせながら歩いているとき、一陣の風とともに、眼下に都心へ向かう橙色の電車が飛びこんで来た。夢から醒めたように頭を上げた美紀の身体が、刹那に支えを失って、脚が空を蹴った。長めのフレアスカートが、まるで石の祭壇に散った紺色の花のように翻る。脛のあたりに鈍い痛みが走り、手にしていたバッグが階段を転がっていった。
その小さなアクシデントの間を見はからうように、電車は轟音を残して走り去っていく。
自らの失態に苦々しい思いを禁じ得ないまま、瞬く間にホームにあふれて来る乗客たちの視線を避けるため、美紀は階段の下の隅のほうへ身を寄せた。スカートを少したくし上げて、痛んでいるところをのぞいてみた。肌色のストッキングが破れて、僅かだが血が滲んでいる。予備のストッキングも持ちあわせていない。折しも、信州へ向かう長距離列車が、けたたましい唸りとともに赤い矢のような素早さで、反対側のホームを通過していくところだった。
自らの置かれた立場とは何の関係も持たない、そんな列車の響きに耳を塞がれることに辟易しながら、美紀の胸のうちには、いつしか弟の良一に対する言いようのない苛立ちが芽生えていたのだった。…………

  ***

幸三郎の日記(その一)
一九八六年四月一*日
神戸。オリエンタル・ホテルにて。

今夜九時、やっと当地に着いた。東京での仕事を終えたその足での長旅は、私の体にはいささかきついようだ。明日の朝、多少早起きしてでも、朝一番の新幹線で来ることにしたほうが良かったのかも知れない。私もそろそろ無理のきかない年齢になりつつあるが、にもかかわらず、神戸での講義などを引き受けてしまったのは、いったい何故だろう。
何故なのか、などとさも尤もらしく自問することも、空々しく感じられないわけではない。その理由というものを明解な言葉で語り得る自信は私には無いが、かと言って、自らにも判然とせぬままになどと、まるで小説じみた言い訳で己を欺くことが出来るほどのロマネスクな時代は、私にとって既に遠い過去のものだ。
ひとことで言えば、それはある“息苦しさ”のためだろう。東京の持つ息苦しさだ。いや、違う。そんな曖昧な言葉で自らを囲いこむのなど、恥ずべきことだ。はっきり言ってしまえば、私にはあの家が息苦しいのだ。妻とは心が通いあわず、息子の良一は私を憎んでいる、そんな家庭というものが、どうにも重く、苦しい。神戸での仕事を引き受けたのは、確かに私の恩師である皆川先生の御依頼を断り切れなかったということもある。が、私の動機のうちに、家からの逃避という心情がはっきりした力として作用していたことを、否定することは出来ない。
他人が聞けば、父親として、そしてとりもなおさず夫として、何と冷淡で非情な人間かと思うであろう。無理もないことだ。他ならぬ私自身でさえ、そのような己の心の動きを垣間見ては、慄然とせざるを得なかった夜が幾度となくあるのだから。
私には愛情というものが備わっていないのだろうか。そもそも、私は何故、本来ならば人間にとって一番大切なはずの家族を、重荷と感じてしまうのであろう。
否、私としては、十分に家族を大切にしてきたつもりだ。父親として、また夫としても、決して満足のいくものとは言い難い面もあるだろうが、なすべきことは、そしてなせるだけのことを、やってきたという自負は抱いている。しかも、それらのことどもについての感謝を、妻や子供たちに対して求めようなどと考えたことも無かった。だが、私のしてきたことは、本当に愛情の故のものだったのか。私にはわからないのだ。そのような愛情のかたちもあるだろうと、誰かが言ってくれるなら、私の孤独な心も少しは慰められるかも知れない。しかし、それを自分で言うわけにもいかなではないか。
勿論、愛情の感覚的な理解というものを経験しなかったわけではない。遠い昔、やはり私も人並みに、と言うべきか、燃えかつ飛翔し、同時に何者かにがんじがらめに締めつけられるような、激しい感情に身を任せたこともあった。その当時のことについて、今更ながら事細かくここに回想しようという気持ちは無いが、あれが愛というものの形の唯一であるとするならば、やはり現在の私には、愛情が欠けているということになるのかも知れない。
そうであってほしくはないと、叫びたいほどの気持ちがあることは確かだ。しかし、私が愛情豊かな人間であるか否かを判断出来るのは、私自身ではあり得ない。そしてその資格を持った者を、私は生きるうえでの重荷と感じている。……
ただ少しだけ、弁解めいたことを言うのを許してもらえるとするなら、私は私の重荷を、放擲してしまいたいとか、見捨ててしまおうなどと、決して考えたことは無いということだ。妙な言い方かも知れないが、私が家族を重荷に思うのは、一種顛倒した愛情の姿なのではないか、と考えるときもある。あたかも、愛情と憎悪とが、同一のものの異なった性質であるのに過ぎないことに似て。だが、ああ、私はなんて手前勝手な理屈を捏造しようとしているのだろう。そんな自己欺瞞が大目に見られるほどの年ではない。馬鹿げたことだ。誰が納得しよう。私自身すら、苦笑せざるを得ないそんな詭弁に。
妻と心が通わぬことも、良一が私を憎むことも、もとはといえば私に原因があるのだ。今となっては取り返しのつけようもないこと、言い繕いようのないことではある。
私は私の十字架として、どこまでもこの現実を背負ってゆくつもりだ。それが私のせめてもの、罪ほろぼしというものであろう。
ホテルの窓から、散りばめられた夢のような夜景が見える。昔、大きな夢に駆られてイタリア留学に旅立った、まだ若かった私を乗せた飛行機が、夜のローマ空港に着陸しようとしていたとき、小窓から覗いた光景が甦ってくるようだ。あの頃なら、まだ手の打ちようもあった。だが私は、既に別のものにとり憑かれていたのだ。一度知ったなら遂にはそこから抜け出ることのかなわなくなる、麻薬のようなミューズたちの世界。そして、もっとも卑近な、唾棄すべき打算と世俗的野心の渦中に。……

   ***

「先生、どうかしたんですか」
まだ少年らしさの残る声がした。美紀は、現実の時間のうちに再び己を見出し、あたかも長い夢から醒めたときのように、それ以前の記憶をまさぐるかのような、戸惑いに満ちた表情を、ほんの一瞬ではあったが浮かべた。
窓からは、若々しい歓声などに混じって、戸外の白樺や楓の新緑に透析された、やわらかな陽の光が射し込んで来る。昼休み特有の、初々しい開放的気分が、壁の静物画や、開かれた本の上、未整理のまま机上に並べ置かれた目録カードのインクの文字などにさえ感じられた。この日の美紀にとっては、ささやかな慰めであったというべきだろう。
美紀の職場は、東京近郊の、とある私立高等学校の図書館であった。司書として勤務し、既に三年が過ぎた。書物に囲まれながらの今の仕事は、華やかさこそ無いが、どちらかというと派手なことを好まず、少女の頃から本好きだった美紀にしてみれば、それは天職のようなものであり、実際、司書の仕事は自ら志しての職業選択の結果であったのだ。
「ごめんなさいね、ぼんやりしてしまって」
美紀は、居ずまいを直すかのように、司書室のデスクを離れると、部屋の中央に置かれた応接ソファに、手を膝のところに組んで腰掛けた。テーブルを挟んだ反対側には、グレーのブレザーに臙脂色のネクタイ姿の制服を着た、一人の男子生徒が行儀良く坐っている。
「気分でも悪くなったんなら、僕、これで帰りますけど」
彼は遠慮深げに身体を浮かしかけた。
「いいのよ。ちょっと考え事してしまっただけ。あなたと話をしながら別のことを考えるなんて、私のほうが非常識だわ。良かったら、もっとゆっくりしていってちょうだい」
美紀は、朝の通勤電車の中で捉えられた、良一の病気の増悪という危惧の念につきまとわれていたのだ。憂鬱を無理矢理に呑みこんで、笑顔を浮かべた。
「じゃあ、最後に一つだけ質問してもいいですか。本当は、一番ひっかかっていたことなんです」
「何かしら」
相手の男子生徒は、やや俯き加減にテーブルに目を落とし、心なしか自信無げに、呟くように言った。まるで、そんなことを訊くのは幼稚なことだと、簡単に一蹴されるのではないかと恐れてでもいるといったふうに。
「結局、ザムザは何故、突然毒虫になってしまったんでしょうか。それが僕には、どうしても判らないんです」
その生徒は、今年三年生になった岡野という文芸部員で、たいへん読書好きなことで教職員や級友たちに知られていた。昼休みや放課後などにこうして司書室を訪れては、読んだ本の感想などを語っていくことがよくあるのだ。彼は、つい最近になってF・カフカの『変身』を読んだが、捉えどころが分からず難解だと、今しがたこぼしたばかりだった。 「難しい問いね。おそらくは何かの象徴としての意味があると思うの。でも、やっぱりすぐには答えられないわ」
美紀は、即答し得なかったことの言い訳でもするかのように、曖昧な笑みを見せた。
「あの冒頭で躓いてしまって、その先が素直に頭に入ってこないんです」
岡野は、今度は存外屈託無さそうな様子で言った。
「じゃあ、次回までの課題っていうことにしましょう。私も考えてみるわ。いつかあなたの答えも聞かせて頂戴」
やがて彼が部屋から出て行ったあと、美紀は思い出したように隣の開架室へ通じるドアを押した。幾人かの生徒が散々と机に向かっている他には、昼下がりの光が静かにリノリウム張りの床に降りてきているだけだ。美紀は書架の一番奥のところへ行き、一昨年入れたばかりの、フィッシャー版によるカフカ全集の一冊を引き抜いた。グレーのクロス地の装丁に、背中の金文字が謎めいて輝いた。無造作に頁を繰ってみる。Die Verwandlung 即ち『変身』は、ある気鋭の若手学者の新訳によって収録せられているはずだった。
そのとき、隣の司書室で電話が鳴った。美紀は手にしていた本を書架の元の場所へ戻すと、小走りに自分のデスクへ戻って受話器を取った。
「主任司書の日高さんに外線です」
事務員の声がそう伝える。外線と聞いて、美紀は思わず慄然とした。まさか自宅からではないだろうか。身体じゅうの血の気が、さあっと退いてゆくような気がした。
「もしもし、美紀さん?、僕だよ、神谷です」
しかし、受話器を通して聞こえてきた声は、フィアンセの神谷明のものだった。否、フィアンセというよりも、そうなるべき相手とでもよんだほうが正確かもしれない。婚約は、まだ漠然とした美紀の予感、しかも美しい期待に満ちたまどろみのうちに眠る予感なのだ。声を聞いた美紀は、途端に全身の緊張が緩んだようになって、デスクの前に座り込んだ。
 「なあんだ。明さんだったのね。良かった。……」
「良かったっていうのは、どういうことだい。まあいいや。ところで、今日の夜、逢えませんか?。是非話したいことがあるんです」
だが、美紀はどうしても家のことが気になってならない。
「ごめんなさい。今夜はどうしても、早く家に帰らなければならないのよ」いかにも歯切れの悪い調子で答えると、少しのあいだだけ、考えごとをするかのように黙り込んだ。
 「本当は、私もちょっとお訊きしたいことが、あるにはあるのだけれど……」
「何です?」
明は現在、都内に本社がある総合出版社の編集部に勤務しているのだが、大学は独文科を卒業したはずであった。そのことに思いあたった美紀は、カフカの『変身』の解釈についての意見を質してみようと考えたのだ。
「いいえ、直接会ってお話するわ。たいしたことではないのだけれど」
「そうですか。そのほうがいいかも知れないな。それなら今度の週末はどうです?」
良一の状態次第ではそれも危ういところだったが、明に会いたいという気持ちが約束の言葉を口にさせた。
「それじゃあ、土曜日の二時半に、国分寺駅の改札で」
「ええ、二時半ね。今日は本当にごめんなさい。悪く思わないでいてくれる?」
「勿論さ」
「そう。良かった。安心したわ」………
電話が切れたとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが図書館にも流れた。美紀はデスクに向かったが、あるわだかまりが胸のなかを去来し、それが小さな痼となって、仕事がうまく手につかなかった。真新しい目録カードに、更級日記、翻刻、校注と丁寧な楷書体で記入したところで、息の詰まるような、辛さと腹立たしさとが一緒くたになったような、自分でも説明のつかない感情に巻き込まれた。定かならぬ一点を見るともなく見つめて、司書用の極細のペンを指から離したとき、深いため息が、まるで季節外れの風のようにこぼれ落ちた。
良一のせいで、明との逢瀬がふいにされた。そんな思いが、理性の届かぬ心の深層から、ゆっくりと立ちのぼってくるのを感じたのだ。
夕方、美紀は、重々しくはあるが、それでいて何かに急き立てられるような足どりで、駅からの家路を辿った。最後の四つ角を曲がると、道路の突き当たりの右側が美紀の家だったが、夜目に黒々とした背の高い柊に囲まれているため、周囲の家々が灯す団欒のあかりの中にあって、そこだけが暗く深い翳を形づくっていた。一対の狛犬が守る玄関の門柱の前まで来て歩みを止めたが、家の中はひっそりとしていた。黄色い門燈だけが、煌々と中に人の居ることをつたえている。美紀は家の中へ入り、自分でもおかしなことだとは思いながら、そっと息を殺して、玄関のドアを閉めた。
その気配を察したらしい絹代が、奥の部屋から廊下に姿を見せ、美紀を出迎えた。
「お帰りなさい」
絹代は寝間着の上にガウンをまとって、一見して朝から同じ恰好でいたことをうかがわせる。髪も起き抜け同然であった。
「良ちゃんはどうなの?」
美紀は絹代を追い越すようにして、居間へ入っていった。良一が割ったガラスや陶器の破片は、きれいに片付けられている。絹代が一日がかりで始末したのだ。ガラスの一枚も入っていないサイドボードが、異様なもののように目に映った。
「もう夕べのようなことは無くなったけれど、今日はずっと私のいるところへ顔を出しては、いろいろなことを言うのよ。少し疲れてしまったわ」
絹代は、以前と比較するとひとまわり以上も小さくなったかと思われる身体を、やっとの態でソファに沈めた。
「いろんなことですって?」
「この家を呪ってやるとか、壊れた食器やガラスを片付けるときにね、絶対に音をたてるなって。がちゃがちゃさせるのは、自分への当てつけだと言い張るの。一日中、良一さんに監視されているようで、もう神経がまいりそう。良一さんの病気が悪くなるといつものことだけれど、こういう日ばかりは本当に逃げだしたいくらいよ」
疲れのためか、絹代の声は幾分嗄れ気味で、まるで乾いたしわぶきのように聞こえた。美紀は立ち尽くしたまま、ひたひたと寄せ来るような悲しみに包まれながら、居間の虚空に目をやった。天井から下がったシャンデリアの幾本もの灯が、目に痛く感じられる。その光を、あたかも古代の輝く太陽のように受けながら、縦にすれば大人の背丈ほどもあろうかと思われる、一枚の大きな装飾付き額縁に入った画が、部屋の白い壁の上半分を覆っていた。ボッティチェリの『ヴィナスの誕生』の模写であった。この画は、美紀がものごころついた頃、既に幸三郎が所有していたものだった。白い肌も露に、恥じらいを含んだ様子を湛えて、己自身の誕生に戸惑うかに見えるヴィナス。しかし、その長い金色の髪や、澄んだ瞳などには、天上的な侵し難さのようなものをはっきりと読み取ることが出来た。一方、ヴィナスを岸辺に吹き寄せる西風の化身ゼフュロスと、彼の身体に手足をまとわせながらともに宙に舞うニンフのフローラとの姿は、その肢体に漂う官能的な響きのため、昔から、美紀は頬を朱らめることなしには見ることが出来なかったものであった。勿論のこと、この画の持つ、まるで愛の理想の具象化のような美しさに、美紀は瞠目せざるを得なかった。ただ、その感動には、どこか醒めた諦めに似た陰影がつきしたがってもいたのだ。画面に思わず呑み込まれてゆくような、あるいは、この画によって自らが圧倒されるような、そんな切実な内的経験というものを伴わない、いわば外部的な印象としての美的体験にしか過ぎないものなのであった。単に嗜好のためとも思われない。美紀にとっては、愛を主題としたこのイタリア・ルネサンスの最高傑作が、しかし決して自分たちには、愛を語りかけていないように思えてならなかったのだ。
反対側の壁は、幸三郎の蔵書が埋め尽くしていた。欧文で書かれた美術書や図版集成などが殆どだったが、それらの背表紙の鈍くくすんだ色調が、何時しかこの家の醸すイメージとして、美紀の意識の奥底に染みついていた。全体として、ありふれてはいるが、どことなくクラシックな余韻を漂わせていたこの家に、美紀は深い愛着の念を覚えていた。ただ、居間のボッティチェリを除いては。
そして、物静かな母親、大学で美術史を教えながら音楽などにも造詣の深い教養人の父親を誇りに思ってもいた。いつか自分が家庭を持つようになるとき、それはきっと自らが生まれ育ったような、柔和でしかも古典的な調和を湛えたものになるに違いないと、まだ初々しい少女の頃から美紀は疑わないで来たのだ。
だが、その夢に暗い翳が兆しはじめたのは、皮肉にも、美紀が結婚というものにふさわしい落ち着きと美しさを身につけた年頃からのことであった。
「自分を中心にしてしかものを言わないんだから。子供じゃないのに」
美紀はそう呟きながら、ソファに腰を降ろした。全身で支えていた一日の疲労が、いっせいに辺りへ溶け出していくような気がした。
「病気なんですもの。仕方がないわ」
「やっぱり、今日は私が家にいたほうが良かったのではなくて?。良ちゃん、私のいる前では、比較的落ち着いていることが多いみたいだもの」
良一の発作は、たいてい、美紀のいないときに起きているのだ。その点から考えても、昨晩の出来事はいつもと違っていた。弟の病態は少しずつ悪くなっている。このまま放っておくわけには絶対にいかない。美紀は、背後にぞっとするほど冷やかで不吉な感触を覚えて身体を凍りつかせ、呆然と母親を見つめた。しかし、さしあたって何をどうすれば、事態が少しでも明るい方向へ動きだすというのか。それが判らなかった。
「お母様」美紀は、ことさら声を押し殺し、呻くように言った。「良ちゃんを何とか入院させましょう。そうでもしなければ、良ちゃんばかりじゃない、お父様やお母様までが本当にだめになってしまうわ」
「良一さんがその気になってさえくれれば、すぐにでもそうしたいのだけど」
絹代は小さく息をついて頷いた。良一は、頑として病院へ行くことを拒み続けてきたのだ。
まるで同じ絶望を呼吸するかのような沈黙が、二人のあいだをしんしんと満たしていた。
 静かな春の夜。時間の移りゆきの感覚さえをも忘却の底に沈めんばかりの静寂をぬって、暗く細い風のそよぎにも似たヴァイオリンの音が洩れ響いてくることに気がついた。良一のアトリエからだ。
「またあの曲が………」
美紀は呟いた。バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番。アルマンドの第二展開部からクラントに至る旋律が、ひたひたと寄せ来る波のように流れてはついえ去ってゆく。父親の影響のゆえか、もともと音楽を好んで聴く習慣のある良一のことだったが、精神に変調を来して以来、何故か執拗ともいえる熱心さで、バッハのこの曲のレコード(それは幸三郎の所有していた、シェリングによるステレオ盤だったが)を繰り返しかけるようになっていたのだ。
絹代は、そのヴァイオリンの音に苦しめられでもするように、瞳に辛そうな色を浮かべながら俯いていた。




  第 二 章


翌日、美紀が仕事を終えて帰宅してみると、父親の幸三郎の靴が玄関に揃えてあった。関西から戻ってきたのだ。幸三郎が研究室を持っているのは東京の大学であったが、週に一度だけ、神戸の小さな女子大へ行き、芸術論の講義を受け持つことになっていた。いつもならせいぜい、一晩か二晩だけの旅行ですむのだが、今回は、知人の洋画家が京都で個展を開催したのを機会に、その画家のもとを訪れることになっていたため、三日ほど家を空けた。折悪しく、ちょうどそのときに、良一が発作を起こしたのだった。
美紀は、周囲の気配を察するかのように、心持ち息をひそめながら、玄関から続く廊下を辿った。良一が病気になってからというもの、自分の家の中でさえ、そのように神経を研いで生活するようになっている。ほんの些細なこと、例えば、ドアの開閉の音が響き過ぎるとか、他愛のない冗談話で笑いを浮かべたとか、その程度のことどもが、どうかすると良一の発作を誘う引き金となることがしばしばであったからだ。尤も、そのような良一の異常な感受性は、常に絹代や幸三郎に対して向けられてきたのだが、まるで腫れ物に触れるかのような両親の良一への言動や立ち居振舞いが、この家の空気を介して、何時しか美紀にも感染していたのだった。
「お帰りなさい。お父様」
そう言いながら居間に入ったとき、美紀は、あたりの雰囲気が一瞬張りつめたような脚の竦みを覚えかけた。それまで絹代と幸三郎との間でおそらく交わされていたであろう、重苦しい会話と沈黙の循環の余韻が、美紀の頬をひたと打ったのに違いなかった。が、そんなことには全く気にもとめない素振りを装って部屋に入り、ドアを閉めた。
「お前にも心配をかけてしまったな、美紀。もう少し早く帰って来るんだったよ」
幸三郎は気の毒そうに娘の顔を見た。
「仕方がないわ。お仕事ですもの」
美紀はソファの片隅に腰掛けた。
「どうして電話の一本でも入れてくれなかったんだ?。仕事といったって、半分はつきあいのようなものだ。京都へ寄る機会は今度だけじゃないさ」
絹代に向けてとも、美紀に対してともつかない曖昧さで、幸三郎は言った。
「でも、せっかくの機会だったんですから。お忙しければまたいつ寄れるとも限らないじゃないですか」
絹代はどこか言い訳めいた口調で答える。
「私に遠慮することはないんだよ」
幸三郎が、心なしか辛そうな表情を浮かべたように美紀には思えた。
「遠慮だなんて、そんな……」と、絹代は口籠もり、眼を伏せた。
「このぶんでは、いずれ神戸での仕事は断らなければならないかも知れないな」
幸三郎はテーブルの上の煙草入れから茶色い紙を巻いた外国煙草を取り出し、火をつけた。何か自分というものに思い切りをつけるとでも言うように、大きく吸い込んでは煙を吐く。
「それよりもお父様、何処かに良い病院は見つかって?」
美紀が訊いた。家にいるだけの絹代や、まだ若い美紀にはとてもそんなあてがあろう筈もない。必然、病院探しは幸三郎の役割となった。
「うむ」と、幸三郎は少しの間をおいた。「全くあてが無いというわけじゃない。家族会に問い合わせてみたところ、この近郊では、K…市にひとつ、ここならという所がある。
ただ、どうやって良一を説得するかだ」
天上のシャンデリアの灯が、紫の煙と戯れては拡散して四隅の薄暗がりへと溶け去ってゆく。そんなとりとめもない光景を、美紀はぼんやりと見つめていた。
「良一さんが、この人の言うことなら、と思えるような方がいればいいのだけれど」
絹代は心底から困り果てた様子をあらわにして、まるで祈るように頭をたれた。
「私たちの言うことは到底聞き入れんだろうからな」
幸三郎も、なす術を失ったというように、腕を組んだまま眼を閉じた。そのとき、居間のドアが勢い良く開いた。ひんやりと重たい空気が廊下から流れてくる。美紀たちは一様に緊張して、平静を装った。良一だ。
「お帰りなさい、お父さん。ああ、姉さんもいたんだね」
良一は居間に入ろうとせず、落ち着きなく突っ立ったまま口早に言った。発作のときの切迫した鬼気は既に無いが、どこか尋常さを欠いた、せかせかと何ものかに追い立てられているような印象を与える。やせて背の高い良一が、黒っぽいガウンのような部屋着を纏ってぬっと立っている様には、まるで冥府の使者のような不気味さがあった。
「良一さんもこちらへいらっしゃい。お茶でもいれましょう」
絹代は気遣わしげに声をかけて、ダイニング・ルームへ立とうとした。
「いいよ、いま勉強中なんだ。またあとでもらうよ」
良一はやはり落ち着かない素振りで、アトリエになっている奥の自室へ引き上げた。
「勉強?」と、幸三郎は絹代のほうを見やる。
「画ですよ、きっと」絹代は小さな声で答えた。
「そうか。まあ、良一の好きにさせるしかなかろう」
緊張のあとに来る弛緩が、神経的な疲労の感覚と混ざり合う。やがてその狭間から、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番が静かに聞こえてきた。………
良一が発病したのは、半年ばかり前、ちょうど去年の秋口のことであった。ふとしたことで父親と口論になり、それが契機となった。その頃、といってもそれは現在でも変わらないのだが、良一は美大受験に失敗し、浪人生活を続けていた。三度目の入学試験にも不合格であることが判ったとき、ついに幸三郎は、美大を諦めて何か職に就くようにと忠告したのだ。画は趣味でも続けることが出来る、人間は仕事をしなくてはいけない、と。幸三郎は、三度目の受験の失敗を最後に、予備校の授業料を出さなくなった。良一は自宅で受験勉強をしながら、渋々ではあるがPOPデザインのアルバイトなどを始めたのだった。しかし、そのような生活が良一の満足のいくものである筈はなく、度々幸三郎との間で、予備校へ行く行かせない、アルバイトを続ける続けないで揉め事を起こした。実際、良一は勉強のためと理由をつけては、頻繁に仕事を休み、一日中アトリエに籠もっていることも多く、アルバイト先から叱責の電話を受けることも度々であったのだ。やがて、良一はそこの従業員の一人と喧嘩をしたことをきっかけに、仕事をやめてしまった。自分の仕事に注文をつけられたのが気に入らず、帰宅してからも、あいつら(と職場の同僚たちを指して)はろくに才能もないくせに生意気だ、などと息巻く始末であった。
そのことを知った幸三郎は激怒した。父子は口論となったが、ついに幸三郎は良一に対して、「画で身を立てていきたいのだろうが、お前にそんな才覚はない」と言い切った。父の宣告を聞いた良一は、まるで理性の箍が弛んだように暴れだした。専門家が診ればこの日以前にも何らかの兆候を指摘することも出来たのだろうが、他ならぬ日高家の人々にとって、良一の症状の発現に苦しめられるようになったのは、このときからであった。
それから事あるごとに、絹代や幸三郎の取るに足りないような言動を気に入らないとあげつらっては、家の中のものを手当たり次第に破壊し続けた。幸三郎に向かって、「あなたは学者としても芸術家としても三流以下だ。趣味でも画は描けるなんて卑劣なことを言う。僕はそんなあなたの下で、ずっと堪えてきたんだ」と怒鳴り散らし、蔵書や図版集を片端から引き裂いていった。本棚のガラスを素手で割り、手を血で染めあげた。その様子は、単なる怒りの感情の表出であるとか、不満をぶつけるなどといった、生易しい言葉で説明し得る範囲のものでは到底なかった。目が据わり、両の手が無意識のうちに振戦するさまは、誰に対しても、良一が普通ではない、何か病的なものに取りつかれているという確信を与えるに、十分であったに違いなかっただろう。

   ***

 幸三郎の日記(その二)
         一九八六年四月二*日
                東京。自宅書斎にて。

神戸のほうは休講とする。だいぶおさまってきたとは言え、良一の状態が取り敢えず回復しないうちは、やはり泊まりがけで仕事をするわけにもいかない。昨年も、あちらの大学には幾度となく迷惑をかけてしまったが、今年も同じような調子では、私としても心苦しい。皆川先生には申し訳ないが、今年度いっぱいで神戸の仕事を打ち切らせていただき、あとは東京での仕事に専念させてもらったほうが良いのかも知れぬ。長い目で見れば、神戸の仕事をご紹介くださった皆川先生に対しても、そのほうがご迷惑もかからぬというものだろう。
それにしても、今回、私の不在中に良一の発作が起きたとき、どうして妻は連絡ひとつ寄こさなかったのだろうか。良一の調子がおかしいとき、私はいつも、可能な限り早く帰宅したし、仕事を休むこともあった。勿論、私はこうした事例を恩に着せるつもりは全く無く、むしろ当然のことであると考えてもいる。つまり妻の不興を買わなければならない理由を見出すことが出来ないのだ。とすれば、やはり妻は私に対しての遠慮から、連絡を寄こさなかったのに違いない。今回は、京都のK…君のところへ寄ると言っておいたから、尚更であったのだろう。あるいは、私が知らないだけで、これまでにも度々、同じようなことがあったのではなかろうかという気もしてくる。
一事が万事というべきであろう。妻は私に気をつかい過ぎるのだ。昔から、そうだった。
 妻は、私が言うこと、私の提案、主張といったものに対して、異を唱えたことがなかった。神戸での仕事の話があったときにも、そんな重大な案件であるにもかかわらず、妻は「あなたがよろしいのでしたら、私は何も……」と遠慮がちにしか言わなかった。無論、夫婦の間柄であっても、然るべき節度や礼儀というものは必要だろう。だが、それは不自然な畏縮の印象を感じさせる他人行儀の遠慮とは異質であって然るべきものではないだろうか。
だが、私には、妻の行き過ぎた遠慮の理由、普通とは言い難い気遣いの因って立つものが何であるか、なんとはなしに分かってもいるのだ。彼女の、どちらかといえば古風な育ちのためだけではない。妻は、私に対する負い目の念から、常に遠慮し、畏縮し続けてきたのだといってよい。
それにしても、妻の抱く負い目の感情を、この私はどう見ているのだろう。こればかりは、率直な言葉のみによっては如何とも表現し難いところだ。私が自らに対して不正直なためだけではない。実際に、単なる一元的な感情を形容する語彙だけでは、却って己の気持ちを偽る結果になりはしないかという不安がある。例えば私は、妻が私に対してみせる、おどおどとした、自信のない、私への借りを意識したような態度を目にしたとき、どうしても苦々しい思いを抑えることが出来ない。当然ではないか。あたかも私が妻に対して、夫の立場を嵩にかけた絶対的な権力を持っているかのように見られるのは、何としても心外だ。また例えば、一方では、私はそんな妻を気の毒に思えてならないのも事実なのだ。自らの伴侶に対し、そういつまでも不自然な気遣いをすることの、心理的な負担はいかばかりであろう。私に気を遣い、それ以上に、良一のことで神経をすり減らしながら生活しなければならないとは、やはり可哀相なことだ。彼女にとって、この家はまさに苦しみの褥のようなものではないか。私たちのようになってしまえば、何ほどかのことを口にしてみたところで、そう簡単に気持ちが通じるというものでも無くなってしまっているが、もっと気を楽に持つようにと、真実いたわってやりたいときが私にもある。
しかし、悲しいことに事実なのだから認める他はないが、私の心の中には、妻のそんな苦しみを、当然のことのように考え、冷厳に見据えている自分自身というものがいる。これは受くべき当然の報いなのであると、やはり言葉には出さないものの、妻を冷たく見おろすことがあるのだ。
互いに相反する感情が私の内部には混在しているわけであるが、さて、いずれが最も真実に近いのであろう。やはり答えることは難しい。いずれもが真実であるとしか、答えようがない気がする。ただ、付け加えることがあるとするなら、私がこうしたことを考えてしまうというのは、いま現在でも、心の底のどこかで、私が妻のことを許していないということの証拠であろうということだ。勿論、私に妻を咎める資格のないことは分かっている。だからこそ、私はこの家で生きているのであるが。……
いつの間にか日付が変わったようだ。今夜はどうしたことか、睡魔がやって来ない。疲労も度を越すと、却って眠れなくなるもののようだ。K…君が贈ってくれたレコードにでも針を落としてみよう。パレストリイナのミサ曲、そしてジェズアルドのマドリガーレ集の二枚がある。思い出したように、いにしえの音楽に耳を傾けてみる。これが今の私の、生きてゆく上での他愛のない愉しみであるというべきかも知れぬ。

   ***

約束の土曜日、美紀は神谷明と会うために、国分寺駅の改札を出た。会社からそのまま駆けつけたらしい明は、細身の背広に鞄を手にして、美紀を待っていた。心なしか風の軽い午後の雑踏の中で、美紀と明は、互いの姿をほぼ同時に認めた。
「この前はごめんなさい。家のほうでいろいろあったものだから」
明の顔を見るなり、美紀は言った。
「そんなこと、気にしてやいませんよ」
今の季節にふさわしい快活さで、明は応えた。こういうあっさりとしたところが、美紀は好きだ。自分には無いものだと思った。
「天気もいいことだし、どうです、湖でも見に行きませんか」
明は美紀を誘った。
「ええ、何処でも御一緒するわ」……
二人をを乗せた私鉄線の電車は、美紀が毎日乗り降りする小さな駅を無造作に通り過ぎ、春の午後の光の中をまどろむように走り続けた。電車が小さく振動するたびに、自分の肩が明の腕に触れるのが心地よかった。二度目の乗り換え駅で、湖へ行く電車を二十分近くも待った。そんなふうにしてやり過ごす時間さえもが、美紀にはかけがえもなく幸福に感じられる。漸くやって来た電車は、やがて少しづつ、淡い緑をなす丘陵地帯の起伏や、それらの中に時として混じりながら咲く白い馬酔木の花などを窓に映しながら、短い線路の上をころころ転がるような律儀さで走った。
十分もしないうちに、右手の車窓に狭山貯水池の堰堤が黒々とした姿を現した。すると間もなく、電車は湖の麓の駅に着いた。
「いちどだけ、小学生の時に、遠足に来たことがあるのよ。あの頃はまだ野球場なんて出来ていなかったわ。それにね、古ぼけた、マッチ箱みたいな電車で……」
美紀は懐かしそうに笑った。
「それ以来、はじめて?」
明は意外だという表情をする。
駅の左手には、丘陵の一部を削って、場不相応にも感じられるほどの大規模な野球場が、鉄道会社の手によって造られていた。それは美紀の記憶には無いものだったが、一方、湖へと延びる右手の静かな道は、昔日の面影そのままであった。湖は杉木立に囲まれた観音堂の更に奥にあり、道はそのまま観音堂の参拝路でもある。
堰堤へと続く緩慢な坂道を、美紀と明は息を切らしながら登った。やがて、坂をあがりつめて暫く行くと、広々とした公園の片隅に、貯水池を管理する水道局の事務所が見えてくる。同じように春の午後を過ごしにきた人達が、午睡を誘うかのような光の中で浮き沈んでいるようだった。
一足先に堰堤の上へ走っていった美紀が、明に手を振った。
「素晴らしい眺めよ、明さん、早くいらっしゃいな」
「本当だ、なんて清々しいんだろう。見てごらんよ、あの遠景を。ちょっと幽玄な感じさえする」
遅れて来た明は、背広の上着を手に持って、湖水がぼうっと霞むくらいの彼方を指さした。
湖は三方をこんもりとした水源林に囲まれていた。それらの雑木林は、ところどころで黄緑色の新芽に彩られたり、ほぼ散りかけた桜の、まだ辛うじて残っている花弁によって赤く輝いたりしながら、しかも全体的には、春特有の、あの紫色の透明なヴェールをかけられたような、雅びやかな雰囲気を漂わせていた。そのちょうど真ん中、天空の薄い雲を映し、滑らかな陽の光を受けながら、茫洋とした湖水が銀の皿のように横たわっている。
明の真白いカッターシャツが、ふと眩しく見えた。何という幸せな解放感だろう。美紀は、良一の病気のことや、父と母が呼吸している苦い日常のことなどをも、このときだけは意識の表層から追いやることが出来るように思うのだった。
「美紀さん、実はね、このあいだ僕が話そうとしていたことだけれど……」
不意に、明は美紀のほうへ向き直り、涼しく澄んだ黒い瞳で見つめた。殆ど意図する間もなく、美紀は優しげな微笑みを送り返した。
「近いうちに、郷里の僕の両親に会ってもらえないだろうか。君を、紹介したいんだ」
明は、まるで自分の照れ笑いをごまかすためであるかのように、遙か遠方で湖水と丘陵とがぼんやりとひとつに溶け合ったあたりに、視線を投げやった。
「明さんの、ご両親?」
美紀はほんの刹那、言葉の意味を解しかねるというように、明のことを見た。しかし、その判断停止の状態は、湖を渡る風が小さな波をほんの僅か移動させるよりも早く、脳裏からついえ去っていた。
水面から舞い上がった鳥が大きく曲線を描きながら虚空を切り、青色の屋根を持った、どことなく物語りめいた感じのする取水塔の上を掠めるようにして飛翔しながら、遠くの丘陵の中腹あたりに見えなくなってゆく。美紀の胸の内に、あたかもひとつの新しい季節が花開いたかに思われた。それも、美しい喜びに満ちた音楽のような季節が。
「ええ。僕が心に決めた人としてね。美紀さん、結婚してくれませんか、僕と」
返す言葉を探して、美紀は動顛した。
「明さん、……」何かを言葉にしようとするのだが、言葉にならない。そもそも、自分で何を言おうとしているのかすら、頭の中で整理できずにいた。
<結婚してくれませんか>その言葉だけが、周囲の風景や自らの存在そのものからさえも切り離されて、頭の中でいつまでも反復してゆくかに感じられた。いつか聴いた覚えのあるモーツァルトのアレルヤ唱のように。その言葉だけが翼を得て天を駆け、すべてのものの色彩を鮮やかに塗りかえてしまうかのようであった。
いつかは明を自分のフィアンセと呼べる日が来るだろうと、美紀は思っていた。返す言葉を忘れたまま、黒い大きな瞳をなおのこと丸くして、明を見た。
“一日は一世紀よりもながくつづく、そして睦みあう抱擁は終りを知らぬ ”
そんなパステルナークの詩句が、記憶の狭間から浮かんで来る。美紀は言葉を返すかわりに、そっと明のもとへ身体を近づけようとした。洗いたてのシャツの香りが、微かに漂った。全てが、静かに樹木を染め上げてゆく春の息吹でさえもが、自らのためだけに存在しているかのようにみえた。
だがそのとき、思いもかけなかったひとつの気掛かりが、ぽつりと影を落とした。良ちゃん………。それは水面の波が八方に拡がってゆくように、美紀の感情を乱しかけた。美紀は、精神障害をもった弟のことを忘れていたのだ。
「明さん、すごく嬉しいの。でも、あまりにも急で、私、どう御返事してよいかわからない。ごめんなさい、もう少し、お時間をいただける?」
途切れながらではあったが、自分でも驚くくらい冷静に言葉が口をついた。
だが、内心は必ずしもそうではなかった。幸福を歌うアリアが、突然の悲しみを告げる劇的なレチタティーヴォにとってかわられる、そんなオペラ・セリアの一場面を想像しては、かき乱されそうな感情の渦を鎮め、自らを納得させようとしたが、たった今まで美紀を酔わせていた音楽と詩は、ついに戻っては来なかった。
「勿論、今すぐにとは言わないさ。でも、きっといい返事を。信じているよ」
明もまた、少し悲しげな表情になりながら、笑いかけた。「君となら、幸せな家庭を築けそうな気がするんだ」
暫くのあいだ、二人は黙ったまま堰堤に沿って歩いた。美紀は言いようのないもどかしさと、哀しみの入り混じった、切ない気持ちでいっぱいになりながら、俯いてばかりいた。本当は、明の腕に飛び込んでいきたかったのだ。しかし、必死になってその思いを押し止めようとしていた。
何とも言われない気詰まりな時が流れた。湖畔の公園を行き過ぎ、もと来た坂道をぽくぽくと下ってゆく。既に長くなりかけた二つの影法師が揺れた。行く手の丘の中ほどに、観音堂の黒っぽい屋根が、背の高い杉木立に沈み込むようにして見えていた。
「あそこで少し休んでいこう」
重くなった気分を押し退けようとでもするように、明はことさら元気な声で言った。観音堂の門前に、土産物屋を兼ねた小さな茶店が開いているのだ。
美紀は、明についてその薄暗い茶店に入り、粗末なテーブルについた。
「ところで、美紀さんも何か話があるのでしょう。この前の電話のとき、確かそんなことを」
出された珈琲に口をつけながら、明は言った。
「ああ、あのことね。大した話じゃないわ。実は、ある生徒に質問されたの。『変身』の主人公は何故突然毒虫になってしまったのかって」
明に問われるまで、美紀は岡野からの質問のことをすっかり忘れていた。
「変身って、カフカの『変身』ですか?」
美紀は数日前の司書室でのことを話した。
「それは難問だなあ。で、自分でも答えようがなくて、宿題だなんて言い逃れを?」
明は困り果てたような顔つきをした。
「言い逃れだなんて、ひどいわ。だって、余りいい加減なことも言えないもの」
美紀も珈琲を口につける。苦みが強かったために、思わず唇を曲げてしまった。明はその表情を見て、自分が責められたのだと感じたらしく、笑いながらもあわてて弁解した。
「ごめんよ。そんなつもりじゃないんだ。美紀さんの言うとおりさ。ただ、残念ながら僕も同じだよ」」
「明さん、ドイツ文学科出身なのに?」
「まいったな。そう恥をかかさないでくれませんか。僕の卒論はシュティフターだったんだ。まあ、恥かきついでに言いわけすれば、カフカには余りに多様な解釈がありすぎるんです。例えば、そこに旧約聖書の世界の文学的象徴を読み取る宗教的な理解、あるいは人間存在の不条理性を見出そうとする実存哲学者たち、現代社会の人間性疎外を告発したとするマルクス主義の見解、その他にも、シュルレアリスム、精神分析学、いわばカフカについて論じるよりも、カフカ論について論じるというようなことになりかねない。カフカとは、いわば底無しの沼のようなものでね、とても僕なんかに刃の立つ作家じゃありません」
明は面目無さそうに力なく微笑んだ。
「難しいのね」
美紀はぽつりとこぼす。文芸部員の岡野という生徒は、彼の慎重な性分の故に、その底無し沼の淵をぐるぐる巡りながら、考えあぐねているということなのだろうか。いっそのこと、その沼に足を取られてみるのもよい、とでも言うしかないのかと思った。
「ただひとつだけ、僕が思うには」と、今度はやや自信ありげな様子で、明は続けた。「『変身』の場合、どうしてザムザが毒虫に変わってしまったか、ではなくて、変身後のザムザと彼の家族たちがどのような生活を送ったか、というところにカフカの主眼はあったのじゃないか。そんな気がするんです。そう言えば、カフカの作品には、何故と問うよりも、如何にと問うことで答えが見えてきそうなものが、案外多いんじゃないかな。『城』にしても『アメリカ』にしてもそうだ。うまく表現出来ないけれど、僕たちが何故生きるのか、と問うより、如何に生きるのか、という問いのほうがリアリティがある。それと同じだよ。……ごめんよ、ちっとも答えになっていなくて」
「いいえ、有り難う。最後の話で、カフカを少し身近に考える手掛かりをつかめたみたい。やっぱり人にはきいてみるものだわ」
観音堂の本堂のほうから、香の匂いが、樹木のそれと混ざり合いながらしずしずと流れて来た。店番の女が打ち水をする音が聞こえる以外は、小鳥の囀りだけが時として耳をくすぐるだけで、あとはしんしんとした閑けさだけが降り積もっている。目を閉じると、そのまま非現実の世界に踏み入ってゆきそうなくらいの静寂であった。
その沈黙のときは、決して美紀に不自然さを感じさせなかった。むしろ、つい今しがたの気詰まりが少しづつ慰められてゆくような、穏やかな気分のうちに自分が落ち着こうとしていることが察せられた。
するとそのとき、明がやや深刻そうな顔をして問うたのだ。
「先日の電話で気になっていたのだけれど、どなたかお家の方の具合でも悪いのかい」
さすがに美紀は返事に窮して、視線をせわしなく虚空に彷徨わせるしかなかった。
「そんなことじゃないのよ、ただちょっと母が、母が風邪で、そう……、寝込んでしまって、それだけのことなの」
口から出任せにそんな嘘をついた。話題を変えたい一心から、美紀は周囲をあてなく見まわした。ふと、小さな光が目に入った。
「パンジー」
漸く、美紀は呻くように言った。
「え?」と、明は首を傾げる。
「ほら、あそこよ。見て」
美紀が指さしたのは、茶店の出入口の反対側にある窓のところだった。窓枠の上に、鉢植えがひとつ、ぽつねんと置かれている。薄暗く単調な色彩に埋没する茶店のなか、そこだけが鮮やかに輝いている。
「ああ、本当だ。」
つられるようにして明は席を立ち、何気ない素振りで鉢を美紀の目の前に置いた。可憐な香りが漂った。
「花弁をごらんよ。アルファベットのAとiのように見えるでしょう」
言われてみれば、なるほど、紫や黄の小さな花びらに、そのようにも読める紋様があるのがわかる。
「Aiはギリシャ語で、悲しみを意味するんだそうだよ」
そして明は、ギリシャ神話のなかの、アポロンとヒュアキントスの物語を話して聞かせた。即ち、戯れに自らの投げた鉄輪によって愛するヒュアキントスを殺してしまったアポロンは、ヒュアキントスの血から咲いた花にAi(悲し)と書き込み、己の哀惜を春ごとに甦らせることにした、という話である。
「ただ少し不思議なのは、ヒュアキントスの名は、間違いなく今日のヒヤシンスの語源であることなんです。どこでそんな手違いが生じてしまったのかな」
明は、すっかり先程の自らの問いのことを忘れてしまったらしく、目の前の鉢植えをしげしげと見つめている。
話題をうまく家庭のことから逸らせることのできた美紀は、ほっと胸をなでおろした。それにしても、明の語ったような伝説のあることを、美紀は初めて知った。そして、この可愛らしい花にしては、少し似つかわしくないような悲劇的な物語でもあると、ぼんやりと考えたりなどしていた。



   第 三 章


それからの数日というもの、美紀は夜も昼も、明からの求婚のことで考えを奪われていた。既に二十五歳を過ぎていた。いつかは明と結ばれる日が来るであろうと、漠然とはしていたが信じるに足る期待に胸を躍らせてきた。何よりも、神谷明を愛していたのだ。
しかし、明の口から美紀の待ち望んでいた言葉を聞かされた、まさにそのとき、まるで 運命の女神の嫉妬に燃えた復讐に翻弄されるかのように、大きな苦悩が自分やその家族を襲うなどと、いったいどうして考え得たであろうか。
良一の病気が、おそらくは慢性の経過を辿るであろうということは、精神医学についての断片的な知識すら持ちあわせていない美紀にとっても、半ば直観的に理解された。もしそうであれば、狂気に浮き沈みする良一の生活を、老いてゆくばかりの両親だけに預け、自分はさっさとこの家を出ていくなどということが、なにゆえ許されるであろう?
美紀の頭のなかでは、さまざまな想念が次々と浮かんで来ては、まとまりのつけようもないままに鈍色の余韻だけを残してついえ去った。明がこの家に入ることも考えられないことではない。しかし、事実上の女婿のような立場に、明の両親が不満を覚えることはないであろうか。あるいは、新居をこの日高の家の近くに得て、何か大事のときにはすぐにでも駆けつけられるようにすれば、いくらかは事情も違うだろう。だが、そもそも良一の病気のことを、明の両親や、他ならぬ明自身が納得してくれなかったとしたら、いったいどうなるというのだろう。想像は悪い方へとばかり、翼を伸ばした。明の気持ちを疑うというのは辛いことこのうえなかったが、考えれば考えるほど、それがひとつの可能性としては決して否定出来ないものであることを、強迫的に意識せざるを得ないのだった。
勿論、明は良一の病気のことを理解してくれるに違いない。そんなことを理由に、結婚の申し出を取り下げるような人ではない。美紀の心の大部分は、そう信じる気持ちで占められていた。だが、見方を変えれば、明と結婚するということは、必然として明を何らかの形で良一の病気と結びつけ、明に相応の負担を強いるということをも意味している。そうである以上、美紀の暗澹とした心象は変わらない。良一の状態次第では、いずれ自分たちが後見人のような形で弟の面倒をみていかなくてはならなくなるかも知れないが、明をしてそのような境遇に身を置かしめることが、真実申し訳なく、悲しくもあったのだ。結婚とは、基本的に言って確かに個人と個人の間の問題であるには違いなく、そう考えることが当然であると思うほどに、美紀は現代的な感覚の持ち主ではあった。が、だからといって、良一の病気を理由に自らの生家との関わりを一切持たず、あるいは自らの肉親についての重大な事柄を相手に知らしめないままでの結婚生活というものは、どこか冷たい偽りの影を宿した、しかも、日常という主旋律のうちに暗い危機を秘めた通奏低音が鳴り響く、重く憂鬱な音楽のようなものではないかと感じられた。とすれば、やはり明に真実を打ち明けるしかないのだろうが。………
悩めば悩むほど、結論は遠のくように思われた。美紀には、心のなかで際限なく続くかのような堂々巡りをただ持て余し、迷うだけしか術が無かったのだ。
そんなある日、残業のために夜遅くなってから帰宅した美紀に、母親の絹代が耳打ちした。「お話があるのよ。二階の、お父様のお部屋へ来てちょうだい」
美紀は、通勤用の薄茶色のスーツを着がえるいとまもなく、父親の書斎のドアを押した。高い天井から下がる白熱燈のシャンデリアが、周囲の書物やソファ、幸三郎の使っているデスク、マホガニー製のサイドボードなどを薄暗く照らしている。夜の静寂をぬって、階下の良一のアトリエから、あのバッハのヴァイオリン曲が幽かに響き流れて来るのが聞こえる。その曲を聴くともなく耳にしているかのように、絹代と幸三郎は、黙ったまま向かい合っていた。
「これは私からの提案なんだが」と、幸三郎は姿をみせた美紀のほうに向き直って言った。「良一の入院の件で、少し意見を聞いておきたいのだ……」
「良ちゃん、入院することに決まったの?」思わず訊き返した。
「いや、そうではない。良一の状態は相変わらずだよ。現に今日の夕食のときも、興奮して食卓の上を目茶苦茶にしたというんだ。……実は、入院というのは、つまり、こんな言葉を聞いたことがあるかどうか分からないが、措置入院という方法のことだ」
幸三郎は、ことのほか言いにくそうに表情を歪めていた。絹代は、疲れ切ったようにただ俯いている。
「ソチ、ニュウイン?」美紀は不安そうに問い返した。
「うむ。まあ、言葉は悪いが、本人の同意を必要としない、言ってみれば強制的な入院のことで、良一を……」
父親の言葉を聞くや、美紀は目の前が突然くるくるとまわりだしたように感じた。弟をとにかく入院させなければならないことは判りきっていたが、こともあろうに強制入院とは。まるで抗い難い不可視の力によって、否応なく未知の奈落へと引きずり込まれてゆくかのような感覚に怯えた。
「もうこれ以上、良一をいまのまま放って置くわけにもいくまい。状態は日増しに悪くなっていくばかりだ」
そう語る幸三郎の顔にも、辛そうな煩悶の色が見えた。
「可哀相な良一さん。……いったいどうして、こんなことになってしまったのかしら」
絹代は窶れながらも涙ぐんで、声を押し殺している。絹代の嘆きを耳にした幸三郎は、ふとひどく悲しげな表情を浮かべたが、再びすぐに美紀のほうへ向き直ると、尚も説明を続けようとして、一通のファックスの書類を手にした。しかし、何故か幸三郎はそのまま言葉を呑み込んでしまって、書類を持った指を微かにふるわせるだけなのだ。その沈黙の意味がどこにあるのか、伝えようとすることの内容が要領よくまとまらないためなのか、絹代の悲嘆に心を動かされたからなのか、あるいはもっと別の理由によるものであったのか、美紀には見当がつかなかった。仕方なしに幸三郎の手から件の書類を受け取ると、カゾクカイ・ハッシンと記された、ところどころ赤いペンでアンダーラインの引いてある、細かく読みづらい字のぎっしりと詰まった書面に視線を走らせた。
“精神衛生法第二九条、措置入院。……自傷他害のおそれのある精神障害者……都道府県知事による入院措置……二名以上の精神衛生鑑定医の診察結果の一致……。同法第三三条、保護義務者の同意による入院。……診察の結果、医療及び保護のため入院が必要と認められる精神障害者……保護義務者の同意……。”
あたかも遠い異国の伝奇的な物語を読むときのような非現実感と、実際にその物語が自らの生活と無関係では無くなりつつある現実との落差。それを舌の先に漠とした不安の味として覚えながら、夜そのものが奏でているかのような、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番の最終楽章が、静かに音の振幅を消して行くのを、耳の奥で美紀は聴いていた。

  ***

  幸三郎の日記(その三)
    一九八六年五月一*日
         神戸。オリエンタル・ホテルにて。

良一の措置入院を申請する結論に達した。とはいっても、殆ど私ひとりの意向を通した形ではある。美紀は、私の判断に委ねると言った。娘にとっては酷な選択であったにちがいない。妻は最後には反対した。無理からぬことだ。自らの腹を痛めた子であれば。どれほどひどい仕打ちを被っても、それは忍びないと言った。だが、他にどのような途があろう。たとえ人でなしとなっても。……しかし、私は本当は何のために、良一を入院させようとしているのか。考えれば考えるほど、自分が解らなくなってくることはないか。良一という人間がこの世に存在するということ。打ち消しようのない事実として、そのことは私の内部においても承認済のことであったはずだ。だが、私自身すら意識しない、あるいは意識しようとしない内面の思惑というものが、現実の思考を左右しているとするなら。  私は良一を自分の目前から遠ざけることによって、直接的には妻の、そしてより根源的にはこの私自身の、人生の過誤の記憶を遠ざけようとしているのではないのか?。そうではないと、私は信じていた。良一を入院させることが、誰にとっても、本人自身にとっても一番良いことなのだと。この家の、この家族の生活を支えてゆくことが、私の取り返しのつけようのない過去に対する答えであると、信じてきたのだ。それでも、私には解らない。自らの内面の、思惟の光さえ届かぬ深層意識の淀みに浮遊する、他人のような姿をした自分自身というものが。……
ところで、きょうは当地の大学での仕事の件で、午前中のうちに教務課長のところへ話をしに行った。何とか考え直せないかとは言われたが、当方の家庭の事情とあっては、さすがに強くは出られなかったのだろう。気の毒な思いもする。むろんまだ時間はあるし、とりあえず今日のところは互いに結論を保留するということで合意した。しかし、私の考えは変わらないつもりだ。良一の状態が予断を許さない現状では、週の三分の一にわたって確実に東京を留守にしなければならない今の私の立場を何とかしない限り、家族に対する責任を果たすことは難しいのだ。むろん、良一の入院が決まれば、危急の用はないことになる。が、私自身、東京での生活を忌避せんがために神戸での仕事を引き受けたということを認めざるを得ない以上、いずれは再び自らの本懐へと立ち戻っていかねばならない、今がその時期ということなのかも知れない。皆川先生のところへは、いずれお詫びにあがらなければならないだろう。後任には、助手のY…君を推薦する。
私が神戸での仕事を辞めたとしても、そのことで良一の病状が快方に向かうということにはならないと思う。良一は私を憎んでいるから、却ってより身近な存在となった私への怒りを募らせるばかりかも知れぬ。しかし、もしも措置入院が認められなかった場合、少なくとも妻や娘にとって、私が傍にいることが必要なのは確かなのだ。あるいはそうした場合、短期日だけでも妻を良一から遠ざけるように計らったほうが賢明であろうか。最近の彼女の憔悴ぶりには目に余るものがあるが、この点については、いずれ妻とも話し合わなければなるまい。
良一の事は、医者に任せるより他はない。情けない話だが、私にはどうすれば良いのか、皆目判らないのだ。良一は最早や、私の話をまともに聞こうとしないではないか。私に出来ることといえば、良一の発作が起きたとき、暴れる相手を必死に抑えつけることだけでしかない。しかも、良一は相変わらず頑に医者にかかることを拒み続けている。……良一、お前はいったい何故、こんな状態になってしまったのか。その責任は、本当に私たちにあるのか?。
この間、私は多少の無理をして、数冊の精神病理学の文献を読み漁った。ビンスワンガーの『精神分裂症』、ミンコフスキ『生きられる時間』、レイン『狂気と家族』、およびベイトソン、フーコーなどだ。こうした書物は不用意に家の中には置いておけないので、(何が良一の症状の増悪の誘因となるかわからないからだが)鞄の中にしのばせては、大学の研究室や新幹線の車中で、僅かな暇を見つけて繙いたものだ。(その結果、必ずしも十分に内容を理解するだけの余裕があったとは言い難い面もある。)
私がこれらの書物の中に探していたのは、精神疾患の治療法や、療養上の心得といった即時的な知識ではない。家族会の担当者の話や一般向けの解説書を開くだけでも、良一の症状はおそらく分裂病によるものであること、向精神薬や生活療法等の治療法はあるものの、分裂病の根治の途は現在のところ見出されていないことなどは知ることが出来る。私が知りたかったのは、その発病のメカニズム、原因だった。何故、良一が精神に変調を来したかということの、確かな理由を知りたかったのだ。 だが、私の気持ちの背後にあるのは、なぜ自分たちだけがこんな辛苦を嘗めなければならないのかといった、恨みがましい思いではない。私には、あるひとつの惧れの観念がある。それはまた、悲しい確信に似たものでもある。私は、自らの内部にある、仄暗い疑念の真偽を確かめるために、良一の発病の理由を知ろうとしたのだと言ってよい。
分裂病の病因論にもまた、確定的なものはない。幾つかの仮説が、それぞれの根拠を以て俊立しているが、十全に検証されたものとは言い難いようだ。ある程度遺伝的な素因を認める説、認めない説、脳内代謝異常に着目する説もあれば、それを原因ではなく病変による結果であるとして斥ける考え方もある。こうした状態では、決定的な治療法が無いというのも頷けることだろう。
それらさまざまな病因論のうち、私が着目せざるを得なかったもの。(あるいは確認したいと願っていたもの。)それは、一九四〇年代頃よりアメリカで主張され、現在でもかなり有力視されている、家族力動論というものだ。つまり、真に病んでいるのは家族そのものなのであり、家族間の力動関係における最も弱い部分に病変が顕在化してあらわれる、という説である。
むろん、この説だけが正しいというわけではないだろう。しかし、病んでいるのは家族全体であるという仮説は、改めて突きつけられれば、私にとってはまさに宣告に等しかった。悪い予感が的中したときの、褐色の圧迫感が私を支配した。病んでいるのは私たちなのだ。思えば、家庭の始まりとしての私と妻の出合いそのものからして、健全とは言い難い面があったのではなかったか。しかも、若き日の私はそのことを自分自身にすらひた隠し、次第に病巣を深く深く穿つことをば結果としてなしてきた。
二十数年をかけて根を張った宿痾だ。治したいという希望さえ蝕まれ、色褪せている。

   ***

季節の移ろいゆく様になど、まるで目を留める暇もないまま、憂鬱な心象のうちに過ぎて行く毎日。何かのはずみにふと気がつけば、樹木の緑は日ごとに深さを増してきて、方々の花壇からは既に躑躅の花々が、まるで瞳に突き刺さらんばかりの鮮やかな色彩を投げかけていた。見知らぬ家の軒先で、白いプランターに植えられた早咲きの朝顔が、小さな芽を擡げ、時折、道路の真ん中あたりを、畑から迷い出て来たらしいモンシロチョウが横切って行ったりする。
職場へと通う道すがら、どうかすると美紀は、まるで魂の抜けた者のようになって、そんな造作のない光景を見るともなく見つめていることがよくあった。それら自然の機微が、何かしらひどく奥ゆかしいものに思われもした反面、自分という存在が、永遠にそうした愛すべき営みから遠ざけられてしまったかのような、疎遠感とうら寂しさを覚えていた。
道端にぽつねんと立って何をするでもなくぼんやりとしているその様は、往き来する人々の好奇の視線を否応なく集めた。この頃の美紀は、自分が他人からどう見られているか、あるいは自らの立ち居振る舞いや姿かたちが他人の目にどのような印象を与えるかなどということについて、全く無頓着というほどではないにせよ、考え気遣う心の余裕というものを、少しずつ失ってきているように思われた。以前であれば、決して過剰な自意識の所作としてではなく、いわば他者に対する生来身についた配慮の現れとして、己の身のこなしを常に意識し続けていたし、また、そのことをとりたてて苦痛にも感じなかったというのに。だが最近では、美紀はことあるごとに、ぼんやりと自分の心のなかを覗いては、暗く綾なすように交錯した感情の糸を、ただ徒にいじくって溜め息ばかりをついていた。現に今も、眼に痛いほどの躑躅の花弁や軒下の朝顔の芽だのを呆然と見つめながら、実のところそれらのものに季節の息吹や生命の喜びなどを感じるのではなく、結局は自らの寄る辺無い孤独を深く抉つばかりだったのだ。
五月のある金曜日の朝。ふっと現実に呼び戻された美紀は、周囲の人々の視線を紛らわそうとでもいうように、平静を装って再び歩きはじめた。自分がひどく惨めに思えてならなかった。柔らかな梢の木もれ陽、素肌を愛でるようにそよぎ行く風にさえ、こうして覚えざるを得ない孤愁を、どこまで抱えこめばよいというのか。季節が華やげば華やぐほど、自分の憂鬱もまた深くなってゆく。美紀はそんなふうにしか考えることができなかった。
いつものように混み合う電車に押し込まれ、乗降口のドアのガラスに頬を近づけながら、こんな毎日がいつまで続いてゆくのかと考えると、自然と涙が出た。その涙を隠すために、額を窓ガラスに押し当てるようにしてくっつけ、瞳を閉じた。電車がレールの継ぎ目を数える音だけが異様に大きく聞こえ、それは規則的に繰り返されながら時間の流れを支えた。美紀は想像する。これが何処か遠くの見知らぬ土地へと向かう、あの赤い矢のような長距離列車であってくれたならと。少しのあいだだけでも、あらゆる桎梏から解き放たれたい。仕事からも、家族からも、神谷明からさえも。……明からさえも?。だが、実らぬ愛とは持続する疼痛のようなものではないのか。いまは己の痛苦の根源となり得る全てを、ほんの少しでよいから忘れてみたかった。レールの響きを追いながら、自らに言い聞かせでもするように思い描く。列車はこうして、一秒一秒、自分の住む町から遠ざかっている。瞳を開けてみれば、そこには初めて眼にする土地の風景が流れている。まだ春浅い盆地の朝。広がる葡萄棚の中に点々と見える農家の屋根。それらは朝陽を浴びながらうっすらと輝き、遙か彼方には、筋状に雪をいただいた山脈が横たわる。列車は間もなく、未知の町の、未知の駅に滑り込む。……
そのとき、ぐらりと身体が大きく揺れた。美紀を乗せた車輌が、下り電車の退避線との分岐点を通過したためだ。美紀はゆっくりと瞳を見開いた。葡萄棚ではなく、電柱や家々の屋根がいっせいに陽を浴びている。毎日の、見慣れた光景。やがて電車は、さも当然のことのように、そしてひどく呆気なく、乗り換え駅のプラットホームに横付けされた。
美紀は人の波に浚われながらもホームを歩き、跨線橋を渡り、対岸の、よりいっそう人混みのするホームに立った。すると、ほどなく反対側の下り線を、毎日この時刻になるとやって来る、信州へ向かう特別急行列車が、風を巻き上げながら通過していった。つい今しがたまで、美紀の逃避的な憧れを乗せて走っていた、赤い矢のような列車だ。自分がいつもの職場で相変わらぬ仕事に手をつけている頃、あの列車は葡萄棚のある盆地や、早春の高原や、まだ雪を残す山の頂などをその窓や車体に映しながら、走り続けているに違いない。毎朝、こうしてあの列車を見送らなければならないのは、何と気詰まりなことだろう。思い切って、出勤時刻をずらそうか。そう美紀は、ぼんやりと考えた。………
その日の昼過ぎ、司書室に神谷明からの外線が入った。美紀の両親にまだ会ったことのない明にとって、それが最も自然で簡単な連絡方法なのであった。……
「僕です。明です。突然なのだけれど、明日の午後、もし都合がつくようなら、一緒に画を観にいきませんか。コンスタブルの展覧会が、横浜にきているんですよ。少し遠いのは申し訳ないけれど、美紀さん好みだと思って。どうです?」
二人して狭山丘陵の貯水池へ出かけて以来、四週間以上の日々が過ぎている。こんなにも長いあいだ会わずにいるということは、いままでには到底考えられなかったことであるが、美紀にとっては、そのとき明の口から聞かされた結婚の申し出に、どう答えるべきか逡巡するばかりで、明との逢瀬など考える余裕すらなかったのだ。というのも、この次に明と会うときは、当然、結婚の申し出に何らかの返事をしなければならないだろうと思っていたのだから。明のほうにしても、プロポーズの返事を求めるのにはそれなりの時間が必要であると判断して、なにも連絡を寄越さなかったのであろう。そう美紀は推察した。しかし、美紀は誰に相談するでもなく、ただ鬱々とした日々を無為に費やすばかりだった。その日が来ることを、永遠に引き延ばしたいとさえ、思っていた。
「明日?、……急なことね。行けるかどうか、まだわからないわ……」
会いたくないわけではない。むしろ逆だった。だが、明には何と返事をすればよいのだろう。それを考えると、急に臆病にならざるを得なかった。自然と、美紀の口調はあたかも時間稼ぎをするかのような、もたついた感じになっていった。
「そうですか。……勿論、無理にとは。せっかくチケットが二枚、手に入ったんだけれど、残念だな。明後日までなんですよ。でも、……駄目なら、しかたがないですね」
電話の向こうで、悲しそうに俯いている明の顔が浮かんだ。わざわざ切符を二枚取った、という相手の気持ちが、ひしと伝わった。美紀は思わず切ない心持ちに襲われかけて、受話器を握りなおした。
「待って。ごめんなさい。何とかなると思うの。きっと行けるわ。大丈夫よ」
プロポーズの返事にまつわる逡巡よりも、会いたい思いのほうが勝っていた。自分の気持ちが二つに引き裂かれるのを感じながら、しかし後のことを考えるゆとりもなく、そう答えていた。
「本当ですか?、でも、無理はしなくていいんですよ」
明の口調は俄にいきいきと甦って、弾みはじめる。
「ええ、約束するわ」
「それじゃあ、明日、新宿の、シャネルのウィンドウ前で二時に。楽しみにしてます」
電話が切れた。図書館の窓ガラスは、既に眩いほどの緑色に染まりきっている。風さえもが歌う季節だ。日向へ出れば、うっすらと汗が滲んだ。美紀は、昼休みがまだ終わらないことを確かめて外に出ると、学校の中庭の暖かな場所にあるベンチに腰を下ろした。
僅かな休み時間をも惜しんで練習する、吹奏楽部の楽器の音が響いてくる。あるいは美紀の目前を、転がるようなソプラノとコントラルトの笑いをさざめかせながら、数人の女生徒たちがゆっくりと通り過ぎていった。その若やいだ印象を、まるで彼女たちの残り香のように追いながら、美紀は自分が高等学校の制服に身を包んでいた時代のことを、何とはなしに思い起こした。
やはり自分も、友人たちとあのように笑いさざめきながら歩いていたことだろう。読書好きだったこともあって文芸部に入り、メランコリックな詩を書いたこともある。むろん、人生がいかなるものであるか、すっかり知ったつもりになっていたのだ。チェーホフやツルゲーネフに心酔したり、一人の美術部の男子生徒に憧れを抱きつづけたりしたが、今にして思えば、恋に恋するというありきたりな形容で説明されるくらいのものであったに違いない。文庫本を片手の読書会、あるいは三年生の夏休み、清里高原へのクラス旅行。憂愁を愛でるが如き詩を書きながら、何と自分は無邪気であったことだろうか。若さというのは、常にそういうものなのかも知れない。何処かで必ず、自分の人生はうまくいくと、運命に約束されているかのような幻想につき従われている。美紀は、帰らぬ日々を懐かしく回想したが、ふとそれも虚しく感じられて、その場を立ち上がりかけた。喜びに彩られるにせよ感傷に飾られるにせよ、生きるということを素直に信じることの出来た頃の自分が、少しばかり苛立たしくもあったのだ。
「日高先生……」
そのとき、一人の女生徒が美紀に声をかけた。顔見知りの、文芸部の生徒だ。
「何かしら」
美紀は相手の女生徒に微笑み返し、スカートを軽く払いながら二、三歩前に歩み出た。「先生、岡野君のこと、聞いてますか?」
「いいえ、何も。どうかしたの?」
「実は、先日、岡野君が入院してしまったんです。喘息がひどくなって。いつ退院できるかもはっきりしないらしくて。……お見舞いに行ったら、日高先生に伝えておいてほしいって言われたものですから」そして、彼女はやや戸惑いをみせたものの、いたずらっぽい眼をして、付け加えた。「彼、先生のことが好きみたい」
確かに、ここしばらく岡野は司書室に姿を見せていない。一か月ほど前、カフカの『変身』について、主人公のグレゴールが毒虫に変わってしまったことの理由を尋ねられて以来、一度も会っていないのだ。
「まあ。……」驚きのあまり、暫くまともな言葉が出てこなかった。「たいしたことにならなければ良いけれど。心配ね」
岡野にそんな持病があったということを知るのははじめてだ。美紀はそれだけを答えながら、岡野の、言われてみれば病弱そうな、透きとおるようでさえあった白い項などを思い出していた。



   第 四 章


翌日の昼下がり、まるで死を宣告された重病人のような蒼白の感情を抱きながら、美紀は職場を後にした。その深刻な表情は、到底、恋人との逢瀬に赴く女性のものとは思われなかったであろう。無論、明に会いたいがために肯んじた今日の逢瀬ではあった。しかし、今宵こそは、明からの求婚を拒絶するという事態によって、明に対して無惨な宣告をしなければならなくなるかも知れず、またそのことを通して、つまりは自らの純粋な気持ちに対して、死の宣告を下さなければならないかも知れない。
実際のところ、美紀は何をどう言いだせばよいのか、全く見当がつかないままだった。美紀の表情の深刻さの原因も、その惑乱にあった。
新宿で明と待ち合わせ、渋谷から東横線で横浜へと向かう。展覧会の期日が残り少なくなっていたうえに、最後の週末ということも手伝って、S…美術館には多勢の鑑賞家が詰めかけていた。美術館のただ中で、結婚するしないの会話を交わせるものでもなく、そのため却って、美紀の焦燥は時間の流れとともに深まっていった。
美紀は明と肩を並べながら、詩情溢れる田園の生活風景や、聖堂や水車の見える遠景画、あるいはカンヴァスいっぱいに巧みに広がる、色彩感豊かな積乱雲などを眺めていった。それらはどれも素朴で美しく、画家の対象への愛に満ちた眼差しを感じさせる。だが、美紀はふとある奇妙な想念に憑かれて歩みを止めた。似たような画を、どこかで目にしたことがあると思ったのだ。脳裏に、雑駁とした良一のアトリエが浮かんできた。良一が好んで描いていたのも、こうした純朴な風景画に他ならなかった。
「どうかしたのかい?」
訝しげに明は声をかけた。
「いいえ、何でもないわ」
駄目押しのように己の現実を突きつけられた美紀は、思わず瞳を伏せた。最早や画どころではない。ぶつかりあう人と人の肩ばかりが目についた。
自分に与えられた猶予のための時間も、ほどなく尽きようとしている。明を好きだという気持ちに偽りはない。しかし、その明を、自分のあの家に、暗い柊の垣に囲まれた、あの憂鬱な泉のような場所に繋ぐことなど出来るだろうか。それは明に犠牲と忍耐を強いるということだ。明にはもっとふさわしい道というものがあるのではないか。自分との結婚、それは決して最良の選択ではあり得ない。美紀は考えた。同時に、それだけのことを伝え得る決意のほども無いのであった。
辛い気分を舌の先に味わいながら、美紀は薄暗い展示ブースの虚空を見やった。人々の交わす会話さえもが、素早く時間の流れに加担する。どんな言葉も探すことが出来ない。際限のないメビウスの輪の如き思索に疲れかけていた。最後に廻った素描の展示室は、あたかも夢のなかの一瞬ででもあるかのように過ぎ去った。
「素晴らしかったね」
美術館のある建物を出ると、やや興奮気味に明は言った。太陽は西に沈みかけ、ビロードのような風が、頬をかすめ去って暮れなずむビル街の中へと溶けてゆく。
「ええ、とても楽しかったわ。ありがとう」
美紀は半ば上の空で答えた。舗道に沿って並ぶ洋館の細長い窓が、夕陽に映えて黄金色に染まった。
「コンスタブルという画家は、根っからの家庭人だったそうでね。自分の家族と、友人と、生まれ育った土地を限りなく愛したんだ。本当に素晴らしい。何もかえりみることなく作品のためにすべてを犠牲にするなんて、十九世紀のロマン主義以降の誇張された芸術家のイメージに過ぎないということがよくわかる。じっさい、自分の身のまわりのものに美を見出せず、それらを愛することが出来ない芸術家というのは幸福なのだろうか。そもそも、平凡な市民生活と芸術とが相容れないという考え方には、何処か閉塞的なスノビズムを感じて、僕は好きになれないな」
明はゆっくりと歩きながら、穏やかな口調で語りかけた。美しいものとふれあったときの幸福感に満ちた瞳をしていると、美紀は思った。明が求めている世界のイメージが美紀のことを苦しめだしていたが、美紀も平穏を装った。
「私は、何となく、そう、あの画から発せられる光の印象にね、ルウベンスやレンブラントを連想したの。コンスタブルとは精神的な意味での兄弟ではないかしら」
そう考えたのは他でもない、コンスタブルから良一の描く風景画を想起したからだ。良一が習作の筆を取るときに範としていたのが、ルウベンスやレンブラントといった、バロックの巨匠たちであった。
その感想にふれた明は、楽しそうに笑いながら美紀を見つめた。
「さすがだなあ。やはり美学者、日高幸三郎氏の御令嬢だ」
「いやだわ。からかわないでちょうだい」
美紀もまたつられるようにして微笑みを返したが、気分は以前にも増して重かった。
やがて、少しのあいだ黙っていた明が、歩みを止めて美紀のほうを振り向き、言った。 「ちょっと遅くなりますけど、食事、していきませんか。山下公園の近くに、落ち着いたドイツ料理の店があるんだ」
「ええ、でも」と言いかけたが、あとが続かなかった。言い訳を探すことにも戸惑い、結局「そうね、ご一緒するわ」と答えた。
家路を辿る人々の動きが、やがて少しずつめまぐるしくなってきたように思えた。並木道の街路燈に灯がともり、自動車のヘッドライトが行き交った。そのとき、美紀は自分の行く手に、一軒の小さな西洋菓子店を見つけたのだ。
いったい何を思ったのだろう。我ながら理由を推し量る余裕すら持ち得ないまま、美紀の足は、その店の中へと向いたのだった。強いて言えば、それは時間稼ぎとでも言うしかなかった。ショウ・ケースには、様々な菓子やケーキの類が並べられてある。自らの唐突な行動に、まだ幾分驚きながらも、美紀は陳列されているエクレアだのミルフイユだのバウム・クーヒェンだのを順々に眺めていった。工芸品のように美しく飾られたそれらの菓子を選んでいると、可笑しいくらいにそのことだけに夢中になった。つい今し方迄の、行き場を奪われた差し迫った気分が少しだけ和らいだように感じられた。
最後に、美紀はショウ・ケースの上に置かれた籠の中の、袋入りのマドレエヌに眼を止め、手にとってみた。鈍い光沢のある銀の型に入った、焦げ茶色の小さな木の実のような姿が、ふとした懐かしさを誘う。美紀はそのマドレエヌをひと袋買い求めると、きまりが悪そうに明の方を振り向いた。明のほうはさほど意外だという表情もせず、「家への手みやげだね」と笑った。
やがて明は通りでタクシーを止めると、関内まで行くよう運転手に告げた。馬車道あたりの雑踏や、街路樹や、洋館の佇まいなどが映画の画面のように流れ去る情景を、美紀は自動車の窓からぼんやりと見つめ続けた。夜の帳が降りきった頃、二人を乗せたタクシーは、グランド・ホテルの少し先まで走っていって停まった。
明の案内したドイツ・レストランは、とある建物の地階の奥まったところにあった。入口の上にはフラウエン・ハウスと書かれてあり、店の中は季節の花々でいっぱいに飾られている。
「ワインでも?」
明は席に着くなり、給仕人の持ってきたワインのリストを美紀に見せた。
「おまかせするわ」
美紀は小声で言った。美術館の中で覚え続けた焦燥が、再び身を包みはじめるのを感じた。
明は、美紀の聞き知らぬドイツ語の銘柄を給仕人に伝える。間もなく、給仕はトーションとグラス、そしてワインの瓶を持ってやって来て、二人のグラスにワインを注いだ。
二つのワイングラスが、乾いた華奢な音をたててテーブルの上でぶつかりあった。深い臙脂色を湛えたグラスの中身が、テーブルの片隅に置かれたキャンドルライトのあかりを受けて煌々と輝く。そっと唇をつけてみると、グラスの冷たさの余韻とともに甘く渋い香りがひろがった。そのうちに、ジャーマン・サラダやフリカッセなどが運ばれてきて、緑色のクロスの上が俄に賑わいだした。
「この前の話だけれど、考えてみてくれましたか?」
美紀がグラスに二度目の唇をつけたとき、ついに明は言った。来るときが来たと、美紀は俯いて身体を硬くした。何も答えられずに、僅かの時が流れた。
「それはそうだね。簡単に答えられるようなことじゃない」
沈黙の意味を悟ろうとでもするように、明は苦い笑いを浮かべながら美紀を見つめた。“僕の求婚を断るための言葉を、君は懸命になって探しあぐねているようだ”そんな念いを、その瞳は伝えているように感じられた。
「私、本当にすごく嬉しかったの」 美紀は漸くそれだけを言った。スカートの上で組んだ両の手にぐっと力が入り、爪が皮膚を傷つけそうになる。
「嬉しかった、けれど?……」
明はいよいよ真剣な、しかも寄せ来る失望感に抗いきれないとでもいった憔悴の色に満ちた眼差しを、美紀の瞳や唇や、胸や腕に投げかけた。
美紀には、明の焦燥を眼にするのが何ともやり切れず、テーブルの横の壁の、ちょうど壁龕のように窪んだ台座の部分に置かれた天竺葵の葉に、虚ろな視線を投げやった。キャンドルライトの赤い燈に、葉の紋様が幽かに染め上げられて見えた。
「嬉しかったのよ。だけど、ごめんなさい、今は駄目なの」
「今は?。じゃあ、もう少し待てば、いい返事をもらえるということかい」
明は尚も辛い表情を隠しきれない様子で、問うた。
「あとどのくらいたてばなんて、はっきりと言えることじゃないわ。でも……」
美紀は良一のことを思った。良一の措置入院は既に申請手続きも終えられ、数日のうちに鑑定医が訪れてくることになっている。幸三郎からそう告げられたのは、一昨日のことであった。当の良一は相変わらず職も持たないまま、自室に籠もって画ばかりを描いていた。ここ暫くは激しい発作もなりをひそめてはいたが、日常的なエピソードは事欠かず、この家は何かによって呪われているなどといった意味の言葉を口にしてみたり、家具や植木の位置がずれているなどという些細な事柄(大部分が病的な思い込みによるものであったが)に難癖をつけたりして、ことあるごとに苛立っては家の中を落ち着きなく徘徊していた。そんな良一を前にして、幸三郎や、とくに一日の殆どを同じ家の中に過ごさなければならない絹代は、異常なまでに神経を遣い、良一の感情を逆撫でることをしないよう、何か発作に結びつくようなことを言ったりしたりしないようにと、まるで己の言動を常に自ら監視していなければならないような、息詰まる生活を強いられていたのだ。
そうした状態が、あと何日、何か月、何年続けば、事態が良い方向へ転回してくれるのか。いつになれば、良一の病気が快方に向かうのか。判断の材料とて何もない。あるいはもうこのまま、あの家は荒みきってゆくばかりで、かつてのような平穏な日常は戻ってはこないのだろうか。
唯一、美紀にとって確かなことだと思われたのは、今すぐに結婚の約束をを交わすことなど、とうてい不可能だということに他ならなかった。
「今は駄目だというのは、どういうことなのかな」
明は深い溜息をつき、力ない瞳で緑色のテーブルクロスの一点に視線を落とした。
「どういうことって訊かれても、困ってしまう、どう説明してよいのだか。とにかく、もう少し待ってほしいの。そうすれば……」
美紀もまた、自分の表情が辛そうに歪んでくるのがわかった。
「そうすれば、良い返事をもらえる?」
明は再び美紀を見つめた。
「たぶん……」
美紀は乾いた唇を噛みしめる。
「たぶん、か」明は悲しそうに微笑んだ。実直な落ち着きのある声で言った。「美紀さん。僕のこと、嫌いですか」
美紀は思わずはっとして、うたかたの眠りから引き剥がされた者のように明を見つめ返した。その刹那、美紀は相手の瞳のなかに、ほんの片鱗としてではあったが自分に向けられた猜疑の光が過るのを認めたような気がして、慄然としたのだ。
「嫌いだなんて、お願いよ、そんな、ひどいことを言わないで。好きよ、明さんのこと、好きだからこそ……」こんなに辛い思いをしていると、最後は言葉に出せないまま、あたりを憚るような小声で訴えた。何故、こんなにまで苦しいめに遇わなければならないのかと、呪わしい気持ちさえ抱いた。
明は思い詰めたように押し黙っていたが、やがて、「その言葉、僕、信じてますよ。ああ、確かに、結婚なんて人の一生を左右する、迷っても迷い足りるということはないかも知れない。でも、美紀さんも、これだけは信じてくれませんか。僕は決して迷ってなんかいないこと。美紀さんとなら幸せな人生を、共に見出してゆける自信があるということ。……信じてくれますね」と、踏ん切りをつけるように言った。
「ええ、勿論、信じるわ」
やはり、これも迷いというものなのだろうか、と美紀は思う。明のことを好きだという、自分の気持ちに嘘はなかった。明は自信という言葉を口にしたが、ならば、己のその気持ちにだけは自信があった。すると、私はいったい、何を不安に感じているのだろう、何を信じることが出来ないでいるのだろうかと、美紀は、自らの心の奥底を流れるものを凝視しようとした。だが、その努力はすぐに、良一によってばらばらに壊された部屋中の家具や、割られた窓ガラスの破片の散乱する鋭く冷たい光景によって覆い隠されてしまうのであった。
「本当は、このまえの連休に、美紀さんを連れて帰省したかったんです。混み合う列車の長旅も、君と一緒なら、きっと苦にならないだろうと思っていたんだけどね」
明はグラスに残ったものを飲み干した。それを見届けたワイン係の給仕がテーブルの傍らにやって来て、宝石のような光沢を放つ液体で空のグラスを満たしていく。その深々とした光の乱舞が小さなガラスの壁に砕け散りながら、次第次第に静けさを取り戻していく様を眺めていた美紀は、あたかも自分がその渦のなかに塗り込められ、やがて半透明のエーテルの中に、身動きもままならぬ態で封じられてしまうかのような錯覚を覚え、小さく嫌々をした。
「明さんのお故郷は、たしか、東北のほうでらしたわね」
身を呑む早瀬から這い出ずるように、途切れがちに、やっとのことで美紀は口をきいた。「そう。A…という小さな町でね。何にもない、辺鄙な土地だけれど、夏には、美紀さんも是非一緒に行ってくれますね。枝いっぱいに実をつけたサクランボの木が、きっと芳しい香りで迎えてくれると思う」……
その夜、新宿駅で明と別れるとき、時間の遅くなったことを気にかけていた明は、家まで美紀を送ることを申し出た。しかし、美紀は歯切れ悪く明の好意を固辞するしかなかった。相手に対する単なる遠慮のためばかりではない。それは、良一の病気のために荒みつつある自分の家を、たとえ外巻きだけでも目の当たりにさせるということにまつわる、気後れのためなのだ。
日高家の屋敷は、その形姿や骨格こそ何の変哲もない家に過ぎなかったが、少しばかりの注意を払って様子を伺えば、やはり見る者に奇異の印象を与えずにはおかないような、底気味の悪さが漂いはじめていた。
玄関先のポーチの隅では、腐った枯れ葉が山のように堆積して湿り気のある異臭を放ち、手入れの疎かになった庭には、一面にはこべやははきぐさ、かたばみなどの雑草が、一面にびっしりと萌え出ていた。その片隅に、良一の割った窓ガラスや、壊した陶器の破片などが異様に暗い光沢を放ちながら、寄せ集められてある。
それらの様子は、家を取り囲む背の高い柊の木によって、取り敢えずは往来を行く通行人の視界から遮られてはいたが、当の柊がその一角だけを周囲から切り取りでもするように、深い緑の葉の繁みで区別していたので、却ってなおのこと、人目を引きつけるようなところがあるのだった。久しく前から、昼間でもぴったりと閉ざされた雨戸が、柊の枝の狭間から見え隠れするようになっていた。それらは実際、ひとつのものの崩壊のイメージを、否応なく見る者に印象づけずにはおかないような光景だった。
最寄の私鉄駅からの暗い道を歩きながら、美紀は、生活の息吹のすっかり抜け落ちてしまった柊の家の光景を、いまさらのように思い浮かべた。途端に、足取りが重くなってゆくのが感じられた。良一が発病して以来、少し以前までは、母親の絹代だけを良一のもとに残して仕事へ出てゆくのがどうしても気掛かりで、毎朝のように後ろ髪を引かれる思いを断ちながら、この駅への道を急いだものだった。しかし最近では、逆に、夕暮れ、自分の家に戻ってゆくのが、何とはなしに疎ましくなりはじめていたのだ。そのような気持ちを抱くべきではないと、美紀の理性は訴えかけていたが、如何ともし難いものが心の内にわだかまって、少しづつ膨らんでいった。
やがて、夜の帳の中、そこだけが暗く落ち窪んだ奈落のような、黒々とした柊の垣根が姿を現した。美紀の歩みはいよいよ緩慢になった。さきほど別れたばかりの明の顔が、ふいに慕わしく思い出されたりした。朝ごとに捉えられる希望の欠けた逃避願望が、再び鋭い爪音をたてて己が身を引きさらってゆくかのような幻影に襲われ、孤独感が吐き気のように喉元を締めつける。泣き出したいような息苦しささえ覚え、身体を小刻みに振るわせた。
そのとき美紀は、明とともに街を歩いていた折りに目をとめた西洋菓子店で、まるで衝動買いさながらの唐突さで買い求めたマドレエヌのことを思い出したのだった。今にして思えば、明にプロポーズの返事をしなければならないことにまつわる行き場のない胸苦しさからの、これも一時的な逃避感情の現れだったのだろうと、自らの不可思議な買い物の理由を考えたりしたが、いずれにしても当のマドレエヌは、まだちゃんとバッグの中にある。そんなことをするのは我ながら可笑しくもあったが、美紀は立ったままバッグの中からマドレエヌの袋を取り出し、袋の口を結んでいる赤い針金モールを解いた。甘く香ばしいかおりが、鼻の奥のほうまで擽った。銀の型を剥いて、半分ほどを頬ばってみる。ヴァニラ・エッセンスの余韻と夜の冷気が混ざり合って、幸福なのだか悲しいのだかわからないような、不思議な気持ちになった。マドレエヌのひとつが、漸く口の中で完全に溶け去ってしまう頃、その力を借りながら、美紀はやっと自宅の玄関の前に辿り着くことが出来た。いつもなら点いているはずの門灯 が、その夜は消えていたが、別におかしいとも思わず、習慣どおりに呼鈴を鳴らし、ドアを開けた。玄関の中には、黄色くくすんだ古新聞紙が堆く積み上げられ、かつて熱帯魚たちが雅びやかな姿を踊らせていた水槽も、今は水が青緑色に濁り、微かな腐臭さえ漂っている。床の隅々には眼にわかるほどの埃がたまり、ざらついた感触が部屋履きを通して足の裏にまで伝わってきた。
美紀が靴を揃え直しているところへ、呼鈴を耳にしたらしい絹代が出迎えに現れた。相変わらず寝間着の上にガウンを羽織り、窶れた表情をしているが、どこか少し様子がおかしい。乾いた感じの髪はいつになく茫々に乱れ、瞳に涙を浮かべている。そしてひとこと、美紀さん、と嗄れたか細い声で言った。次の瞬間、尋常ではない緊迫した空気が漂っているらしいことに気付いた美紀は、一瞬の隙をぬって己の内部に兆した、その場から逃げ出そうとする衝動を、必死になって抑え込むのがやっとという有り様で、ふるえる脚は玄関の框の前に釘付けにされたまま、前にも後ろにも動く気配を失っていた。



   第 五 章


 「良ちゃんに、何かあったのね?」
 事態をすぐに悟った美紀は、膝ががくがくとわななくのを覚えながら、やっとの思いで絹代の脇をすり抜けて、廊下を走り、居間へ通じるドアを開けた。途端に、何事かわけの判らないことを叫びながら暴れている良一と、それを背後から、羽交締めのような恰好で押さえつけている、凄まじい形相の父親の姿が眼に飛び込んできた。部屋のなかは惨憺たるありさまで、書架の美術全集や文学書の類は無残に引き裂かれ、辛うじて残っていたサイドボードのガラスも、全て割られて床に破片が飛び散っていた。電気スタンドやテレビなども、手当たり次第に投げ出されたと見えて、ちぎれたコードもそのままに、まるで前衛芸術展のグロテスクなオブジェの如き不格好をさらしている。取っ組み合いをしながら右往左往する良一と幸三郎は、割れたガラスや食器の破片で足を傷つけ、靴下が血で赤黒く染まっていた。
 「良ちゃん!」そう叫ぶなり、美紀は二人の傍らに駆け寄ったが、なす術も無く立ち尽くした。涙がぼろぼろと溢れてくるばかりで、それ以上の言葉が思考の綾にかからない。事態の余りの異常さに、相変わらず脚だけがわなわなと振るえ、口のなかがからからに乾ききっているのを感じる。名づけようのないあるものの、痛わしい崩壊の印象が、容赦なく美紀の喉元を圧し潰した。獣のような罵声をあげながら暴れる良一の姿を見ているうち、これが自分の弟なのだろうかと、まるで眼前の光景が、映画か何かの一場面ででもあるかのような錯覚に陥り、亜急性の現実感覚の麻痺にとらえられる。
 取っ組み合っていた幸三郎と良一が、勢い余ってそのままの姿勢でどうと床に倒れ込んだ。大きな音がして、ソファや応接テーブルがひっくり返った。
 「良ちゃん……」やっとのことで、美紀は口を訊いた。悲しみと恐怖とで唇が強張り、声が上ずっている。「どうして、何故、こんなふうになってしまうの?。いったい何が不満で、そんなに怒りたくなるの?。……お願い、昔の良ちゃんに戻って。もうこれ以上、私たちを苦しめないで。お願いよ、良ちゃん……」
 美紀は、泣きながら良一の腕をつかんで懇願した。床に倒れ伏したままの良一の首筋のあたりに、美紀の涙が滴り落ちた。
 良一は、病的な興奮状態のため異様に瞼を大きく見開き、しかし焦点のずれた、据わった眼を虚ろに彷徨わせながら、肩で荒々しく呼吸をしている。幸三郎もまた苦しげな面容をあらわにしたまま、その場に仁王立ちになっていた。こめかみのあたりに傷をつくり、滲んだ血が固まりかけている。居間の入口のところでは、顔を泣きはらした絹代が、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。
 「姉さんには、僕のことなんか何も分かっていないさ。姉さんは、いつも僕より可愛がられてきたんだ」
 良一は、床に倒れたまま首筋だけを捩じ曲げて擡げ、喘ぐように口走った。
 「何を言うの?」
 美紀は良一の言葉の真意が呑み込めず、驚きのために眼をまるくした。
 「そんなことはない。お前の思い過ごしだ」
 幸三郎は、強く断定的な調子で言った。
 「そうよ、美紀さんのことも良一さんのことも、私たちは全く同じようにして育ててきたつもりなの。どうかそんなことは言わないで」
 ソファに深く身を凭せかけて、か細い声で絹代は呟いた。それきり、絹代は半ば放心の態で、壊れた調度やガラス片の散乱する部屋のなかの、あらぬ一点ばかりを意味もなく凝視している。
 「確かに、今日はお前に何の相談もなく医者を呼んだ。私の落ち度だ。そのことは謝る。それにしても、言いたいことがあるなら、私はいつでも聞く耳を持ってきたつもりだ。画のことにしても、やめろだとか、描いてはいけないなどということを言った覚えはない。好きなだけ描くがいい。ただ、仕事もするようにと、言ったまでの話だ。それがわからんはずはなかろう」
 いくらか落ち着きを取り戻した幸三郎は、傍らにひっくり返っていたソファを起こすと、頼り無げにふらつきながら、そこに腰を降ろした。
 美紀は、尚も良一の上に屈み込んだ姿勢のまま、父と母を順に見やった。いくばくかの距離をおいてソファに身を沈めている二人の姿は、それぞれに止みがたい鈍色の疲労と絶望とを共有している。だが、その両者を隔てる空間全体を、どこかこの場に相応しくない微妙なずれが支配しているようにも、美紀には思われた。あたかも、本来純正な和声に律せられるべき第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンとが、互いの声部の動きに敏感になるあまり、却って自らの弓さばきが散漫になって、アンサンブルに乱れが生じることのあるように。振り返ってみると、それは先月のある日、幸三郎が神戸の女子大での講義を終えて帰京した夕方、職場から帰宅した美紀が両親のいる居間に入った刹那に感じ取った、脚の竦むようなあの緊張感に通底するものでもあった。
 勿論、そんな一抹の印象など、現下の状況にあってはさほど重要なものであるとも考えなかった美紀は、自らの些細な思念の拠って立つ理由を、異様な光線を放ちながらその空間に横たわる、あのボッティチェリの『ヴィナスの誕生』の模写に見出そうとした。樹木や陸地を構成する暗色と、人物や背景の海や空に使われた明るく軽やかな色彩とが織りなす、著しいコントラストの妙。アルカイックというには余りに官能的でありながら、ネオ・プラトン主義の乾いたセクシュアリティさえ感じさせる、全体の構図。その豊かな表現力のゆえに、『ヴィナスの誕生』は常に絶大な存在感を以て、この部屋の持つもうひとつの窓として、あの異様な光を取り込んできた。しかし、美紀にとって何よりも重要なのは、この画が相変わらず、美紀の心情にとってはどこか疎遠な、決して心の通わぬ一個の対象物でしかなかったということだ。無感動、というのではない。むしろ、良一の精神の変調と、そのことによる家族の修羅場などに、全く何の関わりをも持たぬかの如く、静かに天上のエロスを再生し続ける神々たちに対して、半ば苛立ちに似た感情をすら抱いたと言っても良いかも知れない。この部屋の持つもう一つの窓、それは決して、少なくとも美紀にとっては、アポロンの光満ちる、ヘレニズムの人間主義へと通じるものではなかった。正直なところ、他ならぬその画のために、家族の中心軸が微妙にずれているような不可解な不快感を、ついに拭うことが出来ないできたのだ。もし能うことなら、この窓を塗りつぶしてしまいたいとさえ、美紀は思うことがあった。
 「父さんたちは、姉さんばかりを可愛がってきた」
 良一は、美紀を押し退けるようにして起き上がると、口早にさっきと同じことを繰り返した。
 「良ちゃん、そんなこと言わないで」
 美紀は張り裂けそうな思いを押し止めて、良一の手を握った。
 「僕はこの家を壊すために生まれてきたんだからな。それが僕の存在理由というものだ。ああ、また壊したくなってきたぞ」
 美紀の手を振りほどいた良一は、ひどく緊張した様子で荒々しく呼吸しながら、他の三人の顔を睨みつけるように眺め渡した。その瞳は光を失い、相手に向けられながらも焦点のぼやけた、まるで深海魚の眼のようであった。
 「落ち着くんだ、良一」
 幸三郎がそう言ったまさにそのとき、良一は庭のバルコニーに面した窓ガラスに向かって、奇妙な笑いさえ浮かべて、踊りかかっていった。
 「僕をこんなふうにしたのは、父さんたちだ」
 「やめてっ、良ちゃん、もういい加減にして」
 ガラスの割れる音と共に、良一の右手がみるみる血に染まり、美紀の叫びがそれに加わった。幸三郎が止めに入ろうとする前に、美紀が良一の胴体にしがみついて、ガラスの前から引き離した。
 「姉さん、放してくれ、苦しいんだよ、暴れないではいられないんだ」
 良一は無理に美紀を振りほどこうとして、力任せに身体を翻した。その拍子に、良一の着ていたシャツのボタンが取れてはじけ、美紀は反動で側にあったテーブルの角にしたたか腰をぶつけた。
 再び自由になった良一は、今度は居間から走り出ていった。そのとき、床に落ちていた美紀の黒いバッグが、良一の脚にからみついた。財布やハンカチ、ポケットティッシュなどに混じって、銀の型に入ったマドレエヌが絨毯の上に転がった。その光景を眼にした美紀は、ほんの刹那、甘く香ばしいマドレエヌが口のなかで溶けてゆく感触や、西洋菓子店のあった街路を神谷明と連れ立って歩いていた時刻のことなどを、切なげな心持ちになって思い起こした。
 「大丈夫か、美紀」幸三郎が訊いた。
 しかし、美紀はその声も聞こえなかったかのように、腰から脚にかけての鈍痛を引きずりながら、身を起こして良一の後を追った。
 良一は、廊下の一番つきあたりの、自室のアトリエに駆け込んだ。美紀がそのドアの前まで来たとき、部屋のなかから、布を引き裂くような異様な物音がした。躊躇する間もなくドアを開けると、パレットナイフを手にした良一が、片端から手にしたカンヴァスを破っているところだった。
 「大切な作品に何をするの?」
 驚きの余り、美紀は背筋をがんと打ちのめされた気がした。
 「才能がないなんて、ちくしょう、承知しているんだ。この家も、画も、何もかも、みんな僕を苦しくさせるものばかりだ。こうだ、こうだ」
 偏執的な反復動作で、良一は作品を引き裂き続ける。
 壁にまでしみ込んだ絵具の匂いのためか、美紀は軽い立ちくらみを覚えた。その眩暈に抗いながら、美紀は言葉を絞り出した。
 「そんなことないわ、良ちゃん、お父様は厳しすぎるのよ。学者だから、余りに客観的過ぎるんだわ」
 「口では何とでも言えるさ。頭の良い姉さんはね、いつだって認められてきたじゃないか。僕はいつだって、姉さんと比較されてきたんだ」
 「誰も較べてなんかいるものですか」
 「較べてるんだよ」
 美紀は良一の手からパレットナイフを奪おうとした。良一は必死に抵抗する。弟とはいえ、やはり男の力には抗うことが出来ず、美紀は頬にシアン・ブルーの染みを付けられ、はね飛ばされた。
 「良ちゃん、私の言うことを聞いて。ね、お願いだから、お医者さまに診てもらって。良ちゃんは普通じゃないわ。お医者さまのところへ行けば、きっと楽にしてもらえるはずよ」
 良一の行動を制することが、最早やかなわぬと悟った美紀は、哀願の口調になって言った。良一は何も答えることなく、描きかけのカンヴァスを執拗に切り裂くばかりだった。
 それらの作品の美しさに安堵を託してきた美紀は、たまらない気持ちでその音を聞いた。まるで、最後に唯一残された、良一の正常な精神が少しづつ失われてゆくかのような恐怖に掬われた。その恐怖が極限にまで昇りつめたとき、美紀は、辛うじて残されていた無傷の作品を何点か手当たり次第に抱きかかえると、良一のアトリエを飛び出したのだった。とっさの思いつきであった。階段を駆け上がり、自室に入るや否や鍵を掛けた。良一が画を取り返そうとして追いかけてくるのではないかと考えたのだ。しかし、良一がやって来そうな気配はない。
 机の上のあかりを点け、カンヴァスをベッドの上に横たえたまま、美紀は放心状態に陥った。
 どのくらいの時間が過ぎただろうか。夜というのは時の感覚を麻痺させる。長いようにも、短かったようにも感じられた。覚醒した感覚の一部分が、闇のなかを漂ってくるあの旋律を捉えた。バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番。この曲を、幾度、こうして聴いてきたであろう。そしてこれからも、同じような夜に、どれだけ耳にすることになるというのだろうか。再び遠くかすんでいきそうな意識の狭間に、引き裂かれ、散乱したカンヴァスに囲まれたまま、バッハを聴く良一の姿が浮き沈みした。

   ***


  幸三郎の日記(その四)
          一九八六年五月二*日
                東京。自宅書斎にて。

 良一の急性増悪のため、神戸での仕事を取り止める。発作の誘因となったのは、措置入院の審査のために医師がやって来たことだった。当然のことながら、医師が来ることは良一には知らせておかなかった。そのことがまずかったと言われれば、確かにそうであるには違いない。しかし、仮に措置入院のことを知らせてあったとして、良一が素直に医師の診察を受けたとも思われない。いずれにしても、措置入院という方法は初めから不可能だったのだ。私はそのことを内心では気づいていたにもかかわらず、自分自身を瞞着しようとしてきたのではなかったか。措置入院の申請が、妻や娘に対する私の良心的なポーズ、何もできぬ自己の良心に対する小賢しい言い訳であると非難されても、弁明の余地はない。
 良一は医師を自室に入れようとしなかったから、もとより診断を下せる状況ではなく、結局何もすることなく引き上げていった。私としては、少なくとも良一が自分の部屋に閉じ籠もって、ドアの向こうから考えつくかぎりの罵詈雑言を浴びせかけているその有り様からだけでも、医師たちが何らかの積極的な手だてを考えてくれるのではないかと期待していたのだったが、現実はそういうものでも無いらしい。医師とケースワーカーは、診察が出来ない状態では、何の判断も下せないという。そう語る彼等の表情のなかには、私たちに対する同情を読み取ることもできたが、そればかりではない、意に沿わぬ仕事から解放されたときの、安堵感のようなものが漂っているかにも思えたのだが、それは期待を裏切られた私の、穿った見方と言うべきであっただろうか。たしかに、措置入院の運用が、時として精神医療に従事する専門家の職業的な立場をも危うくしかねない微妙な問題を孕んでいるらしいことからすれば、彼等が慎重にならざるを得ないのも無理はない。
 フーコーの書物から私が学んだところでは、近代市民社会の悪弊の一つに、狂気を臨床医学の枠組みのなかに取り込んだことがあるという。だが、精神病者を恐怖と畏怖の対象から引き離し、客観的な観察と治療の対象としたピネルを、理性と非理性の僣越な審判者とするフーコーの思想には、非理性の側こそが真理に近いという、無媒介的な価値判断が先行したところはないだろうか。それは、理性的な価値観のなかに生を享けた、近代人としてのフーコーが抱いた、たんなる自己否定的な不安の意識の現れに過ぎないのではないのか。自己否定とは、私たち現代の人間が必ず一度は通過しなければならない麻疹の様なものだ。あるいは、若い精神の危険な遊びのようなものと言ってもいい。それで命を落とす者さえいる。なるほど、自分を疑ってみるというのは、すべての思想の源泉と言えるかも知れない。芸術的創造の面から言っても、非理性は霊感の貴重な泉たりえよう。ボッシュやゴヤの幻視は我々を不思議な魅力で押し倒す。サド侯爵の酸鼻を極める文学作品は一方で透徹した人間理解を示し、ジェズアルドのマゾヒズムは何人も到達しえなかった音楽的世界へ我々を導いた。しかし、だからといって、理性が真理から遠いということにはならないのだ。……それにしても、この自己否定の呪縛はそれほどまでに強いのか。
 とにかく、措置入院が不可能なら、いずれ何らかの手だてを打って、妻を良一の病的な振る舞いから遠ざけることを急がねばなるまい。おそらく彼女にはこれが限界だ。この頃では、私のウイスキーを黙って持ち出して飲んでいるようだ。全くまともではない。
 ほんとうに、心底から疲れ切ってしまったというのが私の実感だ。行く果ての全く見えない消耗感のなかで生きるというのは、一種の精神的な拷問とも言うべきだろう。私をこうして苦しめ、苦しめ殺すことが良一の目的なのか。やはり私は、このように良一から憎悪されても仕方のないことをしてきたというべきなのか。ある心理学の学説によるなら、人間が誰の助けも借りることなく自己について認識し得る能力というのは、まことに稚拙なものであるという。私にはどうにも自信がないのだ。自ら気がつかないまま、私は良一に対して、ことあるごとに辛い仕打ちを続けてきたのかも知れない。何のために?。私が妻を憎んでいるがために?。
 だが、私は本当に彼女を憎んでいるのか。そんなはずはない。現在の私の内面の何処を探しても、憎悪の感情は見出しようがないのだから。妻もまた私と同じように、いまのこの家の境遇に悩まされ、心身ともに疲れ切っているのではないか。私と違って仕事で家をあけることのない身にしてみれば、尚更のことだ。その妻に同情しこそすれ、どうして憎んだりすることが出来よう?。
 たしかに、妻が私に対して不自然なまでの遠慮を示すさまを目にするたびに、私の内部にはどうしようもない悲しみと、一抹の憤りに似た感情が首を擡げることがある。私の気持ちが通じないのだ。私たちのあいだには、私たちの力だけでは最早やどうすることも出来ない壁が築かれてしまっている。辛い事実だ。だが、私は本当に妻を憎んでいるのか?。むしろ逆に、妻のほうにこそ、私の誠意のない結婚を責める道理があるというものではないか。結局、ことの起こりはそこにこそある。妻には、それが分かっていないのだ。
 どうして歩み寄ることが出来ないのだろう、私たちは。互いに対する負い目という枷で、がんじがらめになっている。憎悪を以て離反するというのであれば、よほど話は簡単だ。そこにはそれなりの、破壊的ではあるが明晰な心の交流というものがある。しかし私たちは、互いのことを思えば思うほど、相手に対して萎縮していかざるを得ない。語りあえば語りあうほど、頑に己の卑小な殻へと閉じ籠もらざるを得ないのだ。いったい、こうした悪趣の果てに、いかなる解決の途が開かれるというのか。
 そうだ、解決などというものが存在するはずもない?、私たちの日々の集積はその第一歩からして、もとより不可能な問いを未来に投げかけていたのであるから?、愛のない結婚という、度し難い矛盾を?
 実際、私には本当に妻に対する愛情がないのか?。私たちの日々の当初においては、確かにそうであったかも知れない。そしてそれが、現在に至る私の宿痾の根源にもなっている。しかし、私の妻に対する気持ちは、月日とともに変化した。やはり私たちも夫婦だ、とは言うべきであろうか。妻を私にとっての大切な人間であると考えてきたし、夫としてなせるだけのことをしてきた。それらのことどもが、私に愛情がないということへの、僅かながらの反証の役割を果たしてくれることを期待する気持ちがあるのは偽りようがない。だが、もし私に本当の愛情というものが芽生えていたなら、私と妻との関係は、もう少し救いのあるものになっていたのではなかったかと、そんな気持ちも兆してくる。少なくとも、話を交わせば交わすほど、互いの心が離れていってしまうようなことだけは無かったはずであると。
 私にはわからない。わからないのだ。
 ただ一つ確かなこと。それは、若かった私の名誉欲と打算とが、一人の女性を決定的に不幸にしてしまったということ。しかも、今となってはもう取り返しのつけようがないということ。……
 悔やみきれるものではない。いま私に出来ることどものうち、少しでも積極的な意味あいを持つものがあるとするなら、それは、せめて子らにだけは幸福な結婚をしてもらうために見守ってやるくらいのことだろうか。とくに美紀など、そう遠くはない将来、自らの心に決めた青年を、私のもとに連れて来ることになるだろう。娘の選んだ相手について、とやかく意見しようとは思うまい。ただ、私のように、愛情以外のものに依存した結婚だけはしないようにと、祈ることが出来るだけだ。
 そして、いずれは娘や息子に対して、私と妻とがこれまでついに明かさずにきた事実を語らなければならない時が来るだろうことも、私には予感できる。それは彼らを生み、育んできた者としての、当然の報いであり義務であると言うべきだろう。
 彼らとて、もう子供ではないのだから。

  ***

 良一が美紀の目前で、精神症状の発作の凄惨な場面を繰り広げた翌日から、美紀は三日間ばかり仕事を休んだ。良一の極度の興奮状態はいちおうの寛解をみていたが、険しい顔つきをあらわにして家のなかを徘徊し、例によって至極些細な事柄が気に入らないとみると、そのたびに絹代や幸三郎に難癖をつけるのだ。絹代のふと漏らしたため息が、自分に対する非難めいた様子をおびているとか、幸三郎の書斎にある書物の並び方が、医者を呼ぶ暗号になっている、といった具合で、その度ごとに、絹代は丁寧に謝罪し、幸三郎は良一の指図するとおりに、本の配列を変えなければならない。何がきっかけとなって再び激烈な発作が起きるかわからないので、気が抜けないのであった。
 家庭でのこうした状態を後にして、職場での仕事がまともに手につくとも思えず、かと言って職場に本当の理由を説明するわけにもいかなかったため、美紀は、風邪を拗らせて熱が下がらないのだと、嘘の電話を入れた。
 幸三郎もまた大学での仕事を取りやめにして、書斎で机にむかっていた。そして、その書斎や、あるいは居間などで、幸三郎と絹代が互いに頑な沈黙を守りながら向き合っているらしい時間が多くなったことにも、美紀はそれとなく気づきはじめていた。時には二人のあいだで何事かをひそひそと小声で話し合う気配が窺えたり、ともすると苛立たしさを抑えた叱責の声や、感情を無理に押し殺した、まるで呻き声に似た嗚咽が聞こえてくることもある。無論、美紀は敢えて両親のそのような気詰まりな会話に加わろうなどとは考えもしなかったが、良一をめぐる父と母の追い詰められた気持ちに対して、何の具体的な手の打ち様もない自らの非力については、恨めしい思いを禁じ得ないのでもあった。
 そんなある夜、美紀が自分の部屋から階下のダイニング・ルームへ降りてゆくと、絹代が一人ぽつねんとしなだれるように椅子に身を凭せかけていた。つい今しがた、それまで絹代と何事かを話し合っていたらしい幸三郎が、階段を昇って書斎へ入ってゆく気配を感じ取ったばかりであった。見ると、絹代の手にはウイスキーの入ったグラスが握られている。
 「まあ、お母様たら。お父様何もおっしゃらない?。お酒なんて飲めないのに」
 美紀は絹代の斜向かいに腰をおろした。俯いていた絹代が顔を上げた。美紀は思わず息を呑んだ。絹代の眼がしらが、赤く泣きはらしたようになっていたのだ。
 「ごめんなさい、あなたにも心配ばかりかけてしまって」
 絹代はさも何でも無いように、居ずまいを正そうとしたが、その動作はひどく作為めいて見えた。
 「ごめんなさいだなんて、おかしいわ。私はこの家の人間なのよ。それよりも、また良ちゃんに何か言われたの?。今度は何が不満なんですって?」
 美紀は声を低くして問うた。良一がどこで聞いているかわからないからだ。
 「違うのよ。ただいろんなことがありすぎるだけ。少し疲れただけなのよ。だから、美紀さんも明日からはお仕事をなさいな。いつまでもお休みをもらっているわけにはいかないでしょう」
 「でも、良ちゃんがまた……」
 「もう治まってきているから、心配はいらないわ。それに、あと二、三日はお父様も家に居てくれると言うし」
 いったい、何の咎のゆえに、こうした報いを受けなければならないのだろう。自分の親ながら気の毒でならず、また自分の親であるがゆえに惨めでもあった。美紀は思った。お酒を飲むのも、仕方のないことなのだろうか。ただ、身体をこわしはしないか、それが気掛かりであると。
 「もう休んだほうがいいのじゃないかしら」
 美紀はそう言うと、母親の肩に優しく手を添え、静かに寝室へいくように促した。……
 絹代がしきりに心配することもあって、その翌日には、再び美紀は出勤した。仕事場である図書館の窓からは、日に日に色濃くなってゆく樹木の枝葉のことごとくが鮮やかに乱舞しながら眼に突き刺さる、その様を手に取るように見ることが出来た。しかし、それらの季節のざわめきさえ、どこかそらぞらしい空騒ぎのようにしか感じられない。まだ初々しい樹液の香りが初夏の風に混淆して幾日か運ばれてきたあと、梅雨の先走りのような雨が降った。その雨の日の午後、司書室の外線電話がなった。
 「先日も電話したんです。病気だったそうだね。……もういいのかい?」
 電話は神谷明からのものだった。
 「ええ、何とか。ありがとう、大丈夫よ」
 「そう、それは良かった。季節の変わりめだからね、気をつけなければ」
 受話器の奥の声が、何となく沈んで聞こえた。鬱陶しい雨のせいかと思った。
 「明さんこそ、少し元気のない声をしているわ」
 美紀がそう言うと、電話の向こうの明は溜息まじりに失笑したらしい。
 「そうかも知れない。……美紀さんから良い返事をもらえれば、きっと元気になりますよ」
 明の言葉に美紀は困惑した。
 「ごめんなさい」
 「美紀さんが謝るようなことじゃないな。ただ、迷っている理由があるのなら、聞かせてもらえませんか。僕が直せることなら直します」
 「違うのよ。明さんに原因があるだなんて、そんなこと思わないで。辛いわ」
 声を憚らせるぶん、悲しみが打ち広がってゆく。
 「何か悩んでいることがあるなら、ぜひ話してくれると嬉しいんだが。たいしたことは出来ないだろうけれど、少しの気休めくらいにはなるかも知れない」
 「有り難う。そんなこと言ってくれるの、明さんだけよ。でも、明さんは気にしなくていいのよ。たいしたことではないから」
 「僕には関係がないというのかい。美紀さんが迷っているのに。……美紀さんは、どこかが変わってしまったなあ。以前はもっと、率直で、明るい人だった」
 美紀は返す言葉もなく黙り込んだ。
 「……ごめんよ。君を非難するつもりなんてなかった。……実はね、郷里の両親が僕に見合いをすすめるんだ。誤解しないでほしい、勿論断るつもりだよ。でも、ただ断るだけでは、またいずれ見合い話を持ち出してくるのは目に見えている。だから、もし美紀さんから良い返事をもらえるなら、きっと両親を納得させることも出来ると思うんだ。僕には、もう心に決めた、こんな素晴らしい人がいるのだとね。そうすれば、両親だってきっとわかってくれるのじゃないかと」
 「お見合い?」
 予想もしていなかった明の言葉に、美紀はうつけたように呟いた。
 「そんなこと、しやしませんよ。見合いそのものを断るつもりでいるんだから。誤解しないでください」
 明の声は決然としていた。しかし、美紀はその刹那、一瞬の前には及びもつかなかった言葉を口にしたのだった。
 「お見合い、なさって」
 その声が自らの耳に響いたとき、眼の前に蒼黒い霧のようなものが現れ、彼方に気が遠のいてゆくように感じられた。自分でも信じ難いことではあったが、反面、それでいいのだという気もした。
 「美紀さん、何を言うんです?。どうしてそんな。信じられない、美紀さん!……」
 狼狽する明の様子が浮かんだ。だが、美紀は遠ざかってゆく意識のなかで、ある別の心の動きを生々しく覚えかけていた。初めて、そのようなものを、弟の良一に対して抱いたのだ。それは憎しみの感情であった。その感情に突き動かされるかのようにして、美紀は受話器を置いた。



   第 六 章


 明からの電話を一方的に切ってしまった美紀は、額を押さえ込んでデスクにうつ伏した。その後は仕事らしい仕事も手につかず、奇妙な気分の昂りと沈鬱とが入り交じった時間を持て余して、却って長い長い午後を無為のうちに過ごさねばならなかった。
 その日の帰りの電車のなかで、美紀は何となく熱っぽい気怠さを覚えて瞳を閉じた。立ったままドア際の手すりに凭れかかりながら、モーターの唸りと鉄の軋む音に耳を塞がれ続けていると、頭全体がずんと重苦しくなって、いつもより何倍もの時間がたっていくような気がしてくる。漸く私鉄線との乗換駅まで辿り着いたが、再び混み合う電車に乗らなければならないのが堪えきれず、美紀は重い脚を引きずりながら、私鉄線の電車が待っているホームを素通りし、改札を抜けてタクシー乗り場の列のいちばん最後に並んだ。雨はいよいよ勢いを増して、美紀の肩や足元を濡らした。やっと美紀の順番がまわってきて、自動車のシートに身をあずけたとき、身体全体に悪寒が走り、軽い目眩を覚えた。
 その眩暈のなかで、苦しげに美紀は考えた。自分が良一に対して憎悪の感情を抱くとは、何ということであろうかと。やはり何処かで罪深いものを感じざるを得なかった。明と結ばれぬことを、良一のせいにしようという己の心持ちが、ひどく身勝手のものに思われ、悲しかった。良一の病気がどうあれ、最も肝要なのは自分自身の明を愛する気持ちなのではないか。理性に耳を傾ければ、当然の如くそんな言葉が返ってくるのであるが、その一方で、やはり、良一さえあんなことになっていなければ、今日まで嘗めなければならなかった煩悶や、こうした罪障感そのものと無縁でいることが出来たのに、という恨みがましい気持ちを、どうしても拭うことが出来ないでいた。事実、美紀の友人のうちの既に何人かは、皆に祝福されて結婚し、平凡ではあるが相応に仕合わせな家庭を築いている。なぜ自分だけが、自分のときばかり、こうした苦悶を背負い込まなければならないのか。誰に向ければよいのかさえ定かではない憤りの感情が、美紀を押し倒した。はっきりとした対象を持ち得ないがゆえに、結局、その感情の矛先は良一に向くしかないのであった。
 自動車に揺られている間じゅう、良一に対する両価的な感情の狭間を、美紀は彷徨い続けた。いつしか、自動車は玉川上水べりの並木を黒々と車窓に映しながら、五日市街道を西へ向かって走っていた。家が近づいてくるにつれ、引き裂かれた心象が自動車の振動とともに浮き沈みしながら、やがては抗いようのない悲しみの上へと落ちていった。
 季節の変わりめの不順な天候のためか、その夜、美紀は熱にうなされ、翌日は勤めを休んだ。もっとも、出勤したところで前日の明との電話のことが始終頭から離れずじまいで、仕事に集中出来ようはずもないのは分かりきっていた。朝には熱も下がり、体調も思いのほか悪くはなかったが、昨日の電話のことを考えると、やはり憂鬱で、一日じゅうを自分のベッドのなかで転々としていたのだ。絹代は何となく普通ではないものを感じたのだろうか、朝から浮かない顔をして、三度、四度と美紀のもとを見舞った。
 いっぽう、美紀は何かにつけて幾度も自分の部屋にやって来る母親の顔に、却って言いたいことを言いだせないでいる逡巡の色を認めたと思った。夕方、美紀の部屋に夕食を持って上がってきた絹代は、壁際のサイドテーブルに食事の載った盆を置いたものの、いっかな美紀の部屋を立ち去ろうとしない。その様子を黙って見つめていた美紀は、やがてそれとなく絹代に問い質した。
 「お母様、余り顔色が良くないみたい、無理もないこととは思うけれど。また良ちゃんに何か言われて?」
 そう問われると、絹代は更に躊躇したように口許を強張らせたが、ついに力のない声でぽつりと呟いた。
 「しばらくの間、この家を離れなければならないかも知れないのよ」
 美紀は事情が呑みこめず、半身をベッドの上に起こしながら、呆気にとられたように母親を見返した。
 「離れるって、お母様が?」
 「ええ、ゆうべ、お父様に言われたの。良一さんの状態が少し良くなるまで、私はこの家にいないほうがいいって」
 絹代は大きな溜息をついた。微かなアルコール臭が漂ってくる。美紀は辛い気持ちになって、母親の乾いた手指の皮膚を見つめた。
 ここ数カ月にわたる良一の絹代に対する振る舞いを考えるなら、幸三郎の判断にも相応の必然性があると言うべきかも知れない。しかし、一見して絹代がそれに応じかねているさまを理解した美紀は、父親の意見に同調することを注意深く避けた。また、よく考えてみれば、そもそもそのようなことはとうてい許し難いことのように思えてくる。
 「だって、行くところなんて何処にもないのでしょう?」
 良一の病気のことは、親類縁者にも内密にしていたから、絹代の実家に身を寄せるというわけにもいかないのだ。方便の嘘を使うといったところで、いったいどんな理由を考えつけるというものだろう。
 「都内にマンションを借りてくださるって」
 絹代は、焦点の定まらない虚ろな視線を虚空に投げやったかと思うと、同情を乞うように娘を見つめたりした。
 「良ちゃんさえ入院してくれれば、そんな必要もないのに。お母様が出ていかなければならない道理なんて無いわ」
 美紀は声を潜めて言った。
 「良一さんはああいう病気だから、他に仕様がないのよ。それに、……お父様が私を別の所に住まわせようとなさるのには、もっと違う理由もあるの」
 「違う理由ですって?」
 想像もしていなかった母親の言葉に、美紀は心弱くうろたえた。絹代は、たいしたことではないと笑いを浮かべながら弁解し、部屋を出ていった。しかし美紀には、そのときの顔が、却って自らの不用意さに動揺したさまを隠すための、力ない微笑みを繕っているように見えたのだ。
 形ある物ばかりではない、家庭そのもの、この家全体が、良一という存在によって、少しずつ、しかも確実に浸食されてゆくような、不気味な感触がまとわりついた。自分の知らない何かが、この家には隠されている……。今しがたの絹代の言葉に触発されて、そんな疑念が心中に渦巻いた。急性増悪の発揚状態のなかで良一が叫んだ言葉、自分はこの家を破壊するために生まれてきたのだという、黙示めいた言葉が、不意に耳に取り憑き、離れなくなった。美紀は思わず頭を抱え込んで、半身を再びベッドに横たえた。意識の深淵を抉るための、鈍色に光る精緻なゾンデのような音楽が、幻聴のように鳴るのを聴く。ああ、またあの曲……!。美紀は喉の底で喘ぐように言葉を洩らした。
 幸三郎は、美紀が神谷明の電話を受けた日の早朝から、神戸に発っていた。帰京するのは二日後の深更となるのが常であったが、その夜、美紀は二階の書斎でひとり父親の帰宅を待った。
 夜中の一時近くになって、漸く幸三郎は帰って来た。少しの間、階下の居間で絹代と何事かを話し合っている様子が窺えたが、やがて自分の書斎に上がってきて、そこに美紀がいることを認めると、微かな戸惑いの表情を浮かべた。
 「お前まで起きていたのか。いったい、どうした?」
 幸三郎は、まるで他人の部屋に不意に闖入してしまった客人のように、鞄を手にしたまま立ち竦んだ。
 「お父様を待っていたの」
 「母さんもおまえも、いちいち私の帰りを夜遅くまで律儀に待っていることはないんだよ。私はそんなことにはこだわらないたちなのだからね」
 「お話したいことがあるわ」
 美紀はソファから立ち上がって父親の鞄を受け取った。自分の口調が、何となく険しいものになっていることに気づいたが、どうしようもない。幸三郎は背広を脱いでそれを椅子の背もたれに無造作に投げ置くと、吸いかけの葉巻に火をつけて、美紀の斜向かいに腰掛けた。そして、美紀の精神の均衡が崩れかけていることをそれとなく察したのか、娘の気持ちを鎮めるようにしばしの間をおくと、やがて思い出したように手をのばしてステレオ装置のスイッチを入れ、プレーヤーに載せてあったLPレコードに針を降ろした。
 Stabat Mater dolorosa, luxta crucem lacrimosa, Dum pendebat Filius.....
 やがて静かに響き始めたのは、パレストリイナの手になる『スターバト・マーテル』であった。その溢れ出る泉、あるいはゴブラン織りのタピストリーの如くに紡ぎだされるポリフォニー様式の声楽曲の華麗さに抗うようにして、美紀は父親の眼を見つめた。
 「いい話かい」
 「お母様のことよ。お父様が別居させるつもりでいるって言ってたわ。本当?」
 沈鬱な気持ちを隠しきれない口調で、美紀は言った。クリスタルの灰皿のふちに置かれた葉巻の煙が、天井の照明に黄金色に染められながら、ゆらゆらと夜の時間の流れに加担した。
 「はっは、別居とは大袈裟な話になったものだ。良一の状態が落ち着くまで、暫くの間この家から避難するだけだよ。今のままで一番可哀相なのは母さんだ。何しろ、一日じゅう良一とこの家で顔を合わせていなければならん。それを、何とかしなくては」
 幸三郎は、落ち着いた様子で娘を説得しながら、自らも辛そうな笑みを浮かべた。
 「それは分かるわ。でも、お母様は賛成しているの?。私にはそうは見えなかった」
 「まあ、私との話では、その気にはなっているようだったが……」
 美紀は暫しの間黙っていたが、やがて思い切ったように言った。
 「仕方のないことだとお父様は言うかも知れないけれど、……でも、やっぱり私は反対だわ。出来ればそんなことしてほしくない。……怖いのよ、何だかとても」
 「怖い?」
 幸三郎は怪訝そうに問い返す。
 「ええ。この家が、そのままバラバラに壊れていってしまいそうで。歯止めが効かなくなりそうで。良ちゃんが発作のときに叫んだ言葉、この家を壊すために自分は生まれて来たっていう言葉が、単なる妄想じゃない、本当にそうなんだっていう気がしてくるの。だって、いつになればお母様が戻って来れるか、見通しも持てないのよ」
 幸三郎は弱り切った様子で俯き、葉巻の火を揉み消した。「だからといって、他に良い方法も見つからないんだ。このままでは、母さんに危害が及ばないとも考えられない。そうなってからでは、遅すぎるじゃないか」
 「お父様、早く病院を探して。何処でもいいから、良ちゃんの入院先を。出ていくのはお母様じゃない、良ちゃんのほうだわ」
 美紀は感情を押し殺そうと努めたが、昂ってくる思いは止めようがなかった。ついつい声高になってくる自分を、意識しながらも持て余した。
 「病院へ行くことを頑に拒んでいる以上、どうしようもないじゃないか。せめて良一が少しでもその気にさえなってくれれば良いが」
 幸三郎も苦しそうに顔を歪めた。
 「もう一度、措置入院を考えて。申請してみて」
 「役所の対応が慎重で、そう簡単にいかないことは、先日のことでも明らかなんだ。良一は部屋に鍵を掛けて診察を拒む。診察できない以上、医者は手の施しようがないんだ」
 「お父様は、どうしてもお母様をこの家から追い出したいのね」
 美紀は、家庭が崩壊していくことの恐怖と、父親に対する一抹の不信感に駆られて、思わず叫んだ。幸三郎は再び俯きながら、呻くように言った。
 「そう私を苦しめんでくれ、美紀」
 「お母様が言ってらしたわ。お父様がお母様のために部屋を借りようとなさるのは、良ちゃんのせいばかりではないって」
 美紀の言葉を耳にした刹那、俄に幸三郎の顔から血の気が退いたように思われた。
 「どういうことだ?」
 娘の口からそんなことを聞かされるとは思ってもいなかった幸三郎は、事実、内面の動揺を隠すのがやっとであるという様子で、それだけを答えた。
 「私にわかるわけがないわ。知っているとすれば、お父様のほうよ。……私にはわからない、何かがこの家をばらばらにしようとしているのよ。怖いの。お母様もお父様も、まるで何かを隠しているみたい。でも、わからない。……何がどうなっているの?……」
 美紀は目がしらに両手をあてがったまま、首を小さく振った。蒼白の表情をあらわにしたまま、幸三郎は立ち上がって、美紀の肩にそっと手を置き、言った。
 「落ち着くんだ、美紀。お前さえしっかりしていれば、大丈夫さ。家族がばらばらになるなんてことはない」
 美紀はほどなく平静を取り戻し、滲んだ涙を拭った。
 「ごめんなさい、私、お父様やお母様を誇りに思ってきたし、この家が大好きなの。だからなおのこと、たまらなくなってしまって……」そして、しばしのあいだ、軽く唇を噛んで逡巡の様子を見せていたが、やがて意を決したように言った。
 「ただ、ひとつだけ、お願いがあるわ」
 「何だね」
 「居間に飾ってある、あの複製画を取り外してほしいの」
 それは、美紀がものごころついた頃からこの家のこもごもを見つめ続けてきた、あのもう一つの窓、ボッティチェリの『ヴィナスの誕生』の模写のことであった。
 「あの画か……」幸三郎は考え込むように黙っていたが、やがて「美紀が、ボッティチェリを嫌いだったとは、気づかなかったよ」と、呟いた。
 「いいえ、嫌いというのではないけれど、あの画を見ていると、とても窮屈な、息苦しい何かを感じてしまうの。名画であることは確かだわ、どこが気に入らないのかと問われても、困ってしまうけれど。でも、あの画を見ていても、不思議と幸福な気持ちにならないのよ。むしろ逆。自分でも何故なのか理由がわからない。できれば見たくないと、いつも思っていた……」
 美紀は、自らがこのイタリア・ルネサンスの生んだ最高傑作に対して抱いてきた疎遠感や違和感を、ここぞと思い切って吐露した。父がこよなく愛するボッティチェリであれば、幾許かの罪障感も首を擡げはした。しかし、『ヴィナスの誕生』が呼び起こす、微妙にずれた家族の中心軸の印象と、良一の精神の変調とが、美紀の心のうちでは不気味な一つの符号のように通底していたのだ。それは強固な強迫観念となって、意識の表層の塵の如き罪障感など、たちまちのうちに駆逐していった。
 「解ったよ、美紀の言うとおりにしよう」
 幸三郎は、当惑の色を浮かべながらもそう答えた。
 「ごめんなさい、つまらないわがままを言ってしまって」
 ………………
 音もなく、夜が深く深く穿たれてゆく。何処へ続いてゆくとも知れぬ、暗い海原の波間を漂う、無定形な泡沫の一つででもあるかのように、美紀は自分を感じた。
 数日後、絹代が当座を過ごすことになるマンションが決まった。幸三郎が、勤め先である都内の大学への往き復りに寄ることが出来るようにと、通勤に使う鉄道沿線の、途中駅からさほど遠くない場所に見つけた、2LDKの物件であった。
 すべての話が、良一には内密のうちに進められた。無論、絹代が家からいなくなれば良一もその理由を質してくるに違いないが、少なくとも絹代の引っ越しが終わるまでは、良一に何も知られないようにしたほうが、事が順調に運ぶものと思われたのだ。
 引っ越しといっても、女一人の仮住まいのことである。これといった大荷物もなく、準備というほどの準備もなかった。少しばかりの衣類と愛用の品、こまごました雑貨の類が要領よくまとめられた。鍋釜は小さなものを買い揃え、寝具は店から新しいものを直接マンションへ送らせた。その他に買ったものは、独身者用の電気冷蔵庫と洗濯機。部屋にはクローゼットがあるため、箪笥などはさしあたり必要がない。
 六月のある日曜日。数日間続いた雨が漸く止んだ日の朝、梅雨寒のあいだを縫うようにして、引っ越しは実行された。良一がまだ眠っている時間を見計らって、絹代は幸三郎とともにタクシーに乗り込み、新しいマンションへと向かった。
 走り去ってゆく自動車が見えなくなるまで、美紀はひとり呆然と玄関先に立ち尽くしていた。それまで抱いてきた崩壊の印象が、いよいよ本当の、疑いようのないものになってきたという実感が襲いかかる。目に入る全てのもの、朱と白の花を庭先でもたげる虞美人草や、鮮やかに光る紫陽花さえもが、このうえなく胸苦しいものに思われだした。重い虚脱感にさいなまれる一方で、何かをせずにはいられない気の逸りが交錯する。そうすることによって、音をたてて崩れ始めているものを押し留めることが出来るとでも言わんばかりに、美紀は家のなかに入ると、引っ越しのために取り散らかされた、絹代の持ち物を片付けはじめた。いつ母親が帰ってきても良いように、几帳面な性格であった絹代が常にそうしていたように、まわりを正しておくつもりだったのだ。
 持ち出されなかった衣類を洋箪笥にしまい、クローゼットのなかを手際よく整理した。持ち主から置き去りにされた装身具の類には、そこはかとない寂しさが感じられはしたもの、それらのうちの幾つかは、鏡台の上の目につく場所に、造作無く置いておくことにした。それが絹代の習慣だったからだ。良一が精神に変調を来たし、事あるごとに絹代を攻撃するようになって以来、絹代は自らの息の詰まるような日々の緊張と生活の荒涼とを、そんなちっぽけな装身具を眺めることで慰め、埋め合わせようとしていたのであろうか。また、それらの品物を見ていると、いったい何故、自分の境遇というものがこんなにも変わってしまったのかという、辛くももどかしい疑問が今更のように意識の閾の上にのぼってくるのでもあった。あの日までは、良一が美大受験のことで幸三郎と衝突したあの夜までは、全てが順風とともに運ばれていた。だが今では、美紀の小さな誇りでさえあったもの静かな家庭の調和は死に瀕し、将来を誓うつもりでいた神谷明との愛は引き裂かれつつある。いったい何が、いかなる力が作用して、こうまで運命を狂わせようとするのか。美紀は、数日前、幸三郎に向かって言った言葉を、再び声に出さずに呟いてみた。何かが隠されている、家族をばらばらにする何かが、と。まるで、絹代の装身具にその答えを問いかけでもするような、ひとつひとつを丁寧に鏡台の引出しの中にしまい込む、心塞ぐ仕事に、美紀は熱中した。
 そのさなか、美紀は偶然、ある意外な物を見出した。鏡台の引出しの中に、花柄の和紙に包まれて眠っていた、一枚の古い写真である。
 そこに写っていたのは、もう二十年以上も前の、今となっては身なりや髪形などがいかにも時代めいていて、見る者の微笑みさえ誘うような、日高家の家族四人の姿であった。意外な、というのは、ひとつには家族が揃って写真を撮ったという記憶がついぞ無かったからなのだ。それほど昔の写真ということになる。だが、美紀は、家族皆で写した写真が殆ど残されていないという、普通の感覚で考えるならやはり奇妙としか言いようのない事実よりも、自らの見出した色褪せたモノクロのスナップじたいに、暫しのあいだ関心を奪われていた。
 それは、まだ春浅いころの風景らしく、所々に残雪の見える寒々とした落葉樹林と、その向こうに建つ瀟洒な洋風建築の屋敷とを背にして、人物がこちらを見つめて立っている構図をなすものだ。おそらくは四歳くらいであろうか、幼い美紀は、まだ髪の黒々とした幸三郎に手をつながれていた。画面のなかの美紀は、小さなスカートからのびた細い脚や、父親の手に包まれていないもう一方の手に持った玩具めいたバスケットなどのせいか、いかにも子供らしい無邪気さを印象づけるのではあったが、その大きな瞳には、いったいどのような理由によるものであるのか、捉えようのない戸惑いの色を確実に認めることができるような気がした。また、弟の良一はまだ二歳になるかならぬかくらいの、赤ん坊といっても差し支えのない程の小ささで、絵柄のはいったねんねこのような着物にくるまれ、しっかりと若い絹代に抱かれている。
 更にもう一つの意外な点は、その写真に、美紀の家族ではない、ひとりの見知らぬ背広姿の青年が一緒に写っていることだ。その青年は、画面のいちばん左端、昔風の外套を着た幸三郎の横に、やや間隔をおいて立っており、顔はカメラのレンズを見つめること無く、少し俯き加減に向けられている。美紀は何とはなしに印画紙を裏返してみた。 <一九六五年四月。信州、軽井沢にて、榊原さんと。>絹代の筆跡であった。その裏書きから判断するなら、その青年が榊原という姓であるらしいことはわかるが、はたして、彼が日高家の人々といかなる関係の人物であるのかは、謎のままだ。
 ともかく、この写真がどの様な機会に撮られたものなのか、遡行する記憶の糸にも思いあたる節は無かったが、写真を見ているうち、美紀はふいに、何故か自分たち四人の家族が、とてもいとおしいものに感じられてきて、たまらない気持ちになった。現在の半壊した家屋のような家族の状態を悲しむ気持ちと、かつての平和な団欒を懐かしむ気持ち、そして、今の苦痛を将来において約束されながら、未だそれを知らずにいる写真のなかの在りし日の自分たちに対する憐憫の情のようなもの、それらがはっきりした区別もないままに、一斉にこみ上げてきたのだ。ねんねこにくるまれながら、絹代にしがみつくように抱かれている良一の、小さな白い拳を見たとき、美紀は自らのうちに覚えた、良一に対する憎しみの感情を後悔した。まるで、写真のなかの小さい良一に向かってそのような憎悪の念を持ったとでもいうかのように、切ない自己呵責に身悶えした。
 そして、憑かれたように写真に見入っていた美紀が、最後に気づいた奇異なことがら。誰ひとりとして、顔に笑いを浮かべていないのだ。絹代は若やいだ華やかさを身にまといながらも、面持ちは硬く、萎縮して暗い。幸三郎はといえば、力なく遠くを見やるかのような瞳の、何と寂漠としていることであろう。これほどまでに虚ろな悲しさを宿した人の眼というものを、美紀はついに見たことがない。家族皆が揃って写す写真に、何故こうまで侘しげな表情をしなければならなかったのか。その理由を想像する手掛かりさえない。両親それぞれの沈鬱な様子が、そのまま二人の幼い子供までをも呑み込んでしまったというべき、戸惑いを隠しきれぬままに立ち尽くす美紀の姿や、神経質そうな眼を斜に向けながら母親にしがみついている良一の様子が、痛ましく網膜に焼きつくばかりだった。
 そのとき、美紀は背後に人の気配を感じ、思わず振り返った。いつの間に起きだしたのか、部屋着を下着の上に引っかけただけの良一が、ぼさぼさの長い髪を頭のうえに載せて、ぬっと立っていたのだ。
 美紀は慌てて、手にしていた写真を鏡台の傍らに置いた。
 「姉さん、どうしたのさ。こんなところで」
 いつものように落ち着きなく身体を揺すりながら、良一は問いかけてきた。
 「あら、良ちゃん。起きてきたの?。おはよう。朝御飯できてるわ」
 美紀はことさらに平静を装った。
 「食べたくないよ。これからまた憂鬱な一日が始まるっていうのに、悠長に食事なんかする気になれるか。それより、今朝はひどく騒がしくて、ゆっくり寝ていられなかったじゃないか。何をしてたのさ」
 いずれわかることであるなら、早いほうがいい。しかも、自分から事態を邪推して、事実以上の妄想を抱かれるよりは。……そう考えて、美紀は絹代がこの家を出ていったことを伝えた。
 「ふざけやがって」
 良一の目つきが、俄に険しくなっていくのがはっきりと認められた。その態度に横暴なものすら感じた美紀は、再び自分のなかに良一への怒りがこみ上げてくるのがわかった。
 「どうしてお母様がそうしなければならなかったか、知らないとは言わせないわ」
 目の前に立つ現実の良一と、件の古い写真のなかの幼い良一とが、全く別個の人間ででもあるかのような錯覚にとらわれる。
 「母さんが何処へ行ったか、姉さんは知っているんだろう?」
 低くはあるが挑みかかるような口調で、良一は言った。その様子に微かな不安を覚えはしたものの、自らの情念に駆られるまま、挑発的な言葉を美紀は口にした。
 「知らないわ。さあ、これで良ちゃんの望んでいた通りになるのよ。この家がばらばらに壊れていくの。……面白い?」
 良一が再び暴力を振るうのではないかと、美紀は身構えた。しかし、良一は険しい表情を崩さぬまま、よく意味の聞き取れないひとり言をぶつぶつと呟いて、その場から立ち去っただけだった。
 開け放たれた窓から、湿気をいっぱいに含んだ風が入り込んで来る。今し方の緊張から解放されたことによる心の弛緩の隙間を、ひたひたと寄せるやり場のない悲しみが満たしはじめ、身体じゅうの力が瞬く間に抜け落ちていった。美紀はふわふわとその場に膝を折って座ると、墨画のような雨雲が、薄くなり厚くなりしながら、ゆっくりと北東の方角へ流されてゆくさまを、潤んだ瞳でぼんやりと追いつづけた。



   第 七 章


  幸三郎の日記(その五)
         一九八六年六月一*日
          神戸。オリエンタル・ホテルにて。

私の最も苦手とする季節がめぐって来た。東京でも、ここ神戸でも、重たく粘った空気が皮膚につきまとって離れない。そうかと思うと、まだ蒸し暑さには程遠く、半袖の開襟シャツでは風邪さえひきそうだ。梅雨寒、というのだろうか、俳諧の言葉らしいが、日本の伝統文化に疎い私には、確かなことは分からない。誰の作であったかは忘れたが、紫陽花を小さな毬に例えた句があったのを覚えている。俳諧に限らずとも、どうやら日本の文化的風土を特徴づけるのは、環境に順応する精神のようだ。夏には夏の情緒を、冬には冬の趣を楽しむ傾向があるらしい。私のような人間にとっては、どうやら無縁な機微のようだ。尤も、それは単に私が風雅というものを解しないというだけのことなのかも知れないが。
それにしても、この時期の、幾層にも重なる厚い雲に塞がれた湿潤した冷気にふれると、私には決まって思い出されてくるひとつの情景がある。それはもう三〇年ほども前の若かりし日のこと、大学の給費留学生としてイタリアに滞在していた私が、与えられた研究日程の僅かな合間をぬって訪れた、北ドイツの印象だ。あれは初夏ではなく、欧州の短い夏が終わり、長い冬の前奏曲ともいうべき、鈍色の秋が野山を染めつくしていた頃であったと記憶している。滞在地であったフィレンツェから夜行列車でミラノへと向かい、さらにそこから乗車した国際急行列車TEEが、執拗な登攀ののちにヨーロッパ・アルプスを越え、南チロルの山岳地帯を駆け降りたときの、晩秋のヨーロッパ低地地方。低く垂れ込めた鉛色の雲が、代赭色の大地を呑み込み、ラインの河面は深い灰白色の霧に視界もくぐもって、あたかも冥府への波止場のようでさえあった。葉を落としかけた菩提樹の大きな黒い影が、霧のなかから姿を現すとき、それはまるで冥府の審判者たる大天使ミカエル、あるいは裁きを垂れる神そのもののイメージを連想させるのだ。ちょうどカスパー・ダーウィト・フリードリヒの『オークの森の僧院』の印象のごとく、そこでは全てが重苦しく、しかも内面的な燃焼感に満ちている。倫理主義的で質朴なプロテスタンティズムの精神というものが、その土地からこそ生まれ得たのだということを、私は殆ど直観的に納得したものだ。
つい昨日まで、明るい光に充たされたラテン的風土、聖母マリアの優しげな眼差しと神秘に抱擁されたカトリック信仰によって培われた世界のなかにいた私の目には、余りに鮮やかすぎる対照であるという他はなかった。地上の栄光の虚しさを描きつづけたハンス・バルドゥンク・グリーンを生み、楽の音を禁欲的な美に従わせたハインリヒ・シュッツを生んだ国、後世においてあの重厚な観念論哲学の体系を打ち立てることに与した環境は、フラ・アンジェリコが描く輝くばかりの奏楽天使像や、パレストリイナの甘美な旋律に酔い痴れていた私の精神にとって、いかほどか厳しく、強靱で、しかも灼熱的な敬虔さに満ちたものと映ったことだろう。あの時の衝撃は、今もなお忘れ難いものとして私の心の襞に根を下ろしていると言ってよい。………
梅雨時の憂鬱の印象が、ペンに任せたまま思わぬ場所へと行き着いてしまったようだ。だがこれも詮なきこと、続けよう、故なしとはしないのだから。……かの気の塞ぐような灰色の雲とともに、私のペンをここまで連れてきてしまったもの。それは以前にも記したことではあるが、梅雨時の粘液質の大気にも似た、人間の罪の問題にほかならない。(……ああ、また私の小賢しくも愚かな性癖が顔を出してしまったようだ。曖昧な言葉で自分自身をも瞞着しようとする。なぜ自分の罪と言えないのか。)むろん、あの頃の私がそうした意識をはっきりと持っていたとは言い難い。もし持っていたなら、まだ赤ん坊同然であった幼い美紀や、その手のかかる子供を抱えた妻を日本に残し、自らの我意だけにまかせて欧州への留学を志すなど、とうてい思いもよらなかったことだろうからだ。しかし、その頃においてさえ、私が罪の問題というものに無意識裡に憑かれていたとは!。考えてみれば、いったい何故、私はあのとき、たった一枚の画のためにドイツへ行く気になったのだろう。いや、そもそも何故、私はあの画にとらわれ続けるのだろうか。
イタリアからアルプスを越え、ドイツに入った私は、わき目もふらずにカールスルーエの国立美術館を訪れた。否、実を言えば、カールスルーエに到着したのは夜も遅くなってからであるらしく(そのあたりの記憶はきわめて曖昧だ)、私は翌日になって漸く、国立美術館のあの画の前に立つことが出来たのであったかも知れない。というのは、不確かな記憶のなかにも、ある一夜を不思議な胸の高揚とともに、まんじりともせずに過ごしたことだけは覚えているからだ。それはきっと、あの画との対面を翌日に控えた夜のことではなかっただろうか。美術館のロビーを駆け抜け、幾つかのブースを素通りした私は、ついにその画の前に立つことが出来た。決して好みにあった作品ではない。学問的な関心によるのでもない。ただ私は、筆舌に尽くし難い強迫観念を以て、必ず一度はその画の前に立たないではいられないという思いを抱いてきたのだ。明け方の夢のように、常に重く私にのしかかっていたイデエ。グリューネヴァルトの『キリスト磔刑図』。
私は何故、この一枚の画に憑かれ続けてきたのだろう。グリューネヴァルト。中世ゴシック精神の最後の閃光ででもあるかのようなその作風は、私が愛した、明るく、ときとして異教的な光にさえあふれたイタリア・ルネサンスの理念から遙に隔たったところにある。なかんずく彼の『キリスト磔刑図』は、激越なリアリズムという平易な説明のみによっては片の付けようのない壮絶な切迫さを持った作品だ。いわゆる神聖美や悲壮に裏打ちされた優しさといったものとは無縁の、無残な骸としてのキリストの姿。断末魔の苦痛によじれる四肢、緑色に浮腫んだ体躯。痙攣を残しながら開かれた口は、永遠にあの「神よ、何ぞ我を見捨てたまいし」という言葉をとどめているかに思える。この磔刑図は、バーゼルの美術館にある、やはり有名なあのホルバインの『キリストの遺骸』とともに、人間としてのイエスを描いたとも言われてきた。であればこそ、見苦しく歪んだ唇が「神よ、何ぞ我を…」の言葉を留めているように見えることにも、納得がいくというものだろう。しかし本当にこの画は、人間として、などというそんな啓蒙主義的な、甘ちょろいヒューマニズムのために描かれたものなのだろうか。私にはそうは思えないのだ。もっと強烈な、ありていに言えば反「人間」主義の、厳しい内面をもった世界がここにはあるのではないかと、私は秘かに疑ってきた。
ともかく、私はこの画に取り憑かれていた。私がそれを呼び寄せたのか、それとも、作品そのものの持つ圧倒的な求心力に私が呑み込まれたのか。いずれにしても、その画は私の心の暗部に感応する、ひとつの精神というべきものだった。画に対する好みの問題を越えて、私は生涯、この画から自由になることはないと直観し、事実、そのとおりになった。あたかも、死に至る宿痾に侵されつつも事情を知らされずにいる病人が、何とかして自己の運命の真相を知ろうと足掻くように、私は、自らを慄然とさせるグリューネヴァルトの『キリスト磔刑図』に縛りつけられてきたのだ。
なぜなら、その画は私のどうしようもない罪の感覚、ほの暗い精神の恥部に向かって光を照射し続けるから。凄惨な骸としてのキリストの姿は、決してわれわれ人間を慰めるためのものではない。それは、日常のうたかたのうちに、ともすれば沈んでゆきがちな人間というものを、執拗に追求し、追い立ててゆくためにこそある。
ただ、私がこの画に眼を奪われざるを得なかったのは、私の倫理的な感覚によるものであるというよりも、もっと即自的な、衝動と言おうか、欲求と言うべきか、あるいは枯渇感に突き動かされた、精神の生理現象のようなものであったという気がしている。
このとき以来、私は実物のグリューネヴァルトに接する機会をもっていない。私のもとにある図版集、それは辛くも良一の狂気の発作から守り得たものだが、私は殆どそれを見開くこともない。しかし、それは私がこの画家とそのモチーフに関心を失ったということではない。私から鑑賞の機会を奪い去ってしまうほどに、グリューネヴァルトは私にとって身近にあるということだ。
グリューネヴァルトは、いまだに、私の内部の奥底に秘められた、含羞、悔悟、告白、懺悔、自愛、それらもろもろの拠り所であり続けている。

  ***


絹代のいない生活が始まった。家のなかを常に一陣の風が舞う、そこはかとない欠落感に染め抜かれた時間が流れてゆく。絹代の避難によってぽっかりとあいた穴は、宿痾の病業が何の気配も見せることなく、周囲の組織をすこしづつ侵蝕してゆく不気味さにも似て、刻々とこの家を死に追い詰めているような気がした。そのような危機意識に抗うかのように、美紀は努めて平常心を装った。あからさまな悲嘆に暮れたり、徒に取り乱したりすることが、結果としてこの家を死に至らしめる力に呑み込まれてゆくことを意味するのだと思った。いつ果てるとも定かならぬ暗夜のごとき時間を、まんじりともせずに堪えることだけが、唯一の希望だった。
また、実際のところ、美紀にはそんな悲しみなどに酔っているゆとりなど、ある筈もなかったのだ。絹代がいなくなった現在、家事の一切は必然的に美紀のなすべきところとなっていた。朝はこれまでよりも二時間近く早く起きて、幸三郎と良一の食事をつくり、同時に自分と幸三郎の昼の弁当、そして良一の昼食まで作らなくてはならない。夕方、仕事から戻れば、やはり三人分の食事の支度、最低限の洗濯と掃除と、疲労のなかにまどろむまで、息つく間もない有り様だった。
美紀がこれらの主婦の仕事に時間を奪われて、本来の司書の仕事に支障を来すばかりか、健康まで損なわれることを心配した幸三郎は、見かねたあげく、家政婦を入れることを提案した。だが、当の美紀は反対した。美紀にとって、自らの意識と身体とが何の違和もなく即自的に一致する肉体的な労働の時間は、無益な悲嘆を貪る余裕を奪い去る恰好の機会であるがゆえに、却って都合がよかったのだ。また、勿論幸三郎には言わなかったが、誰が見ても尋常ならざるこの家の様子を、たとえ家政婦のように職業的な限られた関わりしか持たぬ相手であっても、他人の眼に晒すことについての逡巡があったのも事実であった。自分たちの生活というものを、他者が抱く観念によって粉飾されたくない、異常なものであるならそうであるなりに、この生活を守り抜きたいとの思い。それは美紀自身によってすら、必ずしもはっきりと意識されていたとは言えないような、蜃気楼のようにぼんやりとした、世間や他者に向けられた敵意の感情であったかも知れない。あるいは、精神に変調を来した良一の姿を、世間の眼から能うかぎり引き離しておきたいといった、最も原初的な、羞恥心と憐愍とが交錯した気持ちのゆえでもあっただろうか。
いっぽう、絹代が家を出たことが引き金となって、良一の症状が悪化することを、美紀や幸三郎は一番気にかけていたが、幸いにして、これまでのような破壊的な暴力を振るうこともなく、依然として険しい目つきを漂わせた落ち着きのない素振りを残したままではあるものの、張り詰めた様子のなかで静かな平衡状態を保っていた。ただ時として、他者には聞き取ることのできないひとり言を、口のなかでぼそぼそと噛みしだいていたかと思えば、急にはっきりとした口調で、庭を横切る野良猫が自分に電波を送信してくるようになったとか、籠のなかに飼われている小鳥が同じようにして絹代の居所を自分に教えてくれている、などといった非現実の妄語を発するのだ。美紀は良一の妄想を否定するでもなく、いつものことながら悲しみを舌の先に味わいつつ、曖昧な相槌を打つしかなかった。………
絹代のいない生活も漸く滞りなく流れるようになり、昼間の仕事と、朝晩の家事の両立の要領をどうにか得られるようになった七月初旬、朝から雨が降ったり止んだりしていた土曜日の午後、週明け早々に期末考査が始まる予定であったせいか、ことのほか生徒の人影も疎らな放課後、その月の読書アンケートの整理を終えようとしているところへ、電話が鳴った。受話器を取ると、事務員の声が、面会人が来ているという。美紀の脳裏に浮かんだのは、良一の病気にからんで何か重大な事件が起きたのではないかということだった。具体的に何がどうということは見当もつかなかったが、とにかく、わざわざ職場に人が会いにくるほどのことといえば、良一に何かがあったということぐらいしか考えられなかった。図書館は校内の一番外れにあるから、玄関まではかなりの距離を歩かなければならない。漠然とした不安だけが胸中をめぐり、その回転のめまぐるしさにせき立てられるうち、美紀の歩みは早くなった。玄関ロビーに至る最後の廊下の曲がり角を通るとき、ほんの一瞬瞼を閉じた。「お待たせいたしました」と美紀は頭を下げる。美紀が顔を上げるより前に、ソファに腰をおろしていた神谷明が美紀の姿を認めて立ち上がった。
「ごめんよ、突然来てしまったりして」
それは持ち前の、良く透るはっきりとした声であった。
「まあ、明さん」驚いた美紀は、大きな目をさらにまるくして明を見つめ返した。「どうして……」それ以外の言葉が出ない。
「おどかしてしまってごめんよ、そんなつもりは無かったんだが」
明は顔に柔和な笑みを浮かべているが、美紀にはそんな余裕などあるはずもなかった。
「いいえ、来てくれてうれしいわ。有り難う」
美紀は上の空でそれだけを答えると、もじもじと口を噤んでしまった。それ以上の何を言えるものであろう。明からの電話を一方的に切ってしまった日のことが、瞬時に思い返された。それとともに、明が郷里での見合いを勧められているということも。美紀は自分がふと暗い表情になっていくのを感じた。
「美紀さんに会いたかったんだ。おかしいかい。まあ、おかしいだろうね、連絡もしないで来てしまうなんて。出版社の者だが、主任司書の日高さんを、と言って名刺を出したら、別になんのお咎めもなく、君を呼んでくれたよ。作戦成功といったところだね。だから、事務員の人は、僕が仕事の話で来ていると思っているよ。……」
明は悪戯っぽく笑いながら、再びソファに座った。
「お仕事は、もう終わって?」
理由の定かならぬ胸苦しさを覚えながら、どうでもよいことを美紀は尋ねた。明と共にいる時間が、自分には微かな苦痛になっている。そのことが美紀を愕然とさせた。だが、それが明のせいではないことも分かっていた。嫌いだから苦痛になるのではない。
「阿佐ヶ谷に住む大学の先生のところへ、ちょっとした原稿をもらいに行った帰りでね。でも原稿は自宅のファックスから今夜のうちに会社へ送るから、会社へ戻る必要はないんだ。……美紀さん、少しだけ時間をとってくれますか?」
明の様子や喋り方が、以前と変わっていないことに、ふとした安堵を覚えた。美紀は明に断って、少しの間だけ司書室に戻り、机の上だけを片づけて戻ってきた。
外に出ると、折よく雨は上がっていた。さほど蒸し暑いとも感じられなかったが、五分も歩かないうちに首筋や腕にうっすらと汗が滲んでくる。
「ごめんなさい、本当は、あまりゆっくりもしていられないのよ」
自分よりも背の高い明を、見上げるようにして美紀は言った。良一と幸三郎の夕食の支度をしなければならず、また、土曜と日曜は、洗濯やこまかな掃除など、一週間のたまった家事をまとめて片づけなければならないときでもある。明と十分な時間を過ごせないことを寂しく思う気持ちもあったが、それ以上に、明とともにいる時間のやる瀬ない苦しみから逃れられる理由を見出し得たことで、ほっとする自分自身を美紀は感じていた。
「ええ、いいんですよ。駅まで歩く間だけ、僕とつきあってください。それくらいなら、いいでしょう」
明は存外残念がる様子もなく、心得た様子で言った。その言葉を耳にして、何故だか美紀は悲しくなった。喪失の印象に似ていた。と同時に、明の口調に感じられた、自信というか、確固とした意志のようなものに対して、激しい不安を覚えもした。その想像は、美紀の心を瞬時に押し潰すに十分なだけの重さを持っていた。胸のうちが際限なく沈んでいくのに、脚はどことなく浮わついた感じになり、しかも不自然なくらいに強張ってさえくる。
郷里での縁談がまとまったのに違いない。美紀はそう直観したのだ。明が自分に会いにきたのは、その報告のため、下世話な言い方をすれば、別れ話をしに来たのであると。
美紀は自分から口を開くことを頑に拒んだ。何かを言ってしまえば、それがきっかけとなって、全てを失ってゆくかのような恐慌に捉えられていた。勿論、自らに非が無いとは言わない。明からの求婚に対して、実直な態度をとり得なかったのは事実なのだから。しかし、と美紀は抗弁したい気持ちでいっぱいになった。良一のことさえなければ、何の困難もなく明と結ばれていたはずなのに。もとはと言えば、全ては良一のせいではないか。……
良一の存在を厭う感情は、こうしてことあるごとに、昂ったり薄められたりするのであった。
やがて二人の視界に、鬱蒼とした井の頭恩賜公園の杜が捉えられた。いつもであれば、美紀は公園の傍らを抜けるバス通りを歩くのであるが、今日はどちらからともなく、深い緑のしたたる杜への小径を辿りはじめていた。
森閑とした樹木の枝葉は梅雨の雫にしなだれ、重暗く頭を垂れている。差し延べられた枝の陰になり、池の水面は黒々と波立っていた。この生憎の天候のゆえに、散歩する人の影も疎らな土曜日の午後。表通りの雑踏も聞こえない、静かな樹海を湿った風が吹き抜ければ、葉の滴がぱらぱらとこぼれ落ちて肩や腕を濡らす。美紀は俯いたまま、ただ時間の流れだけをたえた。
「ついこの間、郷里に帰ってきたんだ。れいの見合いの件でね」
沈黙を破ったのは、やはり明のほうだった。それも、もっとも核心的な話題で!。ついにこらえきれなくなった美紀は、自分の玩具を横取りされることを恐れて、却って自らそれを投げつけて壊してしまう、幼児のような心境に身を任せた。
「お話がまとまったのね。おめでとう」
喉が締めつけられるような息苦しさを覚えながらも、声だけは活気を装った。周囲の深緑がくるくるとまわり始める。
だが、明は突然笑いだし、立ち止まると美紀のことを真っ直ぐに見つめた。
「早合点しないでほしいな。見合いなんかするわけながないじゃないですか。断るために実家に帰ったんだから」
突然の緊張の弛緩のために、美紀はただ空けたようになった。
「断る?。……私はすっかり、ご縁がまとまったんだと思っていたの」
「冗談じゃない。どうして僕があなた以外の人と結婚しなければならないんです?。もっとも、美紀さんは僕にお見合いを勧めてくれましたね。……」
「あれは……」と、美紀は言葉につまりかけた。「明さんには、私なんかより、もっとふさわしい方がいると思ったから……」
「ふさわしい人って、誰です?」
「それは、私にもわからないけれど」
「美紀さんのどこが、僕にふさわしくないんです?」
「どこと言われても…………」
美紀は唇を噛んで下を向いた。そのまま明と肩を並べ、ふたたびのろのろと歩きはじめた。公園の池にかかる小さな橋を渡る。水面を渡り来る風は心なしかひんやりとしていた。向こう岸に、古ぼけた茶店が見える。橋の中ほどまで来たとき、明はふたたび立ち止まって、真面目な顔になり、呟くように言った。
「僕に見合いをしろと言った、あなたの真意を図りかねるんです。……美紀さん、僕のことを嫌いになったのなら、はっきりとそう言ってくれていいんだ。遠慮するようなことじゃない」
「嫌いなんかじゃありません」美紀はあわてて首を横に振った。そしてややあたりを気にかけるふうに視線を周囲に投げかけたが、すぐに明の方に向き直って、再び小声で言った。「嫌いなんかじゃない」
すると一度に涙が溢れてきて、止まらなくなった。横浜の美術館でコンスタブルの画を観た日の夜、やはりレストランで同じような切ない会話を交わしたことがある。これからも、ずっと同じ会話を繰り返しながら、同じ涙を流さなければならないのか。美紀は思わず、明の胸に顔を埋めた。喉がひくひくと鳴り、明の白いシャツに涙の染みがつくのがわかった。やがて、銀色のネクタイピンの角が指に触れ、そのかすかな痛みに我を取り戻した美紀は、明から身体を離し、涙を拭った。
「待っていていいんですね」
「待つ?」
「ええ。僕の申し出、受けてくれる日を」
美紀は答えることなく、ただ水面を凝視した。一尾の緋鯉が背をくねらせながら、濁った水のなかに姿を消していく。
「故郷へ帰っているあいだ、いろんなことを考えました。両親のしきりの勧めに根負けして、見合いだけでもしようかとまで思ったんです。でも、結局断る話なら、そのような席に臨むというのも、却って誠意を欠くことになりますからね。……両親はね、早く僕に身をかためてもらいたくて仕方がないんだ。今回断っても、また次に同じような話を持ってくるのは目に見えている。だから、実は僕、思い切って美紀さんのことを両親に話したんです。自分には、もう心に決めた人がいるのだと」
「私のことを、ご両親に?」
美紀は驚いて聞き返した。
「ええ。両親もそれには仰天していた。そういう人がいるなら、早く会わせてほしいと。すぐにというわけにはいかないのだと、僕は話しておきました。あと、それゆえ、もう見合いの話しは持ってこないでほしいとも」
美紀は驚きの表情をさらに深くする。
「自分が見合いをするかも知れないという段になって、僕は結局、自分のより確かな気持ちというものを確かめることが出来たようです。僕はね、考えたんだ、もし両親の言いつけに従って見合いをし、結婚すれば、相手が人としてどんなに良い人であっても、必ず互いが不仕合わせになっていくに違いないと。それは、見かけは幸福な家庭を築くこともできるだろうし、相手に対するそれなりの愛情や尊敬も持つかも知れない。しかし、何かが欠けている。美紀さんへの気持ちのうちには存在しても、そこには無い何かが。ともかくも、見かけの幸福や愛情や尊敬の陰に隠された、癒しようのない欠如の感覚ほど、不実なものはないのではないか。……もし仮に僕が美紀さんと出会っていなければ、そうしたことは問題にはならなかったでしょう。見合いをして仕合わせになる人はいくらでもいる。しかし、現に美紀さんとこうして出会い、自らの気持ちに確かなものを感じた以上、あなた以外の人との結婚は僕には考えられない。僕はもう自分のカードを取ってしまったんです。それがどう出るか、あとは待つしかないんですよ……」
明の話を聞きながら、美紀は頭のなかがどうしようもなく混乱してくるのを感じた。ほの苦しい重圧感に苛まれ、そこから逃れ出るように急ぎがちに踵を進めて明を振り返った。
「どうしました?」
その様子に普通ではないものを見取ったらしい明が、心配そうな瞳を美紀に向けた。突然の事態に戸惑いながらも、それを理解しようとする優しい瞳。
だが美紀は、あたかもその優しさからさえも逃れようとでもするように、後ずさった。瞳は明の眼を見つめていたが、逆に、自分が相手の視線によって射竦められているかのように感じた。明から眼を逸らせようとするが、それもかなわなかった。橋の欄干にぶつかりそうになりながら、すこしづつ明から遠のいていく。
「美紀さん、どうしたんです、帰るんですか?……」
今度は明も不安を隠せぬ面持ちになって歩きかけた。しかし、美紀のほうは、明がそう声をかけたのとほぼ時を同じくして、ふたたび踵を返し、走りだしていたのだ。
濃い緑に染まった視界が無造作に揺れる。公園の杜のはずれの階段を駆け上がり、行き交う人と腕が触れ合うくらいに狭い道を通り抜けた。ビルの谷間の喧騒に包まれた広い通りに出て、自分の存在が往来を行き来する多勢の人間のなかに溶け込んだことを認めたとき、漸く美紀は走るのをやめた。
なぜ明の前から逃げてきてしまったのか、その理由を明解な言葉にすることが出来ぬまま、ただ己の胸のなかに苦しみだけがいっぱいに広がってゆくのがわかった。気がついてみると、少しの間だけ止んでいた雨が、再び頬を打ち始めていた。ペーブメントを飾るイルミネーションが俄にかすんでくる。駅のプラットホームに立った頃には、暫く止んでいた雨が、再び本降りになっていた。
雨を突いて走る橙色の電車の窓ガラスの向こう側、建物の屋根屋根の波間から浮かび上がった島のように、今しがたそこから逃れてきた杜が黒々とうつろってゆく。その杜のなかをひとりぽつねんと歩く神谷明の姿を想像した。胸が押し潰されるような、絶望への衝動に駆られた。かなわぬ希望に翻弄されるよりも、希望を捨て去ることのほうがまだましではないのか。……明さん、ごめんなさい。今や視界から刻刻と遠ざかり、雨の色と同化しようとしている井の頭恩賜公園の杜の影を眼で追いながら、美紀は無言のうちにそう呟いた。お見合いをしてくれたほうがよかった、と。
それと同時に、やはり美紀が常に苛まれつづけてきた、もう一つの感情、理不尽なものであるとは分かっていながら、理性だけではどうしても止めることの出来ない、弟の良一に向けられる仄暗い憎悪の念が、三たび心中に兆してくるのを感じた。美紀は、自らのそのような心の動きを悲しく見つめた。人間とは、何と弱く小さなものであろうかと。他のものではない、自分自身にすら駒のごとく振りまわされる人間というものは。……
もうこれ以上、私を苦しめないでほしい。もはや良一に対してとも、明に対してともつかぬ呟きを、心のなかで美紀はもらした。



   第 八 章


七月も半ばを過ぎ去ったというのに、梅雨の明ける気配はなく、来る日も来る日も、憂鬱な曇天が建物の窓という窓を蒼白く染め上げていた。とくに、きょうは真っ白い雨が、朝から強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、地面を叩き続けている。南海で生まれた台風が、湿潤した空気を糧に大きくなり、関東地方へと近づいているのだ。時として突風にあおられて、雨が激しく窓ガラスを叩く音に包まれながら、校舎全体が不気味な薄暗がりに支配されている。気象庁の予報によれば、台風は速度を上げ、夜半には房総半島を掠めるようにして東の海へと抜け出てゆくらしい。幸い、期末試験の最終日にあたっていたため、大方の生徒たちは昼過ぎには家路についていた。がらんとした廊下や図書室では、蛍光灯だけが白々とした光を放っている。風雨が強まる前に帰ったほうが良さそうだと考えた美紀は、適当な頃合いを見計らって帰り支度を始めていた。
すると、そこへ人の気配がして、ドアのノックと同時に、「失礼します」という聞き覚えのある声がした。「どうぞ」と言いながら椅子から立ち、振り向いた美紀の顔が、思わずほころんだ。文芸部員の岡野であった。
「まあ、いつ退院したの?。……ごめんなさい、お見舞いにも行かなくて」
美紀は書きかけのカードをトントンと机の上で揃えて隅に置くと、何冊もの新しい本を手際良く本立てにしまいこんだ。
「いいんです、お見舞いだなんて。……一週間前に家に戻れたんです。今度は少しばかり長くなってしまいました。……」と、岡野は少し元気のない声で言った。
しばらく前に、やはり同じ文芸部の女子生徒から、岡野が持病の喘息を悪化させて入院したという話を聞いていた。心の片隅では、この文学好きの少年のことを、決して忘れ去っていたわけではないという弁解がましい気持ちが頭をもたげて来るのではあったが、実際のところ、日々の憂鬱のみにかまけていた身として、彼の消息に殆ど注意を払ってこなかったという事実のほうが、美紀にとっての正直なところなのだ。己の浅慮を心のうちで責めながら、美紀は岡野の向かいのソファに腰掛けた。
「もうよくなって?、何だか顔色がすぐれないみたい」
美紀は、少年の白っぽい皮膚の色や、少女のように赤く咲いた唇などを見つめて、心配そうに問いかけた。美紀の視線を間近に感じた岡野は、恥ずかしそうに俯き、なかなか顔をあげようとしない。
「ええ。とりあえず発作だけは何とか。……でも、この病気とは、もう殆ど一生、うまく付き合っていくしかないみたいです。……厄介な話ですけど」
「………」返す言葉に困窮した美紀は、嘆息だけをもらした。
「小児喘息は大部分が大人になるにつれて治る場合が多いんですが、なかには僕のようなケースもあるのだそうです。とくに最近は増えているのだと、病院の先生は言っていました。小さな頃からいろいろな方法をやってきましたけど、注射や、漢方薬や、この頃では食事にも気をつけてきました。でも、検査結果というものは、そういう努力に比例してはくれないものなんですね」漸く顔をあげた岡野が、決まり悪そうに微笑んだ。「まるで僕の成績のようだ」
「成績と同じですって?」
美紀もまた相手の諧謔に誘われて笑みを浮かべた。
「で、僕の場合、あと試してみる価値のあるのは、転地療法ぐらいだと言われたんです」
「転地?」
「はい。喘息みたいな病気は、それまで生活してきた場所の地域性というか、要するに環境がつくってきた部分が大きいということらしくて、住む場所が変わると発作が起きにくくなったり、検査値が良くなったりすることもあるんだということでした」
強い風が吹きつけて来て校舎と衝突し、ひゅうひゅうと不気味な音をたてている。
「でも、何処だって構わないというものでもないでしょう?」
「ええ、やはり空気のきれいな海辺の土地だとか、山のほうだとか」
それからしばしの間、美紀は黙っていたが、自分の予想を確かめでもするように、相手に質した。
「転地することに決めたの?」
「決めました」と、岡野は躊躇なく答えた。「母の故郷が、信州の諏訪湖の近くなんです。夏のうちには、そちらのほうへ行くことになりました。それで、先生にも報告しておこうと思いまして……」
「この夏に?。まあ、それじゃあずいぶん急な話じゃない。勿論ご両親も、一緒に行かれるんでしょう」
「ええ。家族ぐるみの大移動です。父は東京の会社を八月限りで退職して、九月からは向こうの精密機器の会社に就職することに決まりました。僕は僕で、もうすぐあちらの県立高校の編入試験があるし、妹の中学の転校手続きで母は頭がいっぱいです。とにかく大騒ぎで、毎日落ちつきません」
岡野の話を聞きながら、美紀はふと、自らの心のなかに一抹の寂しさを覚えていた。その感情の拠ってたつものが何であるか、察するのに時間はかからなかった。岡野の家族とは対照的な、今はばらばらに分解してゆきつつある自分の家族のことを、知らず知らずのうちに相手の話の上に重ねて見ていたのだ。
「そう。ご家族の方も、皆さんたいへんね」
つとめて同情的に呟きながら、美紀は岡野への羨みを隠そうとした。
「え、ええ。……そうですね」
岡野の話によれば、彼の父親は都内のある一部上場の商事会社の総務部次長職にあったが、信州の新しい会社では、一介の営業部員からの出発であるという。スムーズに次の勤め先が決まったことは幸いというにしても、決して若いとは言えない年齢で、相応の社会的地位やこれまで築いてきた人間関係を全て捨て去り、他の人生を選び取ったその内面の葛藤は如何ばかりであっただろう、と美紀は思いを馳せた。
「それより先生、例の、カフカの『変身』のことですが」と、岡野は話題を変えた。岡野の瞳が俄に輝いてくるのが感じられる。やはり、家族の苦労の話は岡野にとっても辛いのだろう、と美紀は思った。
「あのときは、すみませんでした。難題をふっかけてしまって」
それは、岡野が入院する直前、最後に美紀のもとを訪れたときのこと。カフカの短編小説『変身』の主人公、グレゴール・ザムザが、ある朝、突然毒虫に変わってしまったことの理由を尋ねられた、れいの件だ。
「あのことね……。ごめんなさい、役に立てなくて。私には解けない謎のままよ」
美紀はすまなさそうに答えた。カフカとは底無しの沼のようだと言った、神谷明の言葉を思い出したが、そのことを口に出す気持ちにはなれなかった。何であれ、明にまつわることどもの全てを、美紀は意識的に遠ざけたいと願っていたのだ。そうすることが、際限なく身を裂いてゆく悲しみから自己を守り得る、唯一の途であるように思えた。
「いいんです。結局、僕にも確たる答えは出せなかったんですから。入院中は時間があったので、カフカについて書かれた本を何冊か読んでみました。『変身』については、論者それぞれにさまざまな主張、というよりも推論をしていて、目移りするばかりでした。解釈の海に溺れるような困惑とスリルがあったと言うべきでしょうか」
岡野は眼を瞬かせながら、そのときの興奮を再び味わっているようにみえる。
解釈の海とは、愉快な表現だ、と美紀は思った。明が聞いたら、きっと我が意を得たとばかりに岡野の意見に賛成するだろう。そんな想念が、自らの意思とは関わりなく去来した。神谷明の面影から自由になろうともがくことが、ひどく虚しい徒労であるように、ふと感じられた。
「カフカとは底無しの沼のようだ、と言った人がいるの」
岡野の感性を称賛するために、美紀はぽつりと呟いた。
「誰です?。なんていう本か、教えていただけませんか」
岡野が即座に問い返してきたので、美紀は返答に窮した。ややあって、さも記憶の遡行に疲れたとでもいいたげな瞳を相手に向け、言った。
「ああ、忘れてしまったわ。昔のことだから」
「そうですか。残念だな」岡野は大人びた口調になり、顔をくもらせる。余計なことを言ってしまったと、少しだけ美紀は後悔した。が、岡野はすぐにもとの利発そうな表情を取り戻すと、続けた。「でも、多くの研究者の書いたものを読むうちに、何かしら共通したもの、思想と呼ぶべきか観念というべきか、あるいは性質と言ったほうがいいのか、はっきりしないんですが、ある共通のものを、カフカのさまざまな作品に感じることが出来ると思えるようになったんです。勿論、『変身』についても」
「何かしら?」
美紀は、興味をそそられたふうに相手に聞き返した。実際、明の言葉によって底無しの沼と断じられ、自らもその意見に無条件に同調していた美紀にとって、それはひとつの驚きであった。
「それはね、先生、孤独ですよ」
「孤独?」
美紀は、思わず秘め事を見透かされたときのような戸惑いと胸のすくみを覚えかけ、一瞬、頭のなかが真白い光に覆われたような感覚に、息を塞がれた。だが、その情動の理由は自らにも分からない。問いかけに満ちた表情をして、美紀は相手を見返した。
「ええ、主人公グレゴールの境遇は、それ以上きわまりようのない程のおそろしい孤独であると思います。それも、安易で感傷的な感情移入の次元だけでは語りきれないほどの。孤絶と言い換えてもいいかも知れない」
「孤絶……」と呟きながら、尚も美紀は、今し方覚えたばかりの感覚を持て余した。「それにしても、主人公の変身とそれが、どのように関わるのかしら」
「はっきりとは断言出来ません。ただ、グレゴールの変身が、彼の孤絶という境遇を決定づけたということだけは確かだと思うんです。あるいはカフカは、人間の孤絶というものをひとつの主題に据えて、それを描くためのひとつの仕掛けとして、変身譚という方法を使ったのかという気もするんですが、どうでしょう」
岡野の推論に、美紀は感心しながら耳を傾ける。その知的な感受性を病に枯渇させることなく伸ばすために、信州の水と空気はふさわしいものであるかも知れないとも思った。………
それからひとしきり、カフカについての雑談を交わした。長編小説『城』の象徴するものだとか、短編『流刑地にて』に登場する、おそろしい拷問装置を生み出した想像力についてなど。二十分ほども、そのようにして時を過ごしただろうか。やがて、どことなく乾いた感じのする残り香のような余韻を残して、岡野が部屋を出ていった後、美紀は暫くの間、その“おそろしい孤独”、あるいは“孤絶”という言葉に憑かれたように、茫然と時をやり過ごしていた。あの胸の竦みはいったいなんだったのか。自らの背徳を暴かれたときのような、やり切れない焦燥は。その理由を知ろうとする思いと、知らずにすませたいという思いの間を、美紀は揺れ動いた。否、よりはっきりと言えば、その理由の正しさを確かめることと、正しさを自らに隠しとおすことの間を。……
その夕方、風はいっそう強まり、台風の接近による緊張が、街じゅうを嘗め尽くしていた。雨足の弱まった頃合いをみて、美紀は帰途、駅前の小さな商店街で魚や野菜などを買い求めるために寄り道をした。絹代が家を出ざるを得なくなって以来、週に二度は、こうして食材や生活雑貨を手に下げて帰るのだ。
幸三郎の奉職する大学も漸く夏季休暇に入り、外で食事を済ませがちであった父と久しぶりで食卓を囲むことが、微かに楽しみでもあった。良一は精神に変調を来してからこのかた、めったに家族と食事をともにすることが無い。昼過ぎに起きだし、夜明け方に眠るという生活を続けている良一は、夜中に自室のアトリエから出てきて、美紀の用意した食事をひとりで食べる。つまり最近の美紀は、自分でつくった食事を、ひとりぽつねんと認める夕が常となりつつあったのだ。
台風のためだろう、商店街も普段の活気には程遠く、威勢のいい掛け声も聞かれず、多くの人は店先のものに眼もやらぬまま足早に家路を急ぐ。早々に店じまいの準備をするところもあって、いつもとは違った慌ただしさが辺り全体を包んでいた。裸電球がゆらゆらと大きく揺れるのを気にしながら、美紀は何軒かの店をまわり、魚と野菜、そして少しばかりの乾物とパンを買った。
商店街のはずれにさしかかったところで、雨が俄に強くなった。横なぐりに近い雨である。そのうえ、強風にあおられて傘が殆ど役に立たない。あたりは既に濃い闇に落ち、がらがらと音をたてて、どこかの軒先から煽られたらしいバケツが、そのはざまを転がっていった。
美紀は家への道を急いだ。最後の路地を曲がると、そこだけが奈落のように黒々と光を遮る、丈の高い柊の垣が見えてくる。走り込むような足取りで、玄関に辿り着いた。ドアを開けて足を踏み入れると、家のなかは薄暗く、全く人の気配がない。どうしたのかと思って息をひそめてみた。二階の幸三郎の書斎からであろう、豊かな響きにたゆたう、綾なす旋律を持った声楽曲がもれ聞こえてくる。パレストリイナの『ミサ・アスンプタ・エスト・マリア』だ。お父様ったら、明かりも点けずに……。美紀は安心しながらも困ったものだ、という顔つきになって、靴を脱ぎ、買い物袋を下ろすために、廊下をはさんで居間と反対の側にあるダイニングルームのドアの前まで来た。ドアは開けっ放しになっていて、その下に何かが転がっている。良く見ると、それは陶器で出来た花柄の水差しである。美紀はふと嫌な予感を感じた。そして恐る恐るダイニングルームの薄暗がりに眼を凝らしたとき、思わずあっと叫んでいた。
ダイニングルームのなかは、足の踏み場もないくらいに目茶苦茶に荒らされていた。食器戸棚が倒され、ガラスが割れて四方に飛び散り、グラスや食器の破片が散乱している。テーブルは横ざまにひっくり返り、椅子はそれが投げ捨てられたまま不格好に転がって、倒れた食器棚のなかに脚を突っ込んでいた。何が起きたのかは明らかだった。良一が精神症状の発作を起こしたのだ。脚が震えるのを必死に抑え、ダイニングルームを出た美紀は、廊下の一番端にある良一の部屋に駆け込んだ。「良ちゃん」と叫ぶばかりに呼んでみたが、返事がない。中は真っ暗で、良一の姿は見えなかった。美紀は踵を返し、幸三郎の書斎へ急いだ。二階からは、さきほどのパレストリイナのミサ曲が流れてくる。階段を駆け上がりざま、居間を覗いてみると、案の定そこでも良一が暴れた形跡があった。
「お父様、お父様……」美紀は叫びながら廊下を走り、やがて幸三郎の書斎のドアをノックもせずに力任せに開けた。途端に、耳を塞がんばかりの眩さで、紡がれた声の織物が全身を包み込んだ。サンクトゥスの楽章のはじめの部分が歌われる。

 Sancutus Dominus Deus Sabaoth. Pleni sunt caeli et terra gloria tua.
 (聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ)

書斎のなかにもあかりはなく、幸三郎の姿もない。雨が激しく窓ガラスを打ち鳴らし、風が不気味な音をたてて屋敷全体を揺り動かした。

  Hosanna in excelsis. Benedictus qui venit in nomine Domini, Hosanna in excelsis.
  (天のいと高きところにオザンナ。誉むべきかな、主のみ名によりて来たる者)

美紀はその場にくずおれるようにへたりこんで、両の目頭を押さえた。良一と幸三郎は何処へ行ってしまったのだろう。自分のいない間に、いったい何が起きたというのだろうか。言葉にし難い不安に呑み込まれて、自然と嗚咽がもれ出た。顔を覆った指の間から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。暗く、誰もいない家のなかで、美紀はさめざめと泣き崩れた。

  Agnus Dei; qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
  (神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ)

そのとき、階下の居間で電話がなった。
美紀はハッと我に返り、束の間の涙を拭いながら階段を駆け降りた。居間に駆け込むと、コードレス電話の子機が床に転がっている。握った受話器が拭われた手の涙で濡れた。こちらから言葉を出すこともかなわず、ただ受話器を耳に押しあてた。
「もしもし、美紀か?。……私だ」
心なしか遠く感じられる幸三郎の声がした。
「お父様!……」美紀は堪えていた悲しみを一気に吐き出すように呻いた。「いま何処なの?、何処にいるの?。良ちゃんがいないの。良ちゃんはどうしたの?。いったい何があったというの?、お父様……」
矢継ぎ早に問う間にも、再び嗚咽まじりの声に変わってしまう。
「心配しなくてもいい。いま、K…市のS病院にいる。良一を連れてきた」
「病院ですって?」
驚きのあまり、涙が止まった。美紀は力強く受話器を握りなおした。
「うむ。とにかく、詳しいことは帰ってから話そう。良一はいま診察中だが、おそらく入院ということになりそうだ。」
幸三郎の声は疲れを帯びて、痛ましく耳に届く。
「入院。……」空けたように美紀は息をついたが、すぐに気を取り直し、言った。「私も行くわ。お父様、病院の場所を教えて」
「いや、今夜のところは、美紀は家にいなさい。良一は大丈夫だ。心配しなくていい。第一、この雨と風のなかを、そう簡単に来れるものじゃない。今夜は私も病院に泊まるつもりでいるから、そちらの留守をよろしくたのむ」
それだけで電話は切れた。
散乱したガラスや陶器の破片の後始末をすることも忘れて、美紀は自室へ引きこもった。執拗に窓を叩きつける雨の激しさが、いっそう増してくるように感じられる。鉄格子が嵌められ、外鍵のかかる部屋の暗いイメージが美紀を苦しめた。病気であるとはいえ、その身勝手な振る舞いに対し怒りを抱き、自らの幸福を遠ざけたものとして、良一に憎しみに似た感情さえ覚えた美紀であったが、いざ良一がそのような反日常的な環境へ追われたことを考えると、今度は良一が急に不憫に思われるのだった。だいたい、良一は自らすすんで病院へ行くことを言いだしたのだろうか。あるいは、せいぜいのところ幸三郎に説得されて渋々同意したというならまだしものこと、もし無理やり力ずくで自動車に押し込まれでもしたのであったら?……。常のことではあったが、美紀の想像は悪いほうへ、悪いほうへと触手を伸ばす。もうこのまま、良一が家に戻ってくることは無くなってしまうのではないか。そんな疑いにとらわれもした。精神病院に入院したきり、一生を終える患者もいるという、以前に誰かから聞いた話を思い出したのだ。いつか幸三郎に対して言った言葉、出ていくのはお母様ではない、良一のほうなのだと言った言葉が、痛みとともに甦ってきた。自分が取り返しのつかないことをしてしまったような、息苦しい不安に襲われた。私があんなことを言ったからだ、と美紀は額を押さえた。この自分が良一を病院へ入れたも同じではないか、と。
同時に、発作を起こす度ごとに良一が口にした、いつかこの家をばらばらにしてやるという呪詛に満ちた言葉が、突然やって来た吐き気のように身体中を硬直させる。絹代が家を出て行き、今度は良一の入院。そうまでして、自らを痛めつけてまで、良一はこの家を崩壊させようというのか。
何故?、何故私たちだけが?……。これまで幾度となく繰り返してきた問いを、美紀は再び虚しく発した。もとより答えは返ってこない。その代償のように、ただ一つの疑念が、常に心のなかに兆してくる。それは、絹代を別居させようとする幸三郎の意図には、良一の振る舞いからの保護ということ以外の、別の目的があるのだという、ほかならぬ絹代自身の呟きに触発された、漠然としてはいるが、どこか不気味な空恐ろしささえ感じさせる疑念。この家には、良一をしてこの家を崩壊させるように仕向ける、自分の知らない何かが隠されているという疑念であった。
考えてみれば、合点のいかないことは幾つも浮かんでくる。良一の発病以来、絹代と幸三郎との間に感じられるようになった、よそよそしく張り詰めた空気は何なのか。何故、良一は精神に変調を来して以来、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲ばかりを聴くようになったのか。両親は美紀ばかりを可愛がってきたという、あの良一の叫びは何を意味しているのか。そして、絹代の引っ越しのときに見つけた、たった一枚だけ残された家族の写真。そこに漂う沈鬱に満ちた印象のことも。
突然の良一の入院の報せに波立った感情を、それらのことどもによって尚もかき乱されながら、美紀は自室のベッドに疲れ切った身体を横たえた。風雨は変わらぬ勢いで窓を鳴らし、庭の樹木を揺さぶる。恐ろしい唸りにも似たその音を聞きながら、美紀はまんじりともせずに夜の明けるのを待った。



  第 九 章
 

いつしか浅い眠りについた美紀は、幾度となく褐色の重圧にうなされた。息苦しさに呻き声をあげ、自らのその声で眼を覚ましては、得体の知れぬ恐怖から逃れようとしてさらに眠りを貪り、再び悪夢に苛まれる不毛の時間を堪えた。やがて雨音が遠ざかり、風が凪いでゆく気配とともに、泥のような疲労へと身を沈めた美紀が、ふたたび現実の時間のなかに呼び戻されたのは、台風一過の、抜けるような蒼空から太陽が照りつける、炎昼の直中のことだった。
閉め切った部屋のなかは、すでにかなり蒸し暑くなっており、服のままベッドに倒れ込むようにして眠っていた美紀は、全身がじっとりと寝汗にまみれていた。しわになったブラウスが肌にまとわりつき、下着に締めつけられた胸は鈍い痛みを覚えている。
眩暈のような不快感に伴われて、美紀はよろよろと立ち上がり、乱れた髪に頓着するでもなく、壁際に歩み寄り窓を開けた。容赦ないばかりの熱気が、台風の吹き返しの強風とともに襲いかかり、喉の奥を塞いだ。不意に目の奥が真っ暗になり、美紀は思わず瞳を閉じた。
やがて、寝疲れした身体を覚束なく支えながら、さらに頼りなげな足取りで階段を降りていったとき、階下のダイニング・ルームのあたりから、かちゃかちゃとガラスや陶器がぶつかりあう音を耳にした。幸三郎が、良一の入院先の病院から戻ってきていたのだ。
「お父様?」
美紀は呼びかけながら、半開きになったダイニング・ルームへの入口の扉を押し開けた。
「すまんな、起こしてしまって」幸三郎は軍手をはめて、良一が暴れて壊した食器類やガラスなどを片づけていた。「ゆうべは心配をかけた。……何しろ急だったから。私も慌てていて、段取りもなにもなかったんだよ……」
娘の顔を見ると、幸三郎は手を休めて葉巻に火を付け、大きく吸い込んだ。手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろし、首に巻いたタオルで汗を拭った。
「良ちゃん、入院してしまったのね」
恐る恐る、美紀は訊いた。陶器やガラスの破片が散乱する異常な光景を眼にすると、昨晩の不自然な眠りがもたらした、鈍い疲労の感覚が、ふたたび全身にのしかかってくるようだった。
「ウム……」何から説明すべきか、整理がつきかねるらしい様子で、幸三郎はしばしの間、娘の顔を力なく見つめていた。やがて、「……やはり、分裂病だったそうだ。……緊張症という種類のもので、患者は自分でもどうしようもない、異常で激しい興奮状態に苦しめられるのだと、先生が話されていた」
「退院はいつ出来るの?。まさかこのまま……」一生を精神病院のなかで暮らすことになるのかと、美紀は問おうとしたが、恐ろしさのあまり唇がこわばり、言葉を続けることができなかった。
「しばらく様子を見てみないと、退院については何とも言えないらしい」
娘の悲しみを目の当たりにするのが忍びないとでもうように、幸三郎は視線を逸らせた。美紀はがっくりと肩を落とし、首垂れているより他はなかった。良一を一日も早く入院させるべきだと主張した、かつての自分の言葉を疎ましく思い起こした。私があんなことを言ったのは、と美紀は苦い後悔の味を覚えながら反芻する。決して良一のためを考えてのことではなかったと。仮にそのような素振りをとった時があったとしても、それはきっと自分や両親を騙すためのもの。私はただ、弟が憎くてならなかったのだ。まるで、良一のために神谷明との結婚を邪魔されているのだとでもいうように……。
「でも何故、良ちゃんがそんな病気に罹らなくてはならないの?。いったい何の理由で……」
自分が良一を憎んだということの、後ろめたさを償おうとする心の動きが、美紀にそんな言葉を口にさせた。
幸三郎は小さな咳払いとともに、美紀のことをじっと見つめた。むしろ美紀は、己に対するひとりごとのつもりでさえあった。何故なら、父親が良一の罹患の原因について何かを知っているなどとは、まったく考えていなかったからだ。しかし幸三郎は、まるで思いもよらぬ言葉を投げかけられたかのようにうろたえ、戸惑いがちに目を瞬かせた。
「原因については、はっきりしことはわからない。良一のケースに限らず、精神分裂病にはまだ特定の病因と言えるものがないというのが、先生の答えだ」
幸三郎はようやくそれだけを答えると、「さて、休んでばかりでは、片づかんな」そう小声で呟きながら、ふたたび軍手をはめて、美紀のほうを振り向いた。その話は、とりあえず終わりにしようじゃないか、とでも言うように。
「でも、物事には必ず原因というものがあるはずよ」
美紀は、なおも不満そうに問うた。勿論、父親から納得のいく説明を期待してのことではない。自分たちの不幸の理由すらもが判然としないことへの、苛立ちの現れであった。
「それはそうかも知れない」幸三郎は、ことさら片付け仕事に気を取られている風を装って、素っ気なく言った。「ただ、現時点では原因が何であるか分からないということだ。とにかく、あとのことは医者に任せるよりほかにない。……さいわい、なかなか親切そうな先生だったよ。病院の雰囲気も、広々とした中庭があって、緑が多く、つまり、決して悪いものではない……」
その言葉に、美紀は曖昧に頷くしかなかった。
「そうね。……原因が分かっていれば、お父様だってもう少し何か手の打ちようもあったかも知れないもの。それにしても……」気掛かりだったのは、そのときの良一の様子であった。「良ちゃんは、素直に病院へ行ったのね?。まさか、無理やり……」
ダイニングルームの惨憺たる光景が、不吉な陰影を投げかけた。飛び散ったガラスの破片が、窓から射し込む朝日を乱反射して、懶く、気怠い輝きを放っている。
幸三郎は大きく息をついて、今度はやや自信ありげに美紀のほうを振り向き、言った。「いや、それが意外だったんだよ。良一は何を言うでもなく、おとなしく病院へついて来てくれたんだ」そして、昨晩の出来事を脳裏に再現しようとでもするように目を閉じ、ゆっくりと事のいきさつを語った。
幸三郎の話によれば、良一の精神症状の発作の誘因になったのは、絹代のことだったという。
それは夕刻、といっても、まだ四時を少しまわった頃。迫り来る台風の雲のために、空は既に暗く閉ざされ、ともすれば時間の感覚さえ狂いがちな午後だった。家での仕事に早めに見切りをつけた幸三郎は、ふと、久しぶりにゆっくり音楽でも聴こうと思いたった。幸三郎は書庫のレコード棚から、ビクトリアの『レクイエム』だの、パレストリイナの『ミサ・アスンプタ・エスト・マリア』だの、『十六世紀フランスのリュート音楽』と題されたものだのを選びだし、廊下に出た。
良一は、朝から自室のアトリエに籠もって、まったく姿を見せていない。幸三郎は書斎へ引き上げる前に、しばし躊躇はしたものの、思いなおして良一の部屋のドアを叩いた。
良一の異常な感受性にとっては、何が症状の増悪を惹起するきっかけになるか、予想がつかないのだ。あるいはそれが、ポリフォニックな声楽曲であったり、リュート用の器楽音楽であっても、まったく不思議ではないということを、幸三郎はすでに承知していた。
「良一」と声をかけると、ドアの奥で人の動く気配がした。ややあって、薄暗い部屋のなかから、絵具の匂いとともに、ぬっと良一が白い顔を出した。
「何か用かい」
当の良一には、とくに変わったところも感じられなかったが、ひとり静かに時間を過ごしていたところへ水をさされたことの、幽かな不愉快のいろが瞳をよぎったようにも思われた。
「いや、邪魔してすまんな。用事というのではないが、……ちょっとレコードをかけていいかね。もちろん私の部屋でのことだが、……その、すこし、音が洩れるかも知れないが、構わないかね」幸三郎は、遠慮がちに、ことさら穏やかな口調を心掛けて言った。
「ふうん。ちょっと、見せてよ」良一はぶっきらぼうに言葉を返した。
 これなんだが、と幸三郎は抱えていた数枚のLPレコードを差し出した。
そのとき、幸三郎は何気なしに良一の頭越しにアトリエを覗く恰好になった。部屋のなかはすでに薄闇が降りていて、そこに何があるのか、目が慣れるまでは判然としなかったが、やがて、ドアの近いところにある小さな英国製のサイドテーブル(本来は幸三郎の所有物であったが、いつの間にか、良一が勝手に自室に持ち込んで使っていたものだ)の上に、ふだんは居間のバルコニーに面した窓際に置かれている、二羽のつがいのセキセイインコを飼った鳥籠があるのに気がついた。何のために鳥籠を自室に持ってきたりしたのか、幸三郎は訝りながらも、そのことの理由をそれとなく質してみる気になった。だが、それよりも早く、まるで、当の鳥籠を幸三郎の目には触れさせまいとでもするように、良一はレコードを突き返しながら「勝手にしなよ」と答えて、ドアを閉ざしてしまったのだった。
つがいのセキセイインコは、おおかた画の題材にでも使うつもりなのだろうと、幸三郎は自分自身を納得させながら、仕方なしに二階の書斎へと引き上げた。サイドボードからコニャックの瓶を取り出し、わずかばかりをグラスにそそいだ。そして、持ってきたレコードのうちの一枚である『十六世紀フランスのリュート音楽』を選び、ていねいにジャケットから取り出してクリーナーをかけ、ステレオのプレーヤーに載せ、針を降ろした。雅びで、それでいてどこか懐かしささえ感じさせる六コース・ルネサンスリュートの音色、それが奏でる作曲者の名前さえ定かならぬ小曲の数々は、琥珀色の水から立ち上がる芳醇な香りとともに、儚い自由の波間へと、束の間幸三郎を現実世界から切り離し、逍遙させるのだった。あるいはパレストリイナのミサ曲は、強靱な表現力に支えられた甘美さが、絢爛に綾なす声の織物の直中で、静的な神秘性と緊張に満ちた見事な均衡を得ているさまによって、聴く者に深い感動を呼び覚まさずにはおかない。フランドル楽派にみられる構築性と、完成された技巧とを印象づけるよりも、マニエリスム特有の情動のうねりを持ち、しかもビクトリアの燃焼感とは対照的な優美をたたえている。……
幸三郎は、ひとり書斎のソファに身を任せ、静かに目を閉じ、陶酔の表情を微かに浮かべながら、絶対の美のなかに遊んだ。こうした時間だけが、現世を生きることの喜びに辛うじてつながっていた。閉じられた瞼の裏側を、自らの若き日々、遙かな憧れと野心とに満たされながらその土を踏んだ、ヨーロッパの国々の残影が浮かんでは消えてゆく。パレストリイナが活躍した、ローマのシスティナ礼拝堂の荘厳、デュファイによってバラの花にたとえられた、雅なる都市フィレンツェのまばゆさ、あるいはリュートを手に各地の宮廷をめぐり歩いた、トルバドゥールたちの故郷、フランスはラングドック地方の、なだらかな山の稜線と牧草色の台地、そのところどころに点在する小さな石作りの村々、その村を囲んで繁る葡萄畑の光景……。
それらのものは、むろん甘美な青春の思い出であるばかりではない。むしろ、荒涼としたいまの現実へと直接結びつく、苦々しい記憶の数々でさえあったのであるが。
幸三郎は、束の間の精神の弛緩のなかにさえ、そのような自己の罪障の観念が這い込んで来ることを、敢えて拒もうとはしなかった。また、言い訳の通らぬこの現実を背負いながら生きてゆくことを、決して躊躇すまいと覚悟を定めてはいたのだが、ふと、結局のところこれは失敗した人生なのだと思い惑うとき、やはり悲しい諦めのなかにあって、もういちど全てをやりなおすことは出来ないのかという、衝動にも似た祈りに全身を貫かれることもあるのだった。
そんな幸三郎の、儚い陶酔と不毛な祈りの時間が、書斎のドアを蹴破らんばかりの激しい音響によって中断されたのは、パレストリイナのミサ曲の、グローリア唱が歌われ始めたばかりのときだった。
思わず息を呑み、書斎の入口のほうを振り向くと、そこには良一が立っていた。夏だというのに、黒っぽいガウンのような部屋着をまとい、鋭く光る瞳がまるで西洋の怪談にでてくる妖鬼か魔術師を連想させる、不気味ないでたちであった。
「音が大きすぎたか。気をつけていたつもりだったんだが」
幸三郎は、あわてて立ち上がろうとして、応接テーブルの角でしたたか膝を打った。その鈍い痛みよりも、良一の機嫌を損ねたのではないかという予感のほうが、幾倍も幸三郎をうちのめした。
「違うよ、父さん」いつもの、落ち着きのない大きな声で、良一が答えた。「電話の調子が悪いんだ。かからないんだよ」
「電話?」
良一の言葉を耳にして、幸三郎は訝りながらも安堵を覚えた。とにかく、階下のダイニング・ルームにある電話の様子をみてみようと、オーディオ装置のスイッチも切らずに、あわてて書斎を出た。受話器を取って耳にあてる。ツーという発信音が聞こえた。試みに一一七番をプッシュする。すぐに時報案内が出た。
「べつにおかしなところも無いようだが」と、幸三郎は背後にいる良一に言った。
「そんなはずはないよ」
しかし、良一はまるで確信に満ちたように、父親を見つめ返した。その瞳のなかを、有無を言わさぬ疑惑の光が、一瞬ではあったが過ったように、幸三郎には思われた。
「いったい、どこに電話をしようというんだ」
幸三郎は問うた。
「母さんのところだよ」
「………………」
良一の返事に、幸三郎はしばし言葉を失った。唖然として息子の顔を凝視した。絹代の入っているマンションの電話番号は、自分と美紀しか知らない。絹代の実家や親類縁者にも、絹代が家を出ていることは知らせていないのだから、良一には番号を確かめる術は無いはずだ。
幸三郎が呆然と黙り込んでいると、まるでその驚きを先回りするとでもいうように、良一は、件の電話番号をどのように知ったかについて、得意気に語った。
「セキセイインコが僕に話しかけて来るのさ。話しかけて来るといっても、直接、僕の頭のなかにね、ほら」と言って、幸三郎に一枚の紙片を手渡した。なるほど、そこには、何やら電話番号らしい数字が鉛筆で走り書きされている。無論のこと、絹代の居所のものではない。ついさっき、薄暗い良一のアトリエでかいま見た、セキセイインコの籠を思い出した。手元の数字の羅列が、不意にひどく不吉なものに思われだした。
「だがな、良一、考えてもみなさい、そんな……」馬鹿なことがあるはずはないと、今しがたの不吉な感覚に喉元を締めつけられるような気持ちで、幸三郎は言いかけたが、それは最後まで続かなかった。分裂病患者の訴えが、常人からみていかに常軌を逸していても、その内容は、本人の主観にとっては否定の余地のない絶対的経験なのだという、かつて精神病理学の概論書で読んだことを思い出したからだった。そうであるなら、良一にとっての「現実」を外から否定したり批判したりすることが、無駄であるばかりか、却って悪い刺激になりはすまいかと躊躇したのだ。
幸三郎は、話の矛先を転じた。
「よし、こうしようじゃないか。母さんに用事があるなら、私が仕事の行き帰りにでも立ち寄って、話しておこう。何を伝えればよいのか、言ってごらん。心配するな、約束は守るよ」心掛けて穏やかな口調で言った。「まえにも言ったかも知れないが、母さんの部屋には電話を入れていないんだよ」もちろん嘘であった。
「用事もなにもないよ」と、俄に良一は激した様子になった。幸三郎は反射的に身構えた。良一がまくし立てる。「早く戻ってきてくれなきゃ、困るじゃないか。こっちの生活のことも考えてほしいんだよ。父さんも姉さんも一日中仕事で留守だっていうのに、家のなかのことは誰がするんだよ。母さんは当然なすべき義務を放棄してるんだぜ」
その言葉を聞いて、さすがに幸三郎は腹に据えかねるものがあったが、堪えてこみあげる感情を呑み込んだ。
「何のために、母さんが家を、出ていったのか、お前も、知らないわけではなかろう」
反論の語調が激しいものになるのを抑えるため、自己の感情を宥めながら語る。自然と、途切れ途切れの、不自然な恰好になり、却って相手に対する尊大ぶりを印象づけてしまったかも知れないと後悔した。そのためかどうかは判然としなかったが、良一はいよいよ興奮をおもてにあらわし、ふだん以上に落ちつき無く、、その場を左へ右へと歩き回りながら、言葉を叩きつけるように吐きだした。
「何のため?、関係ないね。家の用事をするのは、一家の主婦の当然のつとめじゃないか。それを放棄して、僕を困らせようとしている。姉さんや父さんも一緒になってね」
「いったい、おまえというやつは……」
幸三郎は歯の間で言葉を噛みつぶした。際限のない憤懣が、次々と去来した。ならばおまえは、一人前の人間としての義務を、全うしていると公言できる生き方をしているのか。二十歳を過ぎて仕事もせず、学業に専念するでもなく、一日中家でぶらぶらして、家族みなに迷惑をかけている。……
良一の精神が普通の状態ではないことを充分承知しているつもりではあったが、幸三郎は、己の内面にフツフツとたぎってくる息子への違和をどうすることも出来なかった。むしろ、相手の精神状態が尋常ではないことを知っていたからこそ、なんとかそうした激しい感情を直接ぶつけることをせずに済んだと言うべきであっただろう。
「父さん、電話機に何か細工をしたんだね。きっとそうだ。わかったぞ」
ややあって、良一はそう言いながら、父親に猜疑の目を向けた。否、疑うというより、確信に満ちた眼差しであった。
「何だって?」幸三郎は、今度は呆れて叫んだ。良一の想像の荒唐無稽さに、はからずも失笑すら洩らしてしまった。「私がどんな細工を施したと言うんだ?」
「母さんのところにだけはかからなくする小細工さ。どうりでおかしいと思っていたんだ、このまえから、電話機のかたちが少し変わったのにちゃんと気がついていたんだぜ。そういうことだったのか」
電話機のかたちが変わったなどというのも、むろん良一の病的な思い込みだったが、それへ反論することすら、際限のない徒労に感じられた。何を言っても無駄なのだという、完全な絶望感に幸三郎は塗り込められていった。
「何とか言えよ、父さん。……そうだろう、その通りなんだから、言い繕いようもないわけだ。さあ、電話をはやく元に戻してくれよ」
良一はサイドテーブルの上から電話機を取り上げ、幸三郎の手に押しつけた。幸三郎は電話機を無理やり抱えさせられたまま、ついに感情を爆発させた。
「この電話機のどこがおかしいと言うんだ。言ってみろ」
「父さんが細工したんだ、知らないはずはないだろ。そうやって、皆で僕を余計者扱いにするんだ。………ちくしょう、こんなもの」
幸三郎の気持ちに照応するようにして、良一もまた自らの精神状態を昂らせていった。良一は幸三郎の手から電話機をひったくり、やにわに床に投げつけた。その行為によって、さらに興奮状態に火がつき、良一は周囲のものを手当たり次第に破壊しはじめたのだった。
「何をする気だ」幸三郎は叫んだが、こうなってしまっては、もうどうしようもなかった。良一の気が鎮まるまで、なすがままにさせておくしか術のないことがわかっていた。幸三郎の叫びは虚しく唇からこぼれ落ち、跡形も残さず消え去った。
良一は、食器棚の新調したばかりの板ガラス(やはり以前に良一が壊したのだ)を素手で割り、流血で手を真っ赤に染めながら、数少なくなった陶磁器の類を容赦なく床に叩きつけた。カーテンを引き裂き、クロスごとダイニング・テーブルや椅子を引っ繰り返し、それだけでは足りずに、椅子の脚を持って壁に投げつけた。ダイニング・ルームを荒らすだけ荒らしたあと、今度は隣の居間に走り込んで、同じような行為を繰り返した。こうして今まで、家のなかじゅうを壊されは修繕し、壊されては修繕し、幸三郎にしてみれば精も根も尽き果てたというのが実感であった。幸三郎は、まるで非現実の映画の場面をでも観ているような虚けた心境になって、ぼんやりと良一の姿を追った。
どのくらいの時間、凄惨ではあるが、行為する側にもそれを見る側にも、一抹の弛緩した空無感の兆す、その光景が続いたであろう。自らの狂気に翻弄され、疲弊しきった良一が、肩で息をしながら床にへたりこんだ。幸三郎は、その隙を逃さなかった。飛びかからんばかりの勢いで良一を押さえ込んだのだ。良一は両の手を後ろにまわされ把みとられ、されるがままの態になった。幸三郎は、拍子抜けして腕の力を緩め、息子の横顔を見つめた。ガラスの破片で切ったのか、頬のあたりに一筋、赤い糸のような傷口があった。
しばしの間、互いのハァハァいう吐息とともに無言の時間が流れた。
「苦しいか、良一。……苦しいだろうな」
顔や手から血を流し、ぐったりとした息子の姿に向かって、幸三郎は呼びかけた。その一言が、予想もしていなかった展開を生んだのだった。良一は、こっくりと小さく頷いた。少なくとも、幸三郎にはそう見えた。そして、小声で呟くように言った。
「父さん、僕、やっぱりどこかおかしいみたいだ。……苦しいんだよ、父さん」
良一が自らの病識を認めた。そう悟った幸三郎は、とっさに問いかけた。
「病院で診てもらったら、少しは楽になるかも知れない。どうだ」
「…………うん、……そうする。病院へ、行くよ」
ややあって、良一は力なく答えた。
その返事を聞くが早いか、幸三郎はすぐさま隣のダイニング・ルームに駆け込んで、床に転がったままの電話に手をかけた。タクシー会社に電話をしたのだった。良一が翻意しないうちに、とにかく病院へ行かなければ。そのことだけで、幸三郎の頭のなかはいっぱいだった。ほどなく迎えに来た自動車の狭い車内で、幸三郎は良一の肩を抱えながら、祈るように瞳を閉じた。迫り来る嵐の予兆をついて、自動車はK…市のS病院へと路を急いだ。そこは以前に、精神障害者家族会の事務所で紹介されたことのある、精神科と神経科を専門とする病院なのだった。
病院へ到着した良一は、急患としてすぐに診察室へ通された。診療時間をとうに過ぎていたためであろう、事務室の受付窓口はすべてカーテンが引かれ、待合室にも、廊下にも、人影らしいものはほとんどなく、物音も聞こえなかった。時折、地響きのような底唸りをあげながら風が建物全体に打ち寄せてきては、その度ごとに、あたかも瀕死の生き物のように方々の窓ガラスをカタカタと痙攣させる。減光された蛍光管が、鈍い光を周囲のリノリウムの床に落とし、廊下の非常誘導灯だけが煌々と燈って、白々とした得体の知れない不安をあたりに投げかけていた。何人もの入院患者を収容した大きな建物であれば尚のこと、嵐の夜の息を殺したような静けさが、ひどく不気味なものに思われてくる。幸三郎は、待合室の長椅子の上で、ひとりぽつねんと身を固くしていた。
すると、不意に近くのドアの一つが開いて、白衣を身につけた一人の若い女性が現れたのだった。
「日高幸三郎さんでいらっしゃいます?。すみません、少しだけお話を……」
疲れた視線で見上げた幸三郎に、相手はそう声をかけてきた。くっきりとした眉が、知的な印象を見る者に与える、年格好でいえば、ちょうど美紀と同じぐらいだろうか、と思った。ずいぶん若い女医が担当なのだな、とぼんやりと考えたが、促されて通された場所は、診察室ではなく、待合室のすぐ隣にある医療相談室だった。彼女は医師ではなく、病院のケースワーカーだったのだ。医師が患者の診察をしている間に、ケースワーカーが家族のインテークをとる仕組みになっているらしいことに、幸三郎は漸く気がついた。
幸三郎は、年若いケースワーカーから尋ねられることについて、一つ一つ丁寧に答えていった。家族構成、良一の幼少のころから青年期に至るまでの、生活と性格の傾向について、発症の契機、そして良一をめぐる家族関係(このことでは、絹代が良一の病的な振る舞いから身を守るために別居しているという事実も正直に話した)、あるいは、入院治療に及んだ際にかかわる医療費の心配の有無まで。おそらくは、ある程度まで様式化された項目に沿っての質問だったのだろうが、共感的なケースワーカーの受け応えや表情などに、いつしか幸三郎の緊張もほぐれてきて、思いがけないことに、、自分でも場不相応なほど饒舌になっていることに気づくありさまだった。
「息子をどうかよろしくお願いいたします」
幸三郎は、丁重に相手に頭を下げた。若いケースワーカーは、幸三郎の挨拶に笑みをもって応えたあと、しばしの間、いま取ったばかりの記録に目を通していたが、やがて顔をあげ、問いかけた。
「失礼ですが、良一さんを除かれたご家族の間、とくに、奥様とのご関係、つまり、ご夫婦の間に、何か問題のようなものはございませんか。たとえば、意見の食い違いや、感情的なズレやしこりのようなものとか」
それまでとは違う、問題の本質にいっきに踏み込んでくるような、直接的な聞き方だった。一瞬、不意打ちを食らったような感情的な怯みを覚え、幸三郎は、自分の娘とおなじ年格好に華やぐ相手の顔を見つめた。すると、幸三郎の心のなかに、抑えがたくわき上がってくるものがあった。己のすべてを、見栄も外聞も捨てて吐き出したい、そんな衝動であった。悧発そうに動く唇。黒く大きな瞳。幸三郎の内部で、娘の美紀のイメージが重なり合った。けっきょく幸三郎は、やっとの思いでその衝動を押さえ込み、却って、自分には何の関わりもない質問だとでもいうような素振りを装ったのだった。
「そうしたことも、関係があるのですか」
わざとらしく、まるで芝居の台詞のような仰々しさでそう言った。現代の精神医学の主流である家族力動論からすれば、当然の質問であることは、良一が異常を来して以来、精神医学書を読みあさってきた幸三郎にとって自明のことではあったのだが。
「ええ、場合によっては、そういうこともあります」
幸三郎の葛藤に気づいたのか気づかなかったのか、定かではなかったが、彼女は屈託なく答えた。
「そうしたことはありませんね。夫婦間の問題なんて、何しろ、夫婦喧嘩さえしないんですよ、私たちは」
幸三郎は笑いながらそう言った。夫婦喧嘩も無いなどと、ついつまらないことを付け加えてしまったかと、内心は後悔もしたのだが、もはや取り繕いようはなかった。
面接が終わって相談室から出てくると、こんどはすぐに診察室へ呼び入れられた。すでに良一の姿はなく、デスクの前には、これも意外なことだったが、白髪をきれいに束ねた、小柄で温和な風貌の初老の女医が座っていた。
彼女は診断結果を告げ、入院の手続き書類を指し示した。予想していたとおり、良一の病名は精神分裂病で、なかでも、緊張症というもっとも激しい精神症状の発現をともなう病型であった。もはや幸三郎は驚くことなく、その品の良さそうな女医に深々と頭を下げた。



  第 十 章


長かった梅雨が開けた。いつしか手入れのおろそかになった家の庭には、敷砂利の間から夏草が茎を伸ばし、生け垣の柊はいよいよ深い緑を湛えて、黒々とした翳をつくりあげていた。時折、そんな庭の古ぼけた石灯籠のあたりに、雀や他の名の知れぬ小鳥が迷い込んできては、何かの気配に怯えたかのように飛びすさってゆく。どうかすると、以前には見かけたこともなかった赤土色のひき蛙が、突然ぬっと生い茂る雑草のなかから姿を現し、美紀を驚かせるようなこともあった。夕方にでもなれば、寝苦しい夜を予感させる、こもった熱気のなかを、か細い唸りをあげながら何処からともなく蚊が群れ飛んで来て、香を焚いた蚊遣りの周囲にいくつもの骸を散らしていた。それらのものは、夏の季節感を誘う詩情というには、あまりに荒んだ印象ばかりが強く、肌にまといつく湿った空気とも相まって、美紀にすれば不安や息苦しさばかりが増す、疎ましいものの数々でしかなかった。
そうしたある日の夕方、ダイニング・ルームで質素な夕食のテーブルについているとき、美紀はふと感じるところがあって、向かいの席にいる父親の姿をじっと見つめた。書斎で仕事をしていた幸三郎に、食事の仕度が出来たことを伝えてから、まだ一言も父と話らしい話をしていないことに気がついたからであった。思えば、良一が入院して以来、こうして父娘二人、ひっそりとこの家のなかで暮らしてきたわけだが、どういう理由によるものか、二人の間からは日を追うごとに会話が少なくなっていった。何気なく交わされるちょっとした言葉さえもが、何かのはずみで現在のこの不幸をさらに深く穿つきっかけになるのではないかという、底知れぬ呪縛が、少なくとも美紀の心を捕らえていたせいだったかも知れない。
だが、いっぽうで美紀は、自分たちがその波間を漂う謂われなき沈黙のなかにこそ、日高家を最後の崩解へと追い詰めるものの影を認めてもいたのだった。その暗黒を払いのけようとでもするように、美紀は目の前の父親に声をかけた。
「お父様……」
幸三郎は箸を休め、顔を上げた。
「なんだい、あらたまったように」
美紀は曖昧に笑いながら答えた。
「別に何も。ただ、このごろはお父様ともあまり話をしなくなってしまったなと思ったの。もうこの家には、私とお父様と、二人きりなのに」
「そうか……、そうかも知らんな」
幸三郎は目を瞬かせた。静かな唸りをあげながら、扇風機がなま温かい風を送ってくる。その風が美紀の髪をふわりとかき乱して、薄明るい虚空へ散った。
「お仕事、忙しいの?」
美紀が問うた。良一が入院してから、幸三郎はほとんど毎日のように書斎に籠もりきりで、それがなおのこと、同じ家のなかに居ながら父娘が言葉を交わさないことの原因となっていたのだ。
「ああ。出来ればこの夏のうちに、目処をつけておきたい仕事がひとつある。大学の新学期が始まってしまうと、なかなか思いどおりにことが進まないからね」
「そう……」
「お前も名前くらいは聞いたことがあるかも知れないが、フィリッポ・リッピというイタリアの宗教画家について調べているんだ。彼の作品における、フランドル絵画の影響について文章を書いているところだが、うまくはかどらないで困っているのさ」
「……本で読んだことがあるわ。お坊さまのくせに修道女と駆け落ちをして、還俗させられた人でしょう」
心持ち眉根を顰めながら、美紀は急須から幸三郎の湯飲みに茶を注いだ。
「そう、……そのエピソードはあまりに有名だな。破戒僧の汚名はそそぐべくも無いが、しかし時のメディチ家当主コシモは、彼の才能を高く買っていたんだ。コシモの執りなしによって、彼と相手のルクレツィアという修道女は、ともに還俗して結婚することが許されたのさ。画僧フィリッポは、当時はたいへんな人気画家だったんだ。だいいち、彼は自らの意志で修道士になったのではない。幼少のころ、生家の一方的な事情のために、いやいや僧院に入れられたんだ。あの時代には、そういう形で僧籍に入った人もたくさんいたんだよ。……ともかく、彼の作品の持つ劇的な空間構成、登場人物があらわす人間的な近親感、垣間見せる肉感的なメランコリーの巧みさ。どれをとっても、典型的なルネサンスの画家だ。芸術家としては超一流と言えるだろう。……あのボッティチェリも、彼のもとで学んだのだから」
いつしか話題は、幸三郎が専門とするルネサンス美術のことになっていった。父親の瞳のなかに、輝くような無邪気さが兆してくるのを、美紀は見逃さなかった。人が己のこよなく愛するものについて語るときの、幸福感に眩惑された瞳であった。美紀は思わず反発する心を呼び起こされ、顔を背けた。
「お父様」自分の口調がきついものになっているのを感じた。「私、良ちゃんのお見舞いに行きたいの。いいかしら」
話題を変えられた幸三郎は、刹那、思考の寄る辺を失って空虚な表情になったが、すぐにもとの落ち着きを取り戻して言った。
「勿論だとも。良一もよろこぶだろう」
「あの日からもう十日近くもたつわ。お父様は入院して以来、一度も良ちゃんのところへ行っていないんじゃないの。お仕事をしなければならないのは分かるわ。でも、五百年も昔の宗教画家と良ちゃんと、どちらが大切なの?」
家庭というものが徐々に崩解してゆくそのさまに対して、必死になって抗おうとする気持ちに、美紀は突き動かされていた。
「私はなにも、そんなつもりでは……」
うろたえた幸三郎は、茶碗をテーブルに置くことも忘れて、美紀を見つめ返した。つい今しがた、その瞳のなかに兆していたばかりの幸福そうな輝きは、一瞬のうちについえ去っていた。
「むりやり自分の家庭から引き離されてしまったという点では、良ちゃんも、お父様の宗教画家も同じなはずでしょう?……それとも」美紀は、自分が不意に凶暴な力に魅入られるのを感じた。「良ちゃんのこと、厄介払い出来たとでも考えているの?」
幸三郎は驚いたように顔をあげ、悲しげに眼を大きく見開き、唇を歪めた。いっぽう、自らの口にした言葉を耳にしたとき、美紀の心もまた激しく疼いた。自分のなかにこそ、そのような気持ちが、良一さえいなければという思いが、そればかりか良一を憎むような心が無かったと言えるのか。自分は父親に対して、良一に対する己の否定感情を投射したに過ぎないのだということに、美紀は気がついた。
「ごめんなさい、お父様。ひどいことを言ってしまって。良ちゃんのことでは、私なんかよりも幾倍も骨を折っているのに……」
涙がどっと溢れ出た。目の前に並んだ茶碗や皿が、くしゃくしゃに歪んだ。
「お前の言うとおりかも知れん。確かに、私の心のどこか片隅には、良一さえ入院してくれれば、と思う気持ちがあった。事実、良一を病院へ連れて行く車のなかで、これでやっと、あの極限の緊張の持続から逃れられるという期待を覚えもした。だが、言い訳にしかならないだろうが、良一が入院することですべてが解決するなどとは、勿論思っていなかった……」
まだ言葉を続けるべきかどうか、思い悩んでいるかのように幸三郎は唇を震わせながら俯いた。すると、幸三郎よりも早く、美紀が己の心の痛みに堪えかねて口を開いた。
「ごめんなさい。……ただ、寂しいだけなの。お母様がいなくなって、良ちゃんがいなくなって、こんなに寂しい夕ごはん……。毎日毎日……。昔の平穏だったころの家のなかのことを思い出すと、つい、どうしていいかわからなくなる。いったい何がいけないというの?。私たちが、何をしたっていうの?……」
美紀は両の手で顔を覆った。自然と喉元が締めつけられて、しゃくり声がこみ上げてくる。ほの白い指の間から、涙がこぼれおちてエプロンに染みをつくった。以前であれば感じたに違いない、あのもどかしい怒りも今は芽生えない。“何がいけないのか”という問いは、何ものかへ向けられた告発ではもはやなく、こぼれ落ちるため息に似ていた。
幸三郎は無言のまま幾度も頷きながら、哀れむような眼差しで娘を包んだ。やがて、不意に唇をかたく結んだかと思うと、呻くような錆声で何かを口にしようとした。
「美紀、私はな……」
しかし、幸三郎の唇はそれ以上動くことがなかった。かすかに目にとまる、力の入った不自然な唇の震えだけが、語られなかった言葉をめぐる内面の葛藤を伝えた。
扇風機の風が吹き寄せるたびに、泣きはらした頬や涙のたまった掌がひんやりとした感触に撫でられ、その刺戟がすこしづつ美紀の心の波濤を鎮めてゆく。冷めかけたみそ汁や、殆ど手つかずのままの惣菜などが並んだ食卓をはさんで、しばしの沈黙が通り過ぎた。薄い緑色のテーブルクロスに視線を落としながら、扇風機の唸りを耳にしていた美紀は、やがて、最後の望みを託すかのような気持ちになって、言った。
「お父様。もうお母様に、家に戻って来てもらって構わないでしょう?。お願いよ、良ちゃんが入院してしまった以上、お母様がマンションで独り暮らしをしなければならない理由は、もう無いはずよ。そうじゃない?」
住宅街の外れを走る郊外電車の音が、夜の風に運ばれながら遠くなってゆく。表に面した窓にかけられた白いカーテンが、その夜風と戯れてふわふわと舞った。幸三郎の面容に、再びさきほどと同じ懊悩のいろが漂った。
「そうだな、勿論いずれは戻ってくることになるだろうが……、しかし、もう少し様子をみたいと思っている。それが……、私の、考えだ」
幸三郎の割り切れない口調や、その受け答えの内容は、当然ながら美紀の予想していないことだった。幸三郎は一も二もなく自分の提案に賛成するはずだと思い込んでいたのだ。
「様子をみるって、どういうこと?」
「うむ」と幸三郎は息を呑み、「……良一が、以前の落ち着きを取り戻すまでは、ということだ。もし退院したとしても、母さんに対する態度に変化が見られないなら、意味がないからね。……良一はとりあえず入院はしたが、いつまた退院してくるかもわからないんだ」
「だって、退院となれば病気が恢復したということでしょう?」
美紀は幸三郎の真意をはかりかねるというように、相手の眼の色を窺った。
「しかし、ああいう病気の場合は、はっきり治ったということが言いにくいんだ。増悪と消退を繰り返して、入退院を繰り返すケースも多いと聞いている」
その話は、良一が落ち着きを取り戻すまでは云々、という、ついさっきの意見と食い違うのではないか。そう考えざるを得なかった。幸三郎の言うように、もし良一の病気に完全な治癒というものがなく、症状の消長のみを際限なく繰り返すというのであれば、事実上、絹代がこの家に戻ってくる日は無期限に引き延ばされるということだ。
父親に対する一抹の疑いが、美紀の心のなかに芽生えた。だが、美紀は幸三郎の自家撞着にはふれることをせず、再度、絹代を家に戻してくれるよう頼み込んだ。良一が入院している間だけであっても構わない、と。
「そうだな。しかし、……もう少し待ってもよかろう。むろん、いずれは、そうするだろうが」
幸三郎は言葉を濁しながら、やせて筋ばった首を小さく縦に振るだけだった。その曖昧さに、美紀は己の心中の疑念が、とどめようもなく大きくなってゆくのを感じた。
「お父様は、どうしてもお母様を家に戻したくないのね。……いったい、どうして?。わからないわ」
溜飲の下がらぬ思いに突き動かされて、そう口にしたが、気持ちのほうは落ち着きを取り戻していた。そのように問うことが、今しがた頭をもたげたばかりの疑念をも含めて、良一の発病以来これまでに幾度も抱いてきた、この家をめぐる漠然とした不安の内実へと切り込んでゆく、鋭い刃物の役を果たすであろうことを、それとなく美紀は直感したのだ。
「そんなことがあるものか……」幸三郎は驚きと戸惑いをあらわにした。「もう少し様子を見ようというだけだ。良一が、少しでもよりよい状態になって退院できる目処がつくまで」
幸三郎の言い訳を聞きながら、美紀は相手の眼をじっと見据えた。そのとき、娘の視線から逃れるように、心なしか逸らされた幸三郎の瞳から、美紀はあるひとつの、決してはじめてのものではない感覚を呼び覚まされ、思わず息を呑んだ。ボッティチェリ、『ヴィナスの誕生』。……一枚の図像から投射される、美しくはあるがどこか醒めた冷たさを秘めるエロスの陰影。そのためにこそ、美紀がなじめず、ついには居間にあった豪奢なレプリカを、幸三郎に頼み込んで外させた、あの『ヴィナスの誕生』に向き合ったときと同じ感覚を、喉の奥に、舌の先に、こみあげてくる嗚咽のように味わったのだった。
「違うわ。何か違う。お父様には、私に言えない何かがある……」美紀は相手ににじり寄るように迫った。「お母様が言ったことを、私、どうしても思い出してしまうの。お父様がお母様を他の場所に住まわせたのは、決して良ちゃんの病気のせいばかりではないっていうことを!」
美紀の内面に、良一が入院した日の、まんじりともせずに過ごした嵐の夜の記憶が蘇った。風の唸り、窓ガラスを叩きつける豪雨の狂おしい叫びが、ふたたび耳を塞ぐ。
「それじゃあ、いったい私が、何のためにそんなことをしたと言うのだ?」
幸三郎は苦々しく唇を歪めた。美紀に対してとも、絹代に向けられたとも判然としない、曖昧な憤りの光が、ふと瞳の奥に漂った。だがつぎの瞬間には、歪んだ唇から、そこに込められた力の気配が失せてゆき、吠えたてる猟犬に追い詰められた兎のように哀れに瞳を見開いて、美紀を凝視するばかりだった。
「それはお父様がいちばんよくご存知のはずよ」
自分が今まで知ることの無かった、ほの暗い秘密が存在するということを、もはや美紀は確信していた。良一をしてこの家を呪うと言わしめ、神谷明との愛をことごとく妨げてきたものもまた、その秘匿された謎と深くかかわりあうものであるに違いない。具体的な確証があるわけではなかったが、美紀の第六感はそう教えた。窓の外へふと眼をやると、庭を囲む柊の生け垣が、漆黒の暗幕のように垂れ込め、外界の風を遮っている。自分たちに降りかかった不幸の遠因を、白日のもとにさらしたい衝動に、美紀は駆られた。
「私が何か、隠し事をしているというわけか」
今度は小さなため息とともに、幸三郎は言った。
「この家には、私の知らない魔力が働いている気がする。家族をバラバラにしていく、大きな力……、お願い、お父様、私に話して」
「いったい、何を?」
「何もかもよ。良ちゃんが病気になってから、お父様とお母様は、互いに急によそよそしく振る舞うようになったわね。それはどうしてなの?、お母様を家から出したことと、関係があるのでしょう?、それに、いつか良ちゃんの言ったこと、お父様たちは私ばかりを可愛がってきたという言葉、あれはどういう意味?、一方的な思い込みだというなら、何か良ちゃんにそう思わせるものがあったはずだわ。あとはあのレコードのことも。良ちゃんがバッハのあの曲ばかりを聴くようになったのは、この病気になってから。偶然とは思えない。それから、……お母様の引っ越しがあったその日に、……」美紀は、自らの心象に暗い不安の影を落とし続けてきたひとつひとつの事柄を、記憶の遡行という透明なピンセットでつまみあげては、冷静に拾い上げた。しかし、そこまで言いかけたとき、疑念に彩られた影の一つがピンセットの先からこぼれ落ちて、ふたたび美紀の胸の内奥へと、動揺しながら沈んでいった。絹代の引っ越しがあった、その日……。
絹代の鏡台の引き出しの奥から見いだされた、変色した古い写真のことを、美紀はついに口にすることが出来なかった。一枚の印画紙に焼き付けられた、沈鬱な表情にみちた家族の肖像。そこに窺うことの出来る何かしら不幸な物語の予感が、美紀を恐怖で包み込んだ。たった一枚だけ残された家族写真に刻印された憂鬱が、連綿として現在の日高家の崩解へと辿り着くのであるならば。あの遠い過去の時点において既に、いまが運命づけられていたというのなら。美紀はたとえようもなく重い喪失感に四肢を宙吊りにされて、呻きに似たため息を洩らした。穏やかな雰囲気に満ち、芸術や学問への愛によって育まれた安らかな家庭など、もともと存在しなかったことになる。戻る場所など、はじめから何処にも無かったのだ。明との愛を妨げられたことによる、良一へのちっぽけな憎悪と後悔も、母親への同情も、父親に対する疑念までもが、いっさいの意味を失ってゆくのだ。
そのとき、幸三郎は半ばよろけるようにして、ふらふらと席を立った。身体をダイニング・テーブルの隅にぶつけ、食卓の器がかたりと音をたてた。
「すまん、何だか気分が悪いんだ」
事実、幸三郎は蒼白の顔をして、苦しそうに口許を歪めている。
「お父様、大丈夫?」
驚いた美紀は、父親の身体を支えるような恰好で、自らも立ち上がりかけた。
「心配はいらん。少し、疲れただけだろう。毎日の暑さにやられてしまったんだ。……悪いが先に、休ませてもらうとしよう」
幸三郎は、まるで浮動する影のようにダイニング・ルームを抜け出てゆくと、やがて二階の寝室のドアの開閉する音が響いてきた。実際、梅雨があけてからの十日余りというもの、関東地方は喉を塞ぐような厳しい暑さに見舞われ続けていたのだった。

   ***

  幸三郎の日記(その六)
          一九八六年七月二*日
                東京。自宅書斎にて。

ようやく梅雨が終わった。まどろむような炎昼の懶惰さや、灼けつくアスファルトの匂いは、それだけで朽ちはじめたこの身にはこたえる。しかし、自然の好ましいところは、逸脱というものがないことだ。梅雨のあとに朱夏がひかえ、そしてつぎに白秋を迎える。死んだように見える枯れ木と言えども、やがて必ず芽を吹く。そのさまは、説明のつかない大きなものの存在を予感させずにはおかない。いっぽう、天然というものの連綿たる営みが大いなる円環を閉じる予調和の体系であるのに対し、私自身の内面のそれは、水中の淀んだ澱がゆっくりと果てし無い降下を続けるかのような、際限のない凋落の姿をしているということだ。そんな私の在りようを、最終的に結論づけるかのようにして、ついに良一が入院してしまった。いつ起こるかわからぬ狂気の発作に、神経を磨耗させることの疲労から解き放たれたとは言え、むろんのこと良一の入院は、私にとっての慰めではあり得ない。あらためて悔悟するまでもなく、私は良一という一人の人間の一生を、無残にもぶちこわしてしまった。良一ばかりではない、妻や娘の、ささやかで当たり前の幸福を享受する権利を踏みにじった。私がこの家で生き、この家の現実を背負ってきたのは、いったい何のためであったか。ひとつには、私自身の贖罪意識ゆえのものであっただろう。勿論、それがなけなしの、私の愛情であるなどと、いまさら詭弁を弄するつもりはない。私がどれだけ悲痛な表情をして家を支えたところで、幸福になる者はひとりもいない。私のみすぼらしい忍耐は、矮小な自己の良心にたいする言い訳程度のものだった。つまるところ、私は、家族を守るような素振りをしながら、じつは堅固に自分というものを守り通してきただけだった。しかも、自らの十字架を背負うなどと気取ったことを考えながら、いっぽうでは常に逃げ場所をつくってきた。きょう、美紀は私に詰問した。イタリアの宗教画家と良一と、どちらが大切なのかと。認めるしかない。学問や芸術の世界は、薄汚れた自分自身からの逃げ場であったと。私はそのミューズの世界を足場にすることで、自分の地歩を築いてきたが、いまはそこに救いをさえ求めている。
美紀は、私が妻を家に戻そうとしないことを非難した。良一が完全に恢復しないまま退院してくることは、決して絹代にとってよい結果をもたらさないという私の意見は、それ自体としては嘘ではなかったが、より以上に、どこか心の片隅に、いい気で独善的であった己の反省意識からすら自由になりたいという、卑怯な思いが存在しなかったと言えようか。そして、妻がこの家に戻れる日が来ないことを漠然と願い、彼女を孤独によって苛むことを望む自分というものが、いなかったであろうか。……
もうこれが限界というものかも知れない。私は娘に真実を告げるべきだろう。良一の発病の遠因が、どこにあるかを。不思議なことだが、美紀と話をしていると、私は常のことのように、己のなかの虚偽を見透かされているような動揺を覚え続けてきた。みすぼらしい良心を射抜かれたような、畏怖の感覚。と同時に、美紀という存在があるからこそ、辛うじて私は最後の精神的な崩解の手前で思い止まっていられるのだという実感。美紀の言葉のひとつひとつが、私を息苦しいまでに補縛し、己の生き方の惨めさに恥じ入らせる。あたかも、私の脳裏に焼きついて離れぬ、グリューネヴァルトのキリスト磔刑図のように。まったく、美紀は勘の鋭い娘だ。この家のちっぽけな歴史には、明かされるべき何らかの事実があるということを、薄々ではあるが気付きはじめている。度し難い迷妄のさなかに沈む私が、覚悟をもって言い得るのは、事実を告げたあと、娘が私に対してどのような態度をもって臨もうとも、私はすべてを受け入れるしかないということだ。
ただひとつ、覚悟のうちにも重大な気がかりがある。もし、美紀が持ち前の尖鋭な直感によって、私が語るのに先んじて事実を悟るようなことがあれば。……美紀は、私が最後まで秘密を隠し通すつもりであったと理解することだろう。そして、私に対する信頼(というものがあっての話だが)を決定的に失うだろう。
だが……、思えば私はその信頼を、根源から裏切り続けることによって生きてきたのではなかったかという思いもしてくる。己の半生そのものが、じつは家族への愛情というものとはかけ離れたもののために費やされてきたのかも知れないのだから。また、芸術のためでもない、芸術に捧げられた仕事のためでもない。芸術は私の人生の実質とは明らかに異質な、至高の存在だ。私の人生は、もっと低次元の、人間臭いといえばあまりに人間臭い、浅黒い価値観と意志とによって常に決定づけられてきた。この段に至って、自身の内部に失うことを恐れる信頼が未だ繋ぎ留められているなどと考える理由が、いったい何処にあろう。
だいいち、私は本当に、美紀に真実を告げることが出来るだろうか。一瞬の覚悟の後には心がぐらつく。思い出すのは、良一を病院へ連れていった日の、相談室でのことだ。あのとき、私の内面には、自分の娘と話をしているという幻想が、少しでも生じなかったであろうか。もし私の面接担当者が、あの歳若い娘ではなかったとしたら、あるいは私は、この二十数年来の私と家族との関わりのすべてを、思う存分に吐露していたかも知れない。その言葉をあたりさわりのない嘘に変えてしまったのは、相手の女性の理知的な瞳の奥に見た、ほかならぬ美紀の眼差し、そこへの私の気後れのためであった。



  第 十一 章


 八月も半ばにさしかかった、ある日の午後。白々とした執拗な陽射しに街は懶く疲れ、その光の乱舞のために瞳の奥に軽い鈍痛を覚えながら、東京近郊を走る私鉄線のK…市駅に、美紀は降り立った。効き過ぎる電車の冷房から解放されたと思ったら、こんどは街中のアスファルトの強烈な照り返しに身を煽られ、一瞬、目の前に赤黒い膜がかかってくる。思わず歩みを止め、こめかみのあたりを指で押さえた。奇妙なまでの静かさが耳を塞ぐ炎昼のさなか、駅にも街にも人影がまばらで、自分の影さえもがいずこかへ消え去ってしまったかのようだった。
 改札口を抜けた美紀は、幸三郎から教えられたとおり、駅の南口広場へ通じる階段を降りた。駅前には小さなバス・ターミナルもあったが、停留所で降りてからが少し不便だと聞かされていたので、迷うことなくタクシー乗り場へと急ぐ。待機していた薄茶色のセドリックの一台が、ドアを開けた。
 「S…病院まで、おねがいします」
 運転手は表情を変えるでもなく、無言のままギヤを入れ換え、車を発進させた。駅前のロータリーを半周したところで自動車はぐんと速度を増し、鉄道線路の鉄柵に沿ってしばらくの間進んだが、やがて道路は急カーブを描きながら、武蔵野の面影を色濃く残す、雑木林のなかへと入っていった。道路の左右から、濃緑色の葉を繁らせた枝が次々と覆いかぶさり、それが間断なく続いていく。真夏の木漏れ日を受けながら、鬱蒼とした樹木のトンネルをくぐり抜けてゆくさまは、あたかも信州の避暑地を訪れたかのような錯覚さえ抱かしめた。ほどなくすると、それらブナや桜、黒松などの幹の狭間に見え隠れしながら、結核研究所や国立療養所の建物が視界に入ってくる。幸三郎の話では、このK…市は戦前から結核療養の町として世界的に有名となり、市の南端にあたるこの場所に、胸部疾患のための大小のサナトリウムが集まりはじめたのだという。その後、結核患者の減少にともない、それらの療養所は徐々に廃止されたり、一般病院や老人のためのリハビリ施設などに衣替えしていったのだが、良一が入院したS…病院もまた、古い歴史を持つ、かつてはそのような結核患者のための療養所らしかった。
 前の客が残していったものか、微かにシートに染みついた煙草の匂いが気になって、美紀は走る自動車の窓を細めに下ろした。にわかに生暖かい風が吹き込んできて、乱れた髪が頬や項にまといつく。同時に、久しく忘れ去っていた感のある、樹木の吐き出す、あの匂い立つような独特の芳香を嗅いだように思った。風圧に抗うように眼を細めながら、ぼんやりと流れる景色をやり過ごす間もなく、自動車は病院街のバス通りから細い路地に入り込んだかと思うと、やはり緑濃い林間の道をくねくねと辿り、やがてS…病院の正面玄関の前に横付けになった。車外に出ると、先ほどまでの樹木の匂いが、さらに強烈に美紀の鼻腔に流れ込んできた。再びむせかえるような真夏の熱気と湿気と、刺すような光線に眩暈を呼び起こされながら、眼前の病院の建物を仰ぎ見たとき、美紀の心は、自己呵責と後悔の念によじれた。良一をこの場所にまで連れて来てしまったのは自分なのだという、あの取り返しのつけようのない気持ちが、否応なく喉元を締めつけたのだ。そのとき不意に、美紀は、傍らで何かがうごめいているような気配を感じた。それはすぐ近くのクヌギの樹の幹についた、大きな樹皮の傷にたかり飛ぶ、無数の黒っぽい小さな虫けらたちだった。傷口からは、強い匂いを放つ透明な粘りのある樹液が滲み出しており、虫どもはそれを餌食に集まっている。美紀は、まるでこのうえなく不吉なものを見てしまったかのように頸を振り、無意識に片手で口許を覆ったまま、足早に病院の玄関のなかに走り込んだ。先ほどから美紀の鼻腔を満たし続けていた独特の香りは、その粘液質の樹液の匂いであった。
 医療法人S…病院。中規模の結核サナトリウムとして、一九四〇年に創設。その後、一九六九年、現在の精神・神経科専門病院に改組。病床数百五十。以上がこの病院の、簡単な案内盤で知ることのできるすべてだった。
 建物のなかに入ると、廊下も待合室も陽の光があたらないせいか、盛夏だというのに、そこはかとなくひんやりとした暗さが漂っている。待合室にも人の姿はなく、美紀は受付の事務員に面会の旨を告げると、柱のかげの椅子にそっと腰を下ろした。
 やがて、受付の職員から声がかかり、廊下のやや奥まったところにある、小さな面会室へ通された。大きめの木の机をはさんで、長椅子が二脚。ところどころ、塗装のはげ落ちた壁には、ゴッホの『ひまわり』の構図を模したかのような、稚拙な油彩画がかかっていたが、くすんだ感じの画面の色調が、その場所のうらぶれた空気をなおのこと印象づける。
 ほどなくして、美紀が入ってきた出入口の反対側にあるドアが開いて、良一が姿を現した。紺色のズボンに、やはり青っぽい細い縦縞模様の入ったシャツを着ている。美紀は、今までよりもさらに強い緊張感に全身を貫かれながら、しばらくは呼吸をしているような感じすらしなかった。いまにも、良一が、罵声を浴びせながら飛び掛かってくるような気がしたのだ。
 「良ちゃん、元気でやってる?。どうしているだろうって、ずっと気になっていたのよ。もう少し早く来たかったのだけれど、ごめんなさいね」
 美紀は、恐々と覗き込むような眼差しを弟に向けた。
 しかし良一は、美紀の緊張感とは裏腹に、何をするでもなく、ただぼんやりと姉のほうを見返しただけだった。入院前の、あの強迫的な発揚状態から、一転してとろりとした、覇気のない様子に変貌してしまっている。見るものをして鬼気せまる心持ちにさせた眼光の鋭さは既に弱まり、落ちくぼんだ眼窩の底に、ふたつの黒い瞳が力なくうごめいていた。
 「疲れているみたいね。慣れない入院生活で、不自由している?」
 美紀は問うた。外面の与える印象がまったく異なるとはいえ、やはり病の影は様相を変えて色濃く漂っている。むしろ、肌の色などは、以前に比較してもはるかに悪く、不健康そうな土色になっていた。
 「面会の人が来るっていうから誰かと思っていたら、なあんだ、姉さんだったのか」
 美紀の問いに答えることなく、良一はつまらなそうにそう言って、長い体躯を不安定に揺らしながら、机をはさんだ向かいの長椅子に腰掛けた。
 「誰か、他の人が来てくれるんじゃないかって思っていたのね」
 父か母が来ることをひそかに期待していたのではないかと、微かな希望を託すように問うてみた。両親に対する態度に、僅かな変化の兆しだけでも見えてくれば、それは必ず、病勢が後退してゆくことの徴に違いないと信じていたのだ。入院して二週間という時間の経過は、美紀をして、そのような不確かな望みを抱かしめるにはじゅうぶんでもあった。
 「今まで会ったことのなかった、僕の本当の恩人のような人がここへ訪ねて来てね、うまく話をつけて、ここから出してくれるのさ」
 美紀は思わず苦笑した。ロマネスクな冗談を言っている、と思ったからだ。また、やはり良一は家族を恨んでいるのだと思い、心が痛んだ。
 「本当の恩人のような人?、誰かしら。私もぜひお会いしたいわ」
 美紀は良一の言葉に調子をあわせた。しかし、美紀の顔からは笑みが消えていた。蒼ざめた沈黙が、瞬く間に唇を凍えさせた。良一は、最初に感じた、虚ろな印象がさらに深まるばかりの、焦点の合わない、何処か遠い場所を呆然と見やるときのような瞳をしている。人間は、どだいこのような眼をして綺語を操れるものではない。良一は本気なのだ。これも病的な思い込みのゆえに違いない、仕方のないことなのだと、美紀は自分を納得させようとした。実際、そうであるには違いなかったのだろうが、なされる言動の枝葉にいたるまで、弟の快復の兆候を見逃すまいと身構えていた美紀は、深い絶望を覚えて黙り込んだ。良一の妄想に無条件につきあうことで、却って相手の病的な思弁を深化させてしまうことを恐れ、話題を変えた。
 「このあたりって、とてもいいところね。ここへ来る途中、自動車の窓から見えた景色、緑が多くて、近くにこんなところがあったなんて、知らなかった」
 美紀は、努めて気安い雰囲気を取り繕いながら言い、何気なさそうに窓のそとへ視線を投げた。面会室は病院の中庭に面していて、その一角をのぞむことが出来る。えごの木や松の幹がところどころに背をのばし、その袂には、半夏生だの紫露草だのといった草花が萌え出ていた。あたりをモンシロチョウが飛び交って、金網を張った池の近くには、作業療法の目的のために作られたのか、ビニール温室のようなものが並んでいるのが見える。面会室の正面には、二階建ての鉄筋の建物が横たわっているが、窓に格子が取り付けられているところを見ると、そこが病棟なのに違いない。病棟の窓は、大方開け放たれていたが、美紀の居る場所から見る限り、人影は見えなかった。そうやって、美紀がぼんやりと外の光景に眺め入っていると、にわかに良一が喋り始めた。
 「姉さん、人をこんなところに放り込んでおいて、いいところね、はないんじゃないかな。行動の自由はないし、おまけに画も描けない。僕をこんなふうにしたのは、姉さんたちなんだからね。自分たちの悪事を、世間からは隠し遂せたつもりでいるのかも知れないけれど、いまに僕は、その嘘を暴露するよ。そうしたら、社会から指弾されるのは、こんどは姉さんや母さんや父さんたちの番だよ。今ごろは、僕をこんなところに閉じ込めて、始末したつもりになって、ほっとしながら気楽にやっているんだろう……」
 良一の口調は、決して激したものではなく、虚ろな面容そのままの、気迫を欠いた表情に呑み込まれていたが、言葉の端々には、姉に向けられた敵意が読み取れた。病状の快復を期待していた美紀にとって、それは思いもかけない反応であるというほかはなかった。
 「良ちゃん、そんな…」
 はじめのうち、美紀は項垂れながら弟の批難に耐えていた。良一を入院させたのは、ほかならぬ自分なのだという、抗い難い罪障感に刺し貫かれていたからだった。しかし、相手の言葉を耳にしているうちに、美紀の内部には、次第に褐色の違和感が湧き上がってきた。久しく忘れかけていた、生々しい情動のうねりが、脳裏をかきまわした。仄かに抱いた快復への頼りない期待も、つまりは心の内奥の罪意識の裏返しであるに過ぎなかっただけ、その期待がたやすく裏切られた今となっては、罪障感が恨みに変わってゆくのも早かった。
 「良ちゃん、本気でそんなことを考えているの?、私たちがあなたを始末したですって?……」
 美紀は、悲しみに満ちた瞳を弟に向けた。大きな黒い瞳が、なおいっそうまるくなった。思い出したのだ。数日前、自らが父親に投げかけた心ない言葉を。……<良ちゃんのことを厄介払いできたとでも思っているの?>……そのときの幸三郎の悲しみを、漸く今になって理解出来たように感じた。すでに口に出されてしまった言葉に対する、手の打ちようのない後悔の念が粛々と心を苛み、出口のない悔しさに歯噛みした。
 <私たちが、のんびり気楽にやっている、というのね…>言葉には出さなかったが、心のなかで憤りの感情がやるかたなく渦巻いた。良一の措置入院をめぐって話し合ったときの、行き場のない重苦しい空気や、家を出て行った日の朝の、絹代の疲れきった面立ち、そしてまた、良一の状態ゆえに躊躇いのなかへと塗りこんでしまった、神谷明への想い、その切なさ。……
 <どこまで自分本位なの?、私たちを、どこまで傷つければ、あなたは気が済むというの?>
 相手が正常な精神状態にはないことを、理性では納得していたとは言え、面と向かって悪意にまみれた言葉を浴びせられれば、人の心とは弱いものだった。
 「当たり前だろう。でなければ、何故、僕がこんなところにいるんだ」
 今度は、ややもすると、良一の語気も強いものになった。
 「良ちゃんが、自分から行くと言ったのでしょう。だから、お父様が連れてきたのじゃない?」
 相手と議論などするべきではないことは判っていたが、抑え切れぬ吐き気のように、言葉が喉を痙攣させた。
 「父さんがそういうふうに仕向けたんだよ」
 良一は乱暴に言い放った。だが、美紀はぐっと感情を呑み込み、自分を抑えた。場所柄を考えたのだ。
 しかし、実際にはそれ以上の理由があった。今日こそは、これまで折にふれて美紀の心を奪い続けてきた、いくつかの疑問の根源ついて、じかに良一に問い質してみるべきだと思っていたからだ。感情のうねりにおもねって、口論にでもなれば、その機会もたやすく逸してしまうだろう。
 「そうね。……良ちゃんの言っていること、尤もだわ。誰も好きこのんで、精神病院に入ろうなんて、考えるはずないもの……」弟の気持ちを出来る限り平静に保とうと、美紀は身を引いた。……「ところで良ちゃん、私、まえから気になっていたことがあるの。ちょっと訊きたいことがあるのだけれど、いいかしら……」

   ***

  幸三郎の日記(その七)
          一九八六年八月*日
                東京。自宅書斎にて。

 今日の夕方、帰宅の途路、絹代の部屋に足を向けた。良一が入院し、当面の間なら、彼女が家に戻っても差し支えない環境にあるということを、告げるためだ。それを私に決心させたのは、いつか美紀が口にした疑惑、すなわち、私が絹代を他所に住まわせるのには、良一の病気以外にも理由があるのではないか、という言葉のゆえに他ならない。やはり、私にとって、美紀の存在は抗い難い力を宿したもののように思える。その理由は、果たして何なのか。美紀にだけは嘘がつけない、というよりも、私の虚偽のことごとくを見透かされているような、畏れに似たこの感覚の拠って立つ理由は。……
 しかし、いまの私に、この問題を突き詰める心の余裕はない。いま、大急ぎで整理しておかなければならないのは、別のことだ。私は<そのこと>を、本当に予想していなかったのだろうか。絹代が、家に戻ることを拒むとは!……。
 私にとって、「愛情」とはいったい何であったろう。この年齢になって、かくも青臭い疑問に捉われることじたいが、取り返しのつかない人生の失敗を意味しているのだろうか。これまで、私は家族とともに、なかんずく絹代と、何を考えて過ごしてきたというのか。いつの間にか私は、自分の彼女に対する気持ちというものを、男としての愛情であると錯覚していたのか。それも、考え得る限り最大の愛情であると。否、自分では、そう信じ込もうと躍起になっていたのだ。私に愛情が欠けているということを、少しでも忘れていたいがために。妻との生活が重荷であればあるほど、私は自分を慈悲深い、包容力のある男であると自惚れることができた。考えれば考えるほど、笑止なことだ。こんな私でも、愛情というものに人生の意味を見出したくてたまらなかったというのだ。確かに、己の人生が無意味であることを知らされるのは、何より辛い。人間とは哀れなものだ。常に、生きることの意味におびえていなければならない。たとえそれが、うたかたの夢のようなものであることが判っていても。……
 妻は、私にこう言った。
 <こうして離れて暮らしてみて、はじめて判ったんです。私があなたと暮らすことで、私はどれだけあなたを不自由な身にしてきたか>
 <何を言うのだ>
 とっさのことだったので、私には妻の真意を量りかねた。
 <私というものがなければ、いいえ、私たちさえいなければ、あなたはお仕事のうえでもそのほかの点でも、もっと気を楽にお持ちになって、毎日を送れたことでしょうに>
 <それは、物理的な環境のことを言っているのか?>
 <いいえ>
 <私たち、というのは、君と良一のことかね>
 <あなたのお考えの通りですわ>
 人間というものは、どうしてこのように、いつも何かにこだわっていなければならない性を持っているのだろう。まるで、自らすすんで重荷を負うことなしには、生きてゆくことができないとでも言うように。生きることの意味に怯えるということは、自らがおかしてきた数々の過ちの影に怯えることを意味しているかのようだ。
 <美紀に、言ったそうじゃないか。私が君をここに住まわせたことには、良一の病気以外にも理由があるのだと>
 妻は、俄かに表情を硬くした。
 <あなたが、とうとう決心なさったと思ったからです。私には解っています。あなたが、決して私の過去をお許しにはならないということを>
 絹代。おまえは自らの罪障感を、私に投射しようとしているだけではないのか。自分が楽になりたいばかりに。何故、そうまで頑なに、人生の意味におびえようとするのか。……だが、心なのかで、私は認めざるを得なかった。そうだ、確かにこの私のなかには、永遠におまえを許そうとしない自分が存在しているということを。しかし、それは私の愛ゆえのことなのか?。
 <私が何を決心したというのだ。それは君の考え過ぎじゃないのか。もし良一が退院するなら、様子をみて、その結果次第でまた家に戻ればいいじゃないか。何と言っても、私たちは家族なのだ。一緒に暮らすのが自然だ>
 <あなたは、本気でそうおっしゃっているのですか>
 <当然じゃないか>
 <私には信じられません>
 いいだろう。それなら、私たちの二十数年間が、いったい何だったのかを、説明してくれ。私にとってばかりでなく、絹代、おまえにとって。
 妻が信じようとしているもの。それは、妻を呵責しようとするだけの私の心であり、自分自身の取り返しのつかない過去だけだ。あたかも、私がこの家族のすべてを支えてゆく決意をかためたように、妻は自らの生のネガティフな意味を全うしようとしている。あるいは、妻が信じているのは……。
 <あなたは、男性としての世間体やプライドを保とうとされているのですわ。それは、今の社会で、男の方にとっては何より大切なものだということはわかります。でも、それを護ろうとされているあなたは、とても苦しそうです>
 分かった風な口をきくではないか。おまえは私を庇っているのか、責めているのか、いったいどちらなのだ。そもそも、その私の男としての面目に、最初に泥をぬってくれたのは、絹代、おまえではなかったか。
 <どうしても、戻りたくないのだね>
 私は最後の念を押すつもりで訊いた。妻の返事は変わらなかった。ふと、私の心に、邪な思いがよぎった。私は妻を苦しめてやろうと考えたのか、それとも、屈折した私の愛ゆえの言葉だったのか。
 <榊原一樹は、もうどこにもいないのだ>
 私の唇が、よもやその名前のために動かされることなど、妻は想像もしていなかったに違いない。この私ですら、一刹那のまえには、思いもよらないことだった。妻は驚きを顕わにした瞳で、私を見つめ、言った。
 <私も辛いんです。これ以上、あなたを苦しめることが>
 苦しんでいる?、この私が、今に至ってなにを?。私は全てを私なりに理解し、受け入れて来た。勿論、そこに至る過程には、苦しみのようなものがなかったと言えば嘘になる。しかし、人は理解が出来ないからこそ苦しむのだ。自らの状況を理解出来るところに、苦しみなどない。私は、良一の存在も、病気のことも、絹代、おまえの選択のことも、およそ私をして辛酸を嘗めさせてきたことごとくを理解し、受け入れた。このうえ何を。…………いや、強がりかも知れぬ。人間にとって、自分が不幸であることを自ら認めることほど、不幸せなことはない。そうだ。私は苦しい。この家で、良一や妻と同じ時間を呼吸することが、このうえなく苦しかった。しかし、その苦痛の原因は、この私にある。だから絹代、もしおまえが私の目の前から永遠にいなくなることがあるにしても、私の苦しみが軽くなることはない。だが気に留めるな。繰り返すようだが、おまえのせいではない。

   ***

 美紀は居住まいを正した。良一を徒に刺激すまいと思いながら、却って緊張に硬くなっている自分自身を見出す。答えをはぐらかすきっかけを与えずに、しかし相手を圧するような雰囲気もつくらないようにするためには、どうすれば良いのか。
 「聞きたいって、何をさ」
 ぶっきらぼうに良一は言った。その調子が、明らかに良一の頑なさの現れであるかのように受け取った美紀は、一瞬、自らの意図を放棄しようとする衝動に心を奪われかけたが、既に言葉は唇の先からすべり出していた。
 「たいしたことではないのよ。良ちゃんが、以前に……」それにしても、何から問えばよいか迷う。やはり、一番難の無いと思われるものから……。「良ちゃんが、よく聴いていたあのレコード、バッハの、何ていったかしら、ヴァイオリン曲」
 「無伴奏パルティータ第一番」
 良一は憮然と答えながらも、瞳のなかには微かな狼狽と含羞が漂った。まるで、偶然のはずみで自らの秘密を他人に覗かれてしまったかのように。
 「ええ、そうよ。その曲を、良ちゃんがよく聴くようになったのは、どうしてかしらって、思ったのよ」
 さも、何でもないこと、といった口ぶりで、美紀は尋ねる。
 「好きだからだよ」と、良一はぶっきらぼうに答えた。「好き嫌いに合理的な理由なんてない」
 「それはそうだわ。でも、以前は、そうでもなかったでしょう?」
 美紀は自らの言葉遣いに全神経を集中させる。
 やや暫くの間、良一は鋭い視線を床に落としていたが、やがて美紀のことを上目遣いに見て、言った。
 「僕よりもかわいがられてきたから、姉さんにはきっと分からないだろう。僕たちの家には、もともと、なんかよそよそしい、おかしな雰囲気があった。何て言うか、皆が半分づつ背中を向け合っているような、そんな感じさ。どこが具体的に、と訊かれても、はっきり言えないけどね。父さんも母さんも、半分づつ背中を向け合いながら、姉さんのほうばかりを見ていたから、姉さんは気がついていないんだ」
 「それと、バッハのあの曲と、どんな関係があるの?」
 美紀は俄かに、良一によって自分が激しく責められているかのような感覚に、苦しめられ始めた。その理由は他でもない、いつか狂気の発作の只中に良一が叫んだ言葉、自分よりも姉さんのほうがかわいがられてきたという言葉であった。身に覚えの無い罪状でありながら、ひょっとしたら無意識のうちに、そんな取り返しのつかない罪を犯してきたのかも知れないという想念が、美紀を怯えさせた。
 「あの曲を聴いていると、とても気持ちが楽になるんだよ」良一は、そんな美紀の心情とは何の関わりも持たないかのように、やはり含羞を隠し切れないといった様子で答えた。「まるで、あの家のなかの冷たい隙間を、静かに満たして、埋めていくような気がする」
 でも、なぜあの曲≠ネのか?。美紀の耳の奥で、あの曲≠ェ鬱屈した響きを奏で始める。精緻な対位法によって編み込まれ、数学的な秩序に支えられるバッハの音楽。しかし、そのなかで、なぜあの曲でなければならないのか。
 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番に秘められた秘密を、なおも美紀は探ろうとしていた。そもそも、良一が覚え続けてきた隙間≠フ感覚とは、いったい何なのか。家族全員が、半分づつ背中を向けあってきたなどということを、美紀は容易に信じることは出来なかった。良一が発病して以来の、異常な毎日のことであるというならともかく、学問や芸術の世界に生きながらも家族思いであった父親や、もの静かで慎み深い母親が紡ぎ出した、あの決して急ぐことの無い生活の律動、古典的な音楽作品のような調和への指向に律された日々のいったいどこに、良一の証言を裏付けるような事実を見出すことが出来よう。……さもなければ、自分が生きてきたのとは全く別の世界に、良一は住んでいたということになる。同じ場所で同じ光を収斂させながら、しかし決して互いに共振しあうことのない、逆位相の世界像を結んだ二つのレンズのように。
 美紀は、殆んど何の検証も待たぬまま、歪んだレンズを持っていたのは自分のほうだと思った。再び、あの身に覚えの無い罪≠フ感覚に苛まれ始めた。その苦しみから這い上がろうとでもするように、美紀は良一に問いかけた。
 「お父様やお母様が、良ちゃんよりも私のほうをかわいがってきたというのね。たとえばどんなふうに?。具体的に話して。お願いだから」
 最早や、美紀は弟の言葉を否定しようとしなかった。もし、それが事実であるとするなら、自分もそこを避けて通ることはできない。それどころか、弟が精神に変調を来たして以来、常に心の底でおびえ続けてきたあの不安、自分の育ってきたこの家が瓦解していくのではないかという、抑え難い現実感を伴った不安の意味を、良一の返答は照射することになるかも知れない。それはつまり、明との愛を妨げたものが何であったか、についても当てはまることになる。
 「例えば……」良一は言いかけて、俯き、身体を微かに震わせながら、言葉を濁らせた。まるで、言葉にしようのない真実を言い表すことに、限りない苦悶を覚えているかのようだった。実際、良一の眼には、深い困惑の色が見て取れた。だが、それでも美紀は弟の言葉を待った。
 「……ひとつひとつのことは、思い出すのも難しいくらい小さなことだよ。日常そのものだったんだ。何て説明していいか分からない、父さんも母さんも、僕に対しては二つの顔を持っていた。だから僕は、いつもびくびくしていた。安心していられなかったんだ。姉さんには、そんなことは無かっただろう?」…………
 やがて、良一は面会室の壁に掛かっている時計のほうを気にしながら、そわそわした様子を見せはじめた。決められた面会の時間が終わりに近づいているのだ。
 「二つの顔?、どういうこと?」
 「矛盾する、二つの感情。優しさと怖さ、それはある意味で当たり前かも知れないけど、温かさと冷たさ、そう言ってもまだ足りない。愛情と憎しみ、愛情と憎しみ……かも知れない」
 美紀は言葉が出なかった。それは良ちゃんの思い過ごしよ、そんな返答が思い浮かんだが、何故だか、言い出してはいけないような気がした。
 しばしの間、気詰まりな沈黙が流れたが、やがて壁の時計を見た良一は、「もう行く時間だから」と素っ気無く言い置いて、ゆらりと立ち上がった。そして、廊下とは反対側の出入り口のドアに手をかけたとき、思い出したように美紀のほうを振り返り、「姉さん、八月の最後の金曜日だけどね、病院の盆踊りがあるんだ」と言った。
 「盆踊り?」
 「うん。よかったら、来てみなよ」
 美紀は怪訝な顔で良一を見返した。病院と盆踊りというのが、どうにも連想の糸で繋がらなかったのだ。だが、良一はそんな美紀の戸惑いなどに構うことなく、ドアの向こうに姿を消してしまった。ややあって、面会室の窓の外をみやると、病棟とこちら側の管理棟を結ぶ渡り廊下を、良一がひとりのろのろと歩いてゆく姿が見えた。
 その姿を見送りながら、美紀は「良ちゃん」と呟いた。愛情と憎しみ、と呟いた良一の言葉が、心の中でこだました。何故だか、涙がぽろぽろとこぼれて仕方がなかった。 ……
 病院の玄関を後にしたとたん、遠く近くの雑木林のそこかしこから降りしきる、驟雨のようなヒグラシの鳴き声が耳を塞ぐ。陽は少しづつ西に傾きながら、クヌギやブナの枝、幹を黄金色に染め始めていた。少し歩いただけで、肌からじっとりと汗が滲み、再び寝苦しい夜がめぐってくるであろう予感が、疲弊した気持ちをさらに苛んだ。ハンカチを片手に、時おり頬や額の汗を拭いながら、来た道を再びバス通りへと辿ってゆく美紀の胸中に、ひとつの決意が頭をもたげていた。自分がそのなかにあって宙吊りにされ、理由も何も知らされないまま足を掬われてきた、柊の家の迷路を最終的に解き明かしてくれるのは、今や母親の絹代しかいない、と。
 しかし、同時に美紀は、そうした自らの努力が、じつはまったく意味の無いものなのではあるまいか、という思いに、常に四肢の力を奪われていくような虚しさを覚えていたのも事実だった。日高家の隠された真実を探りあてたところで、それが何になるだろう?。良一の心の病が癒え、神谷明との愛が修復されることにでもなるというのだろうか。知るということは、解決をもたらすのではなく、ただあきらめの糧となるばかりではないのか、と。



  第 十二 章


 病院からの帰途、駅へ向かうバスの揺れに身をゆだねながら、美紀はぼんやりと、件の写真のことを思い起こしていた。絹代の引越しの日に偶然に見つけた、昔日の家族写真のことだ。たった一枚だけ残された、家族の肖像。そのおもかげに引き寄せられるように、家に帰り着いた美紀は、絹代の部屋に入り、その隅に置かれた鏡台の引き出の底にしまい込んだ、古く色あせた写真を再び手に取った。そこに刻印された、かつての家族の姿。美紀は、心の中で問いかけた。あなたたちは、何処へ行ってしまったのか。あなたたちは、誰なのか、と。
 狭隘な二次元空間で、時の流れから切り離された場所に立つ人物たちは、ただ静かに、美紀のほうを見つめて立ち尽くしている。いま自分が呼吸しているこの時間が、途切れることなくこの写真のなかの時間と続いてきたのだと思うと、美紀は悲しいのだか愛しいのだか判然としない、不思議な感情を味わった。未だ現在を知らぬ過去。そのなかの人物たちに対する憐憫の情に、美紀の心は揺れた。
 そのとき、階下の居間のほうから、幸三郎の呼ぶ声がした。ややあって、階段を踏みしめる軋みが耳に届いた。あわてた美紀は、写真をその場に置いたまま、「いま行くわ」と答えてその場を立った。……
 「学校の生徒さんと、ご両親がご挨拶にみえたが……」
 そう父親に言われたとき、いったい誰が来訪したのか、見当がつかなかった。部屋を出て階段を降りていく途中、耳に覚えのある声がした。岡野だとわかったのは、そのときだ。岡野と両親は、すでに応接間に通されていた。美紀がその場に姿を現すと、両親は立ち上がり「倅がたいへんお世話になり、ありがとうございました」と、深々と一礼した。
 すらりと背が高く、夏であるにもかかわらずきちんと背広に身を包んだ父親は、ソファに浅く腰を掛けると、美紀の瞳を見つめ、再度、軽く頭を下げてから言った。
 「このたび、倅が二学期から信州のF…町の県立高校へ転入することになりました。その前に、ぜひこちらでお世話になった先生方にご挨拶と思いまして、突然で恐縮ですが、お訪ねさせていただきました。本当に急で申し訳ございません。……」
 当の岡野は、何やら照れくさそうに俯いていたが、やがて美紀に顔を向けてから、不満そうに訴えた。
 「自分一人で挨拶に来るから、いいって言ったんですよ。小学生でもないのに……」
 「そうは言いましても、ねぇ」と、今度は小柄で快活そうな母親が、屈託のない笑顔で続ける。「親としても気がすみませんもの。別々にご挨拶いたしましても、その度にご迷惑おかけするわけにはいきませんし」
 美紀は、小さく頷きながら岡野のほうに向き直り、微笑みながら言った。
 「べつに恥ずかしいことなんかじゃないわ」
 そして、台所で紅茶をいれ、皿に載せたゴーフレットといっしょに居間に運んだ。岡野の父親が、幸三郎に自分の息子が信州で転地療養することになったいきさつを話しているところだった。その後を継いで、美紀はいつか岡野自身から聞かされた、彼の父親が、東京の会社での地位や社会的な人間関係のすべてを投げ打って、新たな土地での生活を始める決意をしたということを付け加えた。
 「それはよく決心されましたね。敬服いたします」幸三郎は感歎に満ちた声で言った。そして「いいご両親を持って、君は幸せものですよ」と、含めるように岡野に言い聞かせた。
 美紀はそんな自分の父親の姿を、意味ありげに見つめていたが、さも手持ち無沙汰だといったふうに自分自身をもてあましている、岡野の困り果てたような姿に気がついて、言った。
 「お父様、信州の話をして差し上げたら。いろいろなところをご存知でしょう」
 そして、所在無げにソファに身を沈めている岡野には「私たちは、少しこの近くを散歩してきましょうよ」と声をかけた。
 岡野は渡りに船といった様子で、一も二もなく承知した。まるで一刻も早くその場から立ち去りたいとでも言うような敏捷な動作で、ソファの上から跳ね上がり、美紀よりも早く応接間を出て行こうとする。その様子が見ていておかしく、美紀は小さな笑いを噛みころした。……
 家からほど近いところを、一条の深い轍をえがくように疎水が流れていた。玉川上水だった。その流れのほとりに歩道がつけられて、立派な桜の並木が延々と続いている。その老木が疎水の流れの両脇から大きく枝を差し伸べながら、濃い緑の隧道を形づくり、天気の良い日などは、やわらかな木漏れ日の雨を降らせる様が、美紀は好きだった。
 「すてきなご両親だわ」
 美紀は、岡野の半歩ほど前を歩きながら、言った。木陰を通る風が心地よく、肌から熱を奪ってゆく。
 「ええ……」と、少年は決まり悪げに答えた。「でも、ついて来なくてもいいと言ったのに」となおも不満そうに呟く。
 「決して子ども扱いしているわけじゃないわ」美紀は察するように言った。「……どう言えばいいかしら、つまり、家族って、本来そういうものなんだわ。あなたのことではあっても、あなただけのことではないのよ」
 木陰とはいえ、湿った空気のなかを暫く歩き続けると、じんわりと汗がにじんでくる。五分もしないうちに、二人は歩道のところどころに据えつけられた、木製のベンチのひとつに腰をおろし、目の前の夏草の繁みを見つめた。大人の感覚というものを、どう説明すればよいのか、美紀は戸惑った。人間は一人でも生きてゆけるのだと、現に一人で生きていると信じることができるのは、なるほど若さの特権であろう。だが、美紀はそうした傲慢な悲愴感をもてあそぶことに満足を覚えるには、さすがに年齢を重ねすぎていた。さりとて、目の前の、まだあまりに若すぎる自我に対して、自分自身が納得のいく説明を与える自信もないのだ。それどころか、家族というものはそういうものであるという、自らが口にした言葉に、思わず胸を締め付けられるような居心地の悪さをさえ感じていた。家族、あるいはそれに類するような言葉に対し、いきおい過剰な情緒反応を示すようになっているらしい、最近の自分自身に気がついていたが、そんな自己意識が深まるぶんだけ、より憂鬱も深まってゆくのだった。
 そんな気分を振り払うように、美紀は話題を変えた。それは、ふだんはまったく忘れ去っているにもかかわらず、岡野と面と向かうと、どうしても意識の閾値にのぼってくる、カフカの『変身』のことだった。
 「とうとう、きちんと約束を果たすことができなかったわね。ごめんなさい」
 疎水べりの深い草叢が風にゆらゆら揺れるのを眺めながら、美紀は呟いた。すると岡野は、何のことかというように首を傾げながら、美紀の横顔を見つめた。
 「約束って、何でしたっけ?」
 「カフカの『変身』のこと」
 岡野から、物語の主人公が奇怪な昆虫に変身してしまうことの意味を尋ねられ、あわてて二度、三度と再読をこころみたその短い翻訳小説の読後感を、薄れかけた遠い思い出のように、脳裏に呼び戻した。
 「そうでしたね。でも、いいんです。人間の孤独を描くやりかたとして、主人公の変身という方法を使ったという、まあ、自分なりの答えで満足していますから。……先生は、なにか閃くもの、ありましたか」
 岡野に問われて、美紀は曖昧に首を振った。
 「人間の孤独、というより、主人公の、つまり一個の生きた人間としての孤独、というほうが、よりふさわしいようにも思うけれど」
 「ええ、勿論、そうですね。……一個の生きた人間の、要するに実存的な意味の、ですね。それにしても、もうひとつ、僕には気がついたことがあるんです」
 「何、かしら?」
 ときおり、疎水べりを散策する人影や、近くにある女子大の学生たちなどが、二人の背後を横切っていく。そのたびに、会話は周囲をはばかるように中断されたり、小声になった。まるで、容易に他者に知られてはならない、重大な秘密について議論しているとでもいうように。そんな自分たちの様子が、美紀は微かに可笑しい。
 「描写がとても冷静で、客観的なんですよ。そうは思いませんでしたか。とくに主人公グレゴールの描き方なんて。……あれだけの大事件であれば、ふつうのドラマならもっと大上段に振りかぶってもいいのに、それがないでしょう。それがないからこその、ユーモアのようなものさえ感じるんです。あの作品にユーモアなんて、少し不謹慎に聞こえるかも知れませんけれど……」
 岡野が指摘した描写の性格については、たぶんに訳の問題もあるにせよ、美紀も確かに感じ取っていたはずのものであった。それまでは忘れ去っていた、『変身』の読後の印象が、再びまざまざと甦るのを感じた。
 「あの描写の冷静さは、主人公の内面の落ち着きを表現していると考えられないかしら。いつもと違う朝を迎えたことの戸惑いはあるにしても、たしか主人公は、いつものように会社へ行くことを考えたりしていたわ。自分の姿が気味悪い昆虫に変わってしまったというのに」
 「そうですよ。虫に変身してるのに、グレゴールは、ある意味でとても理性的なんです。どうやら彼は、自分に起こった変化を、さほど大きなものとは考えていなかったんじゃないか、という気がします。むしろ、本人以上に、ザムザ家の人々にとってのほうが、変化は重大な意味を持っていたのではないでしょうか……」
 遠くの雑木林から、ヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。良一の病院を出たのが昼過ぎだったから、もうそんな時刻になるだろうか。一箇所で発した鳴き声は、また他の樹木や屋敷森へとすだきを呼び、少しづつ、この玉川上水の桜並木へと近づいて来るような気がする。やがて、仲間の鳴動が引き起こす微妙な大気の振動を感じ取ってか、桜の繁みのそこかしこから、ヒグラシの雨が降り始めた。そろそろ帰りましょう、と美紀は相手の横顔を見つめながら、腰を上げかけた。家のことが気になり始めていたのだ。埃っぽくざらついた、あの家の空気。庭の雑草の草いきれの淀み、生活臭の抜け落ちた部屋のたたずまい……、それらのいちいちを、岡野の両親が目の当たりにしていると思ったとき、いまさらのように美紀の内面を激しい羞恥の嵐が襲ったのだった。
 そのときだった。小声ではあったが、何か確信を得たかのような自信に満ちた口調で、岡野が呟いたのだ。
 「ああ、そうだったのか!」
 当然のことながら、美紀には何のことか見当もつかなかったが、相手の顔を見ながら、同調するかのように小さく頷くような仕草をしてみせた。
 「あの小説の本当の主人公は、グレゴールじゃないんだ」岡野は素晴らしい思いつきに有頂天になったかのように、声を弾ませた。「主人公は、家族。そう、ザムザ家の人々だったんですよ。いままで、どんな批評家も学者も、グレゴールの変身にばかり目を奪われてきた。だから、ひどく観念的な解釈ばかりがされてきたんです。でも、グレゴールの変身なんて、重要な問題じゃなかったんですね。要するに、グレゴールは何も虫に変身する必要はないのであって、他のもの、例えば不治の病気だとか、とにかく、そういう健康な日常生活からみて異端視されるものであれば、何だって構わないんですよ。そこを、カフカがあえて変身譚という形式を選んだのは、文学的な効果か、個人的な好みでしょうか。いずれにせよ、ギリシャ神話の世界を身近なものとしてきたヨーロッパの人々にとって、変身譚というのは意外と受け入れやすいのでしょう。とにかく、『変身』においては、主人公の変身はひとつの舞台設定であって、中心になるのは主人公グレゴールの非日常化をめぐるザムザ家の人々の、行動とそこに隠された心理的な側面……、要するに、かなりダークな家庭小説ということなんじゃないですか……」
 またしても家族……。岡野が、その作品の真の主人公は家族なのだと言い切ったとき、美紀の内面には、そんな嘆息にも似た深い呟きが沸き起こった。そして、『変身』がひとつの家庭小説だという意見に耳を傾けるうち、次第次第に、ひどく胸苦しい気分に押し包まれていくのがわかった。
 しばしの沈黙が続いた。肌の感触にはほとんど覚えのないくらいの微かな微風に、足元の草の花が揺らめくのをぼんやりと見つめながら、美紀の唇から、無意識のため息のような言葉が零れ落ちた。
 「人間は、ああいうふうにしてしか生きていけないのかしら」
 岡野は注意深く、慎重な口ぶりで問い返した。
 「グレゴールのことですか?」
 そんなことを口にするつもりなど、いささかもなかったのに、とちっぽけな戸惑いすら感じながら、しかしいったん出てしまった言葉は打ち消しようもなく、美紀は仕方なしに本当のことを言った。
 「いいえ、グレゴールの家族のことよ。……小説の最後で、グレゴールが死んだあと、みんなでピクニックに出かけるでしょう。そこで、漸く希望の兆しがみえてくる、という書き方がされている……」
 岡野もまた、美紀の言葉を聞いて深刻そうな顔つきになった。
 美紀は、『変身』についてもうそれ以上のことを言わなかった。胸のつかえはいよいよ大きくなり、カフカに対する忌避の念さえ心のうちに兆してくる。その感情の動きは、ほかならぬ自分自身に対する嫌悪の心理的な投射に過ぎないということもまた、美紀には分かっていた。
 「さあ、そろそろ帰りましょう」
 心のなかに淀む、やり場のない感情に踏ん切りをつけるかのように、美紀はベンチから腰をあげた。その口調は、いつもの岡野に対するものに戻っていた。
 岡野もまた、その場から立ち上がり、玉川上水べりの道をもと来た方向へと、美紀と並んで歩き始めた。桜の並木や、更にその先の家々の軒の間に見え隠れする遠くの雑木林が、強い西日をあびて漸く黄金色に染まりかけている。ところどころに残るキャベツ畑のあたりから、熟れた葉の匂いが漂ってきた。
 「先生」と、そのとき岡野が遠慮がちに声をかけた。ふと顔を向けた美紀に、岡野は言った。「結婚、するんですか」
 予想もしていなかった問に、美紀は驚いたように相手のほうを振り向いた。岡野は、半ば面白おかしく探りを入れるような、また半ば照れくさそうな眼をして、こちらを見ている。美紀の顔の上を、引きつったような笑顔が横切った。
 「どうして?」
 自分の表情に浮かんだ笑いの意味を探りながら、心のなかで呟いた。《カフカの次は、結婚について……。この少年は、私をいったい何処へ連れて行こうというのだろう?……》相手よりはるかに大人で、上に立った者と美紀は自分を考えていたが、どうやらカフカと結婚というこの二つの問題に関してだけは、形勢が逆転しているようだった。
 「僕の姉が結婚する前と、おんなじような眼をしているな、と思ったんですよ」
 岡野はそう答えた。
 「私の眼が?……」
 「ええ。なんかこう、瞳が大きく、潤んだ感じの眼をしています。本当に姉と同じだ」
 自分の眼の変化など、改めて考えたことすらなかった。当然といえば当然だが、それが他人に結婚を暗示するなどということが、本当にあり得るのかどうか、にわかには信じがたいことではあった。結局、結婚の可能性については、何も答えずじまいだったし、岡野もそれ以上のことは訊いて来ようとしなかった。ただ、何となく決まりの悪い時間を持て余しながら、会話も途絶えたまま家への道を辿る美紀の心奥で、岡野が指摘した自分の眼の変化というものが、ひとたびは忘れようと決意した神谷明の存在と決して無関係ではないに違いないということが、妙な確信めいた切迫力をもって兆してくるのを感じていた。
 美紀と岡野は、互いの長く伸びた影法師を見つめながら、家へと戻ってきた。自分の両親の姿を目にすると、再び、岡野はやりにくそうに表情を曇らせた。その様子を見て取った美紀は、そっと耳打ちするように「そんな顔をされては、ご両親が可哀想よ」と呟いた。
 やがて、三人の突然の来客は、深々と頭を下げて日高家を辞していった。住宅街の曲がり角を過ぎて、家族の姿が見えなくなると、美紀はほっと胸をなでおろした。改めて自覚せざるを得なかった、緊張と弛緩の落差。やはり、不健康で凋落した印象をもたらすばかりの、自分の家庭の様子を人目にさらすことに、耐え難い苦痛を感じていたのだと思った。
 「ごめんなさい、お仕事でお忙しいのに、お父様ばかりに任せてしまって」
 玄関のドアを閉めながら、美紀は言った。
 「何のことだね」
 「岡野君のご両親のことよ。……あの子があんまり……」
 だが、幸三郎は美紀の言い訳を遮り、伏目がちに呟いた。
 「いいんだよ。そんなこと、気にする必要はない」
 幸三郎の言葉は、小声ではあったが、どこか頑迷な響きを伴っていた。それどころか、断定的なその口調には、刺々しささえ漂っている。
 やはり怒らせてしまったのだろうか、と美紀は不安になった。予期せぬ事態に自分の仕事を無理やり中断させられたときの、幸三郎の不機嫌は、もう幾度も経験していた。岡野とその両親は、ほかならぬ自分を訪ねてきたのである以上、本来は自分が接待を務めるべきであったと、美紀は思った。しかし、本当の幸三郎の気持ちは分からなかった。手の施しようのない漠とした不安に包まれて、美紀は父親の顔を窺った。
「お仕事中だったのに、配慮がなかったわ」
 幸三郎は、無言のまま美紀のほうをちらと振り向いた。何故か、今度はひどく辛そうな表情をしていることに、再び美紀は捉えようのない喉のつかえを覚えて、それ以上の言葉を失った。
 何か、気詰まりな沈黙を打ち破るための言葉を、美紀は探しあぐねた。ふと、病院からの帰り際、良一がぽつりと呟いた言葉を思い出した。八月最後の金曜日の夕方、病院の盆踊り大会があるという話だ。美紀は、幸三郎にその話をしてみた。
 「お父様、お見舞いがてら、私と一緒に行ってくださる?」
 しかし、幸三郎はいいともわるいとも、曖昧な返事しかしなかった。そして大儀そうに身体を託ちながら、自分の書斎へ上がっていこうとしていたが、そのとき、わずかの間隔をおいて、幸三郎が言った。
 「お前に葉書が来ているよ。さっき届いたばかりだが。机の上に置いてある」
 「葉書?……何かしら」
 「ドイツ語をやっている友達がいるようだね」
 ドイツ語……!。その言葉は、美紀の琴線に大きく触れた。つとめて平静を装いながら、心が波打ってくるのがわかった。と同時に、幸三郎が機嫌を損ねたのは、その葉書のせいだったのかも知れない、とも思った。明との交際のことは、確かにまだ幸三郎には何も伝えていなかったのだ。ひと月前の、雨もよいの井の頭公園の情景が、そのときの混乱した心象風景とともによみがえってくる。神谷明を公園の橋の上に残したまま、ひとり灰色に濡れた街のなかへと逃げ込んだときの息苦しさに、再び全身が包まれてゆく。あんな別れ方をしたうえで、いったい何を?。しかし美紀は、自分からあのような別れ方をしたにもかかわらず、そのときよりもいっそう大きな不安に突き動かされて、二階の自室へ戻り、机の上の一枚の絵葉書を手に取った。

    *

                神谷 明からの葉書

 しばらくお会いしていませんね。この夏は、どんなふうにお過ごしですか。僕は会社の休みを工面して、蓼科へ来ているところです。会社の保養所で贅沢は望めませんが、十日間の休みの間じゅう、持ってきた本を読むつもりでいます。こうして静かな山の中で時が過ぎてゆくのを感じていると、不思議なことに、東京での日常を呑みつくしていた、あの耐え難い Werdschmertz が嘘のようです。野鳥の声だけが聞こえる、朝の時間のこの穏やかさ。突然ですが、九月から、松本支社へ転勤の辞令が降りました。急のことで驚いていますが、しかたがありません。またご連絡します。

 日高美紀様。
 一九八六・八・一*、信州・蓼科高原にて。
                    神谷 明。

    *

 窓の外の季節が、少しづつ色彩を失ってゆく。絵葉書を手にしたまま、美紀は呆然と立ち尽くした。葉書の表には、夏空の下に陽の光を集めて、茫洋と広がる白樺湖の遠景写真。再び裏返して、黒インクで綴られた細かい文字を見つめ返した。美紀の内面に、硬いしこりのような焦燥感が拡がった。明からの葉書の文面なかに、必死になって自分と同じような感情の動きを読み取ろうともがいたが、無駄だった。むしろ、転勤が決まったことを報せる、その簡潔で落ち着き払った筆致に、明の微妙な心境の変化を見たように思った。身体全体の熱を削ぎ落とされていくような虚脱感に襲われて、やっとのことで傍らのベッドに腰掛けた。美紀はそのまま、人形のように瞬きすら忘れて、いつまでも虚空のあらぬ一点を見つめ続けた。




  第 十三 章


 乗り慣れた中央快速線の車窓、低い民家やアパートなどの屋根の彼方に、真夏の熱気がどんよりと淀む。やがて電車は、N…駅のプラットホームに滑り込んだ。混み合う車内から解き放たれた美紀は、大きく息をつくと、肩にかけた麻のバッグから、紙切れを取り出した。幸三郎が走き留めた、絹代の居場所を記したメモだった。
 改札口を出ると、バスやタクシーが行きかうロータリーから、商店街へと通じる道がのびていた。幸三郎のメモに教えられるがままに、その路地に入る。いくつもの店々がせめぎあう様に軒先を競い、その狭間の、あまり幅員のない道路を、人と自動車が危なげに交差していた。ほどなく歩くと、銭湯の煙突のすぐ背後に、新宿の高層ビル群が、すすけた空に屹立しているのが垣間見える。
 絹代の住むマンションは、容易に見つけることができた。N…駅から歩いて十分。商店街を抜け出て、ようやくあたりが閑静な住宅地へと入ったあたり、神田川にかかる小さな橋を渡ってすぐの場所にある、一階が喫茶店になった、赤茶けた壁を持つ、まだ真新しい建物である。絹代の住居は、最上階のいちばん西の端にある部屋だった。美紀は、誰もいない管理人室の傍らを、内部を覗うように通り過ぎ、小さな無人のエレベータに乗った。絹代の部屋の戸口の前にたどり着くと、思い切ったようにインターホンのキーを押した。ややあって、中で人の気配がし、鉄製のドアが細めに開けられた。
 「あら……」美紀の姿を認めた絹代は、驚いて小さな声をあげた。心なしか、顔が蒼白く見えた。
 促されるまま、空調の効いた室内に招き入れられ、ざっと部屋のなかを見回す。仮住まいにしては、家財道具もよく整理され、要領よく配置されている。2LDKの居間とダイニングを隔てるカウンタの上には、熱帯魚の水槽まで置かれ、名の知れぬ小さな魚たちが身を翻すたびに、光彩豊かに水槽のなかががきらきらと輝いた。
 「来ることがわかっていたら、何か用意したのに。何もないのよ」
 絹代はそう言いながら、ダイニングから紅茶のセットを持ってきて、美紀の前のテーブルに置いた。明るい場所であらためて目にする絹代の顔は、玄関の薄暗がりでの様子とは違って、思いのほか色艶もよく、疲れの気配なども見えない。熱帯魚といい、いかにも絹代の好みそうな、緑がかった渋みのある色調の厚手のカーテンといい、そこそこに生活を楽しんでいるらしいことを美紀は見て取った。絹代を別の場所に住まわせるという父の選択が、間違いではなかったのかも知れない、とふと思った。幸三郎が自分を別居させるのは、良一の暴力のためだけではなく、もっと別の理由があるのだという絹代の言葉が、根拠のない、絹代の浅はかな思い込みに過ぎなかったのではないか、という気がしてくる。現に、こうして幸三郎の采配の恩恵に最も浴しているのは、他ならぬ絹代であるといってもいいくらいだからだ。しかも、その良一はもう家にはいない。このマンションでの絹代の生活を、そのまま家に持って帰ることだって出来るではないか……。
 良一が発病する以前の、静かな光にみちた、あの心休まる生活を取り戻すことが出来るかも知れない。美紀の心は、微かな喜びで浮き立った。
 「思ったよりも元気そうで、安心したわ。引越しのときは辛かったけれど、いっときにしても、やっぱりここへお部屋を借りてもらって良かったと思う。本当に、あの頃はお母様もぎりぎりのところにいたんだから」
 紅茶に口をつけながら、美紀は言った。
 「ええ……。お父様に、感謝しているわ」
 絹代はそう言うと、所在なさそうに立ち上がって、テラスに面した窓を覆っていたレースのカーテンをさっと開けた。それ反応して、美紀の背後に、何か華やかな光があふれたように感じた。振り返ってみると、そのときまで気がつかなかったが、一枚の複製画である。ドガの『舞台の上の踊り子』だ。目前のテーブルには、編みかけのレースやら、婦人手帖などという地味な装丁の雑誌類に重ねられて、薄っぺらい求人雑誌なども置いてある。
 「お父様も、すいぶんお母様に気を遣ってくださっているようね。本当によかったわ」
 絹代の暮らしぶりがまあまあのものであることを確信した美紀は、軽い気持ちで言った。その言葉を聞いた絹代は、やや困ったように表情を硬くして、娘から視線を逸らしたが、そんなことに美紀は気がつくはずもない。
 「ついこのあいだ、良ちゃんのお見舞いに行ってきたのよ。お父様から何かお聞きになってる?」美紀は問うた。
 「良一さん、具合はどうなのかしら。本当は、私もお見舞いに行きたいのだけれど、お父様が、まだ顔を合わせるのは早いっておっしゃるのよ」絹代は答える。
 「そうね……」美紀は返事に窮して俯いた。深い緑の樹海に沈み込んだ、古い病院の建物。驟雨のごとく降りそそぐ蝉時雨。あるいは小さな面会室での良一との会見のことなどが、次々に脳裏に去来した。その良一はといえば、決して両親を素直に受け入れる状態にはなっていない。自分を病院に閉じ込めて、両親や美紀は内心さぞ清々しているのだろうと毒づいた良一である。その悪態を直に繰り返すことをはばかった美紀は、歯切れ悪く曖昧な受け答えをするしかなかった。
 「家にいた頃のような感じは、なくなっていたわ。でも、もう少しかかりそう。良ちゃんには気の毒だけれど」
 そして、自ら口にした言葉に導かれるまま、美紀の心に疼く切ない願望が、吐息のようにこぼれ出た。
 「お母様、もう家に戻っても良いのじゃなくて?……良ちゃんにひどいことを言われたり、暴力を振るわれたりする心配だって、もう無いのよ。もし良ちゃんが退院するとしても、そのときは病気が少しは良くなっているからだわ。お母様がこれ以上、ここで生活することに理由はないと思うの。……そうでしょう?」
 美紀は斜向かいに腰掛けている母親の、少し節くれだった指のあたりを見つめた。絹代の顔の上に、わずかに困惑の面差しが漂ったかに見えたが、すぐに曖昧な笑みのうちに消し去られてしまった。答える代わりに、絹代は、テーブルの上にあったテレビのリモコンを手にして、無造作にテレビのスイッチを入れた。画面のなかの女性司会者が、美紀も知っている有名なタレントを相手に話に興じている。
 「こうしてゆっくりテレビを見たりするのも、ほんとに久しぶり」
 そのとき、美紀はふと、あることに思い至った。たった今しがたの、絹代の表情の変化や言葉の様子が、どこか父親に似ていた、と。それは、自らの真意をいうものを相手に対してはぐらかそうとするときの、苦しげな喘ぎのようだった。刹那、美紀は絹代に向けて、非難めいた眼差しを向けた。同時に、それを相手に気取られることを恐れるかのように席を立った。
 「嫌いではないけれど……」場を繕うように、本棚に並んだ少しばかりのレコードを手にとって眺めた。ラベル、サン・サーンス、ドビュッシー。……あるいはデュトワやアンセルメといった名前が並んでいる。音楽の趣味も、絵画の趣味も、絹代と幸三郎とでは全く違っていた。そのどちらにおいても、幸三郎はすべての人間的なドラマが様式性のうちに怜悧な統一を与えられるような、古典的な美意識のあり方に心を奪われていた。それはそのまま、父親であり一家の主であるという役割の背後に、一個の自分という人間を消し去ろうとしているかのような、あの幸三郎の頑なな沈着さと寡黙とに照応しているように感じられた。そんな幸三郎と対照的に、母親の絹代のイメージは、その好みからも推し量ることこができるように、夢幻的で詩情に富んでいる。はるかに自由であるとさえ、言ってもよいかも知れない。何かの本で読んだことのある「幸福とは常に女だけのものだ」という言葉が思い出されたりして、美紀は何となく、女という存在の根強い性を見たような気がした。少なくとも、常に何がしかの役割を背負わされ、沈黙のうちにその何ものかを耐え忍んでいるかのような幸三郎よりは、良一の暴力に家を出ることを余儀なくされたとはいえ、相応に生活を飾り、楽しむことを実行している絹代のほうが、いくらかは幸福で自由なのかも知れない、と。
 そんな取り止めの無い想念に思考を奪われて、美紀は何枚かのレコードを手に取っては眺めていた。が、やがてある一枚の、見覚えのある文字が並ぶレコードを手にしたとき、美紀は思わず息を呑んで母親のほうを振り返った。絹代は何ごともないかのように、傍らにあった編み物の目の数をかぞえたりなどしている。
 <お母様>と、もしそのとき視線が合ったなら、美紀は声に出していたかも知れない。なぜ、この曲のレコードがここにあるのか、と。
 J.S.BACH Sonaten und Partiten fur violine allein BWV1001-6………バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ。良一が、あたかも自らの狂気を癒さんがための唯一の寄る辺のごとく、朝に夕に執拗に聴き続けた、その曲が。………
 陽炎に啼く蝉の声がしきりに降り注ぐ精神病院の、面会室で語った良一の言葉を、虚空のなかに美紀は再び聞いた。<あの曲を聴いていると、とても楽になるんだよ。あの家の中の隙間を、静かに充たして埋めてゆくような気がする>……。しかも、家でこの曲を耳にするたび、絹代は苦しそうに瞳を閉じ、俯いていたのではなかったか。
 むろん、絹代がその曲のレコードを所有していたという事実を、奇妙なことだと断じるだけの確固たる根拠が、美紀にあったわけではない。良一が自ら認めたように、刹那のものであるにせよ、その曲が狂気に対する治療効果を持ったというのであれば、良一の病によって身も心もいやというほど痛めつけられてきた絹代が、一縷の希望と思い入れをその曲に対して抱くことだって、あながち不自然ではないように思える。あるいは実際のところ、絹代は単にその曲が好きなのだということだけなのかも知れない。天に向かって聳え立つ雄大な建築物のごとき構築感のあるバッハの音楽は、どちらかといえば絹代の趣味には合わないとも思えるが、もとより美紀は、一枚岩の感性などというものを容易に信じるほど楽天家でもなかった。
 しかし……、それならば、この曲が鳴り響いてくるたび毎に、絹代の表情をくもらせた憂鬱の影を、どう説明すればよいのだろう。不定形な想念のかけらが、美紀の脳裏のふちで膨らんでは萎えてゆき、網膜残光のようにきらめいてはついえ去った。
 母親と息子であるということ以外に、絹代と良一を結びつける何かしらの糸があるのだろうか、と美紀は漠然とした思いに駆られた。
 「ねえ、お母様、もう帰ったほうがいいわ」
 美紀はもう一度、今度はたたみかけるふうにして、同じことを言った。バッハのレコードなんかを目にしたばかりに、あやうく本来の目的を見失うところだったという自嘲とともに。
 「そういえば、掃除がまだだった。二間だけだけど、けっこう大変なのよ。美紀さん、手伝ってくれる?」
 絹代ははぐらかすように言う。たまらなくなって、美紀は語気を上げた。
 「掃除なんて、何のために!、本も洋裁も、熱帯魚だって、家で楽しめるじゃないの。こんな二重生活、意味がないわ」
 絹代はちらと娘の顔を窺った。その面容には、微かな困惑と、痙攣的な笑みが浮かんでいた。
 「家に帰ったら、良一さんがいつ退院してくるかわからないじゃない。退院したら、またここへ戻ることになってしまうわ」
 「そのときはそのとき、仕方がないけれど、今はここにいなければならない理由はないはずよ。良ちゃんだって、退院のときには落ち着いているはずだわ」
 「……でも、もう本当に大丈夫だって先生がおっしゃるまでは、ここにいたいのよ。美紀さんやお父様には、不自由をかけて本当に申し訳ないけれど……」
 美紀は深くため息をつき、大きく首を振って母親を見据えた。
 「お母様もお父様も、慎重すぎるわ。不自然なくらいに!……だいいちあの病気は、治った、これで絶対に大丈夫、というものじゃないの。少しづつ散らしながら、つきあっていくしかない慢性病なのよ。なのに、どうかしているわ、お母様やお父様の言うとおりにしていたら、家族はバラバラよ。お母様やお父様の考えでは何も変わらないわ。変えようとしていないのよ!……」
 声が振るえた。崩解してゆく家のなかで、ただ自分一人が、必死になって家族の絆を保とうと心を砕いている。美紀の内部にはいつしか、そんな悲壮な覚悟のようなものが芽生えていた。あるいは、自分にそのような覚悟を強いることで、神谷明の面影が、心にぽっかりと口をあけた空洞を充たしてゆこうとするのを、無意識のうちに避けようとしていたのかも知れない。
 しかし、絹代はそんな美紀に、意外な言葉をかけた。
 「美紀さん、お父様はね、いちおうは家に戻るように言って下さったのよ。ここにいたいというのは、ひとつには私のわがままなの」
 家族のことで頭の中をいっぱいにしている娘に向かって、絹代はいたわりに満ちた視線を注いだが、言葉の端には頑なな響きの余韻が漂った。
 「お父様が?……」
 美紀にすれば、予想の埒外にある絹代の言葉だった。幸三郎にすれば、絹代をもう少しこのマンションにとめおくつもりでいるのだとばかり、考えていたからだ。
 「そうよ。でも、本心からではないの。きっと美紀さんがあんまり言うものだから、根負けしたのね。お父様は、やっぱり、美紀さんの言うことに、弱い」
 絹代は、最後は暗い顔になって、不自然に言葉を断ち切った。わざとらしい動作でレースを手に取りながら、本当はこの編みかけの花瓶敷のほうが大事なのだと言いたげに瞳を伏せる。そのとき、服の襟もとから覗いた絹代の項の後れ毛がなまめかしく感じ、なぜか美紀には、それが自分たち家族にとってあまり良くないことのように思え、殆ど無意識のうちに眉根をひそめながら視線を背けた。
 「わがままだなんて。お母様、家に戻りたくないの?、だいいち、お父様の言葉が本心ではないなんて、どうしてそんなことが言えて?」
 絹代のことを見据えるように美紀は身体の向きを変えた。幸三郎が絹代を別居させたのには、良一の病気以外の理由があるという、以前きいた言葉が再び記憶の淵から這い上がってくる。どのように些細な紛らわしも一時しのぎも、決して見逃さないと言わんばかりに、美紀の視線は絹代の全身を括縛した。
 絹代はさらにしばしの間、執拗な単調さでレースの花瓶敷を編み続けたが、その様子は、もはや己の手仕事を楽しむという感じではなかった。硬く身体を強ばらせ、ただ頑なに手指を動かすその姿には、自らの悪戯を見つけられた子どもが、なおも悪びれることなくしらを切り通そうとするときに似た、不自然で息苦しげなぎこちなさがあった。
 長い沈黙の時が堆積し、ときおりそれを吹き払おうとでもするかのように、遠くで電車の走り去る音が、風にのって運ばれてくる。
 「お母様、何とか言って」
 美紀もまた、深い海のような沈黙に倦み疲れて、微かに潤んだ瞳を瞬かせた。
 「美紀さん」絹代は漸く口を開いた。「理由は言えないの。ただ、もう私は、あの家には戻れないのよ。あの家は、私がいるべきところじゃないの。それだけをわかってちょうだい」
 それだけを言うと、絹代はレースをソファの上に投げ捨てるように置き、空になった茶碗を盆に載せて、そそくさとキッチンへ立とうとした。
 「わからないわよ!」美紀が搾り出すような声をあげた。「何をわけのわからないことを言っているの?」
 母親の言葉の、あまりの唐突さに、美紀は思わず失笑すらもらしていた。絹代は美紀の問いには答えず、流しに立って茶碗を洗い始めている。美紀もまたキッチンにやってきて、手じかにあった椅子に腰掛けた。二人用の小さなダイニング・テーブルとセットになった、木製の瀟洒な椅子である。
 「ばかなことを考えないで。お母様……」美紀には、絹代の言動が、まるで子どもじみた夢想であるとしか思えなかった。今の今まで、自分よりも上にあった存在が、このときを境に、まるで幼い精神へと退行してしまったかのように感じた。「きっと、良ちゃんのことでお父様と口論でもしたんでしょう、違う?……、それなら、お母様の言い分は私がちゃんと伝えるわ。そのほうが落ち着いて話もできるというものよ」
 絹代がこのマンションの一室を借りる以前、夜更けた居間やダイニング・ルームなどで、たびたび、絹代と幸三郎が押し殺した声を詰まらせながら、何ごとかを問答しあっていたことなどを、美紀は思い出していた。
 「良一さんのことでお父様と意見が分かれたなんていうことはないのよ。そればかりか、どんなことでだって、お父様と私の意見は同じなの」
 濡れた陶器を拭くための布巾を手にして、美紀に背を向けたまま、絹代は言った。
 「だったらどうして」と、美紀はもどかしげに叫んだ。絹代はいったい何を言いたいのか。美紀は雲をつかむような思いで、頑なとさえ思える母親の背を見つめた。
 故意に娘との会話を避けようとでもするように、絹代は無言のまま長い時間をかけて茶器を拭き続けていたが、やがて小さな嘆息とともに、踵を返し、手にした茶器を漆黒の重々しい食器棚のなかに丁寧にしまいこんだ。ダイニング・テーブルといいこの食器棚といい、当座の仮住まいとするにはあまりに手の込んだ調度類であることに、今さらのように美紀は気がついた。絹代はキッチンから居間へ戻ってくると、ヴェランンダ越しにスモッグでかすんだ都会の空をのぞむ、広い窓の傍らに立ち尽くした。美紀もまたそのあとから居間に入ってきて、絹代の背後に立った。既に絹代の丈を越えている美紀は、母親のまとめあげられた髪に、今度は少なからぬ白髪が混じっているのを認めて、暗然とした気持ちになった。こうした齢を重ねてまで、未だ心安からざる生活にその身を託つしかない境遇に、他人事のように慄然としながら。
 「お父様は、戻ってくるようにっておっしゃったんでしょう?」
 美紀はふといたわり深い気持ちになって、声をかけた。「それが本心ではないなんて、お母様の思い過ごしだと思うわ。お父様は、ああいう人柄。何ていうか、現実離れした、五百年も六百年も昔のヨーロッパの美術や音楽の世界で生きているような人でしょう。こと実際的な場面では全く不器用で、誤解されやすいのよ。お母様だって、そういうところはよく知っているはずだわ。お父様から何を言われたか、私はわからないけれど、つまらないことで意地を張るなんて、おかしいわ」
 優しく諭すような調子で美紀は言い、絹代の肩にそっと手を置いた。絹代は、その手の上にそっと自らの手を重ねてから、やんわりと美紀の手を振り解き、言った。
 「そうよ、美紀さんの言うとおり、お父様は現実の世界とは何の関わりもない、昔の画家や彫刻家や建築家についての論文を書いたり、それらの作品を愛するためにこそ生きているの。お父様が愛しているのは、私たちではないわ。……いえ、あなただけは、美紀さん、お父様は愛していらっしゃるでしょうけれど、私や良一さんは別。なぜなら、お父様の人生のやっかいものだから」
 美紀は、そうした言葉を口にする母親を、なおいっそうの哀れみを以って見つめ返そうとしたが、振り向いた絹代の瞳には、しかし頑なな自己弁護の意思に貫かれた不適な光が走ったように感じられた。
 窓ガラスを透して映る、広大ではあるけれどゴミ捨て場のように雑然とした都会の遠景。高層ビルも家々の屋根も道路も、いくぶん傾きかけた晩夏の日差しのなか、一様に濁った黄金色に染めかけられている。ざらりとした鉱物質の感触が瞳を乾燥させるのは、視野にとらえられた累々たるコンクリートの連なりのためだと思った。何という荒寥、冷たさであろう。刹那、美紀は、自分たちがこの場所に、この濁った空気に封じ込められた小さなコンクリートの箱のなかにいるということに、言いようのない反発と嫌悪を覚えた。
 「お母様、もう帰りましょう」
 何ものかに押し出されるようにして、美紀は絹代の腕を取っていた。冷たい無機物に囲まれた環境から、雑木林や野菜畑が広がる、その彼方には遠い山並みをも望むことのできる、武蔵野の自然のなかに戻りさえすれば、こんな馬鹿げた考えは忘れてくれるに違いない。そう美紀は思った。悪性腫瘍のように無秩序な増殖と腐敗を繰り返す、この都会の空気にあてられて、自由の幻想を抱く一時的な多幸症にとりつかれているだけなのだろうと。
 腕を取られたまま、絹代は美紀をじっと見詰めた。
 「美紀さん」と、微かに振るえる声で言った。幸福に酔っているのか、悲しみに打ちひしがれているのか、判然としなかった。「私は、もうあの家には帰らないと決めたの。……帰らないのよ」
 美紀には、どういうわけか絹代の顔が笑っているように見えた。握っていた絹代の腕から、急に血の気が退いて、冷たくなっていったように感じた。思わず、美紀は手を解いた。言葉を失うとはこのことかと、真っ白になった頭のなかで、辛うじて美紀は呟いた。絹代は本当に、家には戻らないつもりでいるのだ。そのことを、はっきり確信したのだった。
 「そうなの」と、自らも呆れるくらい落ち着き払った言葉が口から出た。ある感情が、表に顕れる姿形の範囲を突き破るまでに肥大すると、却って無感動になってしまうことがあるものだ。美紀はこのとき、自らの内部から情緒的な心の動きというものが一切締め出されているのを感じた。それは、辛うじて人が己の精神を正常に保つための、精緻な仕掛けでもあるかのようだった。
 「でも、生活はどうするの?お父様が援けてくれるならともかく」
 「働きますよ」と、屈託ないくらい安んじた様子で絹代は答えた。この部屋に入ってきたとき、他の数冊の本などとともに、求人雑誌がテーブルの上に置いてあったのを、美紀は思い出した。
 「そう、働くの……」
 相変わらず、美紀は絹代の言葉を無感情のまま受容した。そのうちに、今度は何ともいえぬ可笑しさがこみ上げてきて、美紀は思わずクスリと失笑した。
 「働くって言ったって、考えるほど易しいことじゃないわよ。熱帯魚を育てたり、気まぐれに編み物をしたりすることとはわけが違うの」
 まるで母親が背伸びをしようとするわが子をたしなめるような調子で、美紀は言った。
 美紀が聞き知っている限りでは、絹代は東京の大学を卒業してから、約一年ほどの間だけ、仕事といっても腰掛け的なものであることは否めなかったが、恩師である皆川という教授の研究室で助手のアルバイトをしていたことがある。皆川は、それ以前に幸三郎が学部と大学院とでルネサンス美術史を専攻していたときの指導教官でもあったが、その皆川の紹介と熱心なすすめによって、修士課程を修めてそのまま大学に残り、専任講師として教壇に立つ傍ら、研究者として地歩を固めつつあった幸三郎は、絹代と結婚したのだった。結婚生活に入ってから、幸三郎がそう望んだ結果かどうか美紀は知らないが、絹代は研究室の仕事をやめて家庭に入った。また、その後まもなく、幸三郎が一年間近くにわたってフィレンツェ大学に留学するため単身渡欧しているとき、再び皆川のもとでアルバイト助手として働いていた経験を絹代は持っているだけだ。
 それにしても、絹代が社会で仕事をした年月というのは、つまりは皆川の研究室でのわずか二年ばかりの短い期間に過ぎず、それも学生時代と同様の環境にあってのことであれば、実際のところ、実社会に出た経験など無に等しいと言ってもよいくらいであった。
 母親の、荒唐無稽とさえ思える言葉に苦笑しながら、しかし美紀は一連の事態の終末を覚った。もう終わりだ、と直感的に思った。しかも、何ひとつ理解することなく。
 絹代に家に戻る意思がないということをはっきりと知らされた美紀は、自分がここへやって来たことの本来の意味を思い起こした。だが、それももはや無意味だった。的がなければ、放たれる矢に何の意味があろう。美紀は強い脱力感に襲われて、傍らのソファにへたりこんだ。負けた。そう感じた。何に負けたのかさえ、わからないまま。それどころか、今まで自分が何ものかを相手に闘っていたという自覚そのものが、欠如していた。にもかかわらず、いま美紀が呼吸している虚しさは、何にも代えることのかなわない、深い挫折感に他ならなかった。
 せめてこの挫折の感情に意味を見出したい。自分が何に負けたのか、それだけでも知りたい。蜉蝣のような情念の蠢きに、美紀は重く強ばった唇を動かした。
 「お母様、……どうしても家に戻りたくないなら、これ以上の無理は言わないわ。ただ、せめて理由を教えて。お母様がどうして私たちと暮らすことができないのか」
 絹代は無言のまま美紀に視線を向け、微かに何か言おうとしたようだった。
 「それだけではないの。秘密を。あの家にある秘密を。……良ちゃんが病気になってから、お父様とお母様はすっかり様子が違ってしまったわね。お母様がこの部屋に移ってきたことや、今度は家に戻ろうとしないことは、何か関係があるんでしょう?…。それに、良ちゃんの言ったことも。はっきり覚えているわ。お母様たちが、私ばかりを可愛がってきたっていう言葉。あとね、良ちゃんは、私にこう言ったの。お母様やお父様は、良ちゃんに対して二つの顔を持っていると。それから……」美紀は壁際の棚のほうを見やった。「あの曲よ。お母様が、同じ曲のレコードを持っているとは思わなかった。良ちゃんが病気になってから、まるで意識の深層の記憶を求めるように、あの曲ばかりを聴くようになった。そのわけも、お母様は知っているはずだわ」
 一気に、美紀はまくし立てた。粘着質の気まずい時間だけが、どろどろと淀みをつくって渦巻いた。自分も相手も、もう後戻りできないところまで来てしまった、と思った。
 「秘密だなんて、ありわしないわよ。そんなもの」
 絹代は美紀の言葉を一笑に付した。それは不自然と言っていいくらいの、自信にあふれた態度だった。不遜にさえみえた。顔には笑みを繕っていたものの、瞳には暗い怒りのようなものさえ認め得たように感じた。
 美紀はそんな母親の頑なさに挑戦するかのように、無言のまま、部屋の棚の前へ行き、そこから、あの曲のLPレコードを取り出した。慎重な手つきでレコード盤をジャケットから抜き取り、ターンテーブルの上に置いて、パルティータ第一番を選んで針を下ろす。美紀は絹代のことを見つめ続けた。しばしの間、針が無音のまま溝をトレースするざらついた雑音が続き、やがて、第一楽章のアルマンドが姿を現す。ずいぶん古い録音なのか、音がひどくくすんでいるようだ。だが、やがてそのくすみを、内側から食い破るような大きな音のうねりが、美紀の時間の流れをせき止めた。美紀は息を呑んで、奏でられる旋律に注意を凝らす。………音楽は、美紀の聞き知るバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータではなかった。家にある、シェリングの流麗で構成感のある美音によって紡がれた音楽とは相容れない、何か切迫した息苦しささえ覚えるようなその演奏。……
 全体に意図的なレガートを効かせて、主情的な響きを追い求めているのはまだしも、決してスコアに記されていようはずのないリタルダンドが随所に多用され、まるで肉声の溜め息のように音楽が崩折れて消え入るその生々しい熱っぽさ。幾度も重ね塗りをした絵具のように旋律は分厚く、まるでルオーの『ヴェロニカ』のような甘美な悲愴感が漂っている。バッハはこの曲で、三音以上の和音を弾くことを度々要求しているが、張弦力の強い現代楽器では、完全な重音奏法は難しい。その処理に多くのヴァイオリニストたちが頭を悩ませ続けてきたが、いま美紀が耳にしている演奏は、その三音以上の和音を、何のためらいもなく通常のアルペジオで弾きとおしていた。耳慣れぬその響きは却って魅惑的でさえあり、あえて言うなら、遠近法を故意に無視した近代絵画のもたらす、息詰まるような眩暈に似ていると思えた。
 この強固な主観に律せられた演奏は、誰の手によるものなのか。興味を呼び起こされた美紀は、傍らに置いたレコードのジャケットを再び手にした。よく知られた、ハウスマンの筆による厳めしい面容のバッハの肖像が用いられている。青い衣服を身にまとった音楽家の半身が、ちょうど額縁に入れられたような格好で中央に配された、その真上に、J.S.BACHの名前と曲集のタイトル。そして、その右下に、小さなアルファベットで、演奏者の名前がこう記されていた。……KAZUKI SAKAKIBARA…。しばしの判断停止。そして、殆ど声にならないくらいの、小さな叫びをあげた。遡行する記憶は、ほどなく一枚の、色あせた家族の記念写真に行き着いた。どこからともなく、声が聞こえてくる。<一九六五年四月。信州、軽井沢にて、榊原さんと>………聞き知らぬ、若やいだ女の声。若かりし日の、絹代の声であった。
 驚きとともに、美紀は絹代をあらためて見つめ返した。絹代は深く首を垂れて、あたかも何ごとかを懺悔するかのように、バッハの音楽のまえにその身をさらしている。Soli Deo Gloria 。バッハが自筆譜の最後に必ず書き記したと言われる、短い聖句が脳裏に甦った。ただ神のみに栄えあれ。だが、絹代の神とは誰なのか。いったいどこにいるのか。
 「お母様。……榊原さんという方、誰?」
 ついに美紀はその名を口にした。
絹代は、しばしの間、美紀を見つめて立ち尽くしていたが、突然、瞳に涙をいっぱいに溜めながら、振り絞るような声で言った。
 「美紀さん、心配ばかりかけて、ごめんなさい。でも、もう何も聞かないで。私だけじゃなくて、お父様にも、何も聞かないで。親として勝手なことを言っていると思うでしょうけど、でもどうか、私たちをそっとしておいて……」
 思いもかけぬ光景にただ言葉を失う美紀を前に、絹代は項垂れたまま顔をあげようとしなかった。私たち、とは誰のことなのだろう。しかし、もはや美紀にはそのことを問い詰めようという気持ちの余裕すらなく、ただ頭の中で、終極へと昇りつめていく最終楽章の旋律を追うことができるばかりだった。…………
 その日の夜。幸三郎と食卓を挟みながら、美紀は殆ど食事が喉を通らなかった。昼間聞かされた絹代の言葉、もうこの家には戻らないという絹代の決心について、幸三郎に問い質すべきか否か、逡巡していたのだ。
 「どこか体調でもわるいのか?」
 美紀の様子を見て取った幸三郎が、声をかけた。
 「別に。大丈夫よ」
 美紀は言い訳のように、小鉢の中の煮物を口に運んで噛みしだく。粘土の塊を口に入れているようだった。
 「それならいいが……」食事をおおかた終えている幸三郎は、そう言いながら、赤土色の急須を手に持って自分の湯飲みに茶を注いだ。「いろいろ苦労はかけるが、食べるものくらい、きちんと食べんとな……」
 美紀は、どうしても絹代のことについて何ほどのことを言わなければ気がすまないという思いに駆られていたが、さりとて、何をどう切り出すべきか迷っていた。すると、まるで幸三郎が美紀のそんな気持ちを見抜いたかのように、絹代のことを問いかけてきたのだ。
 「母さんは、どうだった?、元気そうにしていたかい」
 「ええ」突然の問いに、却って言葉に詰まりかける。「……一人暮らしも板についてきたというところよ」
 そんなことを言っていいのか、と憚る気持ちのいっぽうで、今さらそんな遠慮に何の意味があるのかという投げやりな思いもあった。
 「そうか」と幸三郎は苦笑まじりに答えた。
 幸三郎は席を立ち、湯飲みを手に居間のソファにくつろいだ。キッチンで洗い物をしながらも、美紀には昼間の絹代との会話が思い起こされてならない。この絶望が完成されることへの恐れとは裏腹に、ひとたび火のついたタナトスが、自らを滅ぼすことでしか安らぐことができないとでもいうように、早々に台所仕事を片付けた美紀は、水に濡れた掌を拭うのももどかしかく、居間の幸三郎の傍らに詰め寄った。
 幸三郎は、天井のシャンデリアではなく、薄暗いフロアスタンドの脇のソファに身を沈めて、出版社から送られてきたらしい郵便物の封を切っているところだった。
 「お父様」
 娘の呼びかけに、幸三郎は柔和な笑みを作って振り向いた。目の前の応接テーブルの上には、何かの画集か美術全集のカタログらしきものや、どこかの大学の薄っぺらい研究紀要の冊子やら、どうかすると株の投資をすすめる証券会社のチラシの入った封書などが開封されないまま、雑然と置いてある。
 「そういえば、お母様が言ってらしたわ。もうこの家に戻ってくるつもりはないって……」
 美紀は努めて穏やかに言った。父親の反応を確かめるかのように、相手の顔を凝視した。あるいは、絹代はまだ幸三郎に、そんな自分の決意を伝えていないのかも知れない。だとすれば、幸三郎の驚きは尋常ではないはずだ。
 果たして、一瞬、幸三郎の面容が固く強ばり、俄かに血の気が引いたように見えた。だが、顔はすぐにもとの表情を取り戻して、唸るように言った。
 「そうか。そんなことを言っているのか」困ったものだな、といった様子で、苦笑いを噛み潰すような感じだった。
 幸三郎は、既に絹代の気持ちを知っていたに違いないと、美紀は思った。今しがたの幸三郎の一瞬のうろたえは、むしろ自分がそのことを絹代から聞いたことによるものだったに違いない、と。
 「つまらないことで意地を張って、喧嘩でもしたのね」美紀は居間のソファに浅く腰をおろし、幸三郎に調子を合わせるかのように軽く言った。むろん、ことは一時の諍いなどではなく、この家の歴史に深く根を持っている。「私にできることがあれば、何でもするわ。早く仲直りしてね」
 幸三郎は、相変わらず曖昧に笑うことで美紀をはぐらかそうとしているように見えた。それは絹代の顔の上に認めたものと同じだと美紀は思う。何か隠したいことがあると、人間は決まってこんな不自然な笑い方をするものだ。
 「何もお前が心配するほどのことじゃないよ。母さんのちょっとした気まぐれさ」
 自分の言葉の空々しい虚しさに、自身が煩悶するようなことはないのだろうか。そう美紀が思わざるを得ないほど、幸三郎は、淡々とした口調だった。
 「お母様はね、お父様が愛しているのは家族ではなくて、芸術だなんて言っていたわ。私はそんなはずはないと思っているけれど。だから、お父様も何とか言ってちょうだい。私にではなく、お母様によ。……でも、私にも話してくれる義務はあるわ。親子なんですものね」
 美紀が言い終わらぬうちに、幸三郎の顔から作り物の微笑が消えた。かわりに、美紀の心の中を探るような、猜疑の色が瞳を過ぎったように感じられた。
 「芸術か家庭生活か、という二者択一の発想じたい、私には理解できんよ」幸三郎は、今度は断定的な口振りになった。「芸術と市民生活の葛藤という問題は、すでに西欧の知性が解決しているんだ。トオマス・マンやジイド、ロマン・ロラン、角度は違うが、皆その課題と取り組んできた。あるいは、ユイスマンスというフランスの文学者を知ってるかね。もっとも市民生活から遠い主題を扱う作品を書きながら、自身は役人として平凡な勤め人の生活を守った。神秘主義や耽美的な小説を書いたからといって、彼に芸術と平凡な生活の二者択一を迫らなければならない理由なんてあるだろうかね。……もっとも、矮小な私小説的芸術観を精算し切れていない日本の、貧しい近代精神文化の範疇でなら、そんな二者択一の議論もまだ意味はあるのかも知れない。しかし、こと私には関心のないことだな。厚顔で恥知らずな私小説的趣味なんか、私には理解できんよ」
 「そんな一般論を聞いているんじゃないわ。お父様自身の問題としてよ」
 二人の間に幾ばくかの沈黙が流れた。
 冷房の苦手な幸三郎は、居間のガラス戸を開け放っていたから、炎昼の残り香のような生温くもの憂い夜風が、はめ込まれた網戸を透って闇の奥から流れ込んで来た。庭のそこかしこでは、すでに秋の虫たちが啼き始めていたが、どうかすると、まるで何かの気配を感じ取ったかのように、それら虫の音が一斉にぴたりと止んで、ときどき不気味な静寂があたりを包んだ。
 「私はお前たち家族を愛している。そして、芸術もな。勿論、何も取り立てて弁解するようなことではないと思ってきた」浮かぬ表情のまま、幸三郎は漆黒の闇のほうを見つめ、美紀の視線から逃げた。「母さんのことは、私が解決するから、お前は心配しなくていい」
 幸三郎の言葉には、しかし言ったところでどうせ信用してもらえないだろう、というずさんな響きが宿っていた。深刻なことなど何もない、という父親の言葉を、素直に信じる美紀では最早やなかったが、幸三郎の投げやりとも取れる様子に、自身もそれ以上打って出る気持ちを喪失していった。
 「美紀、悪いが話はこれくらいにしてもらえるか。……まだ、仕事があるんだよ」
 幸三郎はそう言って、美紀を残し、二階の書斎に引き上げて行った。



  第 十四 章


 それから数日が過ぎた土曜日の午前。美紀と幸三郎が遅めの朝食のテーブルを挿んでいたとき、戸外でバイクの止る音がして、続いて門柱の郵便受けに何かを落としていったらしい気配がした。再び走り出したバイクは、今度は隣の家の前で止ったようだ。
 「何か来たようだな」
 既に食事を終えて、新聞に目を通していた幸三郎が言った。
 「ちょっと見てくるわ」
 美紀は飲みさしのお茶をテーブルに置くと、腰に巻いたエプロンを解きながら椅子から立ち上がりかけた。
 「いや、私が見てこよう。そろそろ論文のゲラが出来てくる頃なんだが、今日あたりじゃないかと思っているんでね」
 言うが早いか、幸三郎は最近購ったばかりの老眼鏡を外し、新聞をたたんで、ダイニング・ルウムから出て行った。美紀は再びエプロンを結び直し、そのまま腰を下ろすのも却って億劫に感じて、空になった食器類をキッチンに運ぶことにした。
 やがて外から戻った幸三郎は、「今日も暑くなりそうだ」と独りごとを言いながら、郵便物の束を無造作に居間の応接テーブルに置いた。老眼鏡をかけ直し、大小さまざまの封書や葉書きを手にとって、宛名や差出人を確かめていた幸三郎は、やがて一通の白い封書に目を留めた。美紀宛だ。上諏訪郵便局の消印が押されている。差出人は、神谷明。
 「美紀」と呼びかけながら、幸三郎は封書を手に、キッチンへ入っていった。食器洗いの最中であった美紀の耳には、蛇口から勢いよくほとばしる水流の音や、陶器がカチャカチャとぶつかりあう音に打ち消されて、父親の声が届かない。幸三郎は、今度は無言のまま、忙しく手を動かしている美紀の目の前に、その封書を差し出してみせた。美紀の動きが一瞬止まった。「先日、葉書をくれた人だね」と幸三郎は問うた。
 「あ……」何を答えてよいのか見当がつかず、言葉を呑んだままだった。エプロンで濡れた手を拭い、封書を受け取った。勿論、幸三郎には明のことについてまだ何の話もしていない。それ以上に、つい数日前に受け取った、明からの葉書に動揺したときのことが、まざまざと思い起こされ、手が微かに震えるのを感じた。胸の鼓動の高まりとは裏腹に、身体の芯が硬直したように冷たくなっていく。美紀は、何ごとも無いかのようにその手紙をダイニングテーブルの上に置いたが、読むまでもなく、その分厚い封書が明からの別れの手紙であると信じていた。
 食事の後片付けを済ませた美紀は、幸三郎のもとから逃げるようにして二階の自室に引き上げ、逸る思いと、どこかやけっぱちな思い切りとが混ざり合った、不思議な気持ちで封筒にはさみを入れた。どうせ躓いた愛ならば、せめて失意くらいはまっとうしてみせようとでもいうように。

    *

                   神谷明の手紙
      (一九八六年八月二*日付、信州・蓼科発)

 美紀さん。先日は、簡単なお葉書で失礼しました。もっと早く、手紙を書くつもりでいたのですが、一昨日まで、会社の若い同僚たち数人が、グループでこの保養所にやってきていて、一緒にときを過ごすことが多く、ひとりの時間がなかなか持てなかったのです。同期入社の仲間たちで、それぞれ部門は違うのですが、僕が九月から松本支社に転勤になるということで、惜別の意味を込めたグループ旅行といった趣でした。それにしても、やはり友人というものはいいものですね。僕にとって、日常的な時間と空間からの、一時退避的な意味を持った今回の旅ではありましたが、東京と変わらぬ皆の顔を見たとき、なんだかひどくホッとしたのも事実でしたから。結局、友人たちがこちらに滞在していた間じゅう、本来の目的であった読書はほとんどせずに、ハイキングやらドライヴやらにつきあってしまうことになりました。なかでも爽快だったのは、白樺湖から八島が原へ至る、雄大な高原の景観です。アスピーテ火山台地と呼ばれる、幾重にも続くなだらかな起伏を持った地形は、女性的な優美さをみせて、まるで花々を散らした原色の絨毯のようでしたよ。ニッコウキスゲの時期はもう間もなく終わりだそうで、今は山のあちらこちらに紫色の愛らしいマツムシソウが顔を出していました。(その友人たちの最後の一人も、今朝方早く帰京の途につき、ようやく一人きりになって、この手紙を書いているというわけです)
 ところで美紀さん、僕がいま滞在しているところは、蓼科湖というさほど大きくない湖の東側、湖畔からややゆるやかな高台をえがいたところにあるのですが、白樺のはざまに見え隠れするその山間の湖の麗姿は、ちょっと出来過ぎた絵葉書か何かのようで、いささか見ているこちらのほうが気恥ずかしい思いをさせられるほどです。ただひとつだけ、僕は得難い発見をしたんですよ。文章にするのは少し難しいのですが、何とかお話しましょう。………雲の無い明るい月の夜。暗い闇にぼんやりと浮き上がる巨大な仄白い影。幽霊などではありません。月明かりに煌々と照らし出された湖水のさざなみが、しらじらと輝いて見える様子です。それはちょっと信じられないくらいの、夢幻的な光景でした。さほど強くない月光が、微かに波立つ水面に短く点描された蒼白い紋様になって、動揺し、消滅し、あらわれる。そして、その夜光虫の瞬きにも似た、冷たい光の堆積が、湖面全体に拡がって、湖を金剛石のように無機質で高貴で、しかも神秘なオブジェに創り変える。なぜか眠気のやってこない、よく晴れ渡った高原の夜。まるで月の光に誘われるようにして(ちょっと神秘的だ)、僕はふらふらと湖に面したバルコニーに出て、その情景と出会ったんです。我を忘れて、どのくらいの時間、その光景を見つめていたか、はっきり思い出せないくらい、僕は心を奪われていました。
 月の光というと、多くの人が思い浮かべるのは、さしずめベートーヴェンの月光ソナタでしょうか。悪くはありませんが、しかしあの静謐な余韻、そのもとでちらちらと明滅する湖水の微弱な反照のイメージが、僕のうちに想起させたのは、むしろドビュッシーの「月の光」でした。この時のことを思い返すと、まさにドビュッシーこそは、映像的な音楽家であったとの認識を新たにします。周知のように、ドビュッシーはヴェルレエヌの詩作「白き月かげ」に想を得て、あの「月の光」を作曲したことになっていますね。そうだとすれば、ドビュッシーは、ゆくりなくも文学的表現と映像の両者を、ともに音楽へと昇華し収斂させるという、想像力上の作業を完璧に果たしたことになるのでしょう。こうしたイメージの置き換えというものこそが、近代以後の詩的精神の拠り所となっているのですから。
 その夜、月に誘われて夜気にあたったのは、僕一人だけでした。たった一人きりであの神秘的な時間を独り占めしたというのは、常ならば得難い僥倖であったとも言えるし、とても勿体ないことであるような気もしてきます。さらばされ、ヴェルレエヌの詩句は、恋人たちの甘い夜を歌った作ではなかったでしょうか。月下の逍遥には、どうしても相手が必要なのかも知れませんね。
 さて、今回の僕の旅の本来の目的であった読書のことにも、少しは触れておかなくてはなりません。というのも、以前に美紀さんがお話されていた、あの本好きな少年のことを思い出して、僕は今回の旅に、フランツ・カフカの書簡集を携えてきたからなのです。もしよろしければ、何かの機会に、僕がこれから書くことを、そのカフカ好きの少年に聞かせてあげてください。
 僕が読んだのは、カフカがその婚約者フェリーツェ・バウアーに宛てた手紙を集めたもので、ドイツのフィッシャー書店というところが出している、決定版という触れ込みのものです。
 美紀さんも、あるいはご存知かも知れませんが、このカフカと婚約者との関係も、彼の作品同様、多くの謎に包まれているとされてきました。一九一二年の夏から一九一七年の冬までの五年もの間、二人は二度婚約し、二度とも婚約を解消しているのです。二人の愛が挫折したことの理由については、これまでも多くのカフカ研究者が言及しており、この点に関しても、カフカについて考えることは解釈の森に踏み迷うことであって、底なしの沼に身を沈めてゆくことに等しいという僕の思いは変わりません。むろん、多くの研究者が披瀝する数多の諸説は知的な好奇心を満たして余りありますが、ここでは単純に、僕の感想を記すだけに留めておきましょう。当然のことですが、この愛の挫折についてひとつの仮説を打ちたてようなどといった大胆な心積もりなど、僕にはまったくありません。
 さて、カフカによるこの膨大なフェリーツェ書簡を一読して気がついたことは、カフカの内面における二律背反の印象です。カフカのなかには、明らかに二つの真実、それも相容れない二つの真実が拮抗していた。そのひとつが、婚約者フェリーツェに寄せる愛であったことは言うまでもないでしょう。では、もうひとつの真実とは?……。このことに関しては、カフカの文章の韜晦さが壁になって(そして僕の語学力の限界も!)、第三者には容易に窺うことのできないものとなっています。私的な書簡であれば、やむを得ないことでしょう。それでも、手紙の中に書かれた幾つかの言葉から推し量るとすると、それはいわば、不動の日常性というものに対する違和感と恐怖の感情ではなかったか、と思われてくるのです。
 美紀さん、結婚というものは、愛のひとつの変化の形を示すものです。即ち、あのトリスタンとイゾルデの物語に代表されるような、愛のロマン主義的な燃焼から、実生活と日常に律せられる、節度ある持続の段階への落着という変化です。(この際、このことについての道徳的な判断は差し控えましょう)カフカは、この変化を、恐れたと言えるのではないでしょうか。たとえば、カフカがフェリーツェに宛てた手紙の中の次の文章。「一度すえつければ二度と動かすことのかなわないような重厚な調度類。サイドボードは墓石のように、僕の胸を息苦しくさせます。家具屋にいるとき、どこかの教会から葬送の鐘が鳴ったとしたら、それこそが似つかわしい取り合わせだったかも知れない」と。びっくりするかも知れませんが、これは、カフカがフェリーツェとともに、婚礼用の家具を見に行ったときの印象なのです。カフカが内部に抱え込まなければならなかった亀裂の大きさ、絶望の深さがいかばかりのものであったかがうかがえるでしょう。カフカにして、日常性への違和感と恐怖とは!…。美紀さんもご存知でしょうね。カフカの場合、書かれた作品の異常性に比較して、その一市民としての生活の平凡さがよく引き合いに出されることを。しかし、このフェリーツェ書簡は、カフカが自らの日常においてもまた、仮象としての平凡な生活の水面下で、実はきわめて特異な精神の波乱と感情生活を体験していたらしいということを示すものと言ってよいのではないかと思うのです。その意味で言えば、カフカの作品と日常の間には、なんの隔たりもないということになります。美紀さん、これは僕個人の感想に過ぎませんが、これまでのカフカ研究史のなかで、常に思想性や宗教性に引き寄せられて解釈されてきた作品の多くは、本当はもっと卑近な、作家自身の私生活のなかにこそ真のモチーフが求められるものなのかも知れません。……例えば、主人公の技師があの手この手の努力にも拘らず、ついに自らの雇用主との会見を果たせずに終わる、際限なき道程を描いた長編『城』は、二度に及んで婚約を交わし、様々な自己了解のための努力を経ながらも、結局は成就しなかったカフカとフェリーツェの愛の軌跡を思わせはしないでしょうか。あるいは、「誰かがヨーゼフ・Kを誣告したに違いなかった」という、有名な書き出しで始まる『審判』は、フェリーツェと自分自身との関係に向けられた、第三者の、あるいは何よりカフカ自身の、呵責と弾劾の過程を反映しているようにも考えられるのです。人によっては、こうした読み方を笑止と嘲るかも知れません。でも、カフカの作品の謎を解くひとつの見方としては、これはこれで面白いものではないかという思いがしているのです。そして、カフカの作品の多くが、こうした私的な事柄との関わりを成立動機に持つとすれば、それは実にさまざまな私生活上の事件をめぐる、カフカの自己認識のためにものされたきわめて個人的な文書であったとも考えることが出来るわけで、しかもそこには、フェリーツェをはじめとした、多くの実在する人物が、名前や職業を変えて登場しているのだとすると、カフカが畏友ブロートに自作の焼却を遺言したことだって、じゅうぶん理解できるではありませんか。
 ……いえ、もうこのへんでやめておきましょう。僕は、ひどくつまらないお喋りで、美紀さんのヒンシュクを買っているのじゃないだろうか。カフカはやはり、おそろしい底なし沼であるようです。
 話を変えます。美紀さん、今年の夏は、幸運にも二週間近い休みをまとめて取ることができたので、僕は即座に、今回のこの旅行を計画しました。休みの前日の夜、会社から帰って旅の支度をしているとき、偶然にも郷里の母から電話がかかってきました。一寸の間旅行をしてくるつもりだと話をすると、なぜ帰省しないのかと言います。結局、曖昧にはぐらかしてしまったのですが、今年の夏、僕としては、どうしても実家に帰ろうという気持ちになれなかったのです。蓼科などへやって来てしまったのは、半分は、そのことの言い訳にしようという心積もりがあったことを認めなければなりません。正直なところ、この夏ばかりでなく、今度の冬も、あるいはその後も暫く、郷里に帰ることはないでしょう。美紀さん、美紀さんにだけは正直なことを言います。やはり僕にとって、たった一人で故郷の駅に降り立つというのは、何としても不本意なことだったのです。勿論、今となっては、これは美紀さんにとっての問題ではなく、僕個人の気持ちのあり方の問題なのですが。それに、婚約者を連れて帰ると両親にはっきり言ってしまった以上、どうにも一人だけでは帰りづらいという、浅薄なプライドもあったということも付け加えましょう。もとより、このことも美紀さんには何ら責任のないことです。こうした身勝手でつまらないこだわりが、僕の頭からすっきり抜け去ってしまえば、きっとさばさばとした気持ちで、故郷の土を踏むことが出来るのだと思っています。
 それにしても、僕にとって気がかりなのは、僕が無思慮にも、美紀さんのことを勝手に実家の両親に話してしまったということが、美紀さんにとっての重荷になっていはすまいか、ということなのです。そんな僕自身のうかつさが、今となっては悔やまれてなりません。最後にお会いした日、井の頭公園を重く染め抜いた深緑色の雨の中を、まるで走るように逃げ去っていった美紀さんのことを思い出すたびに、僕はそのことばかりではない、これまでの僕と美紀さんとの間に積み重ねられてきた、決して短くはない時間のなかに刻印された、幾多の自分自身の身勝手を、恨めしい思いで振り返っているのです。
 美紀さん、どうか僕のうかつさと、それによって立つ身勝手を許して下さい。
 それにしても、僕は今、不思議と平安な気持ちになっています。ここまで書いてきて、僕はこの手紙を、こうして平静な気分のうちにしたためることが出来たということに、驚きにも似た感情を抱いています。きっと、こうして旅に出てきたことが良かったのでしょうね。蓼科高原から臨む山々を這う緑は、一日のうちの時間の経過とともに、色彩や陰影を少しずつ変化させ、見る者を慰めてくれます。日々の慌しさに否応なく塗り込められる都会での生活との、この隔たりの大きさといったら!…。
 休暇も残り少なくなりました。山を降りて、松本行きの列車に乗らなければならない日も、もうすぐです。そのことを考えると、この静けさがつくづく愛しく感じられてなりません。しかし、今はもうこれ以上、僕のこうした繰言に、美紀さんをつきあわせる愚を戒めなければなりませんね。
 さっき、マツムシソウのことを書きました。日中こそ、渡る風に夏の残り香を感じることもできますが、朝のひんやりとした冷気や、夕日が遠い山並みの彼方に沈んだ後の肌寒さには、もうすっかり秋の気配が立ち込めています。数日前から、そう、何と言えばよいのか、樹木から吐き出される潤々たる夏の香りに代わって、乾いた風の香り、秋の香りが大気を染めはじめたのが、僕にもはっきりとわかりました。でも、まだ東京では厳しい残暑が続いていることでしょう。どうかくれぐれも、ご自愛ください。さようなら。

 日高美紀様。一九八六年八月二*日、
           信州、蓼科高原より。
                     神谷 明

    *

 数枚の便箋に端正な文字で綴られた明の手紙には、あからさまな別離の言葉こそなかったものの、長い文中のいたるところに、美紀は別れの意図を読み取ったように思った。深い透明さにあふれた信州の自然への感動を通して、すでに心は美紀のもとにはないのだということを。カフカのフェリーツェ書簡に託して、明が抜きがたく感じていたに違いない、美紀自身の人間の凡俗さを叱責していると。直截な表現ではないだけに尚のこと、却って明の意思の堅固であることが伝わってくるようにも思えた。そもそも、明が松本への転勤を受け入れたということだけで、美紀にとっては十分すぎるほどだった。
 便箋の束を机の上に置き、美紀は呆然と肩を落とし、大きな息をついた。やがて少しづつ、ふたつの相反する感情が胸に兆してくるのがわかった。これでひとつの苦しみにけりをつけることが出来たという思い。そして、今すぐ、信州へ飛んで行きたいという思い。………
 それから、美紀は、明からの手紙のことについて、幸三郎が何ごとかを問い質してきはしないだろうかと、少しだけ心配になった。幼い頃から今に至るまで、いっかな美紀のことには干渉がましいことを言わなかった幸三郎だが、自分の見ず知らずの男から立て続けに手紙が来たとあれば、父親として気に留めないほうが不思議というべきだろう。いったい何と答えるべきか。
 案の定、その日の夕方、美紀と夕食の卓を挿んでいた幸三郎が、明の手紙のことを話題にした。
 「最近、よく手紙がくるようだね」
 とくにもってまわった言い方ではなかったが、美紀は努めて軽く流すしかなかった。
 「ええ、ちょっとしたお友達」
 美紀は出来るだけ早く話題を変えようと、気をめぐらした。
 「電話で済む時代に、この頃にしては、めずらしく筆まめな青年と見えるな。感心じゃないか」
 そんな褒め言葉も、美紀には悲しく響いた。ややあって、美紀の眼に、壁のカレンダに書き込まれた、まるい目印が飛び込んだ。その下に「盆踊り」という字が書き込まれている。
 「そうだわ、忘れるところだった!」美紀は小さく叫んだ。幸三郎が、何ごとかという顔で美紀を見つめる。「あさってよ。良ちゃんの病院の、盆踊り大会。来てくれって、良ちゃんが言ってたのよ。……お父様も、一緒に行ってくれるわね」
 会話の主導権を美紀に奪われた幸三郎は、それ以上、手紙のことを話題にしなかった。
 この日から十日ほどが過ぎたある日、美紀のもとには、明からの転居通知が届いた。他の多くの関係者にも差し出したのであろう、何の変哲もない、儀礼的な文面の葉書の一枚として。



  第 十五 章


  幸三郎の日記(その八)
          一九八六年八月二*日
                東京。自宅書斎にて。


 私の懼れていたことが、次々と現実のものとなる。今までは、何とか押し留めることも出来ていた。私の嘘と、ちっぽけなプライドとで、私はこの家の<何か>を守ってきた。とくに良一が精神を病んで以来、私の闘いは血みどろの様相を呈していた。だが、それももう限界だ。「自尊心は事実に勝る」と言ったのは、ニーチェだったろうか。それはまた、ニーチェ独特の批判精神のあらわれであったに違いなかろうが、ならば、私はこう断言しよう。ニーチェ殿、嘆くには及ばない、事実とは貴殿がお考えのほど脆弱なものではない、と。
 事実と真実とは別物だという詭弁もあるだろう。世の中はそうした牽強付会で動くものだし、学問の世界にさえ、そのようなこじつけが存在する。だが、人の我意と虚偽との幸福な結婚など、そう長くは続かないものだ。
 そしてついに、美紀が絹代のもとを訪ねたいと言ったとき、私の危惧が実際のものとなった。母親に会いたいというのを止めさせるわけにもいかず、私は美紀に絹代の居場所を記したメモを渡した。当然のことながら、美紀はこの家に隠匿された歴史について問い質したのだ。むろん、妻ははっきりした事実を告げはしなかったようだが、いずれにせよ、美紀に対しては、もう全てを言うほかはないだろう。妻は、この点についてはまだ消極的なところがある。が、今の私にとって、この家の嘘を守り通すことのほうが、はるかに耐えがたい苦痛となってきた。
 そればかりではない、絹代はもうこの家に戻る意思のないことまで、美紀に伝えてしまった。
 私は、うわべだけをどうにか繕う大人の知恵で、外面は円満な夫婦の役割をこなしながら、生涯を添い遂げることが出来ると軽率にも信じていた。過去の出来事を忘却の渕に沈め、口やかましいことを言わず、妻と二人の子どもを養っていくだけの生活資を得ることの出来る、温厚な大学教授としての夫であり父親。その役割を如才なくこなすことが、私の愛情なのであると信じていた。
 だが、どうやら私は重大な思い違いをしていたのだろう。いつしか私は、彼女に向けたそんな気持ちを重荷に感じるようになっていた。妻に対してばかりではない、良一に対する自らの心の在りようへの不安から、私は精神病理学の文献を読み漁る羽目となった。そして、私が信じようとしてきた愛情についての、皮相な神話がもろくも崩壊したのは、つい最近のことだった。
 美紀の勤める図書館がある私立学校の生徒が、両親とともに我が家にやってきた日、私は間もなく信州に移り住むというその家族のために、もし役に立つことがあるならばと、しまいこんでそのままにしていた、スイス製の懐炉を進呈した。古い品物だが、繊細な装飾の凝った、何より十分に実用にたえるものだった。その懐炉を探しに、二階の寝室のあちこちを物色しているときだ。今は持ち主に置き去りにされた鏡台の傍らに、その写真を見つけた。はじめは、その写真がいったい何なのか、否、それどころか、その写真に写っている人物が誰で、何処で撮られたものなのかということすら、すぐに判じることは出来なかった。やがて、私の脳裏と感情のうちに、二十数年前のある光景と、そのときの屈辱にまみれた思いとがまざまざと甦ってきた。と同時に、殆ど無意識のうちに裏返した印画紙の上に、くすんだインクで、間違うことなき妻の筆跡で記された、あの青年の名を認めた。(いまの私が彼を、青年、と呼ぶのも、何だか可笑しみがこみあげてくる。あの頃は私も、彼と同じ一人の学者志望の青年に過ぎなかった。)それは、まだ幼かった子ども二人を連れて、春浅い軽井沢の、皆川先生の別荘に滞在していたときのものだった。
 私がまず思ったことは、よくこんな古い写真が残っていたものだという、珍しいものに対する驚きの感情、そして次に、この二十数年来、妻がその胸に秘めてきたに違いない、彼女なりの真実の確かさ、ということだった。
 私は、自分でも不思議に思えるほど、落ち着いた気持ちで、その写真を見つめることが出来た。嫉妬の感情だとか、裏切られたという被害意識などが、頭をもたげて来ることは全くなかった。それどころか、私ははっきりと知った。私は妻を愛してこなかったと。
 裏切られて憎しみに変わる愛、得られずして悲しみに変わる愛。それこそが、生身の人間の愛というものではないだろうか。あらためて、今の私には、憎しみの感情も、悲しみの感情も湧いてはこない。
 では、私がこれまで愛であると錯覚してきたもの、私が守ってきたものとは、いったい何だったのだろう。それが、私にはわからないのだ。私は何のために、この家を背負い、私と私の家族の生活を背負って、今日までを歩いてきたのか。……私は間違っていたのだろうか。むしろ、家庭を捨て、家族を顧みることなく、いみじくも妻が言ったとおり、芸術を愛することのうちに、孤独な己の生涯を終えさせるべきだったのか。
 いや、私は現在でも、自らの選択を誤りだとは思っていない。自分にはまた違った人生があったはずだなどと、安っぽいロマネスクな夢想に浸ることが出来るほど、恥知らずではないつもりだ。
 話を写真のことに戻そう。あの写真が鏡台の傍らに落ちていたということは、間違いなく、美紀が何かのきっかけで、写真を見ていたに違いないということだ。いずれ、美紀は私が信じさせようとしてきた、この家の神話の崩壊に気づくことだろう。いや、勘の鋭いあの娘のことだ。きっともう気がついているかも知れない。美紀に対しては、もうすべてを告げるほかはなさそうだ。私たち家族に仕掛けられた、ルチフェッロの悪戯を。
 私にはこう思える。この家の風景は、巧妙に仕組まれた一枚の騙し画であると。私は想像する。あのホルバインの画を。何の変哲もない平和な肖像の中から、見る者が少し視線の角度を変えただけで、巨大な髑髏が不気味な姿を現す。全く同様に、私のこの足下に、あるいはこの家を呑みこむように、異様な髑髏が運命の画家の手によって描きこまれている。私たち家族は、ホルバインの画の主人公たちのように、償われぬ希望のなかに蒼ざめた顔をさらしてきたに違いない。

   ***

夕暮れというにはまだ少し早すぎる晩夏の午後、バスから降りたとき、美紀の耳に、かすかな盆踊りの調べが聞こえてきた。その音は、表通りの雑踏を逸れるにしたがってより鮮明になり、十数日前にこの場所を訪れたときと同じ驟雨のような蝉の鳴き声と相まって、美紀を非現実の世界に誘いこむ不思議な触媒の役割を果たしていた。良一がこの精神科専門病院に入院して、ひと月以上の時間が過ぎたが、その良一の入院にかかわる事どもは、やはり依然として、美紀にとっては醒めない悪夢そのものに他ならなかった。
幸三郎は無言のまま、雑木林のなかの道を美紀の後についてくる。その苦渋に満ちた表情を、美紀はありありと背中に感じた。岡野が両親とともに日高の家を訪ねてきた日以来、それまでにも増して幸三郎は、日々鬱屈した感情を積もらせ、ときにひどく怒りっぽくさえなるのだった。
「なんとかに間に合ってよかったわ」
美紀は大事そうに両手に抱えた重箱の風呂敷包みを見ながら、幸三郎に問いかけるともなく口に出した。理由さえ定かではない、父親との気まずい沈黙を破れる言葉なら、何でも良かったのだ。
「そうだな……」
しかし、幸三郎は何かに迷い苦しむような瞳を美紀に一瞥しただけで、再び自らの殻のなかへと沈み込んでいった。
取りつく島を失った美紀は、所在無く風呂敷包みを抱えなおし、自分に拍車をかけるような足取りになって、病院への道を辿った。
やがて、むせかえるようにしたたる深い緑のはざまから、良一が生活するS…病院の白い建物が見え隠れしはじめた頃、先程から聞こえていた盆踊りの調べが終わり、スピーカーから甲高い男の声が響いた。
「これから夕食のおにぎりと飲み物を配ります。各自本部に取りにきてください」
その声を耳にした美紀は、脚を早めながら幸三郎に叫んだ。
「お父様急いで。お食事になっちゃったわ」
玄関から真っ直ぐに続く診療棟に沿って、大きく枝を延べる樹木の下を、美紀は小走りに走った。診療棟が途切れたところが対の病棟との間に仕切られた中庭になっており、小さな池や花壇、あるいは作業療法のための小屋などがある。診療棟と病棟とは吹きっ晒しの渡り廊下で結ばれていて、その渡り廊下のいちばん近くの一角が、美紀がはじめてこの病院を訪れ、良一と会ったときに通された面会室であった。その中庭を突っ切り、病棟をおおきく迂回したところが、病院のグランドだった。はあはあと息を切らしながら、美紀はあたりを大きく見渡した。紅潮した頬に汗が伝わった。
グランドの中央に低いやぐらが組み立てられ、そこから四方の樹木の幹に向かって、電球の入った提灯がはためく。さきほどの放送を耳にした患者たちが、グランドの隅にあるテントのところに一列に並び、職員からパック入りの握り飯と缶入りのジュースやお茶を受け取っていた。その列のなかに良一の姿を探した美紀は、ほどなく列のいちばん先頭で、今しがた弁当を受け取ったばかりの良一を見いだした。
「良ちゃん…」ひょろりとした長身を大儀そうに揺すりながら、ひとりグランドの隅に歩いていこうとしている良一に、美紀は背後から声をかけた。「遅くなってごめんなさい。お父様も、いらしてるのよ」
その声に振り向いた良一の瞳は、放心したように虚ろであった。以前に良一を見舞ったときにも感じていたことだが、家にいた頃あらわだった病的な発揚状態とは打って変わり、ひどくだるそうな様子が気にかかる。その雰囲気がいちだんと昂進したのではないか。まるで魂を入れ替えられた人形のようだと、美紀は思った。
「姉さん……」ぼんやりと良一は呟く。怒りも喜びもない、いかなる情動とも無縁な、真っ白い壁のような表情。
やがて少し遅れて、幸三郎がやってきた。
懶惰な残暑のせいか、あるいは良一と顔を合わせることの緊張のためか、幸三郎もまたひどく憂鬱そうな顔をして、しかし口調だけは慇懃に、精神を病んだ息子に向かって言葉をかけた。
「良一、変わりはないか。…何だかいやに、こう……、疲れているように見えるが」
「うん……。ここのところやけに、ぼーっとしてるんだ。眠くて……、物事を良く考えることができない。自分でも、何が何だかわからないんだ」
以前の良一であれば、こんなときには決まって刺のある言葉で毒づいたはずだ。しかし、いまは人格を変えられてしまったように、従順で、影そのものがどこか悲しげでさえある。
「そうか……、眠いのか。それは大変だなあ」
幸三郎の、相手を不自然に意識するあまり却って滑稽になった受け答えは、しかし美紀の失笑を誘うことはなかった。その堪えがたい空気を覆そうと、美紀はことさらに溌剌とした声を張り上げ、言った。
「ほら、お弁当を持ってきたのよ。良ちゃんの好きないなり寿司。それに海苔巻きもあるわ」
美紀は良一の腕を取って、グランドの隅の松の木の幹のところへといざなった。良一は素直にそれに従い、幸三郎も重い足取りで二人を追った。
手さげかごから黄色いピクニックシートを取り出し、風呂敷包みをあけて重箱を広げる。色とりどりの惣菜や寿司が、香ばしい風をあたりに漂わせた。
「たくさん食べてね」
美紀の言葉を待つまでもなく、良一は無言のまま目の前のいなり寿司に手を出した。ひとつをあっというまに呑みこむと、それが胃の腑に落ちるのももどかしく、つぎのいなり寿司を頬張り、せわしげに噛みしだく。口のなかがいっぱいになり、油っぽい酢飯がぼろぼろとこぼれ落ちては、良一の服や敷物を汚した。それにもかかわらず、良一は、食べるという行為がさらに旺盛な食欲を呼び覚ますとでもいうように、見る間に好物のいなり寿司を、おおかた美紀や幸三郎のぶんまでたいらげ、さらに巻き寿司に手を出し、玉子焼きやきんぴらごぼうを食べ散らかして、最後には病院からあてがわれた握り飯までをも食べ尽くしたのだった。
それは目を見張るばかりの、異常ともうつる食欲で、はじめのうちは美紀と幸三郎も、ただ言葉も無く互いを見つめあうばかりだったのだが、やがて、まるで何かに取り憑かれたかのように、がつがつと弁当を食べ続ける良一の無心な姿を見つめる美紀の瞳に、ふいに涙があふれだした。
入院生活では好きなものも食べられなかったに違いないとか、さぞ空腹を託つていたのだろうといった、ありきたりな哀傷の故ではなかった。否、それもあったかも知れない。しかし、それ以上に、美紀の感受性は、無心に食物を欲しがる弟の姿に、もはや埋めあわせようにも埋めようのない、自分と相手との距離を悟ったのだった。それは美紀にも適切に言葉にすることのかなわぬ、不思議な感情であると言うべきだった。以前であれば、たとえどのような狂気の発作のなかにあってでも、愛憎に引き裂かれ、失意と張り合うことが、そのまま良一という一個の人間との感情の交差であり得たはずだった。しかしいま、言葉も忘れ、ただがつがつと食べ物を頬張る良一からは、美紀に対するいかなる感情も照射されてこないことに、美紀は気付いたのだ。
他人。否、他人同士であれば、このように無機質で病的な壁を介して向き合うことなど、さらに無いことであるに違いない。
良一は、確実に手の届かないところへいってしまった……。
美紀は、不覚にも瞼に溜めてしまった涙を幸三郎に気取られまいとして、黙ったままあぐらをかいている父親に背を向け、空を仰ぐように眼をあげた。その美紀の瞳に、向かいの病棟の二階から、ぼんやりと外を眺める入院患者たちの姿が捉えられた。そのうちの幾人かは、格子のはまった窓の内側から、美紀たちのほうばかりを執拗に見入っているかのような印象さえ与える。行事のときであっても、病棟から出ることを許されない、もっとも重症の患者たちなのか、あるいは自らの意思で外に出てこないだけなのか、いずれにしても、美紀はそのぼんやりとして無表情ではあるが、どこかに自分たちを排除した市民社会に対する仄暗い敵意を秘めているように感じられる視線に対して、ほとんど本能的といってもいい恐怖感を抱いた。そのときだ、美紀は確かに、それらの無機質な表情のひとつに、良一の姿を認めたのだ。良一の瞳が、他の瞳と同じく、外の自分を責めている。
「あ…、う……」
美紀は言葉にならない叫びを喉の奥で発した。目に見えない力で、自分がじりじりと後方へ押しつけられているような錯覚に囚われた。一瞬のまばたきの後、美紀は再び良一がこちらを覗いていた窓へと視線を投げた。すると、もはや良一の姿は消えていた。
「お父様…」からからにかわいた喉をふるわせて、美紀は辛うじて幸三郎にそう呼びかけた。<もう帰りましょう>……。そのひとことが続かなかった。そうこうするうちに、スピーカーからあの甲高い男の声が響きわたった。
「それでは盆踊りを再開します。先ほどと同じように、やぐらのまわりに二重に踊りの輪をつくってください」
楽しい余興というには、あまりに事務的で、しかも指示的な響きをともなった声に、それでも周囲の人垣からぞろぞろと踊りの列に加わる患者たちが姿をあらわす。なかには、やはり同じようにしてひとときの家族の団欒をあとに立ち上がるものもいた。
やがて、病院の庭いっぱいに、擦り切れた響きのこもる東京音頭が流れはじめた。
すると、傍らに座っていた良一もまた、無言のままよろよろと立ち上がり、踊りの輪に加わろうとするのだ。あの良一が、盆踊りを踊るとは。……それだけでも美紀にとっては青天の霹靂というにふさわしかったが、さらに衝撃的だったのは、その顔には少しの逡巡もないかわりに、また決して愉悦も満足も見いだすことができなかったことだった。まるで、言われたことだけを忠実に実行する自動人形のような身のこなしで、無言の良一は呆気にとられる美紀たちを気に掛けることもなく、盆踊りの輪のなかで不器用に手足を振り、長躯をくねらせている。
「ひどく変わってしまったわ。良ちゃん」
美紀はやっとのことで言った。「……まるで、人間じゃないみたい」
その言葉に、それまで重い沈黙を守ってきた幸三郎が、呟くようにぼそりと答えた。
「薬のせいだ。薬で、以前のような病的な興奮と攻撃性を抑えているためだ」
幸三郎は、盆踊りの情景を無感動な素振りで眺めやっていた。そんな父親の横顔に、美紀はやり場のないもやもやをぶつけるしか術がない。
「あれじゃ、別の病気にかかってしまったも同然だわ。生きていないのよ。お父様気がついて?。眼が、死んでいたわ……」
「以前よりはましだ」幸三郎は言いにくそうに唇を歪めた。「良一があのような状態になることは予想していた。暴れまわって他人や自分を傷つける結果になるよりは、よしとしなければいかん」
まるで自分を納得させようとでもする口調だった。
やはり、こころの病の根治はあり得ないのだろうか。美紀は、もう疎遠なものではなくなってしまった家族の崩壊の予兆を、再びこみ上げる嘔吐感のように味わっていた。否、それどころではない、崩壊の過程は既に実像そのものとして、自分の前に投げ出されているのだということに気がついていた。ただ、以前であればこうした思いとともに、一過性の感情失禁に陥っていた美紀も、近頃ではまごうかたない現実を受容する術を身につけてはいたのだが。あるいは、なぜ自分たちだけが、というあの不条理な問い掛けに対する解答が得られないまま、美紀もまたある種の諦めに身を委ねたのだというべきだっただろうか。いずれにしても、美紀が幸三郎にむかって、そんなことをするのは理不尽なことであると知りつつも、自分たちの家族にまつわる悲惨について責めたてるような光景は絶えてなくなっていた。それはまた、いつしか幸三郎が、美紀に対して次第に無口になり、ときにほんの些細なことでおこりっぽくなった頃と重なってもいた。
「病院に入れば、きっと病気はなおるのだと、どこかで信じていたのよ、私。でも、そうじゃないのね。あのおとなしさはやっぱり普通じゃないもの。そして、人形のようになってしまった良ちゃんの心の、そのすぐ深層には、やっぱり昔のような、私たちを、そして私たちの家を憎む、あの良ちゃんがいるんだわ」
「まえにも言ったとおりだ。この病気は、薬ではなおせない」
幸三郎はゆっくりと踵を返すと、美紀の眼を見た。幸三郎の瞳は、なぜか落ちつきなく、小刻みに震えているように思われた。そのとき、美紀はふとある想念に捉えられたのだ。
「ええ、わかってるの。私ね、お父様、いま、こんなことを思ったのよ。良ちゃんは、病気じゃないのかも知れないって。いいえ、良ちゃんだけではない、この病院にああして入れられてる人達の大部分は、病気なんかじゃなくて……、何て言えばいいのかしら、まわりの人達があと少し、その人たちのことを考えてあげていれば、きっとここには入らなくてもすんだ人たちなのではないかしらって。……良ちゃんは、私たち家族のことをとても憎んでいた。私たちには分からないことだったかも知れないけれど、良ちゃんにとって憎しみは真実だった……。そうよ、お父様、良ちゃんは薬ではよくならない。良ちゃんの憎しみを癒やすことができれば、そのときはきっと、あの優しくて真面目な良ちゃんに戻れるのよ。でも、それが出来るのは、誰なのかしら……」
美紀もまた、幸三郎と同じようにして、ぼんやりと盆踊りの輪のほうを眺めやった。出店もない、華やかな浴衣姿も、威勢のいい太鼓叩きもない、生というものに対するただ懶い敵意と倦怠と、少しばかりのなぐさみに彩られるばかりの場所。そのときふと気がついたのは、患者たちのいるグランドの四隅に、踊りの輪から遠く隔たってではあるが、白衣を身にまとった見るからに屈強そうな男たちが立っていて、あたりに眼を配っていることだった。
美紀が見ていたちょうどそのとき、踊りの輪を囲んで見物していた患者たちのなかから、小柄な男がふらふらと歩きだし、ひとりグランドに面した雑木林のほうへと向かいはじめた。足取りは夢遊病者のようにたよりなく、何の意志も感じさせない覚束なげな行為であったが、この患者を認めた件の白衣の男たちの一人が、足早に駆け寄って、何事かを呟きなら小柄な男の腕をとった。その男は思いのほか従順に白衣の男に付き従って、踊りの輪のほうへと戻ってくる。はじめは気にもとめずにいたそれら白衣の男たちは、患者の無断退院を阻止するために置かれた看護人なのであった。美紀はあらためて、この場所が世間から厚い壁で仕切られているという事実に愕然とし、なにか救いを求めるような眼で幸三郎のほうを見た。
「美紀……」と、幸三郎は娘の気持ちを読んでいたかのように即座に口を開いた。「じつは、お前に是非とも話しておかなければならないことがある……」口調はひどくぎこちなかった。「とても大切な話だ」
何事もなかったように、擦り切れたレコードがふたたび冗長な盆踊りの音楽を流しはじめた。
それから少しの間、幸三郎は依然としてむっつりと黙りこんだままだった。美紀ははじめ、それがここ暫く幸三郎に訪れることのある、あの不可解な怒りの発作のゆえであると思った。何に向けられるとも定かではない、あたかも自身の敵意を自らの内部にむかって際限なく収斂させていくような、自己破滅的な磁場のような怒りである。しかし、つぎの瞬間、美紀は父親の唇が、まるで熱病患者のように痙攣し、小刻みに震えているのを認めたのだった。それだけではない。顔は蒼ざめ、瞳はいままで見たこともないほどにかっと大きく見開かれ、しかも、赤く潤んでいた。
美紀は漠然とした恐怖に駆られ、思わず一歩後ずさりした。擦り切れた盆踊りのレコードはもはや聞こえず、得体の知れないキーンという金属音のようなものが耳を塞ぐ。身体じゅうを冷たい汗が落ち、鳥肌が立った。そして目の前が黒褐色の膜で覆われると同時に、頭全体が鈍く痛んだ。
「美紀。私を、許してくれ」
振り絞るような言葉とともに、幸三郎は美紀の前に倒れ伏した。何が起きたのか、とっさには理解しかねた。やがて目前の黒褐色の霧が晴れると、美紀の足下には、両手を地についてうなだれる幸三郎の姿があった。
「お、と、う、さま……」
不条理な事のなりゆきに衝撃を受けた美紀は、漸くそれだけを口にした。徐々に再び、あの物悲しげな盆踊りの歌が耳によみがえってくる。幸三郎は両の掌を砂だらけの地面に押しつけたまま、いっかな動こうとはしなかった。美紀の目の下で、白髪まじりの頭が震えていた。幸三郎が何か重大な決意をしたのだということが、茫然自失とするなかにも、美紀には直観的に察せられた。おそらくは、美紀の内部につかえて取れずにいた柊の家の秘密、つまりは神谷明との愛を引き裂き続けてきた日高家の真実についての何かにまつわる決意を。
「話というのは、あの写真のことだ」と幸三郎は呻くように言った。
「榊原さんていう人、いったい誰なの?」美紀のなかで、何か得体の知れない凶暴な意志が、強い口調でその名前を言わしめた。
二人の言葉は、殆ど同時だった。その奇妙な緊張の瞬間が、幸三郎の内面の葛藤を極限にまで引き上げたのだった。数回、深くはあるが大きく乱れた呼吸を繰り返した幸三郎は、ウ、ウフム……、という嘆息とも喘ぎともつかない声をあげながら、蒼ざめた顔貌を仰向けて、美紀の足もとにぶざまに倒れ伏したのである。
美紀は反射的に身をかわしたが、次の瞬間には幸三郎の傍らにかがみこんで、その身体を抱き抱えるように腕をさし出した。
「お父様!」
呼ばれても反応を示すことなく、幸三郎は微かに震えながら白目を剥き、身体の左側だけにひんやりとした汗を大量に流していた。何が起きたのかも判らないままではあったが、事態が急迫しているらしいことを察した美紀は、とっさに金切り声をあげた。
「誰か、誰か来てください。父が大変なんです。だれか!」
とたんに美紀と幸三郎のまわりに人垣ができあがった。なかから一人の看護婦らしい中年の女性が近づいてきて、幸三郎の瞼を裏返し、シャツのボタンを外した。
「動かしたら駄目。誰か、すぐに先生を呼んできてちょうだい」
中年の看護婦はそう言うと、腕時計を見ながら脈をとった。いつの間にか、盆踊りの音楽は中止となり、幸三郎は大きないびきをかき始めていた。



  第 十六 章


幸三郎の卒中の発作は、倒れた場所が病院だったということも幸いして、手当ても早く、命にかかわるような大事には至らずにすんだ。盆踊りの最中に倒れた幸三郎は、良一の入院する病院で応急の内科処置を施されたのち、すぐに自動車でおなじK…市内の脳外科病院に搬送され、手術で頭蓋内の血塊を取り除く治療を受けたのだった。
手術を受けた直後は、面会謝絶の状態が一時的に続いたが、間もなく家族と会うことが許されるようになった。集中治療室から一般病室へと移され、いよいよリハビリが開始される頃、すでに近隣の野菜畑の上をアキアカネが飛び交い、空には鱗雲が浮かんだ。
病院にいる間じゅう、幸三郎は一心に機能回復訓練に励んだ。水治療と呼ばれる、特殊な浴槽のなかで四肢を動かす訓練も、起立台に乗っての訓練も、あるいはもっとも辛い歩行訓練も、幸三郎は表情ひとつ変えることなくこなし続けた。身近にいた看護婦や治療を担当した理学療法士は、その様子に感心し、また激励をおくってくれたりしたが、しかし美紀にはなぜか父親の頑張りが、じつは何かを忘却の彼方に押しやろうと必死になっている、おざなりの裏返しの姿に過ぎないのだと思えてならなかった。それは、幸三郎が倒れる以前からときおり見せていた、あの不可解な怒りの発作に通じるところもあるように思えたが、それ以上に投げやりで、また苦渋を内面に秘めたもののように感じられたのだった。
幸三郎の病院におけるそのような日常が何に因っているのか。そのことに思いを奪われる度に、必ず美紀の記憶の綾にかかってくる鮮明な思い出がひとつだけあった。それは、ただ一度だけ、幸三郎の見舞いにやって来た、絹代とのことである。
幸三郎が集中治療室に入って暫くしたころ、絹代は美紀から幸三郎が倒れたとの報せを聞いて、病院にやって来た。頭蓋内の血塊を除去する手術を受けたばかりであった幸三郎は、まださまざまな機器に取り巻かれてベッドの上で虚ろな視線を宙に投げかけていた。変わり果てた夫の姿を目にした絹代は、ベッドの傍らに立って、静かに幸三郎の手を握ったのである。それは卒中によって麻痺した側の腕であった。ほんの数秒のあいだ、幸三郎はされるがままに絹代に自らの腕をゆだねていた。しかし突然、幸三郎は麻痺のない側の腕でもって、妻の手を払いのけたのである。
その拍子に、幸三郎の胸に取り付けられていたパルス計測用の電極が外れて、ピピピ…というけたたましい警報音が響きわたった。あわてて飛んできた看護婦に、幸三郎は動きのとれる方の腕を必死に左右に振りながら、何事かを要求した。はじめはその意味するところを察することができなかったが、ふと気がついた美紀が声をかけたのである。
「なにか書くものがほしいのじゃないかしら。…そうなの?、お父様、なにか書くものがほしいのね」
幸三郎は眼でそうだと頷いた。
「書くっていったって、まだ無理よ」
驚いた看護婦がたしなめたが、幸三郎はますます強く腕を左右に動かし、聞こうとしない。しかたなく看護婦がサインペンとボードに挟み込んだ大きなわら半紙を持ってくると、美紀がそれを手にベッドの横に立てかけた。たよりない動作でサインペンを握った幸三郎は、震える手を懸命に己の意志に従わせながら、乱れた字体でこう記したのである。
「モウ来ルナ」
絹代の表情が、一瞬間だけこわばったのを、美紀は見て取った。
「お父様、そんな……」その場をどう取り繕うべきか途方に暮れた美紀は、ただ引きつった笑みを浮かべることが出来るだけだった。
「いいのよ。帰るわ」
しかし、刹那の緊張をすぐに平静な表情の下に押し隠した絹代は、以外にさばさばとした様子でそう言ったのだ。
踵を返して病室の外へ出ていこうとする絹代を、美紀は追った。広い廊下が突き当たりになるところで、美紀は絹代に追いつた。
「気まずかったのよ、お父様ってそういう人だわ。意外と強がりだから、あんな姿見られたくなかったのだと思う」
廊下に置かれた患者用の長椅子に絹代を促して座らせながら、美紀は思いつきを口にした。灰白色のリノリウムに、天井の蛍光灯が鈍い光を投げかける。そのぼんやりとした影に、さらに透明な膜がかかって揺れた。
「そうかも知れないわね」
絹代は微笑んだ。その意味が、美紀にはよく理解できなかった。
「だから、お父様のところへいってあげて。本当は嬉しいんだから」
「ちがうわ」絹代は美紀の言葉を遮った。「美紀さん、本当の夫婦っていうのはね、強がりだとかプライドだとか、そんなものは互いの前ではすっかり捨ててしまうものなの。意味がないのよ」
絹代は尚も、わけありげに美紀を見つめた。美紀はふいに不安を感じ、口を噤んだ。
「美紀さん。お父様は、あの人はね、漸くはっきり自分の気持ちを伝えることが出来たのよ。やっと自由になれたんだわ。……心配しないで。お父様の世話は私がするから。でも、妻としてではなくてね」
絹代はそう言い残して去っていった。消毒薬の臭気がたちこめるなか、その場だけに馥郁とした香水のかおりが漂った。崩壊した家のなかで、すっかり生気を失っていたころの絹代ではなく、ひとりの女に戻った母親を美紀は認めざるを得なかった。
美紀は絹代の後を追うことも忘れて、ただ呆然とその場に立ちつくした。やがて、すっかり混乱した美紀が病室に戻ってみると、幸三郎はさきほどと同じような素振りをして、サインペンとわら半紙を要求した。仕方なく、美紀は父親の震える手にペンを持たせ、わら半紙の挟み込まれたボードを父親の顔の上にかざした。
不器用な指さばきで、幸三郎は紙の上にひとつひとつ線を引いてゆく。それはミミズがのたうったような不格好なカナ文字であったが、美紀には確かにこう読めた。
「リコンスル」
混乱の頂点にまで追い詰められた美紀は、「わかんない、どうしてだか私にはわかんない」と叫んでペンを幸三郎の手からひったくった。わら半紙を破りとって丸め、自ら意識しないままにそれを病室の隅に投げ捨てていた。美紀の叫び声に三たび驚いた看護婦がナースステーションから駆けつけてきたとき、病室から走り出てきた美紀と肩がぶつかりあったが、美紀はそのことにすら気付かず、廊下を走り去ったのだった。………
幸三郎が退院できたのは、それから2か月以上もたった、静かな良く晴れた初冬の一日のことである。
美紀に付き添われた幸三郎は、三点支持杖をつきながら、肘が曲がったまま麻痺した腕を、腹のあたりにあてがうような恰好で自動車から降りた。そしてゆっくり、ゆっくりと時間をかけて、一階の居間に移された自分のベッドに身を横たえたのだった。階段の昇り降りが覚束なくなった今は、その一階の居間が新しい幸三郎の寝室なのだ。
「ここからは、庭の夾竹桃がよくみえるわ。もうすっかり色ざめている」
美紀は幸三郎に布団をかけてやりながら、そう呟いた。なるほど、幸三郎の寝ている位置からは、夾竹桃だけではない、楓や百日紅などの庭木が、窓越しによく見渡すことができる。その向こうには、背の高い柊の垣が黒々と続いていた。
「病院じゃ、身の回りのことまでなかなか手がまわらないのね」寂しそうに言うと、美紀は幸三郎の爪を切り、白髪の混じる無精髭を剃った。しばしの逡巡の後、美紀は言葉を続けた。「でも、お母様がお世話をなさってくれるって、この前言っていたわ。良かったわね」その間、幸三郎は悲しそうな瞳で美紀を見つめるばかりで、ひと言も口をきこうとしなかった。病院での懸命な治療にもかかわらず、幸三郎の言葉はついにその唇に戻ることはなかったのだ。
ベッドに上がって暫くたったとき、幸三郎は例の、自由なほうの腕を左右に振る仕種をしてみせて、筆記具を要求した。いまはそれが、何か伝えたいことがあるときの、幸三郎からのサインなのだ。美紀は、幸三郎のためにこしらえた特別製の書見台を出してきて、幸三郎の前に紙とともに据えた。「練習」の成果もあり、幸三郎は比較的長い文章も短時間で書けるようになっていた。
「絹代ヲ来サセナイデクレ」
それは予想していた反応であった。以前のように取り乱すことなく、美紀は幸三郎に問い質した。
「それはお父様の強がりなのでしょう。本当は、お母様に会いたいのじゃなくて」
そこには美紀のなけなしの期待も含まれていたと言えようか。
「アレハドウイウツモリナノカ」
腕の自由が十分ではない幸三郎は、常に直線で構成し易いカタカナと漢字で文章をつくった。見慣れない者には、意外と判読に手間がかかるものである。その上、字体がかなり乱れてもいる。美紀は幸三郎の筆記の動作が終わるたびに、もどかしいほどの時間をかけて相手の言い分を読み取った。
「あれって、お母様のこと?」
ソウダ、と言うように幸三郎は頷いた。
いっとき返答に窮した美紀は、しばし俯いて言葉を探していたが、やがて覚悟を決めて幸三郎のほうへ向き直り、口を開いた。
「お父様はこれで自由になれると、お母様は言ったわ」
「ソウカ。ワカッタ」
幸三郎は麻痺でゆがんだ唇をさらに捩じ曲げながら苦笑した。口腔から唾液が流れ出て、幸三郎の顎を汚す。美紀はティッシュでそれを拭き取りながら、「私にはお母様の言っている意味がどうしても理解できない」と言った。
「美紀。オ前ニハ苦労ヲカケルガ、絹代ハモウコノ家ニ戻ッテハ来ナイシ、私モソレハ望マヌ。私ハ少シダケ不自由ヲ託ツ身トナッタガ、大抵ノコトハ自分デスルツモリダ。モシオ前ニトッテ何カ支障ガ生ジタナラバ、遠慮ナク言ッテホシイ。家政婦ヲ入レルコトモ、施設ニ入ルコトモ、私ハ考エヨウ。アト、絹代ニ対スル経済援助ハ続ケルツモリダ」
時間をかけてそれだけの文字を記すと、幸三郎は疲れたように目を閉じた。
「離婚だなんて言うけれど、なぜだか判らない。お母様も、お父様も、どうしてそんなことを言うのか、私にはぜんぜん判らない」
切なそうに呟く美紀の独り言を耳にして、幸三郎は再び目を開けた。ペンを手に取り、力を振り絞るように紙の上をなぞる。
「私タチハ、ハジメカラ夫婦デハナク、互イニ気ヲツカイアウ他人ドウシニ過ギナカッタ。ソノ意味デハ、私タチハ、オ前ヤ良一ノコトヲ欺イテキタノダト言ワレテモ仕方ガナイカモ知レヌ。イズレニシテモ、コウシタ結果ニナッタ以上、私ニハ絹代ニコレ以上ノ苦痛ヲ強イル権利ハナイト考エテイル。タダシ、誤解ノナイヨウニ言ッテオクガ、今デモ絹代ガオ前タチノ母デアルコトニ変ワリハナイ。永遠ニナ」
ややあって、幸三郎はこう告げた。
「眠クナッタ。少シ、ソットシテオイテクレ。書見器ハ、当分コノママデイイ。書イテオキタイコトガアルカラ」……
その日から数週の間、幸三郎は書見台を前に、一心にペンを振るっていた。何を書いているのかと美紀が問うても、決して答えようとしない。それどころか、幸三郎がその書き物に熱中しているときに、うっかり美紀が声をかけようものなら、幸三郎はあの卒中の発作の前にみせた不可解な怒りを表情に露にして、来ナイデクレ、と言わんばかりに美紀を睨みつけるのだった。美術研究の仕事をしているときにさえみせたことのない、それは意外な父親の素顔であった。
当の幸三郎の障害の程度は、言葉を失ったという点を除けば、さほど重いものではなく、階段の昇り降りに支障があることを除けば、日常生活にさほどの不便を来すことはなかった。しかし、生活上の工夫が試行錯誤を経て順調な軌道に乗るまで、美紀は司書の仕事を休み、幸三郎の介助や家事に携わることを余儀なくされた。そのうち、市の福祉課から紹介されたヘルパーが幸三郎の身辺の世話や家事を手伝うようになり、美紀が職場に復帰することになったが、いまや日高家の日常は、意識の上でも実際上にあっても、すべて障害を負った幸三郎を中心にまわっていかざるを得ない状態になっていたのだった。そのような実務上の煩雑さに重ねて、幸三郎が病に倒れたことそのものの憂慮に心を閉ざしているうちに、美紀はいつしか神谷明の思い出すら失いかけている自分に気がついた。むろん、それが自らにとって良いことなのか悪いことなのか、当の美紀にすら判然とはしないのであったが。
やがて美紀の住む町にも、季節風が本格的な冬をもたらし、乾いた風が窓ガラスを微かにふるわせるなかに、新しい年が明けた。正月の準備など、取り立てて何もしていなかった美紀だったが、元旦の朝だけはすまし仕立ての雑煮をつくり、幸三郎とともに新年を祝った。美紀にしても幸三郎にしても、その幕開けが自分たちにとって祝福に値するものになるという実感からは遠く隔たっている事実を、言葉を交わすことなく互いのうちに認めながら、おめでとうの言葉は畢竟虚しく響きあった。世間はどこも新年の酔狂に賑わっていたが、柊の家だけはひっそりとその冷たさを内にひめて、頑な沈黙のなかに窓を閉ざしている。不思議なことであったが、美紀はもはや、良一のことを考え煩うことも絶えてなく、それどころか、絹代に会いたいとさえ思わなくなっていた。もうこれが行き止まりというものであろうと、これ以上は崩れようのない家族の風景を漠然と目の当たりにすることで、美紀のなかから全ての情動が、絶望さえもが抜け落ちていってしまったかのようだった。それは、狂気に翻弄された日々の果てに漸く訪れた、悲しい諦めに彩色された、ちっぽけではあるがなけなしの平和であったとも言えるかも知れない。美紀はただ、今日と同じ明日が永遠に続いてくれることを、ぼんやりとを願った。あの夏の日、病院に見舞った良一の、まるで自動人形のような従順な変容ぶりに驚愕した美紀が、いまは自ら、そんな無機質の人形になりかけているような不思議な錯覚に捉えられていた。
しかし、仕組まれた物語は、柊の家が、そのような死に似たまどろみのなかに休むことさえ許さなかった。美紀がこれまでいくら望んでも、努力しても解くことができなかった日高家の過去という台本が、オペラの終幕、主人公の美紀に、最後のアリアを歌わせようとしていた。
「オマエニ読マセタイモノガアル」
二月のある日曜日の晩。美紀とともに早めの夕食のテーブルをともにしていた幸三郎は、傍らのメモ紙にサインペンで記した。幸三郎は自らの会話のために、常にメモ紙を挟んだバインダーを持ち歩いていたのだ。
「わかったわ。あとでね」
手の不自由な幸三郎が取りこぼしたご飯粒や惣菜の具などを布巾で拭いながら、美紀は淡々と答えた。
幸三郎が食事をとろうと右腕を使うと、そのぎこちない動きのためにどうしても匙から食物がこぼれ落ちてしまう。おまけに、首からかけている合成繊維製の前掛けが左に寄ってしまうので、幸三郎はそれを何度も苦労して元に戻す作業を繰り返すのだった。幾度かそうした動作を続けた後、まるで単調な遊びに飽きた幼児が今度は他の玩具に手を伸ばすように、再びメモ紙を側に引き寄せて、美紀に言葉を継いだ。
「床頭台ノ上ノ紙束ダ。今夜、私ガ眠リニツイテカラ、読ンデホシイ。ソシテ、明日ノアサハ、イツモト変ワラナイ時間ニ、イツモト変ワラナイ声ヲカケテ起コシテクレレバイイ」
幸三郎が声を失ってから、食卓は格段に侘しくなった。幸三郎が嚥下できる食事の種類が限られているというだけではない。無理もないことではあったが、会話が殆どなくなってしまったのだ。無言のうちに時間は漆黒の幕に塗りこまれていった。やがて、美紀は幸三郎に言われたとおり、父親の寝息がきこえる傍らから一束の原稿箋をもって自室に戻ると、それを机の上に置いて読みはじめたのだった。……

 本当ハ、モット早ク、コノ事実ヲオ前ニ伝エルベキダッタト、私ハ後悔シテイル。私ノ逡巡ガオ前ニモタラシタ苦シミハ、私ガ嘗メタヒトリヨガリノ懊悩ヨリモ、深カッタニ違イナイノダカラ。言イ訳ニナルガ、私ハ何度モ努力シタ。シカシ、不思議ナコトニ、私ガ過去ノ記憶ヲオ前ニ語ロウトスルト、決マッテ訳ノワカラナイ怒リガコミ上ゲ、息ガ詰マリ、頭ガ締メツケラレルヨウニ痛ンダノダ。良一ノ病院デ私ガ倒レタ時モ、ソウダッタ。ダガ、コレモ不思議ト言エバ、不思議ナコトナノダガ、今ハコウシテ安ラカナ気持チデ、コノ手記ヲ認メテイル。恐ラクハ、私ヲ突然襲ッタ病気ガ、私ガ少シハ自ラニ正直ニナルチカラヲ、与エテクレタノカモ知レナイ。
美紀、オ前ニヒトツ、面白イモノヲ見セヨウ。私ノ書斎ヘ行キ、右側ノ書架ノ上カラ三番メノ棚ニアル、白イ装丁ノ画集ヲ持ッテ来ナサイ。LONDON NATIONAL GARALLEY トイウ文字ガ背表紙ニ印刷サレタ本ダ。ソノ画集ノ中ニ、付箋紙ヲ挟ンダページガアル。ソコヲ開クガヨイ。
ソノ画ハ、十六世紀ノドイツ人、ホルバイン、トイウ画家ノ手ニナルモノダ。『大使』ト題サレタソノ作品ハ、コノ画家特有ノ、感情ヲ排シタ、怜悧ナ冷タサヲ秘メタ、二人ノ貴族ノ肖像画ダガ、画面ノ中央下ニ、何カ褐色ノ異様ナ物体ガ描キ込マレテイルノヲ、認メルコトガデキルダロウ。正面カラ見テイタノデハ、ソレガ何ナノカハ判ラナイ。試シニ、画集ヲ引ッ繰リ返シ、ソノ奇妙ナ物体ヲ画面ノ右斜メ上カラ見テミルコトダ。ナルベク視線ヲ低ク取リ、視線ト画面ガ適度ナ鋭角ヲ描キナガラ、シカモ画像ガ光線ノ乱反射ニヨッテ消サレルコトノナイ位置ヲ、注意深ク探ス……。
見エタコトダロウ、二人ノ男ノ足モトノ床ニ横タワルモノノ正体ガ。ソレハ不気味ナ髑髏ノ姿ダ。
髑髏トハ、死ノ寓意ニ他ナラヌ。死ガ身近デアッタコノ時代ニ、美術作品ニ描カレルコトハ稀デハナイ。コノ作品ニ描カレテイル人物ハ、ローマ教会ト、ソコカラ離脱シヨウトスル英国トノ間ヲ、調停スルタメニ遣ワサレタ使節ダガ、歴史ニ見ルトオリ宗教的融和ノ企テハ全テ失敗シ、ヤガテ、ヨーロッパ中ガ悲惨ナ宗教対立ニ嘗メ尽クサレテユクノハ、オ前モ知ッテイルトオリダ。自分タチノ努力ガ実ラヌコトヲ察シ、ヤガテ来ル、凄惨ナ死ノ季節ヲ予感シタ大使タチガ、肖像ヲ注文シタ際ニ痛烈ナ皮肉ヲ込メタモノナノカ。アルイハ、画ノ注文ヲ受ケタ画家ガ、時代ノ暗雲ヲ予知シ、警告シヨウトシテ描キ込ンダモノナノカ。イズレニシテモ髑髏ガ、ソレト容易ニハ判ラナイ形デ描カレテアルコトガ、常ニ見ルモノニ不気味ナ啓示ヲ与エ続ケテイルヨウニ、私ニハ思ワレテナラナイ。私タチガ気付カズニイタ、死ト崩壊ト絶望ト。ソウダ。平和デアッタ、カツテノ私タチノ家庭ノ肖像、ソノ足下ニモ、同ジヨウニ歪ナ髑髏ガ、横タエラレテハイナカッタノカト。……
アレカラモウ、何年ノ月日ガ、流レタコトダロウ。マサカ、アノ写真ガ家ニアルナドト、私ハ思ッテモイナカッタ。私ハソレヲ、絹代ガイナクナッタ後ノ、寒々トシタ部屋ノ中デ見ツケタ。……オ前モ分カッテイルコトダロウガ、アレハ、オ母サンガ持ッテイタモノダ。今ハモウズタズタニナッタ、私タチノ家ノ真実ガ隠サレタ、巧妙ナ騙シ画ト言エルカモ知レヌ。
アノ写真ガ撮ラレタノハ、オ前ガ確カ四歳、良一ハ、マダ二歳ニモナッテイナカッタ年ノ、早春、場所ハ、私ノ恩師デアル、皆川トイウ大学教授ガ持ッテイタ、軽井沢ノ山荘ダッタ。一緒ニ写ッテイル男ハ、カツテ私タチト親交ノアッタ、学者志望ノ青年デ………、否、コノ写真ハ、言ワバ物語リノ挿絵。始メカラ話サナケレバナルマイ。



  第 十七 章


 美紀に宛てられた手記・日高幸三郎の遡行的記憶

あれはたしか、私が母校の専任教員となった、翌年の初夏のことだ。西洋美術研究会の月例会合が終わり、ゼミの学生や、他の参加者たちが研究室から出払ってしまうのを待って、皆川先生が私を呼び止めた。私が振り返ると、先生は白髪の下の細い眼をさらに小さくして、無邪気に笑いながら、こう言ったのだった。「日高君、帰る前に、ちょっとつきあわないかね。逢っておいてほしい人がいるんだ」
その言葉の意味を深く考えようともせず、約束の時刻に、私は指定された、学生街の小さなレストランに赴いた。そこには、すでに皆川先生が待っていた。先生の向かいの席に腰をおろした私は、きっと不安げな眼をしていたのだろう。私のグラスにビールを注ぎながら、「悪い話じゃないよ」とだけ先生は言った。それから後は、ついさきほどまでの研究室での話の続き、つまり(記憶がさだかではないのだが)対抗宗教改革がバロック美術に与えた影響についてだとか、一七世紀ヨーロッパ貴族社会における芸術の価値についてだとかの議論に、ひとしきりの時間を費やしたように思う。やがて、どれくらいの時が流れただろうか、薄暗い店の片隅、ちょうど出入り口のドアのあたりが、ぱっと明るく華やいだような気配を感じ、私はふと、そちらのほうを振り向いた。そこには、薄緑色のワンピースを着た、二十歳過ぎくらいかと思われる年格好の、すらりとした女性の姿があった。と同時に、彼女に気付いた先生が、大きく手を振って声をかけたのだ。「おい、矢嶋君、こちらへ来たまえ」
彼女の名前は、矢嶋絹代といった。彼女を私に紹介しながら、先生は、彼女を自分の研究室のアルバイト助手として雇うつもりだと言った。そこで、直接先生の下で研究生活をおくっていた私にも、目通りをさせるつもりだったのだ。
矢嶋絹代は、その年の春に仏文科を卒業したばかりだったが、語学に堪能なことを先生が認めて、研究室に入れることにしたのだ。はじめて会った絹代は、屈託のない、いかにも育ちのよさそうな平凡な娘だった。鈴の鳴るような笑い声と、えくぼと、そして黒く大きな瞳が印象的だった。語学が得意というだけあって、その瞳も理知的にみえた。男をそそるような色香というには遠いにしても、決して器量の悪いほうでもなかった。
研究室では、持ち前の才能を発揮して、先生の仕事をよく助けた。おもに担当したのは、外国の図書館や美術館との交渉で、公にされていない第一級の資料を収集するためには、彼女のような役割を専門に担ってくれる人材は何より貴重なのだ。それには語学力以外にも、美術史や芸術史に関する素養が不可欠だったが、その点においても矢嶋絹代は遜色がなかった。私の研究活動も彼女のお蔭をずいぶんと被っていたし、何より、そうした才色兼備ぶりが私の眼にも眩しく映っていたのは事実だった。そして、その翌年の春のことだ。皆川先生が私に縁談をもちかけた。相手は、ほかならぬ矢嶋絹代だった。
そのときの私自身の狼狽した心の乱れを、どう説明したらよいだろう。いまでも生々しく甦ってくるようだ。学問と芸術の世界に生きてゆくことで、当時の私は十分に満たされていたし、そもそも結婚ということを意識したことなど、一度もなかったのだ。第一私は、さきほどの話のように、矢嶋絹代に対して決して悪い印象を抱いていたわけではなかったが、かといって恋愛の対象として見ていたわけでもなかった。むしろ、結婚し、家庭を持つということが、未知の世界であっただけ、それは私にとって、いまある観念的な理想郷の喪失につながるのではないかという、漠然とした恐怖さえ呼び起こしたといっても過言ではなかった。
しかし、先生は、すでに矢嶋家の両親にも私のことを話していた。先生がどのような考えで、私と絹代を結婚させようと思ったのか、それはわからない。おそらくは、年相応の男女がたまたま身近にいたがため、ちょっとした世話心を起こしただけのことだったのだろう。生来、先生にはそうした茶目っ気があるのだ。しかし、先生のちっぽけな親心と悪戯心が、この私にどれほど絶大な意味をもつことになったか、それを先生は知らなかったにちがいない。勿論、無理も無いことだが。
結局、翌年の春に、私と絹代は、皆川先生ご夫妻の媒酌で挙式した。私は、先生の言葉に背くことができなかった。絹代は良家の平凡な育ちの女性らしく、妻としてのつとめをそつなく果たし、そればかりではなく、研究室の助手の仕事もまた首尾よくやってのけた。現代の感覚で言えば、それぞれが独立した、理想的な夫婦関係とでもいうことになるのだろう。しかし、絹代とそのように家庭生活を営みながら、私にはどうしても、自分が家庭を持つということに対する、一抹の違和感がついてまわっていたのも事実だった。何よりも、私は妻である絹代を愛しているのかどうかさえ、自分でもわからなかったのだ。
はじめのうちは、互いに仕事をもち、結婚生活といっても、それは独身時代とさほど変わらない感覚と実際のなかに過ぎていった。状況が一変したのは、やがて美紀、おまえが授かり、それまでのままごとのような日常が、否応なしに現実中心の生活へと投げ入れられてからだった。意外なことに、絹代は皆川先生の慰留も聞かず、あっさりと研究室の助手を辞し、家庭に入ってしまったのだ。それは、先生の誤算であったに違いない。むろん、そこには彼女の内面の葛藤もあっただろう。考えかたはさまざまだろうが、それが絹代の選んだ道だった。そしてまた、そのようなことであれば、父親である私に対しても、何らかの役割が期待されるのは、至極当然の成り行きであっただろう。絹代が私に対して、夫、父親として具体的にどのようなことを求めたのか、詳細には思い出せない。簡単に忘れ得るくらいの、おそらくは月並みな、たまの休みの日には家族そろって公園にピクニックに出かけたいとか、家事で手が放せないときは子どもの相手をしてほしいとか、週に一日くらいは、早く家に帰って夕餉をともにしたいとか、そんなありふれた、団欒の仕合わせであったろうか。しかし、そうであってもなくても、私は自分の生活を変えなかった。毎日のように深夜まで研究室に残り、論文やノートの整理に明け暮れ、講師仲間や助教授、教授たちと議論を交わす日々。休日であっても国会図書館や国立西洋美術館の特別資料室に出かけ、家を留守にした。
それはまだ駆け出しの、若い学者の気負いと自尊心のためであったろうか。あるいは、自分の行くべき道はこれであり、たとえ家族であっても邪魔は許さないという、堅固な信念にもとづいてのことだったのだろうか。学問と芸術の世界に至福を見出していたという点では、そうとも言えただろう。しかし、より真実に近いのは、私には家庭というものが重荷になりはじめていたということだ。家族をどう愛せばよいのかが、わからなかった。何より、絹代というひとりの女性を、どう愛せばいいのかが分からなかった。いちど、絹代にせがまれて、まだ歩き始めたばかりのおまえをおぶって、当時住んでいた家の近所に開店したばかりの、寿司屋に行ったことがある。家族で外で夕食を共にするなど、滅多にないことだった。「きょうはお父さまがいっしょでいいわね、美紀………」絹代のそんな言葉までを、はっきりと覚えている。あのとき、絹代はいったいどんな気持ちで幼いおまえに語りかけたのだろう。その帰り道、濁った東京の夜空に二つ三つ見える、赤黒い星をぼんやり見つめながら、「これが家庭というものか」と、心の中で私は呟いていた。私の背におぶわれたお前が、小さな手で私の頬をまさぐりながら、両脚でぽんぽんと私の尻のあたりを蹴っていたのを思い出す。私は必死で、父親であり夫である役を演じていたのだ。しかし、信じてはもらえないかも知れないが、それは決していやいや演じていたわけではない。ことに、美紀、おまえのことは嘘偽りなく、愛しく感じていた。ただ、おかしいかも知れないが、私には、おまえを愛しく思う自らの気持ちを、なぜか自分自身に対して執拗に押し隠そうとしていたのだ。
だが、さきほども書いたことだが、絹代に対しては、ついにそのような愛しさというものを実感できないままに、今日迄の日々を費やしてきたのも事実だった。むろん、そうした私の心情が、絹代に対する夫としての愛情の存在を否定するものだとは考えたくはなかった。なぜなら、私には絹代の生活すべてを背負っていこうという覚悟があったから。だが、今にして思えば、そうした気負いゆえになおのこと、私には家庭というものがますます重荷になり、結果としていよいよ自分の仕事だけに没頭していったのだったろう。自らのそんな孤独をどうすることも出来ぬまま、おまえたちに対してできたことは、ときどき思い出したように、ぎこちない夫、そして父親の役をすることぐらいだった。家庭とは何であるのか、家族とは何であるのか、人間としての内奥から沸き上がってくるような生々しい実感を持てないでいればいるほど、その孤独から逃れるようにして、結局私は、ますます仕事や芸術の世界に埋没していった。そして、ひとたびその世界に没入したら、しばしの間、まるで麻薬に溺れたかのように、私にはほかのものは見えなくなっていた。
あれは、たしかおまえが生まれた翌年のことだ。私は助教授になるための選考論文の準備に余念がなかった。研究者として、そして大学という社会のなかに確固たる地歩を築くためにも、私は二十代のうちに、なんとしてでも助教授になりたかった。しかも、助教授のポストをめぐって、私には見過ごすことのできない、ひとりの競争相手がいた。おなじく皆川先生に教えを乞うていたその青年は、名を榊原一樹といった。学部の頃から秀でた才能を持っていることが、わたしたち講師仲間の間でも聞こえた若者で、美術史だけでなく、音楽や文学にも造詣が深く、とくに音楽に関しては、素人とは思えないヴァイオリン弾きの才能があった。芸術全般に理解の深い彼の研究題目は、学者特有の瑣事抹事に拘泥するものではなく、むしろ芸術作品を人間の精神性の深みから抉り取って論じる、専門性よりは芸術の全体的把握というべきものを目指す傾向が強く、そうした姿勢を皆川先生も注目していたのだ。むろん、私にしても、皆川先生に評価されているという強みはあったが、相応の成果をみせて学者としての実力を証明しなければ、助教授選考に残ることができないのもはっきりしていた。しかも、榊原という強力なライバルがいるのだ。私の気持ちは昂っていた。そんなある日、おまえが、子どもの無邪気さで、机に向かう私にじゃれついてきたのだ。親に甘えたい盛りの子どもでれば、当たり前の振る舞いであっただろう。しかし、助教授選考を控えた緊張と、論文を準備していた最中に思考を中断されたことの怒りで、私の頭のなかは瞬時に褐色の感情で満たされた。「邪魔をするんじゃない!」と私は叫んだ。次の瞬間、鼻からおびただしい血を吹き出し、動物のように泣きわめきながら、部屋の真ん中へと投げ出されたおまえの姿を見出した。見境なく、私は幼いおまえを打擲したのだ。私は自分のしてしまったことにうろたえ、言いようのない自責の念が痼のように芽生えたのを感じたが、結局、何をどう言葉にすればよいのか見当がつかず、そのまま再び、思考の世界に籠もってしまった。さすがに、おまえにはそんな記憶はないかも知れないが、いまにしても心が痛む。そうした代償を払ったことに、意味があったとまで主張するつもりはないけれども、結果的に私は選考審査にパスし、二十六歳で助教授の肩書を得た。榊原一樹は、私のために不合格となった。合格者の幅は、専攻ごとに決められていたのだ。
選考審査にパスするために、懸命に論文や口頭試問の準備に打ち込んだのはもちろんのこと、それ以外にも、皆川先生に気に入られるためなら、どのようなことでも意に介することなく、私はやってのけた。榊原に対して、一歩でも二歩でも強く自分を印象づけられると思われたことなら、何でもやった。自分の時間を割いて先生の研究のためのフィールドワークをすることも、修士論文のテーマ設定に先生の意見を全面的に取り入れたことも、本来は先生が教鞭をとるべき外国語の授業を肩代わりしたことも、小賢しいと言われればそれまでだが、私には苦ではなかった。やがて私は、学者としての自分の将来や、大学という社会のなかで、とりあえず自分の地歩を築き上げたことの安堵感に満足し、いつしか榊原一樹の影は、私のなかで徐々に薄いものとなっていった。
それらの日々を、絹代がどのような気持ちで過ごしていたか、想像に難くない。「少しは子どもに優しく接してあげてください」そんな非難めいた言葉を、幾度か絹代の口から聞いた覚えがある。子どもについて言われた言葉ではあったが、同時に絹代自身のことをも意味していたのだろう。だが私は、おまえたちのそうした願いに背いて、おまえの生まれた翌々年の初夏、単身、イタリアへ赴いたのだった。
それは皆川先生の推薦によるものだった。大学の研究基金による留学で、私は一年間をフィレンツェの大学で過ごしながら、はじめの半年を、それまで基礎研究を手がけて来た、ボッティチェリの作品に見られるルネサンス精神文化の変遷についての論稿をまとめあげることに費やし、残りの半年を、壁画修復の専門家につきながら、ルネサンス絵画の技法的な特徴について学んだ。結果としてここに記すことにさほどの意味のない、様々な事件もあるにはあったが、私にとってはまさに夢のような一年間だった。夢のような、などという常套句は陳腐に聞こえるかもしれないが、憧れのヨーロッパの地にあって、過ぎ行く一刻一刻が、そのまま終わることなく永遠に続いてほしいと、私は本気で願ったものだ。まばゆい陽光のもとにそびえる、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の威容、いくつもの歴史的な美術館と、それまでは図版でしか知ることのできなかったルネサンス絵画や彫刻の数々。それほどまでに、町そのものが偉大な歴史絵巻であるかのようなフィレンツェに魅せられ、一途な思いを託していたのだろう。むろん、幼いおまえと絹代のことを、遠い日本に残して、ただひとり理想の世界を逍遥することに、罪の意識を覚えなかったわけではない。むしろ、褐色の激情に駆られておまえを打ってしまったときと同じように、常に喉元に突き刺さった異物のような感情の痼を持て余していた。私のもとへは、絹代のよそよそしいまでに端正な筆致の手紙が幾たびも届けられたが、私がそれに律儀に返事を書き送っていたのは、そんな自分の後ろめたさに対する、せめてもの言い訳に過ぎなかっただろう。
そして、そんな罪意識に導かれるようにしてであったかも知れない、私がカールスルーエの国立美術館を訪れたのは。そこには十五世紀ドイツの画家、グリューネヴァルトの手になる『キリスト磔刑図』があるのだ。実物を眼にしたのは、このときが初めてではあったが、それより遥か以前、いつの頃からかこの祭壇画は、抗い難く重い光を私自身の内面に投射し続けるようになっていた。それは私の意思とは無関係に、私を律し、私に何かを命令する存在だった。フロイトに超自我という概念があるが、あるいはそれに似たものだったかも知れぬ。私はこの『キリスト磔刑図』の実物に接して、あらためて自らの内面の暗黒を、どうしようもない孤独へと運命づけられた己の実存というものを、否応なく再認識させられることになったのだった。
むろん、私がその暗黒に喰い尽くされてしまうところから救ってくれたのは、この画そのものにほかならなかったのではあるが。というのも、この、むごたらしく傷つき、断末魔の痙攣に捩れるキリストの姿こそが、辛うじて、私の内面に人間的な反省意識と、いわばキリスト教的に言えば隣人への配慮の意識を、よび起こしてくれたのだから。余談になるが、プロテスタントの連中が、なぜ宗教芸術や聖堂の美術的装飾を嫌悪しようとしたのか、私にはよくわかるような気がする。乱暴な言い方かも知れないが、美というものは結局のところ、人間の意識的営みから反省と批判とを奪ってしまうからなのだ。一説では、グリューネヴァルトはローマ教会の枢機卿の宮廷に伺候しながら、ひそかにルター派に傾倒していたのだというが、辛うじて、プロテスタント的な宗教美術が活路を見出すとすれば、こうした無残で凄惨なキリストの姿を描き出す以外にはなかったのに違いない。だからだろう、皆川先生が、ルター派に近い所謂北方ルネサンスの画家たちを、あまり積極的に評価しようしないのは。そこには、多分に個人的な趣味の範疇も含まれようが、いつのことだったか、先生がこんな意味あいのことを言ったのを思い出す。「真理というものは、必ずしも常に反省的理性的な意識によって獲得されるとは限らない。むしろ、過剰な自意識は人間を死へと追いやることさえある。カトリック教会が、時期的には変化が存在したにせよ、観念や言葉ではなく、情緒と芸術的手段によって民衆を教化しようとしてきたことと、それは無関係ではない。そもそも、ルター派にかぎらずプロテスタント諸派は、きわめて倫理主義的な教義をひけらかしていたから、いきおいそこには自己否定と罪意識とがついてまわるようになった。卑近な例で云うなら、近頃の革命ごっこに明け暮れている政治青年たちが、欲求不満に脂ぎった顔をして、何やら深刻ぶった観念を弄んでいるのと同じようなものと言っていい。このグロテスクなキリスト磔刑図は、まさに内面的な罪意識の具象化といっていいだろう。これは、むごたらしいキリストの姿によって、世と睦みあそぶ人間の罪を告発しようというものなんだ。グリューネヴァルトだけじゃない、ルター派に染まったいわゆる北方の画家たちは、みなおなじようなキリストを描いている」
皆川先生に師事してきた私は、つねに先生の学説や考え方に敬意をいだいてきたが、それだけになお、この先生の話を聞いたとき、私は自分自身が内面に抱えた暗黒と孤独を、さらに自我の奥深くに抑圧しようとつとめたのだった。私の内面には、皆川先生が理解することのできない葛藤が渦巻いていた。それは、先生が揶揄したような、当時を席巻していた左翼的な学生運動家たちのそれとは様相を異にしていたが、私の葛藤が内面的なものであるだけ、なおのこと、それを覚られることを、私は恐れていたのだ。私を認めてくれたのは皆川先生だったが、それと同じくらい自由に、先生は私を見限ることも出来るのだから。もしそうなれば、私の人生は完全な虚無の底へと落ち込むほかになかった。
しかし、少し混乱したようだ。このことについては、またあとでふれることもできるかも知れないから、話を続けよう。
グリューネヴァルトに接した私は、自分自身が他人に成り変わってしまったような、奇妙な興奮と焦燥状態を抱えたままアルプスを越え、イタリアへと戻った。短い休暇は瞬く間に費え去り、ふたたび、まばゆいラテンの光にみちたフィレンツェで、私は夢の虜となっていった。
だが、やがて夢に別れを告げるときがやってきた。それも、最も無残な形で。一年間の留学年限を終えて日本に戻った私は、なんと絹代の妊娠を知らされたのだった。
それは、私が帰国して、一週間ほどが過ぎた頃だっただろうか、ある夜、私が大学から戻ると、神妙な顔つきをした絹代が、話したいことがあるから、と切り出した。春にしては、まだひどく肌寒さの残る夜だった。どことなく隔てがましい、わずかなやりとりの後、「お腹のなかに、子どもがいるの」と、絹代は言った。その一言だけで、お腹の子どもが不実の子であるということを、私は了解した。私はただ、「そうか」と、ひとことだけ答え、しばらくは何も言うことなく、その場に立ち尽くしていたと思う。むろん、私はひどく動揺していた。あり得べからざることが生じたことの衝撃が、私の脳裏の思考の綾をかき乱した。いままで書いてきたように、決して睦まじい夫婦ではなかったかも知れないが、それでも私にとって絹代の存在は、自分自身の日常の風景の中に、すっかり溶け込んでいたのだ。その絹代の姿が、急に、ひどくよそよそしいものに見えてきた。私は、あらためて、絹代の下腹のあたりを眺めやった。まだ目立ってはいないが、そう言われれば、どことなく不自然な丸みを帯びたスカートのふくらみが、見て取れるようでもあった。そのさまが、ふいに、私を判断停止の状態から、鈍色の憤怒へと駆り立てた。不貞の妻を、その愛人諸共に切り捨てたという、あの孤高の貴族音楽家ジェズアルドのことが脳裏をかすめた。「恥知らずなことを」と、私は言葉を歯の間で咬み潰すようにして罵り、そして、お腹の子の父親が誰であるかを問い詰めた。絹代のことを愛しているのかどうかさえ分からなかった私に、そのような資格はないと感じながらも、踏みにじられたプライドの痛みだけに駆られて、私は絹代を責めたてた。しかし、やがて絹代の口から、子どもの父親として、ほかならぬ榊原一樹の名が聞かれたとき、私の興奮は不意に萎えていったのだ。絹代を打擲する代りに、手にしていたウイスキーのグラスをぐっと飲み干した。身体中からどっと緊張が抜け落ちていくのを感じた。絹代の相手が、私と助教授の椅子を争って破れた、その青年であることを知ったとき、なぜか無性に哀れに思えて仕方がなかったのだ。「榊原一樹を愛しているのか」そう問うた私に、絹代は無言だった。「私と離婚して、榊原と一緒になりたいか」その言葉にも無言だった。彼女に迷いがあったのか、なかったのか、私にはわからない。いずれにしても、もし絹代が私と離婚して、榊原との生活を選んでいれば、私たち四人の人生は、想像もつかないくらい異なったものとなっていただろう。だが、結局、私たちは離婚しなかった。それは絹代の選択であったというよりも、私の選択だった。離婚という人生途上の失敗が、私の学者としての社会的な信用や履歴に傷をつけることがあってはならなかったのだ。
 そして、その夜更けのことだ。未遂におわったが、絹代はお前を道連れにして、心中事件をおこしかけたのだ。深夜、書斎で奇妙な臭気に感づいた私が、となりにある寝室に入ってみると、部屋中にガスが充満していて、壁際のベッドで、絹代がお前を抱きながら横たわっていた。「馬鹿な真似はよせ」恥も外聞もなく、私は大声を張り上げながら、窓を開け放ち、布団をふりまわしてガスの気配を薄めた。尋常ではない雰囲気を察知したお前が、火の付いたように泣き叫んだ。しばらくして、窓から流れ込んでくる冷たい外気にさらされながら、私は呆然と立ちすくみ、お前たちを見下ろしていた。髪を振り乱し、泣きじゃくるお前をかき抱くようにして、自身もまた声を殺して泣いている絹代を見ているうちに、私の内面に言いようのない悔恨の情に似たものがひろがっていった。絹代の絶望の深さが、私を打ちのめした。その絶望を穿ったのは、ほかならぬこの私自身であることを悟った。薄暗い虚空を見つめる私の瞼に、カールスルーエの美術館で見た、グリューネヴァルトの『キリスト磔刑図』が、確かに投影されるのを感じた。そして、これが私の十字架だ、と無言のうちに呟いた。私はすべてを背負っていくのだと自身に言い聞かせたのだ。お前や、これから生まれてくるであろう子どもの人生も、絹代の絶望も。それがせめてもの、お前たちに対する償いであり、愛の形なのであると。
美紀、許してくれ。なんといい気な独りよがりであったことだろう。それまでの私の人生が身勝手であったばかりではなく、私の悔恨もまた、自分勝手な錯覚に満ちたものだったとは。……
その後、榊原と絹代とのあいだで、どのような話がされたのかは、知る由もない。私は、二人が会うことを妨げようとはしなかった。それもまた、独りよがりな悔恨ゆえのことだったということも、容易に想像がつこう。が、それから間もなく、榊原は、もともと得意とした音楽の道へ転身をはかり、急遽、ベルギー王立音楽院への留学が決まって、日本を離れたのだった。その理由はいまもわからない。道ならぬ恋を遂げようとする勇気がなかったからなのか、そのような形で、自分たちの愛に終止符を打とうとしたのか。
その翌年、一月の二十二日、都内の病院で、絹代は男の子を出産した。それが良一だ。つまり、私と良一とは、血を分けた親子ではない。この秘密を知っているのは、二十数年間、私と絹代、そして榊原一樹だけだった。漸くいま、お前がこの秘密を知る四人めの人間となったわけだ。
さて、それはたんなる偶然がもたらしたに過ぎないのだが、出産の時期が幸いして、誰もが良一の出自を疑わなかった。私にすれば、それはまったくもって好都合なことだったわけだが、そのこととかかわって、お前が気にかけていたであろうもの、絹代の鏡台の引き出しから見つけた、例の写真のことについて語っておこう。あの写真は、良一が生まれた翌々年の春、皆川先生のお招きを受けて、先生の持っている軽井沢の山荘に滞在していたときのものだ。あの頃、先生は賑わう前の避暑地の静けさを好んで、毎年春になると軽井沢で過ごされていたが、親しい人たちをよくお呼びにもなった。私たちも何度か訪れたものだが、その年は、榊原一樹もまた招待されていたのだ。なんというめぐり合わせであろう。先生が事実を知っておられれば、当然そのような邂逅はあり得なかったにちがいない。榊原は、ベルギー王立音楽院のソリスト・ディプロマを得、前年の9月に卒業していたのだ。そのことを、軽井沢ではじめて、私たちは先生から聞かされた。
あの写真が、いったいどのような経緯で撮られたのか、誰がシャッターを押したのか、詳らかに記憶してはいない。招待客はほかにもいたはずだが、あたかも運命の天使の嘲笑が聞こえてくるような、あの写真はいったい誰が撮ったのか。私の想像にすぎないが、これは当の絹代が、誰かに頼み込んで撮らせた写真ではなかっただろうか。あるいは、榊原がそれを望んだのか。むろん、そのような事実など全くなく、たんなる偶発的なきっかけがあったに過ぎないということなのかも知れないが。いずれにしても、絹代がその写真を秘蔵していたという事実だけは、動かしようがない。あの日私が、私と離婚して榊原との生活を選んでも良い、と言ったとき、絹代は黙して答えなかった。けれども、きっと、絹代はずっと、榊原一樹のことを愛していたのだろう。
もうひとつ、美紀、お前の疑問に答えておこう。良一が偏執的なまでに愛聴した、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲のことだ。これもまた、私たち家族の、その年の軽井沢滞在に関わりを持っている。
 榊原一樹は、最終的には音楽家の道を選んだわけだが、もともとヴァイオリン演奏については玄人はだしの素養があったことも、既に話をしたとおりだ。そのことは、皆川先生をはじめ、先生のまわりにいる者たちにとっては、大方周知の事実だった。先生の山荘で、榊原と私たちが皮肉な出会いをした或る日の晩、夕食をすませた私たちは、めいめいが広間に集い、他愛のない話に興じていた。そのとき、皆川先生が榊原に向かって、何かヴァイオリン曲を弾いてくれないか、と頼んだのだ。自室に戻り、程なくしてヴァイオリンケースと譜面を手にやってきた榊原は、暫くのあいだ沈黙を守り、まるで憂愁に沈む詩人か哲学者のように瞑想していたが、やがて颯爽と楽器をかまえ、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番の allemande を奏したのだ。私たちがいつも耳にしていた、精神の深みから絞り出される叫びのような、沈鬱と激情に満ちたあの第一楽章だった。そして、続く Corrente さらに sarabande と、激しい楽章は抉るような弓さばきで音を刻み、緩やかな楽章は悲歌をうたうが如く、最終楽章までを奏し終えた。そのとき、私は見逃さなかった。絹代が、幼い良一を膝に抱きながら、榊原の演奏を聞いて涙を拭ったのを。……
 美紀、果たしてお前に想像がつくだろうか。なぜ、榊原は、自らのレパートリーのなかから、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番を選んだのか。そして、それがほかならぬ良一の偏愛する曲であったということが、何を意味しているのか。
……これから私が話すことが、他愛のない私の夢想であると、笑いとばすこともお前には可能だろう。しかし、私は信じている。つまり、あのバッハのヴァイオリン曲は、私がイタリアへ留学していた一年の間に、榊原の、絹代の、そして良一の、精神的な支柱として、三人をかたく結びつけたのに違いないと。それが世間的には決して許されない不義の愛であることを知っていた榊原と絹代は、肉体的の結びつきと同等に、あるいはそれ以上に、より強烈に、あの音楽によって互いの愛を確認しあうようになっていったのではなかっただろうか。はじめは、音楽家であった榊原が、なぐさみに手にしたヴァイオリンから、たまたま奏でられた旋律であったかも知れない。しかし、やがてそれが絹代の心をとらえ、その心のふるえが榊原に投射され、あの曲は、二人にとって、ひとつの精神の交渉の過程となった。そのような関係が、絹代の胎内に降り立った良一の精神にも、影響を与えないはずはない。良一もまた、絹代の血の鼓動を通じて、榊原が奏でたその旋律を、自分自身にとってのかけがえのない言葉として認識したのだろう。それはこの世に生まれ出た良一の、精神の深層記憶に刻印され、なにかのきっかけで耳にしたバッハのこの曲に、自分でも定かならぬ不思議な懐かしさを覚知し、それに惹かれ、のめり込んでいったのに違いない。あるいは、良一に最初にこの曲を聞かせたのも、ほかならぬ絹代であったかも知れない。
 その日の翌日(であったかどうかは、もう記憶の手綱を探ろうにもその術さえないのだが)、私は榊原を、先生の山荘からほど近い、落葉松林のなかに呼び出した。雪解けの水が、ひたひたと音をたてて、傍らの小川の川底を浚っていた。私は、絹代の榊原に対する愛情を疑いはしなかったが、いっぽうで榊原が絹代と情を通じたのは、じつは助教授試験で破れたことの、私への仕返しではないかとひそかに疑っていたのだ。
 神経質な青年特有の、深い気配をたたえた瞳に、おびえたような光を宿らせて、榊原は私のあとをおずおずとついてきた。一軒の、苔むした石垣のある山荘へと続く、脇道のほうへ、ところどころに残る残雪と、その下に見え隠れする黒い落ち葉を踏みしめながら、何かに憑かれたように私はずんずんと林のなかへと入っていった。芸術青年を気取りながら、男らしくないそのやりかたに、一矢を報わねばやりきれない思いだった。それが嫉妬によるものか、あるいはもっと他のものに依ってくるものなのか、そのときの私には、どうでも良かったに違いない。やがて、その道が、見ず知らずの持ち主の別荘の門のところで途切れるところまで来たとき、私は振り返って、榊原の相変わらず何かにおびえるような瞳を見据えた。その、あたかも狼に狙われた鹿のような眼が、私の感情を、不意にたぎらせた。私は、榊原の左頬を自らの拳で打擲した。榊原は二メートルほども離れた雪の上に、どっと倒れこんだ。その上から、私は言葉を浴びせかけた。「きさま、そんな小賢しい優越でしか、自分の感情を乗り越えられないのか……」やがて、唇から滴る鮮血をコートの袖で拭いながら、榊原はよろよろと立ち上がった。さきほどまで、萎縮して怖じ気づいた眼のいろを漂わせていた榊原が、それでも私のほうを見据えながら、うわずった声で言った。
 「日高さん、どうか誤解しないでください。僕は、絹代さんが好きです。愛しているんです。申し訳ありません。でも、自分でもどうしようもない。どうしようもないんです」
 肩で息をしながら、私はその言葉を聞いていた。
 嘘ではない、と思った。
 「そうか」と言って、私は暫くの間黙っていた。そして、「君は、絹代と一緒になりたいか」と問い掛けた。榊原は、「もちろんです」と答えた。
 しかし、私は冷酷にも、彼に宣言した。絹代と離婚するつもりはない、と。がっくりと肩を落としながら歩み去る榊原の背を見つめながら、私もまた、自分の感情というものを押し殺していた。
 榊原が再び日本を後にして、ヨーロッパへと赴いたのは、それから間もなくのことだった。もともと優秀な音楽家としての素質を持っていただけに、やがて、彼の地でいくつかのオーケストラ・ソリストとしても迎えられるようになったと、風評に聞いた。しかし、そんな矢先、演奏旅行の先であったオーストリアのヴェルター湖畔で不慮の死を遂げたという報せを、やはり皆川先生の口から聞かされたのは、それからさらに二年後のことだった。自殺、という想念が去来したが、確かめるすべはなかった。……
 榊原と絹代の相思を知りながら、私が離婚を拒んだことを、美紀、お前は現代っ子らしい気質を以て、それを不当な仕打ちであるとなじるだろうか。それとも、母さんたちの恋を、道にもとるものとして、私が離婚を拒むのは当然であると考えるであろうか。
 私はさっき、こう書いた。「結局、私たちは離婚しなかった。それは絹代の選択であったというよりも、私の選択であった。離婚という人生途上の失敗が、私の学者としての社会的な信用や履歴に傷をつけることがあってはならなかったのだ」と。私にとってさらに重大だったのは、絹代を私にまみえさせたのが、ほかならぬ皆川先生であったということだった。
 学部時代、私もまた、人一倍自尊心だけは旺盛なくせに勇気がなく、常に自閉的に自らの牙城を守り、己の思考のなかでは他を論駁しながら決して表立ってものを言うことのない、青白い芸術青年だった。そればかりではない。私は物心ついた子どもの時から、自意識だけは過剰なくせに、常に自分自身というものに自信が無く、人より二歩も三歩も退いた場所を、こそこそと物陰に隠れながら、いつも何かに怯えながら生きてきたような、そんな人間だったのだ。そのような目立たぬ私に眼をかけてくださり、さまざまに叱咤激励し、今の地位にまで引き上げてくださったのが、皆川先生だった。先生という存在がなければ、私の人生は無に等しいものになっていただろう。私にとって、皆川先生の意に適うか否かということが、多くの場合での重大な判断基準のひとつだった。その皆川先生が勧められた縁談を、断わることはできなかったし、なおのこと、離婚という事態によって、先生の顔に泥を塗るような真似など、出来ようはずもなかったのだ。そして、離婚ということによって、万が一、先生の不興を買うようなことにでもなれば、自分の学者としての道そのものにもマイナスになるのではないかと恐れたのは、さっきも書いたとおりだ。私が絹代と離婚しなかった最大の理由はそれだ。お前たち皆を不幸にし、榊原一樹という有能な青年の人生までをもだいなしにしてしまったことの元凶は、この私のひとりよがりなプライドと出世欲にあった。
 私は皆川先生に対して、いまでも深い尊敬と感謝の念を抱いている。しかし、私を皆川先生に引き合わせた神に対しては、感謝してよいのかどうかわからない。
 美紀、ここまでずいぶんながながと話してきた。お前には驚くことばかりであるに違いない。が、なおもお前には、重大な疑問が残っていよう。それだけでは、なぜ良一が精神に異常を来し、この家を呪詛し、私たちを罵倒したのか、その理由がわからないと。
 そのことについては、もう少し紙数を費やさなければならない。そろそろ、私の手指もいうことをきかなくなってきたが、何とか努力してみよう。…
 私がさっき、こう書いたのを覚えているだろう。「これが私の十字架だ、と無言のうちに呟いた。私はすべてを背負っていくのだと自身に言い聞かせ、覚悟を固めた。お前や、これから生まれてくるであろう子どもの人生も、絹代の絶望も。それがせめてもの、お前たちに対する償いであり、愛の形なのである」と。こうした観念の身勝手な不当さ、理不尽さについての認識は、そのとおりだが、私の男としての凡俗なプライドや出世欲というものの犠牲にお前たちがなったということの意識は、常に脳裏にちらついていた。だからこそ、私は、絹代やお前たちに、決して生活上で不自由な思いはさせてはならない、と誓い、それが自分の家族に対する責任を果たすことであると考えたのだ。少なくとも、物質的の面においては、私はその責任を罷りなりにも今日まで果たしてきたと言えるだけの自負がある。が、精神的な部分にあっても、あの日、良一が精神の不調を来したあの日までは、私はその幻想のうちにあった。私は努めて良き父親であることを自らの役割とし、穏やかで平和な家庭の雰囲気をつくることに尽力してきたつもりだった。
 だが、良一の発病が、私の努力の虚しさを教えたのだ。……
 私は、自分たちが投げ入れられた現実を、解決できないまでも、いくらかは理解したいと願い、精神病理学についての書物を読みあさった。そこで解ったことは、精神分裂病の原因が、いまだに客観的には解明されておらず、現在でも多くの学者が、さまざまな仮説を立て、この不可解な心の病の謎を説き明かそうとしているらしいということだ。そして、それらのさまざまな学説のなかで、私を慄然とさせたもの、それが、ここ近年において主唱されはじめた、家族因説というやつだった。
 あまり専門的に過ぎるので、私にとって、その正確な説明をするのは荷が重いが、煎じ詰めれば、本当に病んでいるのは、分裂病と診断される本人ではなく、それを取り巻く家族である、という考えかた、と言えばよいだろう。病んだ家族。この想念が、必ずしもすぐに、私に真迫のリアリティを呼び起こしたわけではない。なぜなら、さっき記したように、私は私なりに、この日高の家をいうものを、まっとうな中流家庭として維持してきたという自負があったからだ。だが、そんな自尊心は、発病した良一が間もなく口にした、ある言葉によって吹き飛んでいった。美紀、お前も覚えているだろうか。精神症状に駆られた良一が、必ずと言っていいほど、唇を震わせながら吐いた言葉、「父さんはいつでも姉さんだけを優遇してきた」という叫びを。
 良一のその言葉を聞いたとき、私の心の中には、相反する二つの観念がわき起こった。
 己自身にさえ隠し通そうとしていた、自らの心の暗黒を剔抉されたという思いと、そんなはずはない、という確信と。だが問題は、このどちらが真実なのか、ということではなかった。両方ともが真実であったということが、いま思えば、私たち家族の病の本質だった。
 二人の子どもたちのうち、私が美紀、お前だけを愛してきたというのは、確かに正しくない。さっきも書いたとおり、私は私のあるべき位置として、日高家の夫であり父であることを、自らに課していたのだから、私は決して、良一に対して、父親として不当な待遇をしてきたとは、考えていないのだ。と同時に、私の心の闇の底には、もうひとつ、私自身さえそこから顔を背けようとしていた、もう一つの情念が蠢いていた。それは、私の血を受けない、榊原一樹の子、良一を憎む感情だ。私の意志や理性ではどうすることもできない、まさに宿痾のような精神の痼にほかならなかった。
 愛しながらも憎む。この奇妙な心の動きを、どう説明すればよいだろう。否、説明のしようなど、あるはずもない。言葉で説明できる程度のことであれば、私はいくらでも、今の破滅を回避する術を持ち得たであろうから。愛しながらも憎む。説明不可能な、その現実があるだけだ。たとえば美紀、私はすべてにおいて、お前のしたいようにさせてきたつもりだ。進学に関しても就職についても、私は常にお前を信用し、進む道を決めさせた。美大の受験に幾度もしくじったのが、良一ではなくお前であれば、私は決して、良一にしたのと同じ仕打ちを、お前に対してすることはなかっただろう。だが、良一に対しては違った。良一を信用しなかったという意味ではない。もっと別の、寒々とした感情だ。そして、私とはまた違った意味で、母さんもまた、父親の違う良一に対する接し方に失敗したのだ。私に対する負い目のためか、いつの頃からか、母さんはずっと、あのような形で生まれてきた良一を、愛してはいけないという、強迫観念に駆られていたのだから。その結果、良一は、愛されながらも憎まれるという、その統一を欠いた非合理な家族関係のなかで、徐々にその精神が浸食されていった。考えてもみるがいい。あることを期待され、そのとおりにしたなら、まさにそのことを理由に、今度は罰せられる。そうした異常な関係のなかで、果たしてまっとうな精神を保てるものかどうか。狂気に翻弄された良一は、そうした意味では少しも異常な人間ではなかった。むしろ、狂っていたのは私たちのほうだったのだ。
 美紀、これがお前を苦しめてきたこの家の秘密、病んでいるのは家族だということの意味だ。
 こんな物語を聞かされることなど、お前は決して望んでいなかったに違いない。できることなら私も、この書物に永遠に鍵をかけておきたかった。だが、お前が見てしまったあの一枚の写真が、物語の最初の一頁だった。もちろん、ただの読者であるお前には、なんの罪もない。
 
 幸三郎の手記・おわり



  終 章


 いつしか夜が白み始めていた。美紀は、幸三郎が何日もかかってようやく認めた、手記の紙束を手にしたまま、呆然と座り込んだままだった。暖房のスイッチを入れることすら失念していた。部屋の中だというのに、吐く息が白く凍りついている。あたかも重苦しい夢から目覚めたかのような、息苦しさと胸の張りを感じていた。
 良一が、絹代の不実の子であったという話を、どうすれば納得することができよう。美紀はなにも具体的な術を持たなかった。唐突と言うには余りにも唐突に過ぎる、その物語の内容は、美紀がものごとを理性的に判断しようとする気持ちの余裕を奪っていた。目前にあるのは、ただ、幸三郎の証言を信じるか否か、この二つに一つでしかなかったのだ。
 だが、いっぽうで、美紀には分かっていたような気もするのだった。それがいかなる内実を伴うものであれ、やがて何時の日か、こうした驚嘆の時がやって来るに違いないということを。家族のなかに、隠された真実があると気がついたときから、自分は、この驚きを我が身に引き受ける時を、待ち続けてきたのではなかっただろうかと。そのために、父と母の過去を問い詰め、良一を苦しめた。もちろん、それが生産的な営みではないこともじゅうぶん分かりきっていたが、良一の発病をきっかけにして、自らがそれまで生きてきた基盤が脆くも崩れ去ってしまった以上、その苦しみの原因に至りつくことなしには、その後の自分自身も、家族の回復ということもあり得ないという気がしていたのだ。……
 良一が発病するまでの、自分にとっては幸福そのものであった家庭生活の断片が、脳裏に浮かんでは消えていく。いまではそれが、長い一夜の夢であったかのように感じる。自分がやっきになって求めたものは、これだったのだろうか、ふと、美紀の口をついて、そんな疑問がもれた。家族の真実が明らかになっても、昔の夢はもはや取り戻しようもないのだ。苦しみの原因、ともう一度美紀は、心のなかで呟いてみた。そして、幸三郎の物語を反芻した。どうやら、自分たちの家族は、美紀自身が幸せだと感じていたときですら、決してそうではなかったらしいということが、あらためて分かりはじめた。
 それは、自分は誰かに欺かれていたということなのか。では、誰に欺かれていたのか。いったい誰が、この長い長い時間を費やす悲喜劇を仕組んだというのだろうか。主人公は誰なのか。……
 美紀は、手にしたままの紙束に目を落とした。そして再び、そこに記された物語を振り返った。そのなかの幸三郎の言葉がよみがえった。それは語りかけの言葉というより、誰に対しても閉ざされた、脆弱なモノローグであるかのように思えた。

<そして、そんな罪意識に導かれるようにしてであったかも知れない、私がカールスルーエの国立美術館を訪れたのは。そこには十五世紀ドイツの画家、グリューネヴァルトの手になる『キリスト磔刑図』があるのだ。実物を眼にしたのは、このときが初めてではあったが、それより遥か以前、いつの頃からかこの祭壇画は、抗い難く重い光を私自身の内面に投射し続けるようになっていた。それは私の意思とは無関係に、私を律し、私に何かを命令する存在だった。フロイトに超自我という概念があるが、あるいはそれに似たものだったかも知れぬ。私はこの『キリスト磔刑図』の実物に接して、あらためて自らの内面の暗黒を、どうしようもない孤独へと運命づけられた己の実存というものを、否応なく再認識させられることになったのだった。
むろん、私がその暗黒に喰い尽くされてしまうところから救ってくれたのは、この画そのものにほかならなかったのではあるが。というのも、この、むごたらしく傷つき、断末魔の痙攣に捩れるキリストの姿こそが、辛うじて、私の内面に人間的な反省意識と、いわばキリスト教的に言えば隣人への配慮の意識を、よび起こしてくれたのだから。>

 <絹代の絶望の深さが、私を打ちのめした。その絶望を穿ったのは、ほかならぬこの私自身であることを悟った。薄暗い虚空を見つめる私の瞼に、カールスルーエの美術館で見た、グリューネヴァルトの『キリスト磔刑図』が、確かに投影されるのを感じた。そして、これが私の十字架だ、と無言のうちに呟いた。私はすべてを背負っていくのだと自身に言い聞かせたのだ。お前や、これから生まれてくるであろう子どもの人生も、絹代の絶望も。それがせめてもの、お前たちに対する償いであり、愛の形なのであると。
美紀、許してくれ。なんといい気な独りよがりであったことだろう。それまでの私の人生が身勝手であったばかりではなく、私の悔恨もまた、自分勝手な錯覚に満ちたものだったとは。>


 いまさら何を言うの、なぜ、なぜお父様は、お母様と愛のない結婚をしたの、と美紀は心のなかで叫んでいた。表情がくしゃくしゃに歪んだ。手の中の紙の束が、床に落ちた。
 お父様、もうこれ以上、お父様の物語のなかに、私たちを引き込まないで。……
  自分たちを巻き込んだ、この物語を仕組んだのは誰か。その答えが、漸く分かるときがきた。決して知りたくはなかったが、それが現実だった。
 美紀は、生まれて初めて、それまで大好きだった父親を、疎ましく感じた。そしてまた、それと同じくらいに、哀れに思った。自分でも説明できない感情に苛立ちながら、床に散らばった何枚もの紙を、拾い上げては投げ捨てた。まるで、幸三郎の罪業をあますことなく暴こうとするかのように。幸三郎の情状酌量の余地を、なんとか見出そうとでもするように。
 いったい、どれくらいの時間、美紀は波濤のような情念と思考の間に漂っていただろう。いつしか近くの雑木林から、鳥のさえずりが小さく聞こえはじめ、それを合図のように、今度はそちらこちらの樹木から、いっせいに鳥たちの鳴き声が瞬き始めた。
 疲れとともに、漸く冷静さを取り戻した美紀は、階下の応接間へ降りていった。幸三郎もまた、深い眠りについているように見えた。美紀は、薄くなってところどころに地肌の覗く白髪や、乾ききって仄青く生気を失った、頬のあたりを見つめた。……
 人間としての不器用さ、妻の不実、男であれば誰もがこだわるであろう、外面的なプライドと形式主義。そして孤独。
 それら幸三郎の心の遍歴を慮るとき、父を気の毒に思う気持ちはむろんのことだった。だが、自身の心の暗黒に対する、独りよがりな贖罪意識といびつな責任感が、良一に、絹代に、そして美紀自身に無理強いした悲しみに思いを致すとき、やはり美紀は、父を身勝手な男だと思わないわけにはいかなかった。自らの孤独を、それだけに抑えることができず、家族にも押し付けてきた……。
 グリューネヴァルトの画ではなく、私たち家族のほうを、向いてほしかった。やつれた幸三郎の寝顔に、無言のままそっとささやいた。
 欺いてはならない、私は決して、お父様のように欺いてはならない。自分自身を、ほかの誰をも。美紀は祈るように息をつめた。深い後悔の念とともに、ある名前が、脳裏をかすめていった。
 「明さん」思わず美紀は、声に出してその名前を呼んだ。
 ……そうだ、この物語の結末だけは、自分が書く。まだ間に合うかも知れない。
 朝日が眩い黄金色に窓を染めていた。美紀は市から紹介を受けていた家政婦事務所に電話をかけ、幸三郎の一日の世話を依頼した後、幸三郎に夜まで留守にする旨の置手紙を認めた。己の心に兆した決心がぐらつかないうちに、行かなければならない。その心に支えられながら、身支度を整え、家を後にした。私には、愛する人がいる、その言葉を自身のなかに呑み込み続けてきた不誠実を、絹代と幸三郎に、良一に、そして明に詫びる言葉を探しながら、駅への道を急いだ。一時間後、美紀は、ほんの数か月前に、絶望と逃避願望の綯い交ぜになった心情を以って眺めた、信州へ向かう特別急行列車の車中の人となっていた。関東平野の西端から多摩の山並みに分け入り、甲州の盆地を横切り、やがて八ヶ岳山麓の高原地帯を駆け下りた列車は、あの鋭敏で理知的な感性を持った少年、岡野が今は家族とともに住んでいる、湖のほとりの町を通り過ぎる。列車はあと少しで、明の赴任地である松本にたどり着こうとしていた。
 美紀は、はやる心を抑えながら、車窓の彼方、碧空に白雪を輝かせて聳える北アルプス連峰の稜線を眺め、呟いた。これで、やっと終わらせることができるかも知れない……。本当に長かった、柊の家の物語。

                                                   (完)



 ※本作中、登場人物の罹患した疾病について、現在の「統合失調症」ではなく、「精神分裂病」の名称を用いておりますが、作品の背景となる年代を考慮のうえ、ご理解くださるようお願いいたします。(作者)